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2007年5月29日 (火)

陰惨無残

前回の記事はイタいタイトルで公開してしまった事、いたく反省しております。あの記事を更新してからアクセス数はかつてない冷え込みを記録している。そんなに私の恋バナが嫌いかよ。しっつれいしましたね、もう書きませんよう。

っつーわけで、ここ一ヶ月ぐらいバイトしたいなあ、と思いつつも行動に移せずうだうだしてたんですが、その後なんとか行動に移す事に成功し、今日面接を受けてきました。

まあでもね、ほんと大失敗。想定外の質問を次々にぶつけられぐちゃぐちゃになってしまいました。ありゃあバイト希望者にする質問なのかね。私は就職の面接に行ったのかと思いましたよ。ここで具体的な質問の内容を書くのは私の恥を晒すことに等しいので勘弁していただきたいのですが、いやあ2年前に面接受けた時はあんなこと聞かれなかったからさ。やっぱ本屋って違うのかなあ。

採用なら明日から3日以内に電話が掛かってくるらしいのですが、まあダメでしょうね。でも一応ほんの少し望みが残ってるとすれば、私の今すぐにでも働けて、他の人の急用の際にもわりと柔軟に代わりを務めることができるという利便性でしょうか。普段何の予定もなく家にいるのが幸いしました。

でもやっぱりこれぐらいの利点じゃダメだろう。あんまりダメだと思ったから帰りに新しい履歴書買ってきちゃったよ。もう気持ちは次へ向かってます。あれで採用なら何のための面接か分かんないし。

まあ人生に失敗はつきものと言いますし、あまり気にせず次の面接に臨みたいかな、と。正直面接直後は今回の恥を一刻も早く忘れようと必死だったんですが、今半日経ってみたら意外と立ち直っててホッとしてます。嫌なことは考えないに限るぜ。現実逃避万歳。

というわけで、次は別系列の本屋にします。一度失敗した場所にはもう近づきたくない。でもそんなこと言ってたらその内働くとこ無くなりそう…。

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2007年5月24日 (木)

忘れられない人がいる

私は前に書いたように非公開でつけていた日記をやめた。非公開の日記の醍醐味は文脈や人の評価を気にせず思いっきり書き殴れる事です。私がその日記で書き殴っていた事といえば全部例の彼の話だったわけですが、その彼の事をもう書く事はないと思ったからこの前やめたわけです。

だけど、最近また彼と接触はしていないけれど、彼の事をぐちぐち書きたい衝動に駆られてきてしまった。でもあそこまで宣言しといて今更あっさり非公開の日記を復活させるのも芸がない。という訳で何回かに一回は文脈を気にせずぐちぐち書く回というのを設けたいと思います。ブログだって一応日記と訳される事もあるぐらいですから、本当はそれでいいんですよね。

さて、彼の話。私と彼との話は一応色恋の話のカテゴリーにまとまってるので、ここにリンクを張っておきます。

んー、きつい。会ったわけでもメールをしたわけでもないのに、彼の存在がとても近くに感じられる。なんか乙女チックで嫌なんですが、今日彼の夢を見ました。夢ってのも色々あって、大半の夢は途中で夢だって気付いてそれほどがっかりする事もないんですが、たまにタチ悪い夢というのがあって、その場合最後の最後まで夢だとは気付かない。ずっと現実だと思って、信じて、幸せな気持ちになって、で、最後に突き落されるように現実に戻される。今日の夢もそんな感じでした。

そんな夢なら見なきゃよかったと思うのか、夢を見てる間だけでも幸せでよかったと思うのかは中島みゆきの「幸せ」にも歌われてますね。私は…中間でしょうか。幸せだったような気もするけど、現実に戻された時の寂しさもまた辛く。

で、夢の内容ですが、全部詳述すると私のキャラが崩壊しそうなので掻い摘んで言うと、まず彼から人伝いに告白される。で、私が訝しく思っていると彼から電話が掛かってきて付き合ってくれという。私が「でも私の事はそういう対象じゃないって言ってたでしょ?」というと「言ったけどこのままで関係が終わってしまうのは寂しいから」と彼が言う。で、私が「えー、じゃあいいよ」と承諾するという夢。あら、掻い摘んで言ってもキャラ全壊じゃないですか。まあ私も所詮は女だという事ですね。

