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2006年12月31日 (日)

卓球の話のはずが激しく脱線

今日は父親と約2年ぶりに卓球してきました。別に昨日ピンポンを見たからとかではありません。父親に誘われたので。ひっさびさに健全な事をした気がします。明日は間違いなく筋肉痛でしょう。

これでも私は2年前までは結構卓球がうまかったのです。男共に混じってほとんど毎日バカみたいにやってました。何かの集団に属してたのも卓球やってた時が最後ですかね。なんかそう考えると妙に感慨深いものがあります。

周りの奴はみんなバカばっかりでピンポンのペコとかスマイルの真似とかしてたっけ。私に安定した居場所があった最後の時。それなりに楽しかったけど、その時にやっぱりあの集団の虚しさみたいなものも知ってしまったのよね。

卓球なら卓球、ゲームならゲームと何でもいいんですが、基本的にそういうバカ騒ぎって誰でもいいんですよね。ある程度卓球やゲームができる人となら誰とでも盛り上がれて、その人が人間的にどんな人かなんて関係なく一定の楽しさを得られる。

そんな関わり方が急に虚しくなって私は卓球の集団からは抜けたけど、この間久しぶりに遊びに行ったらかつての人たちは相も変わらずゲームやら卓球やら鬼ごっこやらに興じていて、よく飽きねーなー、やっぱり男ってバカなのかしら、なんて高飛車な考えが浮かんできたり。

だって私があの人たちと卓球ブームでつるみ始めたのはもう4、5年前までさかのぼる訳で、あれから今現在まで多少メンバーの入れ替わりがあると言っても、あのバカ騒ぎをずっとやってると思うと逆にすげえなあ、と思って。

私の方はあれ以来人に求めるものが一変してしまいました。この人と共感は生まれるだろうか、私の気持ちを分かってくれる人だろうか、という事を必要以上に精査して少しでも違うと思ったら踏み込まない。そんな関わり方をするようになった。

てきとーなバカ騒ぎはもううんざり。誰か分かってくれる人とボーっとしてたいです。そういう態度で、声掛けてくれる人からもなんか違うとか言って身を引いてたら、その内取り返しのつかない孤独に落ちたりするんでしょうか。

でもだからといってなし崩し的に人に依存はしたくない。人を自分の孤独を癒す道具にはしたくないのです。人と関わるという事は、自分の辛い事を引き受けてもらう代わりにその人の辛い事も引き受けなければならない。自分がこうして欲しいという欲求ばかりでは成り立たないのです。

だから人と関わるという事は常に何かを犠牲にする事であると言えるし、なんらの犠牲も覚悟せずただ楽しさのみを求めるような発想ではろくな関係は築けない、というのが私の考えです。

だって本気で人と関わろうと思ったらそれはもうどろどろのぐちゃぐちゃですよ。所詮は赤の他人な訳で、それを分かり合おうなんて思ったら並大抵の苦痛じゃ済まない。相手を理解するなんて簡単に言うけどこれほど難しい事も他にない。

でもどうせ人と関わるならそれぐらい深い関係になりたいって思うので、何となくの薄っぺらい関係というのが私は苦手なのです。まあそれらを排除しているうちに一人になってしまうわけですが。たぶん私が思うに人と関わる際にいちいちそんな深い関係を求めていたらダメなんでしょうね。薄っぺらい関係を質より量でいっぱい持っておくのが今の主流なんでしょ。

でも私はやっぱりそれじゃ嫌です。そんな妥協をするぐらいなら一人で持ちこたえようと思う。人と関わる事イコール犠牲を払う事ですから、どんな犠牲もいとわないと思える人とだけお友達になります。傷つく事はかったるいですし、つまんないヤツと関わるぐらいなら一人の方が楽ですから。

一緒にいるだけで楽しいなんて甘っちょろい関係は私の中には存在しません。相手が何も悪くないとしても、私は勝手に自己嫌悪や徒労感に襲われ、頑張らなかったら誰かとなんていられない。

ふあー、でもこうやって書き出してみると私ってほんとめんどくさいですね。人に求めるものが重いって言うかなんていうか。0か100かという極端さが鬱陶しい。もっと要領よくやんないとダメなんですよ、人生は。

