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2007年10月24日 (水)

頭のおかしい人のブログなんだって

最近のペケポンの迷走ぶりは凄まじいですね。あ、因みにペケポンは深夜番組です。くりーむしちゅーとタカアンドトシの番組なんですが、ここ最近は見るたび新企画と言ってもいいぐらい。私は最初の頃のオープニングトークとか微妙なDVDのコーナーとかメンバーが企画出し合うコーナーとか、エンディングのタカの歌とかが好きだったんですが、やはりそれでは数字が取れなかったんでしょうね。いつのまにかレギュラーメンバー以外の芸能人が一人二人と増え、仕舞いには素人の家族を呼んできてチャレンジがどうとか…。もう目も当てられません。まったく、くりーむしちゅーは笑金の二の舞じゃないか。深夜番組ですら数字数字なんですね。もっと落ち着いて番組が見たいよ。

でもそんな事より大事件です。今発見したんですけど、これです。http://c-others1.2ch.net/test/-/net/1185359747/nまた晒されました。きゃ~もうどんだけ~。

さてテンションを元に戻しますが、これはあれです。一番上に頭のおかしい人のブログって書いてあります。奇人変人という事でご推挙いただいたと。あ、こんな事を書くと自分のブログの評判を気にするあまり常に自分のブログで検索をかけて情報キャッチに余念がない人間であるかのような誤解を与えそうなので断っておくと、ココログはアクセス数の他にこのブログにどこからやってきたかというのが分かるようになっていて、そこに上記のアドレスのリンクがあったのです。念のため。

それでは早速引用してみましょう。

自称ニヒリストだが内容が中二。何か回りくどく屁理屈を捏ねているが
ただ単に自分がニートである言い訳を延々と綴っているだけ
自分が受け入れられないのを社会の所為にするゆとり思考全開の典型的な例


ひどい…そんな風に思われてたなんてショックです…。

というのは冗談で、とりあえずひとつひとつ注釈を加えていきたいと思いますが、まず私の文章が中二レベルであるという事に関してはさほど異論はありません。知識も物の見方もまだまだ未熟、だからこそ勉学に励んでいるわけで。屁理屈だというのもまあそうかもしれません。

ただそれ以降の発言に関してはまったく同意できない。まず言い訳って…誰に?私がニートである事を一体誰に言い訳するんです?社会に?世間に?自分のしている事に引け目を感じているからこそ、そうではないんだ、これには理由が、とかなんとかみっともないセリフを吐くのであり(イコール言い訳)、私はそんなスタンスで文章を書いた事など一度もない。

大体私は「ニート」というポジションに対する所属意識自体があまりないのです。世の中で否定的な意味で使われている言葉だというのと、今の現状はまあニートが一番近いかな、と思ったから何となく使っただけで、私がニートであるからどうとかニートじゃないからどうとか、そんな事に対するこだわりが全くない所へさして言い訳だ何だと言われても、そんなものはそっちの勝手な先入観だと。

要するに、しっかり働いて税金を納めている=善で、働かず親のスネをかじっている=悪という道徳に凝り固まってしまっているから、少しでもニートを是認するような空気を感じ取ると脊髄反射的に「自己正当化だ、言い訳だ」となってしまうのです。だからおよそ私のブログに対する批評には似つかわしくない、マジョリティの手垢に塗れた言葉を投げかけてくるわけでしょう。

数と秩序を絶対的な正義だと信じて疑わない事の馬鹿さ加減にはもうウンザリ。私はお前に欠陥があるのを社会の所為にするな、と説教されているわけですが、私からしてみれば、社会の欠陥をマイノリティに押し付けて平然としているお前らの方が許せねえ、という事になります。ザ・水掛け論。

ほかにネタがなかったもんで、がっつり使わせてもらいました。こんな事に縋らなきゃネタがないブログってのも我ながらどうかと思う。ちょっと浅ましいかも…。

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2007年10月15日 (月)

私は文明中毒者

働かなければ生きていけないなんてひどいと私は思っていた。でも考えてみればそれも私の甘ったれた気持ちであったのです。私が今なぜこの生活を送れているかといえば、それは全て他人の労働のおかげである。電気ガス水道に始まり野菜から食器から服から電化製品から、何から何まで他人の労働を買い上げた生活。やはり他人の労働をタダで享受するなどという事は許されず、結果自分も労働をしその金でまた他人の労働を買う社会、というのはバランスが取れていると言えば取れているのです。

