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2007年7月 1日 (日)

多数派の暴力

なんか何回書いても釈然としないのよね。相変わらず平岡さんに対するバッシングは続いているみたいだし、私の記事を2ちゃんねるに貼り付ける奴まで出てきてるし。すっごい分かりやすく嫌われてるよね。

まあそれだけ世の関心事だったという事でしょうか。前回の記事前々回の記事を更新した昨日のアクセス数は前日比664倍。考えられない数字ですね。これは平岡さんに対する関心が集まってるからなのか、私の考え方が異質だからなのか。まあ前者ですよね。あまり自分を買いかぶっちゃいけないわ。

それと私の記事を題材に記事を書いてくださった方がいました。加害者の人権を認める気はないなど相容れない部分はありますが、それなりに私の文章を評価してくださっているようです。(http://blog.so-net.ne.jp/c-cat/2007-06-30)私の記事に対してその方が言う、10代ですからはいらねえだろ、というのはごもっとも。私も最後の最後で弱気がでまして、やっぱ言いすぎかなあ、語弊ありまくりだろうなあ、と思っているうちに10代ですからがぽろっと出てしまったというわけです。次からはもう言いません。

それでは改めて前回言い足りなかった部分をまた書かせていただきます。しつこいですか、すいません。

まず私は、もう何回も言ってるんですけどね、被害者の事を顧みなくていいなんて事は一言も言ってないんです。太田総理で少年院で結局1、2年で出てこれてしまうケースが紹介されてましたが、それがおかしいというのは私も異論のないところです。犯した罪に対してきちんと責任を負う必要があるという事も分かっています。ただ私は刑罰としての死刑や少年への過剰な刑罰には反対、というだけであって。

少しでも加害者の肩を持とうとすると、すぐさま被害者がその犠牲になるかのような事を喧伝する人がいますが、そんな事はありません。私なりに何故そういう人間がいて何故それが支持されるか考えてみた結果、やはり根底にあるのは蔑視感情だと思われます。

加害者の権利や更生を訴える事は被害者をないがしろにする事には繋がらないのに、さもそれが直結するかのように言う人ってのは、口では被害者の心情とか人権が大切なんて言ってますが、結局自分の差別感情を被害者を通して訴えたいだけなのではないでしょうか。現に被害にあっても加害者の更生を願うような被害者がいる事はあまりピックアップしないでしょう。

自分の差別感情を都合よく代弁してくれそうな被害者だけを賛美するのは、それこそ被害者感情を利用する汚い行為というか、やはりあまりにも公平性を欠いています。もういっそのこと被害者の心情なんてものをかくれみのにするのはやめて、正直に言ったらいいんじゃないですか。

俺は人を殺すような人間は人間とは思えないし、そいつがこの世の中で息を吸っている事自体が許せない。そいつが育つ過程でどれだけ劣悪な環境があろうとも、殺人なんて行為に及ぶのはそいつ個人の欠陥によるもので、そんな奴に生存権及びその他の人権なんてものを認める気は一切ない。こういう考えなんですよね。

それを被害者の心情がなんて言うから気持ちが悪いんです。じゃあ加害者に更生してほしいと思っている被害者の気持ちはどうするんです?尊重しなくていいんですか。もし今大多数の被害者が加害者の更生を望むようになったら、今度は亡くなった人の事を考えてないとか言って遺族の方にまで攻撃の手を広げるんじゃないんですか、あなた達は。自分がそんな奴は死ぬべきだと思ってる事を被害者のためなんて美化するのはやめてください。被害者の盾に隠れているのは卑怯ですよ。被害者がなんと言おうと自分は加害者には死んで欲しいと思ってるとはっきり言ってください。

私は被害者が加害者に対して感情的になるのは当然だと思います。それに対して死刑にしたって亡くなった人は帰ってこないんだから、加害者の更生を望むのが一番いい方法でしょう?なんて言い方をするのにはやはり抵抗を覚えますし、被害者本人に言っていい事だとも思っていません。私だって身近な人が犯罪の被害にあったら、ここまで冷静でいられるかどうかは分からないしね。もちろん死刑には反対しますが無期懲役ぐらいは望むかもしれません。ですがやはり第三者はそのような感情的な立場であってはならないでしょう。

先日の太田総理の放送の中でケビンが「目には目をじゃないか、ハンムラビ法典か」と言ったのを、目には目をでいいじゃないかとおっしゃっている方を多数見かけましたが、率直に言っていいわけがありません。やられたらやり返すでいいなら、何のための裁判ですか。裁判は復讐の執行には手を貸しません。国会に陳情して仇討ち法でも人を殺したら無条件で死刑法案でも作ってもらってくださいよ、それが本当に正しいと思ってるなら。