さて、今日は日付が変わってもう31日です。なんか実感湧きませんが今日でもう今年は終わりなんですね。ほんと早い。今まで散々一年が終わる虚無感について述べてきましたが、いざ最終日になってみるとこれといった感情もなく。結局こういうのって、もう終わっちゃうって駆り立てられるのは31日よりも27、8日ぐらいなんですよね。

まあそんなのはどうでもいいや、31日ですから恒例の挨拶で締めたいと思います。皆様よいお年をお迎えください。

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2006年12月28日 (木)

奇妙な夢

起きて飯食って一息ついたら既にこの時間なんですが。もう日も落ちかけてるんですが。一日終わっちゃうんですが。そして10時間寝たにもかかわらずめちゃくちゃ眠いんですが。

この退廃的な生活から抜け出したくてたまらないのに、布団の中ではやりたい事もやらなきゃいけない事もすべてが無効化し、ずっと寝ていたいという欲求のみが私を支配する。

因みに昨日寝たのは5時。何やってんだか。基本的に風呂に入ると寝るのが遅くなる。なぜかというと私はその日やるべき事がすべて終わって後は寝るだけ、という段になって初めて風呂に入ろうとするからで、具体的に言うと晩飯を食らいその日見るテレビもすべて見終わってからという事です。そうすると大体2時3時の話になってくるんで、寝るのは大体4時5時の話になってくるわけです。あーあ。

まあそんな私の生活リズムの話はどうでもいいんですが、今日は変な夢を見た。ダウンタウンの二人が出てくる夢で、二人と私は焼き肉屋にいて私が牛タンを焼いているというよく分からないシチュエーション。

そして私が「牛タンって牛の舌なんでしたっけ」と質問すると浜田に「当たり前やがな、そんな事も知らんのかいな、ビックリするわ」とバカにされ、私がそろそろ焼き加減を気にしていると松本が突如大根で言うミディアムレアだよとなぜか標準語で言いだす。私は当然意味が分からず「は?」と聞き返すのですが、そのやり取りを数回繰り返すうちに私も「大根で言うミディアムレアかあ」と納得してしまうというあらすじ。

まあよく分からん夢ですねー。この夢が私の何を表しているのか。恐ろすぃ。

ていうか既に書き始めてから1時間ほど経っており、冒頭の日が落ちかけてるとか言うのが矛盾してしまった。既に外は真っ暗。冒頭の文は17時前ぐらいです。

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2006年12月27日 (水)

今後の指針

どうもー。今年もいよいよ終わりやがりますね。まったく、私も今年は結構頑張ったから、なんてどれだけ言い聞かせても一年が終わる時はいつだって虚無感です。

今年は私にとっては結構な年でした。長年通った場所をやめ、長年好きだった人に振られ、高卒認定資格を取得し。

そんな様々な変化があったのにも関わらず、私の心はいたって普通、だからどうしたといった感じです。

やめたらやめたで家にいる生活が私の普通といった感じだし、失恋だってもうすっかり消化、高卒資格なんてそれに輪をかけてどうでもいいです。たかがマークシート。たかが運。そりゃあ最初こそちょっと嬉しかったけど、もう今となってはその余韻もさり、一年が終わるという虚無感だけが残されてどうにもなりません。

というかあれだ、ここで一つ皆さんに周知徹底しておかなければならない事があるのですが、それは、私は実はものすごく口が悪いということです。テレビを見るという事一つとってもその間の暴言たるや17才の女の子というポジションをすべて擲った(なげうった)かのような有様であり、正直今までの記事ではまだ猫かぶってる部分が多々あるわけです。

なのでここらでちょっとその猫をはぎ取りもうぶっちゃけて行こうじゃないか、という事でこれからは今までよりもちょこっとだけ言葉が汚くなるかもです。という報告?っていうかお知らせっていうか。

それともう一つ、私はどうも完璧主義というか、自分で勝手にハードルを上げているところが多々あるようです。面白い事を書かなければ、意味のあるものを書かなければ、人に不快感を与えないようにしなければ、等々。

