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2008年4月29日 (火)

社会に適応したくない

最近少しずつですが自分の殻を破れてる感じがする。行動的になってきてるというか。いやね、本音を言えばずっと家に引きこもってたいし、店員に声かけるの一つとってももじもじしてたいし、人と会話をするたびに鬱になってたいんです。でも私にはやらなきゃいけないことがたくさんあって、そのためには人と口も利かなきゃなんないし、人の集まりの中に分け入っていかなきゃなんないし、自分の主義主張を行動で表さなきゃなんない。この性格は嫌いじゃないし直そうとか変えようとかは思わないけど、目標のために克服しなきゃならないこと、これはある。

まあ元来行動力のない私のことですから色々出来るようになってきたといっても高が知れてるんですが、最近だと死刑が執行されれば法務省にメールを出したりだとか、色々な集会に参加したりだとか、公開講座に参加したりだとか、そんなことをやってます。ただ活動家になるためには(活動家になりたかったのかよ)こんなもんじゃダメで、もっと積極的にデモに参加したり抗議文を出しまくったりしなきゃ。どこかに所属するってことも考えなきゃダメだし。結局あれです。こんな社会じゃダメだという強烈な問題意識と人と関わるのは嫌だという強烈な内向き思考とのせめぎあい。ただ最近は前者の問題意識が若干勝ってるかなという状態で、この社会を変えるための一歩を踏み出さんとしている所です。

でもその流れでいろいろな事ができるようになっていく自分というのが寂しくもあって、例えば昔だったら飲食店に入るんでも「どうしよう混んでるかな、座る場所がなかったらどうしよう、っていうか店に入っても店員に気付かれなかったらどうしよう」とかなんとか逡巡した結果、結局入んないで帰ってきちゃったりしてたのが、最近ではそれほど考え込む事もなくパっと店に入ってチャチャっと注文して普通に食べて帰ってきちゃったりするわけで、そういう時に「ああ私変わったなあ」としみじみ思うわけです。

そうやって色んなことが出来るようになって、どんどん社会に適応していって、私普通になっちゃうんじゃないか、と思うと無性に悲しくなったり…。だって私といえば5年間同じ場所に通って結構な割合でコンビニで買い食いしていたにもかかわらず、一度も肉まんを買ったことがない人間ですよ。なぜなら「肉まんく下さい」を言うのが嫌だったから。肉まん食べたいけど言うのやだなあとかいうレベルでなく、店員に言わなきゃ買えないようなものはそもそも選択肢としてなかった。そんな私がいまや普通に飲食店に入っちゃうんですもの。人間って望むと望まないとに関わらず成長するもんですね。

他にも挨拶ができるようになってきちゃったり、外出のハードルも下がった気がするし、全般杞憂も減ってきてるし…。だんだん自分がつまらない人間になっていくようで、日々の生活で自分の成長や変化を感じるたびなんとなく後ろめたい。私がまともになっちゃったら後には何も残らないのです。日本国民じゃなくなっても何も困らないけど、この性格じゃなくなったら相当困る。私のアイデンティティは病気だということで、色んな事がそつなくこなせるようになればなるほど自分が自分じゃなくなっていくような気がして落ち込む。普通は喜ばしい事なんだろうけど。変りたくない、という思いが強いです。

ただ積極的に活動していく、という目標からすれば喜ばしい変化であることも事実。なるべくこの性格を踏み倒さずに活動にシフトしていければいいのですが。

さて、お知らせですが明日から2週間ほどパソコンがネットに繋がらなくなるので更新が滞ることが予想されます。携帯から更新するとか方法がなくもないんですが、まあ2週間ぐらい空いちゃうかも、という心構えでよろしくお願いします。

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2008年4月23日 (水)

光市母子殺害事件の嘘

私は少し前までこの事件についてあまりよく知りませんでした。基本的にこの手の事件に対してマスコミは腐っているので、加害者の精神的な背景などの本当の情報を受け取る事ができない。どうやって酌量の余地のない残虐な犯罪者に仕立て上げるか、というのがマスコミの仕事です。それに加えて私が様々な問題にきちんと関心を持ち始めてからはまだ日が浅い。ニュースで流れる一方的な情報もろくに取り合わずまたやってるな、ぐらいにしか思ってなかったのです、恥ずかしながら。

