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2007年9月20日 (木)

小嶋よしおの下ネタ

ここ数日更新しなきゃと思いつつ何も思いつかないという状況で、今も変わってません。気持ちが乗ってない時に無理に書こうとするとほんとにクソみたいな文章になるんですが、このまま書かないといつまでも更新できなそうなのでとりあえず書いてます。

とはいえ本格的に何の言葉も出てこないのでどうしましょうかね、ほんとに。

小嶋よしおの話でもしましょうか。私は最近マジに惚れてます。スケジュールは全チェックだし、見てるだけで私のパッサパサの生活にも潤いが。世間のブームとかはね、私は全く意に介さないのですが、あの人は面白いですねえ。そんなの関係ねえ!ばかりと思われがちなのかもしれませんが、意外と普通に喋っても面白いし他の芸人と絡んでも面白い。

それとなんとなく世間一般の普通の人とは違う何かを感じる。きっと普通に社会に適応して普通に明るく生きてきた人間とは違うんじゃないかと思う。芸人に関してはどんだけふざけてても結局は世間の価値観を色濃く受け継ぐ普通の人間という事が多々あるのですが、小嶋にはもしかしたらこっち側の人間かも、と思わせる何かがある。私はヒロシもその意味で好きなんですが、芸風こそ違えど小嶋にもヒロシと同じようなものがあるんじゃないかとか勝手に考えたりしてます。同じ事務所だし。

前にここで書いた時は消えゆく運命なんて軽く言っちゃったけど、今はなんとしても生き残って欲しいと思う。世間や他の芸人をバシッと黙らせて一発屋疑惑を粉砕していただきたい。ぜひ。

最後にお勧めなんですが、パソコンテレビGyaOの超サンミュージックという番組、これが面白いんです。小嶋よしおと早川亜季の隔週生放送なんですが、その中でも特に#03の回が面白い。まあこういうのを見たら「やだー」とかいってひく事が18の女のポジションとしては正解なんでしょうが、そんなの関係ねえ!の勢いで紹介させてもらうと要は小嶋がずっと金玉金玉言ってるという…。

私ここではそういうキャラは一切出してませんでしたが、実は下ネタ全然平気な人なんで、別にそんな言葉を連呼された所でひくも何もないんですが、その番組のレビューを見るとやはり気分を害した方が多数を占めているようでそんなもんかなあ、と。面白くないというのなら分かるんですが、下ネタ自体が嫌だというのだとジャンル全否定かよとも思います。漫才を見て漫才が嫌いだと言うのをわざわざ書いているのと同じような気がします。だったら見なきゃいいと。

下ネタってなんかそれだけでバカにされたり小学生以下だとか言われたりしますけど、実際は漫才、コント、フリートークなどのジャンル中に下ネタもあるというだけの話ではないかと思います。別に下ネタが劣っているわけでも優れているわけでもなくただのジャンル。漫才全てが中身のある素晴らしいものではないのと同じように、下ネタだって全てが中身のないレベルの低いものではないというのは当たり前のように思う。ペナルティの顔だけで笑わせようというあのコントより小嶋の金玉連呼の方が私は中身があると思うし。

下ネタを面白いと思う引き出しがあるかどうかは全くの個人差ですから私がどうこう言う事はもちろんありませんが、今の一種のジャンルとして認められづらくなっている状況はあまりよくない気がします。排斥されやすい土壌というのか一定の人数が「下品だ」「教育上よくない」「気分が悪くなった」と言えば簡単に消せますよね下ネタって。でも下ネタ以外の事で「何が面白いのか分からない」「もう出すな」と文句をつけたとしてもそんなに簡単に消える事はないと思うんです。なんかだからそういうのってやだなあと思いますけど、この話は切り上げます。

最終的にはGyaOの超サンミュージックで小嶋よしおを見てみてね、という話です。視聴設定が多少煩わしいかもしれませんが、個人を特定するような情報は入れなくてもいいはずなのでぜひご覧ください。下ネタ以外のもちゃんとありますので。

私は今回キャラ的に多少路線変更でしょうか。まあそれにしたって私の事を清純派だと思ってる人なんてそういないでしょうから下ネタの話をしたって大した問題はないと思いますが。

何も浮かばないながらも書き出したら結構進むものですね。何もなくてもとりあえずパソコンに向かってみる事で更新頻度が上がるかしら。やってみよう。

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2007年9月10日 (月)