まあだから、彼のことが近くに感じられるというのは単純に夢のせいもあるかもしれません。今日はまた映画見に出かけてたんですが(無論一人で)、その時彼に似た後姿の人がいたので、後ろから眺めてへらへらしたりもしてたから(キャラ崩れパート2)そのせいもちょっとあるかな?ま、どちらにせよかなり末期です。終わってますねー。

こうやって普通の女の子みたいなテンションでいると吐き気がするんですよ。私には私のキャラなり佇まい(たたずまい)ってのがあってさ、それに沿って暮らさなきゃなんないの。それなのに最近の私ときたらまた彼の事を引きずってこうやってうだうだしてる。バカみたい。彼の事で勝手に一喜一憂するのは自尊心ってのをズタズタにするんですよ。なんか惨めでさ。向こうはなんとも思ってないのに一人で怯えてみたり喜んでみたり憤ってみたり。思えば今までずっと一人相撲だったと思う。

こういうのってほんとに惚れたほうが負けだよね。私は典型的な例だった。今まで何度も区切りをつけた気になったけど、結局ちょっとしたきっかけですぐぶり返してしまう。忘れるって大変。いつまで彼のことを思い続ければ忘れられるのだろうか。かれこれ7年余りが経つ。

なんかほら、前に彼からの返信がどうとかいう話も書きましたが(上記のリンクから適当にどうぞ)、結局あの後彼からの返信はなしです。完全に無視&放置されてますね。かと思えば電話番号が変わったとかいう一斉送信感丸出しのメールは来たりして、もうなんだかよく分かりません。

たぶん彼の思わせぶりなメールで私が勘違いをして、という一連のごたごたでやっぱり私に対する評価は下がってしまったのかな、と思います。だから私のメールへの返信もめんどくさいんでしょ、きっと。もういいよ。

でも彼を責める気にはならない。そんなので彼のせいにして失敗したという事もあるし、それが私という人間の限界という事でもあると思うからね。魅力がないって事なんでしょう。

なんかやっぱダメだなあ、非公開の日記ほどには書けない。なんか過去の記事もちゃんとまとまってないから、たぶんすっごい分かりにくいだろうなと思います。よほど知ろうとしてくれないとなかなか理解しづらいものが。カテゴリーごと全部読んでくれる人なんていないだろうし。

まあいいや。今日は終わり。引きずってます。思いっきり。もっと成長して今より色んな事ができるようになったらもしかしたら…なんてちっぽけな希望を抱きながら。

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2007年5月19日 (土)

今日の太田総理

見ました。太田総理。結論から言ってしまえば今日はちょっとがっかりです。今までずっと、太田総理が始まってからというもの、太田の考えに共感し、この人はこっち側の人だな、と嬉しく眺めてきました。でも今回のマニフェストは最悪。太田の事は教育問題や憲法9条についての話などを聞いて以来すばらしい人だと思っているので、これだけで嫌いになるって事はありませんが、やっぱりちょっと残念でした。

メタボリックシンドロームの議員は辞職、タレントは出演禁止とかいう内容でしたが、私はメタボリックシンドローム自体がうさんくさくてしかたがない。どういう根拠があるのか知りませんが、急に出てきたものにみんなが飛びついて、必死にメタボリックかそうでないかを気にしてる様っつうのは滑稽というかなんというか。

何でそうなのか、誰が言っているのか、そしてその根拠はなんなのか。そういうことを一切無視してメタボリックメタボリック騒いでいるようにしか見えんのですよ。

確かに健康は大切です。健康でいるに越した事はない。しかしその健康ばかりに気を取られて、他の事がおざなりになってしまうのもこれどうかという話なのです。

例えば心の健康、太っている権利、タバコを吸う権利、病気になる権利。体の健康もさることながら、個々人が自分らしく在ることだって十分尊重されるべき事のはずです。最近の喫煙者は犯罪者だとでも言いたげな禁煙運動や、今回のような太っていると病気になりやすくなり医療費がかかって迷惑だ、とはばかりなく言ってしまうデブ=悪の風潮も、行き過ぎだと言わなければなりません。

大体集団の迷惑になるからといって個人に自制を促す姿勢というのは最低です。確かに最低限自分の健康に気を配るということは必要でしょう。でもそれは自発的に行われるべきものであって、病気になったら医療費がかさんで迷惑をかけてしまう、なんて個々人が遠慮したり迷惑をかけないようにビクビクしあうような社会はろくなもんじゃありません。