でも弁護団の主張など、僅かながらも加害少年に対する「本当の情報」と私には思える情報に接した時やはり驚愕しました。ここまで嘘がまかり通っているものかと。マスコミが言っていることというのはことごとく嘘です。差し戻し審になっていきなり言うことが変わったというのも、元少年の種々の行動について動機や背景を述べず結果だけを報道する姿勢も、少年に対する事実誤認を助長するものです。私は元少年には殺害の意思も強姦の意思もなかったと思っていますし、今回の死刑判決は遺憾です。

元少年の心は未発達であった、という事実がことごとく無視された結果が今回の検察のストーリー丸呑みの判決です。1審2審と供述が変わっているのが不自然だというのが殊更騒がれていますが私は不自然だとは思いません。自らの考えを述べ間違いを正すことができるのであれば、精神的に未発達であるとは言わないのです。検察にストーリーを作られてしまえばそれにきっぱりと抵抗するのは難しい。ですから今回のように自分の言い分を聞いてくれる弁護士に出会えたことは元少年にとって幸せだったと思いますし、1審2審では自分じゃない誰かが裁かれているようだった、という元少年の言葉は正直な気持ちだと思います。

元少年の供述は荒唐無稽などと言われますが私はそうは思いません。元少年は本当のことを言っていると思います。幼少時には父親の暴力があり、それによって母子一体、母親との相互依存が高まり、そんな中その唯一の庇護者であった母親の自殺に直面する。そこから父親の支配に直接的に晒されるようになり精神的発達が停止してしまった。とてもシンプルです。そんな状況に置かれれば誰だってそうなるだろう、と。そのような精神発達状況にあった少年に対して私たちの一般常識からしておかしい、というのをそのまま適用しようとするようなやり方はそもそも無意味です。

当時勤めていた会社の作業着を来て1軒1軒家を回っていた元少年は、予想に反して家の中に招かれる。工具を借りたりなんかして作業員の真似事をしている内に弥生さんに母親の面影を感じて後ろから抱きついた。すると予想に反して激しく抵抗され、想定外の事態に対応する能力が著しく低い状態にあった元少年はなんとか制止しようとしているうちに誤って首を絞め死に至らしめてしまった。その後死亡した弥生さんを見て自殺した母親を想起し、生き返って欲しいと思い姦淫行為に及んだ。

私はこれが真実だと思います。馬乗りになって首を絞めたという今回の事実認定は表皮剥脱などから法医学的に合理的な疑いが生じていますし、赤ん坊を床にたたきつけた、両手で首を絞めた、紐で首を強く絞めた、というのも同様です。法医学的にみて、このような事実は確認できていないのです。

真実とは一体なんでしょう。事件当日各戸を回っていたのは強姦目的の物色で、弥生さんに抵抗されたため馬乗りになって首を絞め、性行為に及び、赤ん坊も泣き声がうるさかったので床に叩きつけたり首を絞めたりして殺害した。この用意された「真実」を語らなければ、それ以外はすべて虚偽だと言われてしまったら、元少年の語ることには何の意味もなくなってしまう。

弥生さんに抱きついたのは母親の面影を感じたからで、死姦は生き返らせるための儀式だった。これが私たちの一般的常識から考えられようが考えられまいが、元少年が当時精神的に未発達で、実際そのような考えに基づいて犯行に及んでしまったという事実はどうしようもないのです。それを死刑を免れるための言い訳と断じるのは間違っているし、元少年が事件当時その程度の精神的成熟度であったという事実を、それを正直に言ったら嘘だとか反省していないとか言われてしまうならもう何も言えなくなってしまう。

精神的に未発達であるということはどういうことかが何も分かっていない。元少年の供述を嘘だと決め付ける根拠はなんなのか。弁護士の戦略であるといったことがまだ言われている。元少年は真実を語っている。弁護士達はその真実を話す機会を与え、元少年に妥当な刑罰を科すために尽力している。それがなぜ、批判されなければならないのか。私にはわからない。