暴力賛美の風潮に嫌悪感

最近あまりいい文章が書けていない事は何となく分かっている。ありがちな文章ですよね、死に酔ってみたり多数派批判を繰り広げてみたり、なんだか最近同じような事ばかり書いている気がする。ダメですねえ。

まあでもとりあえず、少し気になった事件があったのでそれについて書いてみます。

その事件とは横浜市の相鉄線二俣川駅のホームで、当初は拳銃型のライターでふざけて遊んでいた高校生に注意した警察官が言う事を聞かなかったので高校生を殴ったという話だったけど、本当は高校生は既に駅員に注意されライターはしまっており、反省していないと勝手に思い込んだ酔っ払い警察官が高校生を一方的に殴っただけだったというあれです。それ自体はここで書くほどの事もないのですが、警官の行為がただの因縁だったと分かる前とはいえ、あの警察官に対して日本各地で共感の声が上がったというその日本の風土が気に入らなかったので書く事にしました。

この国に暮らしていると日毎日本人への嫌悪感が募ります。自分自身の偏見や共感の有無と暴力の是非を分けて考えるぐらいの分別はいい加減持てないものでしょうか。何から何まで気に入りません。まず最近の若者に対する軽蔑の目自体も気に入らないし、そのくせ自らを顧みる事は一切しないその傲慢さ鈍感さは見るに耐えない。その上自分はそんな若者に注意もできないものだから、ただ酔っ払って因縁をつけただけの警察官にすら共感してしまう。全く愚かです。

基本的にこの国の人達って思考停止でしょ?「何故」を考える事を絶対しないじゃないですか。人を殺す事は何故悪いのか、働かない事は何故悪いのか、最近の若者の心を知ろうともせずマナー違反だけを批判するし、他にもいくらでもあります。死ぬことは何故悪いのか、あの人は何故犯罪に及んだのか、買い物依存症、過食症、拒食症、鬱病なども何故なのかろくに知ろうともせずただ表面の事象のみを見て「いい悪い」を判断するだけです。根拠もなしに。

何故を考えない事は想像以上に怖い事です。ある人がその状態になるまで、その行動を起こすまでには様々な経緯があり、それはその人の人生全て、今まで受けてきた仕打ち掛けられた言葉など本当に全てが絡み合っての今なのです。それを一切見ずに、頑張らないのは悪い、痩せる努力をしないのは悪い、自殺する事は悪いと断じる事はその人の人生を全否定するも同じです。でもこの国はそれができてしまう人の集まりだから私はいつもイライラしている。

なんか話がずれてきたので警察官の事件の話にぐいっと戻しますが、要するに私が気に入らないのは物事をいい悪いで感情的に判断しようとする所です。マナーの悪い若者に対する警察官の暴力は「いい暴力」で若者が教師や大人に暴力を振るったら事情はなんであれ「悪い暴力」というこの理不尽さ。

これに関しては一つ一つ説明する必要があるのですが、まず私はいい暴力なんてものは存在しないと思ってます。暴力はどんな形であれ絶対悪であると言い続けなければなりません。というと綺麗事を並べているように取られるかもしれないので補足すると、私にも共感できる暴力はある。どれだけ言葉を尽くしても伝わらない事はあるし、そもそも聞く耳を持たない頑迷な人もたくさんいる中で気持ちは分かるというのは結構ある。でもそれと場合によっては暴力も仕方ないと言ってしまう事は全く直結しません。

何故ならその「場合によっては」の「場合」を誰が判断するのかという問題があるからです。この世の中には色んな人がいます。子供は不完全なものだから大人が管理して正しい方向に導かなければ、と思っている人もいれば子供の自主性を尊重する事こそが大切だという人もいる。日本は核武装をするべきだという人もいれば、唯一に被爆国として平和を世界に発信するべき人もいる。その上所詮人間なんて知っている事よりも知らない事の方が圧倒的に多いわけですから、正しい判断なんて下せるはずがない。事の是非を公平に判断できない人間がそれぞれの正義を力の限り訴える中で、この場合は暴力は仕方がないなんていう共通の定義が成立するかといえばするはずがない。