健康は大切ですが、それは絶対的な価値として個々人に奨励するような性質のものなのでしょうか。自分の好きなようにできる権利もあるのでは。禁煙ではなく分煙を。介護予防を押し付けるのではなく安心して介護を受けられる環境を。病気になるなという圧力ではなく、個々人が自分らしく在る事のできる社会を。メタボリックになったらどうしようなんてビクビクしながら暮すより、好きなものを食べて心が健康であることの方が大切です。

そういう社会環境の下で個々人が高齢化や国家の財政危機などのことを考えて、自発的に自分の健康を気遣うのならそれはすばらしい事だと思います。集団は個人に何かを強いるべきではない。いくら国の財政が苦しかろうとも、安心して病気になれる社会の在り方は大切です。ですから集団や政府はあくまで個人にお願いをするというスタンスでなければなりません。「デブは金が掛かって迷惑だから痩せろ」という強硬な姿勢ではなく「実は今国の財政は大変厳しく、もしよろしければ医療費抑制にお力をお貸しいただけないでしょうか」というのが本来の話ですし、それだってもちろんこっちには断る権利があります。

それにメタボリックは本当に信用できませんからね。ほんとに痩せたら医療費抑制に繋がるのかも怪しいもんです。ああいうぽっと出のものをあっさり信用してさもずっと昔から知っていたかのように振舞う人たちってのはほんとに滑稽。もっと色々と勉強してメタボリックの嘘や矛盾を暴きたいと思います。

とはいえ、こういった独善主義に陥りがちなのはメタボリック云々に限りません。環境問題にしろ政治問題にしろ、なんかそういう活動って自分達がやっていることだけが正しいんだという独善主義に陥りがちですよね。

環境問題についていうなら、例えば食品などで、中国から運ばれてきた物と国内から運ばれてきた物ではそこに運ぶまでの燃料の消費量が違いますから、国内から運ばれてきた物の方がCO2の発生量が少ないという事が言われます。でも、値段では中国産のほうが安かったりするので、そうするとお金がない人は中国産を買う事になる。この時環境にいい事をするのが何にも勝る正義なのだという発想があると、個々人の金銭状況を案じることもなく、国内産を買うことばかりを声高に訴えかけるような事になってしまう。

このように、確かに環境にいい事をするのは正しいのですが、それが個々人の状況を無視したものになってしまうと押し付けになったり、強制になってしまったりする。だから何をするにもその事だけが絶対的な正義なのだ、という独善主義はできる限り押さえるべきであると考えます。

そういう理由で、前述のメタボリック論争も腹が立つことしきりだったわけです。健康は大事ですが、そのために個々人の私生活にまで立ち入ってあれダメこれダメと詮索する事が許されるのか。そしてもしそれが医療費抑制の名の下に許されてしまうのだとしたら、私はそんな社会は嫌だと心底思う。

医療費の増大や要介護者を迷惑だと捉えるような考え方は私は非常に怖いと思うんですね。人間生きてれば病気もするし、年を取れば介護が必要になることも当然あるわけですから、もっとそういう事に寛容になれないものかな、と思うわけです。

病気をしないように、迷惑をかけないようにと思いながら生きていくのは苦しい。自己否定感情が強い人ほど苦しむのではないでしょうか。「私なんか医療費を掛けてもらうほどの価値があるのだろうか」とか考え出したらきりないですよ、ほんとに。

私はまだデブっていうほど太っちゃいませんが、もし私が太っててその事によって病気をしたとして「ほら見ろ、だからデブは医療費ばっか掛かって迷惑なんだよ」とか言われたら普通に死のうかと思いますね。病気になる権利は誰にだってあるのです。太っている権利も。自己管理がどうのとか言いますが、それが出来ないからってなんだっつーの。それはそれで人間味があっていいんだい。文句ばっか付けんじゃねえ。

というわけで、別にそれをひけらかしたいわけではありませんが、私はデブに対する偏見はありません。太っていようが痩せていようがそれぞれの生き方、在り方を尊重すればいいのです。どうしても健康上直して欲しい時は押し付けではなく丁重にお願いするという姿勢が大切です。個人の在り方を変えてもらうにはそれなりの態度が必要ですからね。健康は無条件に人の在り方を変更できるほど絶対的な権力を付与されたものではないと思うし、そんなものであってもならないと。

