2009年12月29日 (火)

来年への意気込み

私は明日から来年の4日まで、祖父母の家に帰省します。だからどうっつうこともないんですが、携帯からまめに更新とかも無理そうなので今年の更新はこれで最後ということになります。

で、今回はいつもはあまり語らない来年への抱負なぞを述べてみたいんですが、わたくし来年はコミュニケーション弱者からの脱却をどどんと掲げておきたいと思います。

この日本において他人とうまくやっていくには徹底的に不誠実かついい加減であるしかないということにはたと気がついたのです。いかに思ってもないことが笑顔で言えるか、いかに中身のないことを何の疑問も持たずに並べたてられるかの勝負なんです。

実は有吉の「嫌われない毒舌のすすめ」を読んだ影響もちょこっとだけあるのですが、やっぱり馬鹿相手にこちらが頭を使って悩むのは無駄だと改めて思ったんです。相手がただの多数派ならこちらも軽薄なペテン師となってあることないこと並べたてる方が楽に決まっている。

とりあえず発話のハードルを下げていくためにも成功体験の積み重ねが必要であると判断し、いつもより一言二言多めに喋るようにしてます。そうすると意外と相手がそれを受けて話を始めてくれたりいいリアクションを取ってくれたりと今のところうまくいっています。自分で言うのもなんですがそれほど頭の回転が悪い方ではないと思うので、コツさえつかめばもうちょっと何とかなるんじゃないかと。

来年は苦痛軽減の年にする予定。しばらくして「そんなこと言ってたっけ?」ということになってなければここで経過も報告するつもりです。乞うご期待。

それでは皆さんよいお年を~(こういう風に思ってもないことをサラッと言えるようになるといいな)。

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2009年12月20日 (日)

「ご心配おかけしました」と言ってみた

この言葉は嫌いだった。というか今も現在進行形で大嫌いです。だって相手が本当に私の心配をしているかどうかなんて分かりもしないのに、さも「心配したでしょ?」みたいな顔してこのセリフをさらっと吐くのは私には無理だと、ずっと思っていたから。だから指切って休んでも風邪で休んでも、私はこのセリフは避けていた。

でも世間というものは基本的に深い意味はないものです。言葉にも仕草にも態度にも、意味なんてありはしない。すべてはその場その場を丸く収めるためのものでしかなく、「本当は」とか「なぜ」とか「どうして」とかは禁句なのです。故に実際心配したかどうかなどは関係ない。休んだら「ご心配おかけしました」といい相手は「いえいえ、もう大丈夫なの?」と返す。これこそがコミュニケーションにおけるベストなのであり、それ以外の雑念は必要ない。

それに、周りの人と特別関係が悪いってわけじゃないし、少しは私の状態を心配しているのかもしれない、とも思えるようになってきたことも手伝って、この間言ってみたのです、「ご心配おかけしました」というワードを。まあそれほど気持ちのいいものではなかったけれど、特段不愉快極まりないということもなかった。なんてことねぇな、という感じです。

ま、こういう無意味な言葉の集積で世間が成り立っていて、私も少しずつ考えることをやめてその無意味な集積に参入していくのか、と考えるとそりゃあ吐き気はしますよ。まず私はそういうことをくだらないと思うから。でも私はそうやって世間に取り込まれていくようなタマでもないことも事実なんだな。今回は一つ適応することができたかもしれないけど、私は基本的に「そうではない」空間を見つけるか破滅するかしかない人間、のはず。でも最近自分を見ていると案外普通に生きていけちゃいそうな気もしてやーね。

「しない」と「できない」は大きな違いです。私もそろそろ多数派のコミュニケーションスキルを身につける時かしら?別に社交的になるつもりは毛頭ないけど、相手に不審に思われない技術、言いたくないことを聞かせない技術、相手に喋らせる技術などあって損はないはず。結局口を利けなければ相手に侵略される一方なのだから…。

私も自分の身を守る術は身につければならないな、と思った次第です。今日はこんなところで。

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2009年11月10日 (火)

自身の恋愛感情に対する超理性的な考察

私は現在進行形の恋愛から遠ざかってもう長いわけですが、進行してなかろうとなんだろうときっぱり忘れる、消去するということができていなければ煩わしさという点では進行している場合とそう変わらないのであり、今回はその煩わしさをずるずると掘り下げたいと思います。

まず何が嫌って客観的な評価が難しくなるのが嫌。自分の感情に対しても相手の存在に対してもその他あらゆるものに対して客観的に見てどうか、ということが一切分からなくなる。とくに相手の人間性に対する評価というのはトップクラスの難易度です。

それでも私は過去何度もそれを試みた。結局あれ(今回の記事では私の意中の人の呼称を「あれ」で統一したいと思う。なぜって彼とかあの人ではどうしたって甘ったるい感じになってしまうからに決まってるじゃないか)はどういう人間なのか?という問いを何度も繰り返した。ともすれば必要以上に美化したりこきおろしたりしてしまうのが恋愛感情の恐ろしいところで、私は恋愛感情に惑わされずそのことを冷静に判断する必要性をずっと感じていたんですが結局100%の確信を得るには至らなかった。というか好意なんてものに毒された頭でいっくら考えたところで冷静な判断なんてものが生まれるはずもない。

