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2008年3月29日 (土)

有吉の悪口

最近有吉が好きだ。電波少年とかほとんど見てなかったからヒッチハイクのイメージとかは知らないけれども、おしゃべりクソ野郎は革命だと思う。初めて聞いたときどれだけ笑ったか。アメトークの流行語大賞をとった時は本当に嬉しかったです。ああやっぱりみんな品川のことをそう思っていたんだ、と。ああいうのもセンスですよね。一度あれだけの秀作を生み出してしまうと今後あれに比肩するだけのネーミングが出てくるのかと心配でしたが、昨日のアメトークを見る限りそれも問題ないようです。

でも私の勝手なイメージだけど、みんなにブワっと注目されて「品川ってなんだっけ、品川ってなんだっけ!?」とか振られだしたらあの人の面白さは半減してしまう気がする。ああいうのは陰でこそっと言うからいいんで(まあテレビって時点で陰じゃないけど)、それにおしゃべりクソ野郎という単語が一般化してくるにつれて当初の品川に対する憎悪みたいなものもなくなってきてしまっている。

最初に聞いたときは確か、有吉は品川の事が嫌いでなんて呼んでるんだっけ?みたいな入りでおしゃべりクソ野郎って言ったら、ちょっとマジっぽいシャレにならない香りのする笑いだったのが、最近では「品川は?」と聞かれておしゃべりクソ野郎と答えればドカンと受ける、ほのぼのしたものに成り下がってしまっている。有吉が最初にどれだけの憎悪をこめておしゃべりクソ野郎と言ったのかは分からないけど、私の読みでは最初はほんとに単なる悪口だったんだと思うんだよね。憎悪に満ち満ちた悪口。それを言えば誰かが笑うようなライトなものじゃなくて…。

私はおしゃべりクソ野郎という単語にその悪意を感じたから、笑いと同時にこの人好きだな、と思ったんです。でもそんなものは一歩間違えばただの悪口だし(っていうか間違えなくても悪口か)、本来テレビで流すようなもんじゃないんですよね。それに本気の悪口は言われたほうも傷つくしシャレにもならない。テレビで一般化される悪口ってのはそこから本気の悪意を抜き取りみんなが笑えるように加工したものなのです。有吉のおしゃべりクソ野郎もそうなった。最初がどうだったかは知らないけど。

でも有吉に関して言えば私はそれをどうしても物足りなく感じてしまうのです。あの人の本気の悪口が聞きたい。吐き捨てるように毒づく所が見たい。そういう魅力があるんです。よく分かりませんが有吉の悪口は中毒性がある。また聞きたいもんなあ。誰かが傷ついても。

すべてに通底する「自分みたいなゴミ人間はとっとと死んでしまったほうがいいんだ」とでも思っていそうなあの感じが、自分と近く見えてくる。私は自分のことを欠陥品だと思ってますし、それは「そんなことないよ」とかいう言葉でどうにかなるようなレベルを超えた、思い込みと事実とが判別できないぐらい複雑に絡み合った結果のそれはそれは強固な心の重石。一生取れることのないそれを抱えて私は…ってそんな話はどうでもいいや、とにかくそういう部分でのシンパシーがかなりあると。勝手な決め付けですけど…。

というか私もテレビの中の誰かを勝手に好きになって勝手に分析するのはやめたほうがいいよな。現実での人との繋がりが希薄だからそんなことになるんでしょうが、もはや妄想の域かもしれない。でもまあ誰に迷惑をかけるわけでもなし、いっか。ネット上のゴミがまた一つ増えただけさ。

今日はこんな所で。

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2008年3月 8日 (土)

太田総理ネタ

久々に太田総理からネタを得て書いてみたいと思います。

今日のマニフェストは「ネットを一日1時間までにします」。Byテリー伊藤。

…あんなにつまらない人だとは思ってなかった。私が何よりも嫌いなのは強制、管理。何かあると一方的に基準を決めてそれに従え、というやり方はとっても日本人的。大体あの人は自分だって人から色々言われてその通りにするなんてことはとてもしそうにないのに、人に対してはそういう規制をかけて従わせようとするのは矛盾している気がする。