また長く書いてしまいました。最後に長文を詫びるのは何度目なのか。もう次から謝るのはやめます。こっちは書きたいことを書いてるだけなんだし。それではそろそろ寝ようかと思います。

前回言ってた映画ブラッドダイヤモンドや共謀罪集会の事は当面は書かない可能性が高いです。なんか時間経っちゃったしー。というわけなので、また思うところがあれば随時更新します。当たり前か。それではおやすみなさい。

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2007年5月16日 (水)

停滞

前回の不登校の記事にトラックバックを頂きました。あちらのブログがトラックバックやコメントを受け付けていないようなので、とりあえずここでお礼を言っておきます。ありがとうございました。

というわけで。なんだか停滞してます。どうしたもんかなーと。バイトをしようと思ってるんですが、今のところほぼ書き終わった履歴書と証明写真を抱えて立ち往生。あと1歩がなかなか踏み出せない事ってありますよね。

ちょっと地味な報告なんですが、私、2005年からずっとつけてた非公開の日記を昨日やめました。そのかつての日記の内容というのは前に少しここでも書きましたが、ほとんど例の彼の事ばっかりなんです(なんかもうどこにリンク張っていいのか分かんないんで、とりあえず私と彼とは7年間の付き合いで、昨年9月に私が振られてるって事だけ書いておきます。それ以上気になる方はカテゴリーの色恋の話でもクリックしてください)。

だから、もう彼がどうしたとかこうしたとかそんな事をぐちぐち書く時期は過ぎたし、そういう機会自体もこの先無いだろうと思って、区切りをつけるためにやめました。あの日記の意義はほとんど彼に始まり彼に終わるという感じだったので、もう彼の事を書かないのなら、ということで。だから今後の表現の場はここだけです。どんなに表現しづらい事もここで試行錯誤しながら書いていきたいと思います。

とはいえ、この何となくかったるい感じをどう文章にしたらいいのかさっそく困った。今のところバイトしたいなー、と思いながら溜まった新聞とか返却期限が3日後に迫った本とかを読んでたりするぐらいだし。

他には映画ブラッドダイヤモンドを見に行ったりとか、永田町の星陵会館での共謀罪の集会に出かけたりとか、そのついでに国会を眺めてへらへらしたりとか、一般的にブログのネタと呼ばれるものがないではないけど、今は掘り下げて書くほどのテンションじゃないし。

でもそうやって書くテンションじゃないとかいって放置してたらアクセス数は下がるし、私だって少しはマメに更新しようという気がないではないから、心苦しい。ああどうしよう。

うん、よし分かった。今日はもう終わりにしよう。

という結論に達したので、とりあえず今日は非公開の日記をやめてこっち一本でやる事にしたという報告までにして、後日またブラッドダイヤモンドや共謀罪集会の事など気分が乗れば書きたいと思います。おやすみなさい。

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2007年5月11日 (金)

子供の不登校は問題か

前回の前振りから1週間、不登校の事をがっつり書こう、と思ったらほんとに長くなってしまいました。やっぱり長文って敬遠されますよね。でもできる事なら「長文うぜえ」で済まさずに読んでみてほしい。なんてったって今回の記事はかなりの力作。不登校、教育関係に関心がある人はぜひ。


私自身は小学4年から学校に行かなくなり、それからはずっとフリースクールで育ったバリバリの元不登校児です。でも色々と悲惨な例がある中では、わりと不登校に関して悩まずにここまできました。最初のうちこそみんなが行っている場所に自分は行けないという負い目やらなんやらで多少苦しんだ記憶はありますが、うちは母親の理解も早かったし、自分の居場所となるフリースクールと出会えたこともあって、学校に行かないのは悪いことでもなんでもないんだ、と自己肯定できるようになるのが早かったんです。

そんな感じで何年も過ごしてきたから、もう自分の中で学校に行く行かないなんて大した事じゃねえな、というのが完全に出来上がってしまっていて、今更不登校の事なんて書くのは本当はちょっと違うんです。でも前にも書いた通り未だに学校に行かないのは問題だとか抜かす輩もいることだし、一度はここで書いてみたいとも思ってたから、まあ不登校に限らず、引きこもりとかニートの問題なんかも絡めつつ、述べてみたいと思います。

