俗人宣言?
どうもみなさん、いかがお過ごしでしょうか。皆さんと言っても、このブログをまだブックマークなりなんなりに入れて時々はチェックしてくれている、なんて人が何人いるのか。もういないかもね。ちょろちょろアクセスはあるものの、半分以上はここに公開してるメールアドレスを得たいがために自分で検索してたどり着いてるものだし。
最後の更新は去年の6月か。ちょうど病気の治療を始めてちょっとした団体に所属することになって、みたいなところで終わってたんですね。あと彼氏ができた事も綴ってある。その後私の人生は激変したわけなんですが…。
一つひとつ挙げていくと、まずその去年の記事に書いてあった彼氏とはすぐ駄目になりました。私が求めるものがいろいろと大きすぎて、先方の供給できるレベルを優に超えてしまったためです。最終的には「彼女として好きだったことは一度もない」とか、「好きになる努力はしているが現状としてそれを他のことに優先しては行えない」とか。
もう散々でして、努力とまで言われてつながっている必要もないわ、と思って引きずりながらもなんとか離脱。で、ここからが割と急展開なんですが、その後朝のバイト先の人と仲良くなって付き合うことになり、今は一緒に住んでいるという。現在同棲中。うふ。
病気の治療も病院を変えてからおおむねうまく言っており、当ブログで色々やり取りしていたオールドニック氏に言わせると私は「常識的でつまらない人間」になってしまったそう。やっぱそうかな。
とにかくいろんな意味で、私が劇的に「治った」ことは間違いないと思われます。人が前ほど怖くない。余裕ができた分前ほど他人を敵視しなくなった。周りの視線からも解放されつつある。ちょっとした雑談ならもはやプロ級(?)ではないかと思うぐらいで。
こうして書いていても「なんだか最近いいですよ」という話で終わってしまいそうだ。その反面どうしたものかと思っていることといえば、今まで確固として自分の中にあった「不適合者としての自分」がぼやけてどこかにいってしまったような感覚。こうなると私はいったい誰なのか、よく分からなくなってくる。
というのも考えてみれば当たり前の話で、彼氏がいて一緒に住んでて幸せで、外に出ても他人の視線にそこまで困らされることもなく、雑談もそれなりにこなす。それってつまり自分が今まで「多数派」としてきた人間像そのものじゃない。生きててそこまで不適合な現実がないんだから、段々「普通」になっていくのは仕方ないことなのかもしれない。
それに伴って「多数派」とか「普通」とかいう言葉を使うのも億劫になってる。そんな線引き必要か、と。勝手なもので自分もそこに含まれるかもしれないとなるとその手の言葉自体を遠ざけるようになる。うるさい、うるさい。どうせ私は普通よ。
けどまったく世の中の一般の人に混じって遜色ないかといえばそんなこともないわけで、自分をクズだとしか思えない性根はまだ残っているわけで。なんというか宙ぶらりん。どこでどんな顔をしているのが「自分」なのか…。
とりあえず今は病気を治療することに専念してます。他人が怖くなくなれば、本当の意味で私は私として生きていける気がして。治療の中で、私は今までどれだけ取るに足らないことで行動を阻害されてきたのか、実感しました。やりたいようにやればいい。日々の場面場面で躊躇を取り払うように心がけてます。
私はこれからどういう人間になっていくか分からないけど、この場は残しておくつもりです。ああいう時期があったからこその自分、だし。
因みに団体での活動もしています。駅頭でティッシュとかビラとか配ったりね。これもまた精神的負担が大きいしかつての自分からもかけ離れてるしで大変なんですが、とにかくなんでもリハビリだと思ってやってます。私から「恐怖」を取り除けばもっと強い存在にバケると思うんですよね。
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