私はここでネットの功罪について云々する気はない。それに関しては番組内で言っていたような、想像力の欠如、主体性の欠如などもその一端を表していると言えるし、もちろんそれ以外にも見ず知らずの人からの一言で救われたり、有益な情報を得たりという面があるのも事実です。というかいい面悪い面両方あるというのは何を対象にしても当然ある事でネットだけが飛びぬけて構造的な欠陥があるとか劇的な良薬であるなんて事はないと思うのです。だからネットのいい悪いはこの際置いといてあの番組でのテリー伊藤の態度ね、これを問題にしたいわけです。

そもそも日本人の主体性のなさ、想像力のなさは別にネットのせいじゃないでしょう。ネットを取り上げた所で馬鹿は馬鹿、突然半径5メートルの範囲からいきなり飛び出して主体的に動き出すなんて事が起こり得るはずがない。ウチの親父だってパソコンそんなに使いこなせないんですよ。日本人の気質的欠陥をネットに全て押し付けるのはおかしい。番組内でも言っていたように、同じくネットが普及しているアメリカではそのような主体性の欠如と言った問題は起きていないという。それならやっぱりこれは日本人の赤信号みんなで渡れば怖くない式の主体性のなさがネットによって噴出しているに過ぎないと解釈するのが自然で、それは当然ネットの使用時間の規制では解決できない。

それともう一つはああいう生き方の強制ね、私はああいうのが反吐が出そうなぐらい嫌い。私はテリー伊藤を不真面目で非日本人的な面白い人だと少しは思っていたのです。ここで言う不真面目とはもちろん褒め言葉です。でも太陽や星を見て想像力が云々とか引きこもりが悪いとか、お前らたるんでる式の話の持っていき方はただの日本人だ。ノスタルジジイと言ってもいいぐらい。色んな生き方がある。色んな考え方がある。それを認めようとせず自分の自論を振り回すだけの人は何を言っても魅力がないのです。

ネットのせいで想像力がなくなっている。全部ネットからのパクリで主体的に自分の頭でものを考えなくなっている。そう主張しながら自分の考えを上から押し付けるのは完全な矛盾じゃないだろうか。ネットは一日一時間にしましょう。はーい。お前ら主体性を持て。分かりました。…正直者の私は嘘つきです発言に比肩するパラドックス。

ネットは一日一時間と決められてその通りにする事が主体性のある人間のすることなのか。私のように個人の自発性、自律性に重きを置く人間としてはそんなものは愚の骨頂、主体性というのはあれしろこれしろっつって育てるものではないのです。自分で型を作りそれに人を当てはめていくというやり方は主体性の欠如を憂えているつもりでも結局は画一化を進行させる事にしかならない。

少なくとも私はネットは一日一時間だのなんだのと命令されたくない干渉されたくない。大体なにかっていうとルール、規制という考え方は学校的で気持ちが悪い。勝手に決めて人をそれに従わせてれば満足なのか。主体性主体性と言いながら自分からその芽を摘むような行動をとってるじゃないか。自分と違う生き方考え方を認めて始めて主体性を語る資格が生まれる。ネットをやると馬鹿になるというのはまあ確かに一側面ではあると思いますが逆に言えば一側面でしかない。本人も反発がくるのは分かってるんでしょうがああいう独裁者的なルールの設定の仕方は大嫌いです。

まあでも最近のブログは半径5メートルの事しか書いていないからつまらない、馬鹿になるというのは一理あるかもと思いました。時々検索かけて他の人のブログを覗いたりするんですが数行で今日これ食べました(写真付き)とか、他にも面白かったとかつまらなかったとか短文が目立つ。そんなんでいいなら私のブログの更新頻度だって…とか思う事もある。まあ私みたいにだらだら長ったらしく書いても誰も最後まで読んでくれないんでしょうけどね。どっちもどっちか。

最後に一つ言わせてもらえば私はやっぱり引きこもりに対するいわれのない批判は我慢ならない。外に出て人と触れ合う事が家で引きこもる事より大事だなんてのは一体誰が決めたんでしょう。内向的という言葉も悪い意味でばかり使われますが、外に出てくだらない人間と関わるより自分の内面と向き合う方が大切な事もある。外に出て人と話すのがいい事だという基準で全てを塗りつぶしてしまうのは人間の個性を潰すことで、それは結果として人を追い詰める事にもなる。