まずタイトルに不登校は問題かと書きましたが、結論から言えばまったく問題ではありません。学校に行かないという事は学校に行く事と同じぐらい当たり前の事だからです。人間には色々なタイプがあるわけですから、行きたいと思う人がいれば行きたくないと思う人もいるのは当然ですよね。楽しいと思えば行けばいいし、嫌だと思えばやめればいい。もうこれではい終わりって事にしてもいいぐらい、不登校ってのは本来は簡単な話なんです。

でもこの事をそれで終わりにできないのは、今の日本社会において学校信仰というものがかなり根深く存在するからです。学校に通わなければ人間性が育たないとか、学校に通わなければ協調性が育たないとか、同世代同士で過ごす事でしか得られないものがあるとか、我慢を覚えないと社会で通用しないとか、なんかまあそういう事を社会全体が言ってくる。そういうことをステレオタイプにずっと言われ続けていると、親も子供も学校に行かないとダメなんだと無条件に思い込まされてしまう。

でもそれらの主張には何の根拠もありません。私の父親も学校でしか学べない事があるとか根拠のない事を言って私を苦しめましたが、じゃあそれは何と聞けばろくな答えは返ってきませんでした。いい加減なもんです。

勉強はどこでだってできる。人間関係で言うなら、同年代の人間がすし詰めにされてる教室なんかより学べる場所は他にいくらでもある。校則やその他のルールに関して言えば、そんなものを守る事で身に付くものなんて何もありません。あるとすれば、個々人の人権よりも集団の秩序を優先する心だったり、自分がしてきた我慢を人にも押し付けようとする浅ましい精神だったり、みんながやってるから大丈夫なんていう主体性の無さだったり。もちろん学校を出た人がみんなそうなるなんて言うつもりはありませんが、多くの人がそういう考えに染められてしまったから、今の社会は管理先行の全体主義に陥っているのではないでしょうか。

私は今の学校教育にはかなり否定的です。テストの点で煽って勉強させるやり方も、運動会やその他イベントが強制参加なのも、制服だって校則だって、何もかもが子供の自主性や個性を破壊するために存在しているとしか思えない。そして学校は集団の秩序を乱さない「いい子」を大量生産する工場と化しているのです。

子供というのは何かを強制したりこちらから管理して育てるものではありません。点取り競争ではなく自分がしたいと思う勉強を自分からできるような環境を整備すべきだし、校則のほとんどはない方がいいものです。髪を染めたからといって何が問題なのか、なぜ授業に関係ないものを持っていってはいけないのか。校則だからという暴論以外にどう説明をつける気でしょう。必要のない管理や強制は教育現場から一掃するべきなのです。

とまあ学校教育への批判はつきませんが、それらの事を勘案すると学校に行かない事の何が問題かと言えば、むしろ行かない方が健全だぐらいのことが言えるわけです。

しかーし、それでも社会では不登校を許すとわがままになるとか我慢のできない人間になるといった事が言われます。でも私はもちろんそんな事はないと考えます。じゃあ学校を出た人達が優しいか、想像力があるか、人権意識が育っているか。抑圧されて育った人はそれを当たり前と捉えるようになり、自分の頭で考える事を放棄する。結果自分の頭で考えもがき苦しむ人間に異常者のレッテルを貼り排除する。そういった人達はただ単に秩序を構成する部品と化すのです。

人は自分の個性や人権を尊重されてこそ初めて個々人の人権がどれだけ大切なものかが分かります。今の社会の人権軽視の風潮は学校で人権を尊重されてこなかったからとも言えるのではないでしょうか。子供に対し一人の人間としての人格を認め、学校教育を受けない権利を行使できるような環境を整える事は、子供をつけ上がらせる事でもわがまま放題にさせる事でもありません。

これはもう既に知っている人も多いかと思いますが一応書いておくと、義務教育というのはもちろん、子供が学校に行く義務のことではありません。6歳から15歳までの子供に関しては教育を受ける権利を保障するため、親が子供に対して教育を受けさせる義務を負っているというのが義務教育です。

だから子供にあるのは、学校教育を受ける権利と受けない権利です。別に不登校はその権利に則って行動しているだけの話であり、そんなに構えなくたっていいんです。ほんとはね。例えば、いじめとかがあって死にたいほど辛ければ行かなくていいけど、何もないならやっぱり学校には行った方がいい、みたいな狭い了見を繰り広げる人間がいますが、そんな狭義の意味での緊急避難以外にも、学校に行かないという事はもっと気軽であっていいと私は思うんです。