何が間違っていて何が問題かという事を共有できないのですから、この場合は暴力は許されると一方が言ってももう一方はそれに反対するでしょうしその逆もまたしかりです。という事はどういう事かというと、暴力を容認するという事は自分の望まない暴力も生んでしまうという事です。一個人がここまでの暴力は許されるなんていじましく定義したとしても、他人とそれを仲良く共有なんてできるわけはなくて、そんなものは他人の取り方ひとつでいくらでも拡大してゆくのです。線引きがしっかりとできず歯止めがかけられなくなるのは目に見えている、と私は思うのでやはり暴力は容認すべきでない、と考えます。

それにあの警察官の減刑を求めた人達は自分もそうした暴力で律せられる事を了解しての事なのでしょうか?中にはそこまでの覚悟をして暴力でしか人は改善できないという信念を持っている人もいるでしょうが、大半の人は自分は関係ないと思っているのではないでしょうか。マナーに違反するのは最近のなってない若者だけで自分はちゃんとしてるから大丈夫、という。でもやっぱり人間ですから何らかの形で人に迷惑をかけてしまう事って絶対あると思うんですよ。案外気が付かないうちにそういったミスを犯しているものです。そういう時に口頭での注意でなくいきなり殴られたらどうです?普通に考えて嫌じゃないですか?

まあ今回の事はね、子供に対しては暴力で支配してもいい、暴力で教え込んでもいいという蔑視も絡んでいるのだと思います。警察官が殴った相手が大人や年寄りだったら単純な暴力として批難されていたのではないでしょうか。という事は要するにあの警官を擁護した人達は自分達は安全圏にいた上でマナーを守らないガキには暴力でもって対応すべきという事を言ってるんですよね。品性下劣とはまさにこの事?あらぁ言い過ぎましたかごめんなさい。

まあなんにしても私にとって警官の暴力が注意であったか因縁であったかはどうでもいい事です。どちらにしても私にとっては許されない暴力という事になりますからね。暴力による矯正の蔓延る社会になんとか歯止めをかけたいなあ、と思いつつ今は特に何もできず。ここで書くだけでも少しは影響与えてるかな…まあもっとアクセス数を上げなきゃ話にならないか。

それではそろそろ寝ます。やっぱりブログ書き出すと寝るのが遅くなります。この締めは何回か使った気がするけど気にしない。おやすみなさい。

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2007年9月 3日 (月)

電子辞書とシニシズムと死

やー、もう9月ですね。早いったらないよ。ついこないだ更新したと思ったらもう一週間経ってたりとかねえ。嫌になります。

ま、そんな話は置いといて、電子辞書を買いました。つってももう2、3日前なんですけど、シャープの黒のやつでめちゃくちゃかっこいいんですよ。しかも100コンテンツも入ってて。ここで少し解説が必要かと思いますが、私は基本的には必要最低限のものを淡々と求めるタイプ。100コンテンツもあれば必ずいらないものも出てくるだろうし、やっぱり贅沢かなあ、もっと少ないやつにしようかと何度も迷いました。それでも私がこれに決めたのはそれ相応の理由があっての事なのです。以下解説。

まず第一に挙げられるのは私の大辞林へのこだわり。広辞苑でもなく大辞泉でもなく大辞林なんだという。大辞林のすごい所はなんといってもアクセント表示。つまり日本語の発音が何段階か分類され数字で表されているのです。知らない言葉、聞いた事もないような言葉はどう発音するのかすら分からないのでものすごく便利なんです。「だいがく」のように上がりっぱなしなのは「0」で、「そうじき」のように「う」から下がるのは「1」など、とても分かりやすく書かれています。

それともう一つは電子辞書やウェブ版などに押されて紙の辞書の衰退が叫ばれる中、新刊を発行したこの心意気って言うんですか、いいですよね大辞林は。現に広辞苑は周期的には出る頃ですが出してない。書籍版はうちにあるんだから電子辞書は別の辞書でも、というのも頭をよぎりましたがやはり以上の事を加味した結果、大辞林が入ってるやつにしよう、という結論に辿り着いたのです。

で、その基準で電子辞書を見るとまずメーカーはおのずとシャープに絞られてくるのですが、その中でも最近版の大辞林が入っているとなるとワンセグが付いてるか100コンテンツかという選択を迫られその結果100コンテンツにしたという事なのです。ま、この先何が必要になるか分からないしいいよね。