ここで一瞬諦めとも言える納得をしそうになるのですが、よく考えてみれば私には社会選択の自由は与えられてこなかった。要するに物心ついた時から電気ガス水道を利用し他人の作ったものを買う生活を送ってきており、私はこの国のこの社会を是とし受け入れたのではなく、ただこの社会に適応してしまっただけなのです。電気もガスも水道も頼んでない。望んでない。

でもだからといって、今更世に言う自給自足のような生活が送れるだろうか。電気もガスも水道もない場所で、自分の食料を自分で確保し生活に必要なものは自分で作る。それはやはり文明に慣れ親しんでしまった私には相当難しい事であり、よほどの事がない限り私は文明から足を洗えない。そして今の文明的生活を送るのには金が要る。ここで働かなければ生きていけないという原理がまた私を苦しめるのです。

頼んでもいないものをどんどん与えられ、文明無しには生きていけない体にした上で「さあ今の生活を維持するのに何が必要か分かるな?」と言って働く事を強制されるのです。汚いやり口。クスリと同じですね、これは。ヤク中ならぬブン中(文明中毒)であり、クスリ欲しさに体を売る人も、今の生活を維持するために働く人も大差なく、あったとしてもそれは法律に触れているかいないか、社会的に認められているかいないか程度の差でしかない。

ここで私は一つの選択を強いられる。文明から足を洗いまっとうな生活を送るか(ホームレスとか山奥での自給自足とか)、やはり文明や他人の労働を享受しブン中生活を送るのか。後者には金がいる。前者には根性がいる。とりあえず今は後者を選択しても自らの労働得た金によらずとも生活を維持できる。そうなれば当面はなし崩し的に後者のブン中生活を送る事は目に見えているけれど、やはり将来的には金が要るのである。金が。世間の風当たりや何となくの道徳など私には何の影響も与えない。堂々とニート生活を満喫するまでのこと。でも文明を享受するために金が要るというのは動かしがたい事実であり、私はそのために金を得る手段を考えなければならない。

手垢に塗れた言葉ですが生き甲斐、私はこれを有り余るほど感じている。生きる目的や意義を既に得ているのです。それは社会や道徳を批判する事であり、自らの知を高めること。だからたかが労働に心の拠り所を求める必要がないし、働くという事が占める私の人生における割合は最小限であって欲しいと願う。最低限必要な文明を享受するための資金、これを稼ぐために私は働くというだけの事であり、私はそこに腐った道徳は持ち込まない。

そうと決まれば私は受け入れよう。この社会の在りようを。私を文明漬けにした奴等を恨んでも仕方がない、時既に遅し、もう私は文明無しには生きていけない体になってしまっているのだから。これからも電気ガス水道を駆使し生命を維持しようではないか。自分では何一つ生み出せない滑稽な人間の一人として、あらゆるものを金で買いながら。それをあろうことか社会人としての美徳として恥じない社会に唾を吐きながら。気持ちが悪い。本当に。

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2007年10月11日 (木)

結婚は紙切れ、家族は幻想

すいませんまた長い間ほったらかして。で、一応報告なんですがそのほったらかしてる間にこのブログもついに2年目に突入しました。この1年で私がこのブログでやりたい事も随分変わりました。当初は私の鬱積した気持ちをただ出したいという風だったのが、今は自分の主義主張を表明したい、という風になってきました。私なりに、更新頻度はいまいちでも頑張ってゆこうと思います。

それで今日のテーマは家族とか愛とか。どっちもムカつく言葉です。これらの言葉を綺麗な意味で使おうとすると心根から腐り果てそう。それはこれらの言葉をそういう意味で使って恥じない人を見ても同じです。だから今日は私が家族や愛をどれだけ忌み嫌っているかという事を滔々と述べさせていただきたい。

最近世の中は愛だの恋だの喧しい。恋愛至上主義とでもいうのか、モテ○○とかそのために有利な顔が持て囃されたりとか。おしゃれやファッションに気を払わない女と見るや落伍者のレッテルを貼り恋をして綺麗になるのが女の幸せ的なたわ言を抜かしたり。だからうるせーよ。ほっとけよ。余計なお世話だっつーの。