でもね、私という人間はまだ17であり発展途上であり、未熟者なのです。書く文だってつまらなかったり意味がなかったり不快感を与えたりもするでしょう。だから自分に完璧なものは書けないと開き直って、もっと肩の力を抜いてこのブログをやっていきたいと思っています。

何書いたって読む人にどう思われるか不安なら、もうごちゃごちゃ考えるのはやめにして今思ってる事を素直に表現していきたい。

だからそんな未熟者の文章でもいいよ、と言ってくれる人がいたらこれからもよろしくお願いします。

っていうかなんか雨すごいんですけど。雷なってるしー。異常気象ってやつですか。台風並みのどうちゃらとかニュースでやってましたね、そういえば。ウチは高台の上にあるので洪水などの心配はないんですが、雨で風が強いと水が入ってくるんですよね、窓の所から。

工事の人を呼ぶには部屋を片付けないといけなくて、それが進まないばっかりに1年ほど放置したままです。台風が来たら直さざるを得ないだろうと言う見通しだったのですが、今年はいい具合に東京を避けてくれて直せず仕舞い。もう。とりあえず雑巾を詰めてありますがいい加減に何とかしなければ…。

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2006年12月21日 (木)

どいつもこいつも

なんつーか、私は今猛烈にイライラしている。なぜか。そぉれぇはぁ、私の周りのヤツがそろいもそろってバカだからだ。

私は前回の記事にも書いたように高卒認定試験に合格したわけですが、それがよくなかった。なんか知らん内に私が大学に行くためにその資格を取ったのだと祖母らが勘違いしてるらしい。数ヶ月前から何となくテンションが違う、とは思っていたけどめんどくさいので訂正せずにいたのがまずかった。

まあでもそんなのは別に行かないと言ってしまえば済む事で、それ自体は大した話じゃない。何で私が今こんなに気分が悪いかと言うと、試験合格のお祝いにメロンが送られてきたまではいいものの、それにはしっかり手紙が添えられていて、その手紙の内容が基本的にものすごく不愉快だったのです。

ざっと内容を述べると、要は「今まで何年も不安だったでしょう、今回合格と聞いて本当に安心しました、東京には沢山大学があるからもう心配してません、目標を持って大学に入れるよう頑張ってください」とかそんな感じで、母親あての方には、「合格と聞いて久しぶりに笑顔がこぼれました、浪人しないように受験さして、無事大学生になるのを望んでいます」とかなんとか。これで大きな顔ができますね、とかも書いてあったっけ。

もうなんか物を言う気も失せる感じ。別にちっとも不安じゃなかったし。今まであまり文句を言ってこないな、と思っていたけど、結局正規の道を歩んでいない私の事を不幸だとか欠陥品だとか思っていたのですね。分かってはいたけどさ。沢山大学があればバカでも入れるだろうって事か。失礼な。

それにしても随分つまらん価値基準をお持ちのようです。たかが高卒認定試験合格ぐらいの事で大きな顔ができるってのもこれどうなのよ。要するにあなたはあなたの孫でもあるあの高校中退の彼を私が見下していれば満足なのですか。どんな教育だ。

親父は親父で相変わらずどっかに所属しているという事をことさら重視し、先のことをちゃんと考えた方がいいとか大して身にもならないような事を言ってきます。今日だって急に「大学がいいとも限らないけどね」みたいなことを言い出して、一体何の心境の変化があったんだ、と思っていたら「専門学校とか予備校とか」と続けた。どこだって一緒だよ。

もー、ほんとにどいつもこいつも私をなめているとしか思えない。その程度の視野で私の人生に口を出そうなどと百年早いわ。調子に乗りやがって。

まあ私だって自分のせいで誰かが悲しむのはイヤだから、自分に出来る事なら付き合ってやってもいいよ。でも大学はダメです。誰かが悲しむからといって我慢して行けるような代物ではない。そんな事のために4年間を棒に振るわけには行かない。