被害にあった時、憎しみの感情に任せて相手に同じ苦しみを味あわせる事は認められていないんです。事件が起きた時被害者と加害者の間に入り、ただの報復にはよらない、被害者の心情も、加害者の更生も、両方を考慮したうえで、双方にとってもっとも妥当だろうと思われる落とし所を見つけるのが裁判の役目です。それは被害者感情を無視したものであっても、加害者の人権を著しく無視したものあってもダメなのです。

裁判がそうした葛藤を踏まえて運営されているわけですから(もっとも最近の裁判は世論に配慮しすぎでそのような葛藤の上に成り立っているかは疑問なんですが)、第三者である私たちだって公平な目線で物事を見ねばなりません。しかも2009年からは私たち国民も裁判に呼ばれる事が決まっているわけですから、今の被害者に偏りきったこんな世論では、裁判が加害者に対する集団リンチに堕しかねません。

もうね、私自身よく分からないんですよ、自分ももしかしたら人を殺すかもしれないと思う人間と思わない人間の違い。単純にそんな事を思う奴の人間性に問題があると片付ける事もできそうな反面、社会の多数派に守られ、社会の「規律」と言われるものを問題なく遵守してきた人間の欠陥であると言う事もできる。やっぱりそうやって今まで生きてくるとそこから外れた者の気持ちが分からないじゃないですか。

人を殺す事は悪い事でお年寄りに席を譲るのはいい事だという分かりきっているはずの善悪からふっと外れてしまう瞬間がある事を私は身近に感じられる。社会の多数派から弾き飛ばされ軽蔑のまなざしを送られながら生きる事がどれだけ辛いか、少しは想像する事ができるから。とはいっても差別者側に被差別者側の気持ちが分かるかといえば分かるはずないんです。分かるなら差別なんてしませんから。

そもそもなぜ世論の大半が加害者に感情移入できないのかといえば、やはり自分達が常日頃から行っている差別や排他的な態度にあまり気付いていないからだと思います。というか差別を行っているという自覚すらない人間の方が多いのでしょう。例えば不登校にしてもたかだか学校に行かないからというだけでダメ人間のレッテルを貼られたりする事が往々にしてあるわけで、ニートや引きこもりも同様です。

そちらにしてみれば、学校に行くのも働くのも生きてれば当たり前でしょう、という感覚かもしれませんが、その動作を行うのがどうしようもなく辛い、と思う人間だっているのです。そのような状況にある人間に対して、集団の中で何不自由なく暮らしている自分の基準をそのまま適用し、弱いとかたるんでるとか言うのはやっぱり想像力が欠如していると言わざるを得ない。

そうやって一人ひとりが無意識的に行っている選別作業によって、異質なものを認めない均質的な社会が創られ、その結果そこに適合できない人は異常者とか、病気だとか、非人間的な扱いを受け、結果犯罪に走ってしまう、という構図もあるんですよ。

自分達が普段何気なくやっている事が人を追い詰めているかもしれないんです。人殺しを生み出しているのかもしれないんですよ。全部が全部そうとは言いませんが、そういう一面もあるという事を理解していただいて、犯罪は社会全体の責任であり、ひいては自分自身の責任でもあるという危機意識を持ってもらいたい。

社会に普通に生きてると気が付かないかもしれませんが、そこから少し普通じゃない生き方をしようとすると実はものすごい圧力がかかるんですよ、今の日本では。しかも社会全体のこうあらねばならないという考えはたいした根拠のない迷信である事が非常に多い。学校に行かないと育たないとか、家にずっといたらダメになるとか、社会が当たり前だと思ってる事は実は少しも当たり前じゃない。それが何故当たり前じゃないかはまた稿を改めたいっていうか、不登校の記事なら過去に書いたやつがあるのでどうぞ。http://kyomutotomoni.cocolog-wbs.com/blog/2007/05/post_788f.html

無意識的にそういう枠にはめ込もうとしていたり、そこから外れた人間に対してものすごい差別を行ったりしているんです、社会は。その結果、社会から外れた事により周りからすさまじい差別を受け、人格が壊れ犯罪を犯したらお前が悪い、という事ではあまりにも酷すぎませんか、と私は言っているんです。事情があるから責任を取らなくてもいいなんて言っていなくて、社会全体が加害者を追い詰めてしまったのかもしれない、という視点も持てませんか、という提案をしているのです。