大体言ってしまえば一人でいられないのも孤独を必要以上に恐れるのも立派な病気なんで、なぜ人と関わるのが苦手な側だけが叩かれ矯正の対象となってしまうのか、これは絶対おかしい。じゃあお前携帯の電源切って1週間、1ヶ月と誰とも関わらずにいてみろよ、と。それもできないような奴が平気で「外に出たほうがいいよ」とか「人とのふれあいの大切さが」とかなんとか抜かしてる。それが現状です。私は一人でいる時間より人と関わってる時間の方が多くなったら間違いなく精神を病んで破滅する。そういう病気なのです。でも私は誰かに対して人と関わるな、一人でいろなんて命令した事はない。一度もです。なぜならそんなものはただの性格的な違いに過ぎずどちらが「正しいか」なんて事は究極的には誰にも判断できるはずがないからです。

そこら辺をわきまえず人とのふれあいが大事だなんてぬけぬけと抜かすような奴には私は用はない、よってテリー伊藤にも用はない。まったく幻滅しました。私の一人でいる自由を侵害するものは何人たりとも許さない。ネットを制限すれば引きこもりも治ってハッピー、なんてしょうもないストーリをゴールデンタイムで垂れ流されるのも不快だ。引きこもっててなにが悪い。大体ネットにしか救いを求められないような状況に追い込んだのは誰だよというそもそも論もあるし。踏み躙るだけ踏み躙っといてネットだけ規制して外に出てきなさいというのもほんと無茶苦茶よね。だったらその社会の受け皿のほうはどうなってんだ、と。異質なものを認める器の大きさは身に付いたのか。もうこうあるべき論を押し付ける事も迫害もやめる?そんなわけはない。社会の方は何も変わらないのです。変える必要があるとも思ってない。ただ全てをこちらの性格的問題に帰し傲然と座っているしか能がない。そんな奴らに批判される筋合いは本当にまったくこれっぽっちもない。

最後に一つとか言って長くなっちゃった。もうやめます。長く書きゃいいってもんじゃないよね。でも一応半径5メートルブログとは差別化を図りたいかな、という感じで。たまにはいいけどいつもいつも自分の衣食住で占められてるブログもどうかと思いますからね、やっぱり。お前はアイドルかという。誰も興味ねえだろうと思いますもん。ま、読まない自由があるわけですからあまりぐだぐだ言う気もないんですが。それでは長くなりました、この辺で。おやすみなさい。

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2008年3月 1日 (土)

民意に対する侮辱

最近の更新頻度の落ち込みはちょっとあれですね。先月の記事なんて2つだけですもんね。しかも気がつけば身の回りのしょうもない話ばっかりでどんどん思想信条的な社会派ブログから遠のいてるような。どうも書きいい題材が見付からないのです。何でもいいから書き始めちゃえばいいのかなあ。

その流れで久しぶりに政治ネタでもと思うんですが、あの自民党の態度は一体なんなのでしょう。いかにして話し合いを回避し自分達の思うように進めるか、という事しか頭にない。先日のつなぎ法案しかり今回の強行採決もしかり、一体民意というものを何だと心得ているのか。支持率も低いくせに直近の民意を形骸化させる事に関しては本当に寸毫の迷いもないようです。採決をしようとしまいと結局再可決か自動成立だと分かっていて話し合いも何もあったもんじゃないというのは誰だって思う事でしょう。

曲がりなりにもあの議長斡旋案を飲んだという事は、党利党略によらない理性的な議論を参院できっちりやりましょうという合意だったはずですが、その参院での議論をまったく無意味なものにしてしまうような今回の強行採決はやはりどう考えても問題ありです。つなぎ法案もまったくセンスの欠片もない醜悪なものでしたが、その結果参院での議論の形骸化が問題になり、参院が一定の結論を出す代わりに法案は取り下げましょうという事になったのに、ここに来てまた同じことの繰り返しじゃあ何のための法案取り下げだったのか分からない。

少なくともこの間の選挙では民主党が勝ち直近の民意は現在参院にあるわけで、政権云々の話は衆院だというのはあるにしても、とにかく自民党は現在支持されていないのです。だとすれば今現在の民意の象徴である野党の意見を尊重し誠心誠意議論を尽くす、そのための審議時間を確保するというのは当たり前の事だと思うわけです。それをみょうちくりんな奇策ばかり用い、野党の頭越しに話を進めることばかりに腐心しているようではてんで駄目なんですよ。