だから私は上に書いたようなことは一切言わずに丁重にお断りします。私って大人ー。言っても分からない人には言わない。私の中の鉄則です。めんどくさいし。

学校に行かなくなって、正直もうここまでくれば私に普通を求める奴なんていないだろう、と高を括ってました。甘かったと言わざるを得ませんね。でも普通高校行かなかったら大学も行かないでしょ。学校嫌いなんだから。

これからひとつひとつ、大学には行きません、本屋さんでアルバイトがしたいと思ってます、という事を説明して回らなければならない訳です。ほんとバカみたい。これぞ無駄な労力というものでしょう。

でもさー、私ってこれでも結構マジメちゃんな方だと思いますよ?新聞読んでるし、本も好きだし、色んな事に関心あるし。それでも世の中が支持するのは親の金でプラプラしてる大学生なのですね。別にそれが悪いってんじゃありませんが、私の方が絶対そんな人よりも学習意欲はあると思う。

べっつにー、だから認めてくれなんて甘ちゃんな事を言う気はないけど、そんな世の中の腐った様を垣間見た今日は気分が悪いと、こう言いたかっただけです。

なんか色んな人に言われれば言われるほど大学なんてぜってー行くもんか、という気分になってきますね。誰かの言う通りにするという事が心底嫌いなようです。でも本当の正念場はこれから。今私がこうやっていきがってられるのも、まだ社会に出てないからかもしれません。

家で言うだけなら誰だって言える。世の中の冷たさや汚さや不条理にさらされてもこれが言えるなら問題ありませんが、案外あっさりひしゃげてしまう、という事も充分ありえます。私ってほら、弱いから。

もう疲れたから寝る。久々に長く書いたなあ。

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2006年12月17日 (日)

高卒認定試験合格

はっはっはっはー、ざまーみやがれ。私はついに合格したのだ。何にって高卒認定試験にですよ。

あまり自分の事を自画自賛するのも気がひけますが、正直今回私はめちゃくちゃ頑張りました。

失恋したその足で住民票を取りに行き(その当時は外出するのもえらいハードルが高かったもので、用事は1度で済ませないとダメだったのです)、なんとか書類を提出したと思ったら倦怠感に襲われ、もう試験は来年にしようかとまで考えました。

いざとなったらたらに教えてもらえばいいや、と高を括ってあまり真剣に取り組んでいなかった数学に苦しめられ、問題集の「次の2次不等式を解け」とか「グラフの共有点を示せ」とかいう表記を見る度にはあ?なんだテメーは国語から勉強して来いっつーの。解けじゃなくて解いてくださいでしょ?と激昂し、それはもう大変でした。

そんな幾多の困難を乗り越えて、今回晴れて合格となったわけです。正直試験1週間後ぐらいからもうすっかり飽きて合格不合格なんてどうでもよくなっていた私ですが、やはり合格と聞くとホッとします。サインコサインタンジェントを覚えた甲斐がありました。

おかげで気分よく年が越せそうです。基本年末は「また何もしない内に1年が終わってしまう」という虚無感でいっぱいになるんですが、今年は私もまあまあよくやったのでそれも緩和されるかもしれません。

なんかこのままよいお年を、とか言いたくなっちゃう勢いですが、まだ半月ありますね。この時期は何か世の中も慌しく心身ともに調子を崩しやすい時期です。みんなクリスマスだ初詣だってチャラチャラしだす時期。

私のブログを見てくれてる人はこのチャラチャラには乗っからない人の方が多いかと思います。この疲弊しやすい時期をなんとか受け流して生きていきましょう。カップルの幸せは見てないフリで(それが必要なのは私だけか…)。

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2006年12月12日 (火)

サンタさんにお願いしたいもの

久々にまたトラックバック野郎のお題に答えてみようと思う。どうでもいいけど何でココログのトラックバックはこんなに男男してるんだろう。

で、テーマはお願いサンタさんクリスマスにコレくださいっ!だそうです。

因みに私は幼稚園児の頃からサンタさんを信じていた記憶がまったく無い。欲しいものは母親に言うと母親が夜中に枕元に置いといてくれる、と普通に思ってたのです。サンタさんを信じてないとなると、枕元に置くという行為に一体どういう意味があったのかが疑問ですが、それなりに楽しかった気がするので気にしないでおきます。