ここまでは電子辞書の話ですがここで話題を変えて、最近一部の人が更に露骨に私の進路を気にしてくるようになった。これから先年を取れば取るほど言われる事が増えてゆくのだろう。ウンザリします。まず思うのですが、何も考えずだらだら大学に通ってる人が「何かしている」と見なされ、図書館に足繁く通い様々な事を幅広く学びたいと思っている私が「何もしていない」と見なされるというこの理不尽さ。前もちょこっと書きましたけど、日本ってのは無駄に「所属」というのを気にしますよね。本人の人間性や行為の内容よりもどこに所属しているかが重要らしい。馬鹿でも大学に行っていれば学んでいると見なされ、怜悧でもどこにも所属していなければ、ブラブラしている、怠けていると見なされる。これは大学に行ってるやつが馬鹿だとか私が怜悧だと言う話ではなく世間一般はこのような穿った見方をする傾向があるという事なので誤解のないよう。

まあ今更そのような基準に振り回される私じゃありませんが、そのような基準が不快じゃないかと聞かれればやはり不快です。無根拠に無遠慮に思い込めてしまう、言い切れてしまう世間の安直さに腹が立つとでも言いましょうか。自分の頭でものを考えていないという事に一生気付かずもっともらしい正論を並べながら死んでゆく人々、その一人一人が悪いわけではないと知りつつも、軽蔑に似た感情を抱いてしまう事はどうしようもない。

要するに私はこの日本という国に対して不満だらけだという事です。どこを見渡してもおかしいと思う事ばかり。陸上にしてもサッカーにしても競技より「日本」に興味がある人達の熱狂振りは見ていてウンザリするし、家族だの絆だの命の大切さだのと口に出してスローガンとして浸透させていくにはおよそ相応しくないと思われるものを「みんな」に向かって何の疑問も持たず言えてしまう人が多いのも気持ちが悪い。

「命って大切なんだよ」と言って「ああそうだよね」と思える人は端から何の問題も抱えていないおめでたい人なわけですからそんな人に伝わっても意味がない。そういうものが本当に伝わって欲しい人というのはシニシズムな人、命が大切だと誰が決めたのか、家族が大切だと誰が決めたのか、自分が生きているという事は二酸化炭素を排出して、鳥豚牛を虐殺して、その他様々なものに迷惑をかけてまで維持すべき事なのか、という疑問を持ってる人なはずです。でもそういう人は愛だの希望だのといった安っぽいキャンペーンには絶対参加しない。だから早い話が24時間テレビ的なパフォーマンスはある程度余裕がある人達の馬鹿騒ぎに過ぎないと言う事です。本当に愛だの希望だのを浸透させていきたいのなら安易に言葉に出してしまわないでもっと地道にやらないとね。そういった直球をいくら投げ続けても私を含めシニシズムな人達には一生伝わる事がないのですから。

なんか脱線しまくりましたね。今日は何を書こうと思ってパソコンに向かったのかなんだか分からないまま書き連ねてしまいました。今日はまあまあ書けたかな、なんて思ってるんですがどうでしょう。なーんか色々書いてたら鬱々としてきちゃいました。この世の中やな事ばっかりですがなんとか生き延びる価値があるのかないのか。生きる事がいい事だなんて幻想だと思う。もし生に価値なんてなくて死んだ方が賢明だなんて事になったら色んな事が成り立たなくなる。だからみんなこぞって見ないようにしているだけ。それでも私が今は死のうとは思わないのは、この世界に生きる価値なしと判断するほどにはまだこの世界をよく知らないから。私が今色々と勉強している事は案外自殺への秒読みだったり?生=善で死=悪という価値基準には結構反吐が出る。実際死後の世界を見た後戻ってきて報告してくれた人はいないのだから、生きる事がいい事だなんて保障はどこにもないのにみんな自殺を責めるし、その愚直なまでの思い込みはどこから来るのか。まあもちろんこの理論だと死んだ方がいいという根拠もないわけですからなんとも言えませんが。

終わらせようとしたのにまた長く余計なこと書いちゃったよ。まあ私は別に自殺を推奨しているわけではないので。みんなが楽しく生きて寿命を全うしてくれればそれが一番だよ(偽善)。

それでは今度こそ本当に終わりです。長々と駄文をぶちまけてしまい申し訳ありません。

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