そもそも社会に不安を与えたなんて事が加害者に対する刑罰の際に加算される事が私はどうしても納得いかない。謝らなけらばならないのはどっちか。罪を犯す前に止められなかった社会の方なんじゃないの。虐待を受けていたケースなんかで言うと、その人は虐待を受けている間は被害者です。ずっとずっと被害者で、ある日ついに耐え切れずに心が壊れ加害者になってしまった。被害者である間に助けられなかった事を私達は詫びなくていいのだろうか。個人の責任に押し付けてしまっていいのだろうか。私はいいとは思わない。

虐待なんて分かりやすいケースでなくてもこの考えは適用できると思います。皆さん善悪の判断がつかなかったから人を殺したんだと本気でお考えですか?それならばどうして両親が教師であるというような環境の人間が人を殺すのでしょう。何がよくて何が悪いかなんて事はもうウンザリするぐらい教え込まれているはずですよ、そういった境遇なら。

ですから犯罪の背景にあるのは、孤独感であったり、自尊心の崩壊であったり、あるいはまったく逆で世間の差別感情に染まりきってしまったから、という事も考えられるでしょう。例えばホームレスを襲った中学生などは、親や社会のホームレスに対する偏見をそのまま受け継ぎ、ホームレスの事を暴力を働いても許される存在なんだと勘違いしたのかもしれません。皆さんも差別してるでしょう?ホームレスの事を。ある意味その中学生達はあなた方が定めた善悪を忠実に守ったとも言えます。自分達と違う人間は差別して排除するのが当然だというね。

太田総理に出てきた被害者の方の息子さんも、障害者で動けないのをいい事にかなり陰湿なやり方で殺害されたそうですが、普段から障害者やその他マイノリティに思いやりがないのはどちらかといえばむしろそちら側だと私は思うわけで、あなた方が加害者に死を!とものすごい勢いで叫ぶ姿勢は逆に加害者予備軍を作りあげる可能性があるという事なんです。分かりにくいですかね。

要するにあなた達は自分達と違うものが嫌いなんです。俺達に同化しないと人間として認めないぞ、という横暴を日々知らない内に働いています。それが自分と違う人間は差別してもいいんだという考えを生み、行き過ぎると殺してもいいんだとなる。人の上に人をつくり人の下に人をつくる教育をしているのはあなた方多数派です。マイノリティはそういう態度にことのほか傷ついていますよ。私だってそう。

そうやって少数派排除を推し進めていけば、いずれこの社会は立ち行かなくなるだろうし、その内あなた方は復讐されます。変な脅しをかけているわけではなく、あなた方が知らない内にこちら側の人間は結構な怒りを溜め込んでいますし、下手をすれば身内からも差別感情が行き過ぎた加害者が出てくるわけでしょう。大変ですね。その都度気違い扱いしてれば事足りると思ってたら痛い目見ますよほんとに。で、人を殺してしまえば自分と同じ出身でも鬼畜呼ばわりしたり平気でするわけでしょ。冷たーい。それでも人間なのかしら。こちら側が加害者に同調するのとはえらい違いだよ。

ですから加害者の犯罪がどれだけ残虐であろうとも、同じ痛みを味あわせてやれ、というような短絡的な発想で解決できるような状況ではもうないと私は思うんです。本当の意味で加害者の立場にたって、何故そうなったのかという事を社会全体で真剣に考えていかないと、犯罪の数も減らせませんし理不尽な理由で苦しむ人も救えません。

そのように考えるとやはりどうしたって死刑には人道上の問題がある。現実的な対案としては仮釈放のない無期懲役というのが必要ではないかと思います。模範囚をやっていればすぐ出れるなんて事では被害者も納得しないでしょうし、犯罪に対して一定のペナルティを科していかなければ社会秩序も守れない。悪質だと判断されれば一生を刑務所で終えるという事も仕方がないでしょう。ただ何をもって悪質とするかに関してはまだまだ偏りがあり過ぎる。私は何が何でも情状酌量なんて事を言っているわけではありません。とにかく公平な目で世の中を見ていきましょうという事です。分かっていただけたでしょうか。

もう全部読んでくれる人なんて今度こそいない気がするよ。この話はそろそろこの辺で区切りをつけたいな。この数日多数派と戦う事で頭がいっぱいでかなり生活が狂ってきてるんで。そろそろまた細々としたブログに戻りたい。アクセス数前日比664倍ですよ。おちおち愚痴も書いておれんじゃないか、まったく。

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