それで本題のサンタさんにお願いしたいもの。幼稚園時代ですら信じてなかったくせにお願いするのも気がひけますが、まあお題だしね。ズバリ言って時間と経済力

時間についてはここでも何度か書いてきた通り、まったく足りてない。新聞読みたい、映画も見たい、本も数冊溜まってる、MDも編集しなきゃ、とかなんとか。まあ時間が欲しいと言いながら早く寝れない起きれないというダメダメスパイラルから抜け出せない私にも矛盾があるわけですが。やっぱり何かしたかったら早く起きないとだめなんですね。

で、もう一つが経済力。コレについてはもう何年も前からその必要性を感じていた。別にウチが貧乏だったとかいう意味ではなく、自分を食わせていくって事は大変な事だと思うし、自分の衣食住を満足させられるだけの収入を自分で得る、という事には強い憧れがあったのです。

だからお金が欲しい、という事とはちょっと違う。毎月自分が暮らせるだけのお金を与えられれば満足、という事でもない。要するに家賃光熱費を引いて、少しばかり貯金に回せる分が残ってる、ぐらいの収入を自分で得る力が欲しいんです。私は前回の記事にも書いたように物欲はないし、お金を使うって事自体が好きじゃないので贅沢もしません。だから私が望むものはとても少ない。

でもそれを得る事はそんなに簡単な事じゃない。犠牲にしなければならないものもたくさんある。時間だってそうで、働いて経済力を得よう思えば時間は犠牲にせざるを得ない。時間と経済力ってのは反比例の関係なんですね。

まあだからこそ両方サンタさんにお願いするって事で。はー、私に向いてるいい仕事をお願いしますよサンタさん。やりたい事ができる時間もお願いしますよサンタさん。今まで信じてこなくてごめんねサンタさん。ついでに新しい恋も運んできておくれよサンタさん。

そういえばサンタさんなんて単語を発したのももう何年ぶりだろう。ずっとクリスマスなんて無視して生きてきたからね。久しぶりに世の中の行事に迎合しちゃった感じ?こんだけお願いしちゃったんで今年のクリスマスは少しはサンタさんに思いを馳せてみようと思います。

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2006年12月 8日 (金)

物欲が皆無

はー、なんか書きたいことはいっぱいあったんですが、そんな時に限ってメンテナンス中。終わるのを心待ちにしてたのにいざメンテナンスが終わってみれば書くモチベーションが下がってたという憂き目に。しょうがないので特にテーマは決めずになんか書きます。

最近試験が終わったのでまあ一応頑張ったってことなのか何なのか、父親がなんか買ってくれるって言うんですが、私ってばほんとに物欲ってもんがないんです。急に欲しいものって言われても考え込んでしまう。

服とかにも興味ないし、ゲームももう時間とられるから新たに買う気も起きないし、なんというか今あるもので出来る事もやらなきゃいけない事も充分過ぎるぐらい。だから今は物より時間が欲しい。新聞がいくら読んでも片付かないんです。もう私に時間をくれーって感じで。読み出すと細かい所までついつい見ちゃうんですよね。いやー、困った。

でもこんな話世の同世代が聞いたらめっちゃ羨ましがるんでしょうね。なんか世の中の普通の家では物を買うにも親の許可がいるらしいし。まったく別世界です。小遣い制でもないし、欲しいものは欲しい時に適当に買うというアバウトな家なんで(父親を除いて)。

なんか親がダメって言うからとか、小遣いが足りないからとかそんなんじゃなくて、自分で本当にそれが必要かどうかを考える力をつけた方が健全な気がするんですがどうでしょう。親が先回りしてあれダメこれダメ言ってもねえ。自分で考えるって事が阻害されます。

もちろんあからさまな無駄遣いとか高額すぎる買い物などは話し合った方がいいでしょうが、あんまり親が管理しようとしすぎるのは問題です。管理によってお金を使わせないようにしてもそれは本当の意味での教育ではないし。そもそも小遣い制っていうのもほんとに解せません。同じ家ん中でそんなに金ケチってどうすんだ、と。なんか子供に金なんて持たせたらろくな事にならん、というあからさまに信用されてない感じがしゃくに障る。