誰の目から見ても明らかな理由というのが証明できなければ休んではダメという事なら、救われる子供はごく少数になってしまいます。実は私もそれでちょっと嫌な思いをしたクチなんです。学校に行かなくなってからなぜ行かなくなったのか色んな人に理由を聞かれましたが、私にははっきり説明できるような理由はありませんでした。いじめもなかったし、同情を買えるほどの人間関係のこじれもなく。

説明はできないけどとにかく学校には行きたくないというのがあって、だから私は理由なんてなくてもいいじゃん、と言いたいのです。学校に行かないのはなぜかなんて事がうまく説明できなくたって、嫌なら休めばいいんです。毎日決まった時間に通ってすべての授業を強制的に受ける必要なんてない。学校の教育は管理偏重の捻じ曲がったものです。そんなものを真面目に受ける必要も受けさせる必要もないのです。いい加減根拠のない学校信仰から脱却しましょうよ。学校なんてそんなに根を詰めて通う場所ではないんですから。

と、ここまで書いてかなり学校批判に偏っている事に気づいたので補足をしておくと、私は学校に行く事が悪い事だと言いたいわけではありません。確かに個人的には学校は嫌いですし、管理教育を助長させるような従順な人間も嫌いです。でも今の学校を楽しいと思い充実した日々を送っている人を否定する気にはなりません。

何をいいと思い何を悪いと思うかは人それぞれ。管理や強制はない方がいいに決まってますが、それを苦痛だとは思わない人間もいる、という事も心に留めておかなければなりません。

それに学校に行かなければ人権意識が身に付くのか、マイノリティたり得るのかといえばもちろんそんな事はありません。私は以前通っていたフリースクールで知りあいが「ニートって親のすねかじりでしょ?」と蔑んだ口調で話しているのを聞いたことがあります。まあ慄然としましたね。マイノリティの中でも醜い見下し合いが存在がします。

何のために学校に行かないという選択をしたのか。せっかくマイノリティとして個々人の人権を考えるきっかけを得たのに、多数派と同じようなものの見方をする。その人が今何を思いなぜニートという形態をとっているのかというところまで頭が回らない。ニート=親のすねかじり、堕落した人間という発想は、不登校=怠け者、軟弱な人間というのと何も変わりません。なぜ被差別者側に回ったはずの不登校がはばかりなくニートを馬鹿にできるのか。

学校に行かなかったからといってマイノリティの立場に立ち、引きこもってていいじゃん、働いてなくてもいいじゃん、となるわけではありません。中にはお前さあ、学校の方が合ってんじゃねえの?的な奴がいっぱい交じってて、だから学校に行かないやつが優れてて行ってるやつが馬鹿だなんて事を言う気は毛頭ないのです。そこら辺は誤解のないよう。

学校に行くのが悪いとか学校に行かないのがすばらしいとかいう話ではなく、お互いが寛容の精神で自分と違うものも許容するということが大切です。そちらが「学校に行ってない?そりゃあ不適合者だ、異常者だ」と言うのをやめ、こちらも「学校に行ってる?あんな管理教育を受けてる奴は馬鹿だぜ」と言うのをやめればよいのです。私は学校嫌いですが前述のように楽しく通ってる人まで否定するつもりはありません。だからあなたもこちら側の人間を否定しないでね、というのが私の考えです(そのわりにはちょっと学校の事ボロクソに言い過ぎましたが)。

でも今の私はとっても無力。いくら私がここで学校なんて行かなくていいと言っても、周りの親や教師から圧力を受け不安に駆られる人を救う事はできない。居場所も拠り所もないような状態に追い込まれたら、そこから脱却し自分のあり方を確立する事がどれだけ難しい事かは、温室育ちの私にだって分かる。学校に行く行かないなんて、人生においておよそ大した事ではない問題が、周囲の環境の組み合わせによっては、その人間の価値まで打ち砕いてしまう。恐ろしい事です。悔しい事です。

だけど学校に行っていない事や引きこもっている事を引け目に感じることはないと、もう一度声を大にして言いたい。人間が育つのにこうあらなければならないなんて事はないんですから、小中高大就職とノンストップで進み1度も立ち止まるなというのが今の社会の要求ですが、そんな要求に従う事はないのです。