とはいいつつも、今までの何年かで出来上がった「一応的を得ているとは思うよ?」レベルの「あれ像」はある。それをここでちょっと書いてみようかと思う。

まず思想的には近いと思う。私と同じ少数派であると言ってもいいレベル。日本のような腐った国で生きていくには貴重な同志となりうる人物であり…とここまで言い出すと恋愛感情による美化が含まれている可能性大ですが、最低でも馬鹿な多数派じゃないことは確かです。

ただずっと思っていたというか引っかかっていたというか気になっていたのは、人と関わるということに対してそれほど深い悩みを抱えている人には見えない、ということ。もちろんネアカではない。どちらかと言えばちゃんと暗いし、社交的とかいう反吐が出るような称号は全くふさわしくない人ではあるの。でもあれには気心が知れた人がちゃんと何人かいて気を使わずに済むスペースがそれなりの範囲で普通に存在している。私にはそんなもんない。

結局のところ人間というのは人と普通に関われる人間と関われない人間に二分されると思う。前者はそれだけで悩みが少なくて済む。苦しい状況に追い込まれていたとしても人との触れ合いで簡単に(っていうと語弊はあるかもしれないけれども)助かる。要するに人に必要とされることだとか人から感謝されることだとかを経験すればすぐ立ち直れるような現金なクソ野郎なんですよ、はっ、しまったついコミュニケーション弱者の僻みが…。

話を戻すと、要するにその意味ではあれと私とでは決定的に住む世界が違うんじゃないかとずっと感じてきたし、今もそう思ってる。今でこそ「私とは違う人」なんて柔らかい言葉で表現できてますけど、当時はそれが気に入らず「能天気な馬鹿」とか「あんな奴には私の気持ちなんて分からないんだっ」とか気晴らしにつけてた非公開の日記はそんな話ばっかり、ぼろくそです。

そういう感情は満たされない恋愛感情の行き着く先としては一般的で見苦しい限りですが、その中でもより根源的な違和感、人種の違いのようなものの捉え方はたぶん正しかったと思う。あれは人と関わるとき私ほどつまらないことを考えない。その意味ではあれが健常者なら私は障害者、あれが多数派なら私こそが少数派です。本物のね。一生交わることのない何かを感じますよねぇ。

そんなこんなで幼稚な妬み嫉みや強固な恋愛感情から完全に解脱できたわけではない私ですが、絶対にこっちからは連絡をとらないということは決めています。あらゆる感情の不純物を取り除き、できうる限り冷静に見つめてもあれと私が「違う」というのなら、下心を克服できないうちに近づいたってろくなことにならないのは丸分かりです。超理性的じゃない?表彰されてもいいぐらいだわ。

今回だって「客観的に評価するなんて無理」と言いつつもこれだけの考察をしてみせる。本当に健気でありよくやっていると言わざるを得ない。これだけ物事が見えていれば今後道を誤ることもそうないであろう。安心してこの先の人生を任せられる。私が私でよかったと思うのはまさしくこういう瞬間ですね。

そうそう、指の怪我はほぼくっついて元通りになりました。万が一気に掛けている人がいたらと思って念のため。

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2009年11月 1日 (日)

指が…

このたびちょっとした面倒に巻き込まれたため、少しの間コメントを承認制にすることにしました。その間すべてのコメントは私が公開するまで表示されないので、リアルタイムでのやり取りはしづらくなってしまうかと思いますが、ご了承ください。

書くことはこれで終わりなんですけど、こんな事務的な話だけで終わらせるのも何なのでもう少し。

なんて言いながらも特に何も書く気が起きず、↑まで書いて下書きに保存して飯を食ったりなんだりしてたんですが、なんとさっき指を思いっきり切ってしまった。台所のシンクの上のちょっとした物を置くスペースに野菜スライサーが置いてあって、私はちょっとした動作の際にそれに手を引っ掛けてしまい、「あ、やばい」と落ちそうになった野菜スライサーに脊髄反射で手を出した瞬間スライサーの刃が親指にぐさっと。血がぼたぼた垂れて怖かった。痛かった。あの場所に置くのは金輪際やめよう。

幸い血はすぐ止まったので軽傷だとは思いますが、明日の予定は全部キャンセルかしら。指切ったぐらいで休むなという気もするけど、意外とざっくりいっていて、これで力仕事はないという気もする。こないだ風邪で3日休んでしまったせいもあって、バイトを休むハードルが下がっているのだ。