まあそんな考えなんで、試験が終わったからって何か買ってもらうというのも馴染まないんですが、買ってくれるって言うから何か考えなきゃ。これも親孝行って事で。

さて、相変わらずブログの更新には結構な時間をとられます。当面はもっと短時間で書けるようになるのが目標でしょうか。毎回こんなに時間をとられると今後忙しくなってきたら更新できなくなるかも。まあそんな事も考えつつある程度字数が稼げたので今日はこの辺で。皆様風邪などひかぬようお気をつけください。

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2006年12月 4日 (月)

犯罪被害者のプライバシー

30代の男性教諭が交通事故死した6人の児童の写真を無断でホームページに転載していたというこの事件。(詳しくはこちら

もちろんこの教師がした事は許しがたい事で、遺族の方々の心情は察するに余りあるものです。それに追い討ちをかけるようなことは私だって言いたくない。でも、これって少しプライバシー意識に欠けているとは言えないだろうか。

インターネットというのは不特定多数の人がいて、心無い言葉なんてそこらじゅうに飛び交ってる。そんな中に写真を掲載してたらそりゃあそんな奴も出てくるだろう。だからしょうがないなんて言い方はしたくないですが、それでなくとも亡くなってしまった人はいい悪いの意思表示ができないわけですから、そういう場所に写真を掲載するのはもう少し慎重であって欲しかった。

こういった話をすると犯罪被害者の実名報道などの話にも及ぶのですが、私はそもそも犯罪被害者の実名や生前の映像などが毎回でかでかと出される事に疑問をもっている。もし私が何かの犯罪に巻き込まれた場合、今の報道のように連日顔と名前を出されるような事はほんとに勘弁して欲しいと思うし、もう死んだんだからそっとしておいてくれと心から望む。

それでこういう事を言うと知る権利だのなんだの抜かす奴が出てきますが、ほんとにそんな権利は必要でしょうか。「今日未明、東京都で30代女性の刺殺死体が発見されました」。これでは何か不都合がありますか。どこの誰でこんな顔です、ということを出す必要性が私には分からないし、即刻やめていただきたい。

遺族の怒りや悲しみを共有するためだとか、被害者の軌跡をたどり犯罪被害者となるまでのいきさつを知る事によって犯罪撲滅の気運がどうだとか。私は別にそんな個人個人のストーリーはどうでもいいと思ってます。被害者がどんな人か、なぜ殺されたのかなんて事が分からなければ痛ましい事件だと思えないのなら、むしろそんな想像力の欠落した人間ばかりになってきた社会の方が問題でしょう。

そうやってワイドショー的な味付けがなされなければ犯罪被害者に思いを馳せる事ができないのであれば、それは人間としての欠陥です。そうやって個人のプライバシーが社会全体の想像力の欠如の犠牲になっていることは悲しいことです。知る権利と守られるべきプライバシー、どう考えても知る権利がいき過ぎている。

そのように個人のプライバシーを考えた場合、当然のことながら遺族だって本人ではない。だから遺族らが写真や実名を公表するということを決断するのなら(現在では遺族が選べるようにはなってませんが)「あの人(故人)だったらどう思うだろう、公表することの社会的意義はなんだろう」という事と真摯に向き合った結果であって欲しいと思うし、その考えからいくと、今回のホームページに写真掲載という行動は軽率だったのではないかと思う。亡くなった子供にもプライバシーはあると思うし。死んだから何してもいいってわけじゃないと思うのよね。

でも自分の身内が死んでしまった時にそんな事まで考えろってのも酷なのかもしれません。今日ニュースで遺族の方が泣いているのを見た時、ちょっとこれ書くのをやめようとも思いましたし。でもやっぱり写真以外にも事件を伝えていく方法というのはあると思うし、何度も言うように子供にはもう許可は取れません。選べないのです。やっぱりネット上に公開するということは当然今回の事件のようなリスクも伴う事だと思うので、もう少し慎重に、そういったリスク込みで写真を掲載する意義があるのかないのか、考えてもらいたい。

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