選挙で負けても結局やっている事は何も変わってない。ねじれ国会は野党と与党が対等な立場で議論できるいい機会なのに、自民党の手法は両院で多数を占めていた時と何も変わらない。選挙結果を真摯に受け止めるなんて口先だけもいいところで、自分達の政策の無謬性を信じて疑わない傲慢さも、野党を話の分からない党利党略集団と決めつけ話し合いのための努力をさぼる怠慢も少しも改まらない。

野党第一党の民主党に対してそういう扱いをするということは、間接的に民意そのものを侮辱することだということになぜ思いが至らないのか。それは結局今の民意に影響力、重みってやつがないからです。選挙なんて所詮個人の高感度とマスコミが作った風で全て説明がついてしまう。自民党のやつらには所詮お前らは風で勝っただけだろうという民主党に対する驕りがある。民主党がバカにされること自体は私は一向に構いませんが、それは結局あの選挙の時民主党に入れた人達そのものが馬鹿にされ嘲られているということに直結するわけで、その民意のバカにされっぷりが私は悔しくて仕方がないのです。

自民党にあの参議院選挙の時国民は政策を見て民主党を選んだんだという認識があれば、あそこまで民主党を馬鹿にして参院での議論を形骸化させながら物事をポンポン進められるはずがない。あの選挙の時は年金記録問題があったから、閣僚の失言があったからで逃げれてしまう。自らの政策を省みる必要なんてないのです。なぜなら民意なんていうものは結局操作の対象としか見られておらず、自分達の政策やイデオロギーをどう発信しどうやって自分達に投票さすかという事には熱心でも、今現在の国民の政治に対する要望を吸い上げるということに関してはまったく無頓着だからです。これは民主党にも半分ぐらいは言えることですが。

しかし民意というものはそんな軽々しいものであってはならないはずです。なぜついこの間の選挙であそこまでの大差をつけて勝った民主党が国会審議の主導権を取れないのか。衆院では確かに与党が過半数を握っていますが、上述のように国民自身に私達は政策で民主党を選んだんだという意思があれば、その自分達が選んだ民主党と選ばなかった自民党とがどのような議論を経て政治を運営していくのかということをきちんと監視していれば、衆院だってその力で統制できるだろうと思うのです。この国会審議を国民は見ている。この間の選挙で勝った民主党を軽率には扱えないな。そういう当たり前の発想がなぜ生まれないのか。何度でも言いますがそれは国民自身が馬鹿にされていること以外のなにものでもありません。

私は民主党だって信用してないし民主党なんてどうなろうと知ったことじゃない。でもこの間の参議院選挙で民主党に入れた人達は一体何をやっているのかと思うわけです。自分達の力で参院であれだけの数を持たせ、やっと自民党と少しは肩を並べられる所まで来たかという所で、せっかくの民意の結果である参院での議論を形骸化させるようなつなぎ法案を出され、そういう予算案の通し方をされる。こういう時に怒り狂わなければいつ怒り狂うのでしょう。

入れたら入れっぱなし、次の選挙も風任せ。そんなんだからサミットも終わって総選挙って頃になればこんな強行採決のことなんか忘れてるだろう、となめられる。選挙の前しか相手にされない民意に成り下がってしまっているのです。そしてそれはもう少し範囲を拡大すればあの選挙に行かなかった人達も選挙権がない人達も他の政党に入れた人達もすべて、日本国民全員が政治家になめられているということなのです。そこには当然私も含まれてる。だから悔しいのです。腹立たしいのです。だれも与党の箍を締められない。選挙で勝ったのに。

これはもう政権を変えるしかないな、と思っても私は民主党には絶対入れないから、しばらくは一人二人のレベルでの党勢の拡大に一喜一憂する事になるでしょう。2大政党制なんてくそくらえです。私が悩むのは自民党か民主党かではなく共産党か社民党かです。よりまし論で民主党に入れれば私の思想が腐りますし、それに何より数の力の前に屈するのは私の人生の意義を潰すことにもなります。だから私は少数党を支持するんだ、という話はまったく関係なかったですね。

なんにしろ私にはまだ知識が足りません。政治をより深く批評するにはこの程度の知識じゃ話にならない。課題は山積している。日々精進したいと思います。それでは。

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