言って分からない親兄弟親類ならそんなものは捨てていいし、家族なんて単位よりも、個々人が自分らしくあることの方がずっと大切です。日本の家族観ってなんかベタベタしてて嫌。ただ馬鹿みたいにまとまってるだけが家族じゃありません。お互いがお互いのあり方を尊重し、別々の存在として自立して生きていくというのだって十分家族です。

だから、自分のあり方を認めないような親なら捨てていい。学校に行ってない?だからどうした。っていう社会になるといいな、と思いませんか。

長くなりました。全部読んだ人いるんでしょうか。でもまあいつも思ってる事を文章にしたらこんなもんです。私は普段は自信のないグズグズな人間ですがこうやって反社会的な事を書いている時は自信が持てます。不登校が問題として叩かれるのも、引きこもりが外の世界に引っ張り出されるのも、100%間違っていると胸を張って言えるからです。

これからもっともっともっと勉強してこのマイノリティにとってクソほど住みづらい世の中をちょっとでも変えてやるんだ。こんな暑苦しい事を言うのもかなりらしくないんですが、まあいいや。

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2007年5月 3日 (木)

書くって難しーね

なんかさあ、こないだまで3月だったような気がするんですが、何でもう5月になってるんでしょう。早すぎませんかいくらなんでも。そういう積み重ねでどんどん鬱になってくんですよ。もう何もかも嫌になる。

はー、例によってネガティブな書き出しから始まったわけですが、最近また書くのがね、前回の記事辺りから微妙にスランプかも。いや別にスランプとか言うほど根詰めてここやってるわけじゃないんですが、なんていうか何を書いても陳腐に感じられるというか、私はほんとにそう思って書いてんのか、っていうのがね、あるわけですよ。

その時々で思ってることや感じてることを感情に任せて自然に書くっていうのが一番いいんだろうとは思うんだけど、変に字数稼ごうとしたり、逆に長文になり過ぎないようにしたり、そうこうしてる内に記事全体をうまくまとめようとしていまいち感情も乗ってないような事をだらだら書いてたりして。

感情が乗ってる文章というのは、書いてる途中も自分で結構よく書けてるんじゃない?なんて思えて、まあ後から読み返してうわっと思ったりという感じなんですが、乗ってない文章ってのはもう公開した傍から恥ずかしいんですよね。じゃあ公開しないで書き直すとかすればいいじゃないってなもんですが、ここまで書いて更新しないってのもまた前の記事から間が空いちゃうし、とかいう思考が邪魔をして、結局妥協しまくった文章を公開、と相成るわけです。前回もそう。

書くって難しいなあと。アクセス数だって少ないし、何のためにやってんのかなあ、とか勝手に始めといて思うこともあります、正直。結局恥の上塗りではないかと。

でも、マイノリティとして自分の考えを少しでも発信していくという事は無駄ではないのかな、とも少しは思う。話し相手がいない分、自分の考えを少しでも表現する場が欲しい、という事で始めたような気がしないでもないし。あやふや。

過去ログも結構たまってきたし、恥も分散されてきている。今全体の記事が60あるから一つの記事の恥は60分の1です。これからもっと更新すればひとつひとつの記事の恥は順調に薄まってゆくのです。これはこのブログを初めて1ヶ月目の時にも書いた。だからまだしばらくは細々と更新を続けていきたいと思います。細々と。

それと、次の記事では不登校にまつわる話などを文字数を割いて真剣に書いてみたいと思ってます。正直最近はもう学校に行く行かないなんてどうでもよくなってきてるんですが、やはり不登校は私のルーツですし、マイノリティに足を踏み入れたきっかけでもありますから、1度はここでちゃんと書いておきたいのです。未だに学校に行かないと社会に通用しないとか、学校に行くことは子供の義務だとか、根拠のない主張を繰り広げてる輩もいることですし。

もう今日から書き始めますが、どれぐらいかかるかは分かりません。今のところ唯一それなりの持論が展開できる分野ですから、満足のいくものを書きたいのです。とかいってハードル上がってる?きゃー、怖い怖い。という事で真剣に書きます。もしかしたら次の更新がいつにも増してすこーし遅くなるかもしれませんが、その辺は皆さんの寛大なお心でもってお許しください。

それでは、おやすみなさい。

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