愛だの恋だのは本当にそんな風に人に気軽に助言できるような代物か?一つ気持ちの表現を間違えればストーカーだの重いだの言われる上、別の相手との紙切れ1枚の事で不倫だなんだと言われ叩かれる。いやお前が恋しろって言ったんじゃん、と思うのは私だけでしょうか?それなりの相手を好きになりそれなりの感情表現を、というような手頃な恋愛を倫理上他人に望むなら人に愛など奨める資格がそもそもないと思うのですが。

ここで不倫という言葉を使ってしまったので私の不倫に対する認識を書きますと、私には何が悪いのかさっぱりです。結婚なんてものは紙切れ一枚で始まり紙切れ一枚で終わるただそれだけのものに過ぎません。その紙切れで浮気が不倫に格上げされ袋叩きにあうのは私には理解できない。いや理解できないと言っても薄々は分かっているのです。なぜ不倫がそこまで社会に忌み嫌われるのか。それはひとえに家族主義によるものです。世間は家族が壊れるという事に異常なまでの反応を示す。交際段階であればよくある揉め事と片付けられる事が、ひとたび紙切れを提出し家族という枠組みに収まるとそれを乱す行為が邪悪のように語られるのです。

私にはそんな話はふざけているとしか思えないし、結婚していないから慰謝料取れません、法的にセーフとか、結婚してるから慰謝料が取れる、不貞行為だというのはおかしくないですか、と。私は何も「浮気は絶対悪!既婚か未婚かで線を引くのはおかしいわ!」というような事を言っているのではなく、むしろ家族だからってそんな事を問題にできる事が問題だと言っているのです。念のため。紙切れ一枚で人の心が縛れるはずがないという事は誰でも分かっていると思いますが、それでも個人の心の自由より家族というフィクションを演じきる事のほうが重要視される。何の意味があるのか、私はそんな劇には付き合いたくないというのが正直な所です。

人の心が変わるなんてのは当たり前の事で、人と関係を持つならそれは当然負うべきリスクのはずです。それを紙切れ一枚で永遠の愛が約束されるなんて私には理屈も理念も根拠も一つも理解できない。それでも根拠のない永遠を誓う事が結婚というシステムだ、と言われるなら私は結婚なんてしなくてもいい。私が結婚する時はくだらないフィクションではなくノンフィクションです。

とはいえ人を傷つける事はあまりいい事ではないという例外ありありのゆるーい規範も私の中にないではない。浮気も不倫も悪ではないとはいえ、事実それらの行為によって相手が傷ついているのなら、その事に対して申し訳ないという思いはあった方がいい。私の人の人間性を測る基準は浮気、不倫をするかしないかではなく、その事を相手に申し訳ないと思うか思わないかなのです。ただまあこれも私の主観であって申し訳なく思わない奴がいたところでそりゃあそういう奴もいるよな、という感想を述べるしか無いわけで、どうしようもないです、人の心の話は。

まあそんなこんなで紙切れは人の心には入り込めないし、家族なんていつバラバラになろうと知った事じゃないという話です。そういうつまらない家族至上主義のせいで片親家族や血縁関係のない家族がどれだけ嫌な思いをしてるか。家族といえど数ある人間関係の一つに過ぎず、その他の関係より優位にあるなんて事はない。紙切れや血縁関係に拘泥しその他の関係を排斥するなどもってのほか、考えられません。

日本人はつまらない事にとにかくこだわる。その社会ごとの正しさなんて間違っている可能性は十分過ぎるぐらいあるし、様々な知識を入れて学んでも今の社会の価値観に1%も毒されてないとは言い切れないかも知れない、プラス個人個人の主観がものを言う。そんなことで自分が正しいとなぜ言いきれる?社会やみんななんて論外です。日本人の主体性のなさは本当に問題ですね。私も日々気を付けなければならない事ですが。

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2007年10月 1日 (月)

善悪は存在しない

また更新が滞ってしまいました。でも今回は少しはちゃんとした理由があって、5日ほど前になぜ人を殺してはいけないのかについて頑張って書いてたんですが、結局自分の中で矛盾を処理しきなくなって記事がダメになったのです。

その矛盾というのは善悪と関わりがあるのですが、ダメになった記事の代わりに今日はその善悪について少し展開してみようかと思います。

まず私は基本的に善悪という概念を信じない。それを誰が決めるのか、根拠は何か、全人類に適用されうる善や悪など存在しないのだから、やはり自分が善や悪を理解しそれに則っているなどと思うのは思い上がりではないのか、などの疑念があるからです。