こういうとき、客観的に見た状況と、主観的に見た状況は著しく乖離するよね。客観的に見れば野菜スライサーで手を切ったことぐらい大したことない糞みたいな話ですが、当人としては血も出したし痛いし重要な問題です。こういうとき、くっだらないことに囚われてるな、と思ってしまう。命に別条のない傷だし、おそらく1週間もたてばだいぶ良くなるのに、不安で憂鬱です。もしかしたら外科に行かなければならないかな?とか。

端的にいってたかが切り傷ごときで気を乱されている私の「お嬢様っぷり」が気に入らないのです。先進国に住んでますって感じがするよね。病気もしない、怪我もしない、何かあったとしても病院はすぐそこ、お金もある。それなのに指を切って血が出たぐらいで焦る。人間の見苦しい面を見た気がするわ、指切っただけなのに。

まあそういう意地の悪い自分いじめはこれぐらいにしてあげてと。私って~、普段いらないことで「どうしようどうしよう」言ってる分、実際に何か起こった時は結構冷静なんですよ。これはもう仕方がないな、という諦めが早くて対応が迅速。

今回もまずは流水であらかた流しそばにあったティッシュで止血。絆創膏を貼って済むようなレベルではないようなのでパソコンで「切り傷 手当」を検索!そこで消毒液で消毒という当たり前すぎる情報を得て薬箱を開ける。マキロン。使用期限が2006年だ!…使う。そして新品のガーゼを開け、ガーゼの外側だからいいだろうとちょっと旧品の包帯を巻き、今に至るというわけ。まだ少し痛みは残ってますね。

…終始「こんなことで慌てるのはみっともない」と思ってそれなりにやったんですが、やはり駄目でした。私は単なる先進国のお嬢様なのであった。しかし、次に指を切るときにはそれはもう医療知識から肝の据わり方から別人のようなアプローチができるようになっているはずだわ。気合を入れねば。

実は件の野菜スライサーで指を切るのは今回で二度目。前回は玉ねぎをスライスしてて親指をちょいっと。その時は絆創膏で済む程度の傷だったんですが、この短期間で2度も同じ親指を切るなんて最悪だわ、何の呪いだわっ。

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2009年10月20日 (火)

裁判員制度

前回記事の中で「調子はいいです」なんつって調子に乗ってたらその日の夜から気がふさぎ始め、その数日後には風邪を引いてしまった…。最悪だ。この国では新型インフルエンザの疑いがかかると犯罪者扱いになってしまうというのに。

そんな状態ですが、今回は朝日カルチャーの通信講座「「新聞コラムを読み考える」に提出したものを紹介します。(前回のはこちら)裁判員制度に関する記事でタイトルは「わかりやすい裁判の裏」です。

私は裁判員制度には反対です。その理由の一つは「国民に開かれた裁判を」と唱える一方で、その国民の一人であり裁判の主役でもある被告人についてはまったく語られずにここまできているからです。裁判で大切なのは被告人の利益を守ること、公正な判断を下すことです。国民に「分かりやすく」するために、一体どれだけのものが犠牲にされたのでしょうか。

その犠牲の第一はなんといっても、全体の7割が3日で終了するという裁判日程です。今まで何年も、長いものでは十年以上もかけていた裁判を、たった3日で審理するなど本当に可能なのでしょうか。政府は公判前整理手続きによって可能になると言っていますが、これは拙速な審理を招くという点で危ういものです。

今までの裁判が長かったのは自白調書の任意性など、証拠とされるものの信用性が法廷の中で争われてきたからです。確かに言った言わないの水掛け論になることもあり、裁判が長すぎるとの批判もされてきましたが、ある意味では健全であったと言えます。

しかし公判前整理手続きではどうでしょうか。私たちは事前に検察、弁護士、裁判所による手続きで証拠として認められたものしか見られず、その限られた情報で被告人の人生を左右する決断を下さなければならないのです。しかも迅速な審理のためと称して新たな証拠や証人も基本的には認められません。実際の裁判では後から新たな証拠が見つかって真実が明らかになることも少なくないのに、裁判員の都合に配慮するあまり追加の主張も認めないのでは何のための裁判か疑いたくなります。

この制度に関しては「とりあえずやってみて悪いところは直せばいい」という主張もよく耳にします。しかし「とりあえず」で人の自由を、人の命を、奪っていいのでしょうか。裁判員制度は全面的に見直されるべきです。

という感じ。裁判員制度の問題点はほかにもたくさんあるのですが、800字という制限があるので、公判前整理手続きに絞って書いてみました。

気になる評価はなんと「とてもよく考えられており基本的には直すところが見当たりませんでした」というもの。敢えて直すならばと多少の「提案」はありましたが、「修正」はほぼありませんでした。

基本ができているということはそこからいくら逸脱してもいいということ。講評には私の文章に対して、喋り口調に近くやさしいのが特徴なのでそこを伸ばしてください、みたいなことが書かれていたのですが、そんな文章ばっかり書き続けたいわけでは当然ない。

こういう基本を押さえた人畜無害な文章もそつなくこなせることが分かったところで、どう毒を入れてふくらましていくかが問題です。

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