自明な善悪などどこにあるのか。法律に書いてあるから?みんながそう言ってるから?今までずっとそうやってきたからか。これらの事は何の根拠にもならない。法律なんて社会を運営する上で便宜上定めてあるに過ぎないし「みんな」はいくらでも道を踏み外す。「みんな」がいつも正しいなら愚衆政治なんて言葉は生まれなかったはずです。これまでそうやってきたからなんてのもこれからもそうあるべきという事には繋がらない。

今巷に言われている善悪は単なる主観やエゴに過ぎない。そもそも人間の主観を超越した善悪なんてものが一介の人間に分かるはずがないのですから、あらゆる人間は自分が正しい、自分だけが正しいという考えを捨てるべきです。戦争を望むか望まないか。殺人を望むか望まないか。人権を望むか望まないか。国と個人どちらを優先するか。全てはエゴに過ぎない。

こう言うと善悪が分からなければ行動しようがないという考えが一瞬頭をよぎるけれども何のことはない、善悪に従う理由などどこにもないのですから自分の行動が正しいか間違ってるかなんて事を気にする必要がない。善悪はいつでもひっくり返り、悪を選択し悪を自らの思想にしてはいけない理由もない。私は自由です。法律も社会規範も道徳も私を縛れない。

ここまで書いて結局の所悪ってなんだよと思ったので調べたら、悪は「悪いこと。否定すべき物事。道徳・法律などに背く行動や考え」。いいじゃないですか。何の問題があるというのか。というかここまで不確定要素満載だと気を付けようもない。一体「誰にとっての」悪いこと否定すべき物事が悪なのか。マジョリティにとってでしょうか?地球にとってでしょうか。政府にとってでしょうか。結局は何に重きを置くかで悪が決まり、「○○にとって」の「○○」の部分を何にするかで善悪はいくらでもひっくり返る。善悪は個人個人の主観に過ぎないというのは当然です。もし何もかもを超越する善悪があったとしても、私がその根拠や証拠を見つける事ができなければ私にとってはその善悪はないも同じであり、結局は善悪はエゴだという説を繰り返すことになります。

私は戦争は嫌です。でも地球のためには人間同士が殺しあって人口が減った方がいい、という思想が善だとすれば私の考えは悪だという事になります。私にとっては首がない人、腸が飛び出てる人、脳がはみ出してる人などが倒れている地獄のような光景を、戦争によって作り出す事が地球のためだという事は承服しがたいので、地球のため説には反対するけれどそれが超越的な善悪に則っているかは分からない。

私は人権より大切なものなどないと思っています。それは犯罪者であれなんであれ誰にでも認められなければならないもの。だから死刑にも反対です。でも一定の人間に対しては人権など認めずに社会運営を優先させた方がいいという思想が善だとすれば私の思想はこれまた悪。この場合私は人権を踏みにじり国だ社会だと抜かす奴らが死ぬほど嫌いなので自分の主張を展開するし反対もし続けるけど、それが善かどうかなんて知らない。私は自分の言っている事が善だなんて思っていない。善である必要もない。むしろ悪であるほうが燃えるかもしれません。

私にとってのこうあるべきというのは単なるエゴであり、善であるなんて思い上がりは捨てるべきだと思っています。でもそれは私の主張を緩めたり遠慮する事には繋がらなくて、私はただ自分の主張が単なる主観、エゴである事を自覚しただけの事であり、じゃあ何も変わってないじゃないかと言われればその通りで、私自身善悪が存在しない事を殊更書き立てて何になるのかはよく分からない。ただやはり今の社会での規範や道徳に過ぎない事を善だと思い込んでいたり、自分の主観に過ぎない事を善だと思い込んでいたりする人々が結構いるので、お前の言ってる事は悪かも知んないじゃん(私にとっては悪でもいいんだけどやっぱり一般の人は善悪に従ってないと不安みたいだから)という事が言いたかったのだと思います。

私は思考停止には陥りたくない。規範も道徳も疑って、自分自身の考えている事や信じている事さえも疑っていかないと知識も何も高めていけない。思考停止の人達の滑稽さも見てきてるし。

私もこれぐらい書けばニヒリストを名乗る資格ありでしょうか。もっともっと虚無に磨きをかけなければ。そういう事のためならいくらでも頑張りますよ私は。

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