今回のような事例が死刑になるのならこの社会はなんなのでしょう。父親の虐待、母親の自殺などによって精神的に未発達であったことは当然考慮されるべき背景であるのに、それどころか殺害、強姦の意思があったとこじつけるために弁護団による法医学の観点からの合理的疑いを無視してまで死刑を科そうとする検察、それをあっさり採用する裁判所、それに追従するメディア、世論…。

私は今日、朝のニュース昼のワイドショー夕方のニュース夜のニュースと一日中光市事件のニュースを見て、落胆しました。このような報道しか為されていない現状を心の底から残念に思います。今必要なのは元少年の供述を荒唐無稽な言い逃れだと断じることではなく、元少年の真実の声を受け止めそこから反省と再出発を見守るということではないでしょうか。元少年は本当のことを語った。後は私たち社会がそれをどう受け止めるかです。

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2008年4月14日 (月)

結婚式その後

前回の記事

客として座ってる分にはまあ思ったよりは大丈夫だったけど、受付やらされるわ写真はアホみたいに撮られるわで、所々不快でした。あんなのは客として座ってるのがギリで、間違って結婚することになったとしても死んでもやろうと思いません。なんで世の女ってのはあんなものに憧れるんでしょう。分からん。

でも人の幸せにギスギスケチつけるほど私も不幸じゃないんでね。お幸せにと言っておきましょう。全体を通して思ったのは普段ならイタいとかサムいとか言われがちなことも結婚式なら許されるんだ、ということです。100本のバラとか平常時にやったらぜったいすべりますもんね。結婚式の力は偉大だ。

今後はなるべく結婚式に出なきゃならないような友人、知り合いは増やさないようにしよう。作らない、増やさない。これを私の人生の標語とし生きてゆきたいと思います。他人との繋がりなんて面倒なだけだという思いを新たにしました。本当に心の底からね。結婚なんてフィクションに巻き込まれるのはもう御免です。紙切れ一枚で家庭もクソもあるわけないじゃん。そういう閉塞しきった人間関係の捉え方ってのが時には人を苦しめるんです。

私もうかうかしてたらせっつかれる年になっちまう。学校、就職、次は結婚か。これからは一つ年をとるごとに言われることが増えていく。面倒くさい。心の底から面倒くさい。私の人生に指一本でも触れてみろ。許さないからな。私はそんなしょうもないエスカレーター人生を歩むんじゃないんだ。もう疲れた。

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2008年4月12日 (土)

ふざけた話だ

明日は高知へひとっ飛び、いとこの結婚式に出ます。話の分かる方はこの時点で吹き出していただけると思うのですが。お前が結婚式かよ、と。かく言う私が一番、私が結婚式かよ、と思ってるものですから。

結婚がめでたいという概念もない。結婚式などなぜやるのかもわからない。私にかかれば結婚式自体が壮大なボケだという解釈すら可能だ。なにが悲しくてこの私が結婚式なんてふざけたものに出席しなきゃならないのかなあ。化粧をしてそれなりの格好をして人前に出るだけでも結構な屈辱である。恥辱である。っていうかむしろ陵辱である。

大体こんな記事を書いたような人間に結婚式に出る資格がまずないよね。紙切れって言っちゃってるし。不倫のなにが悪いとか言っちゃってるし。

それでもまあ決まってしまったものは仕方がない。潔く辱めを受けようじゃないか。ついこないだまで高校を卒業するのしないので揉めていたいとこが結婚だなんて、それなりの感慨がなくもない。ほとんど無いに等しいけど。

結婚は人生の墓場って言うし、ちゃんと冥福を祈ってあげないとね。墓場に入ってからも末長~くお幸せに。ふっ、こんな根暗を結婚式に呼ぶ代償は大きいぞ…。

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2008年4月 8日 (火)

主語のない国、日本

世間では入学式らしいですね。バイトしてなきゃ絶対気が付かなかったよ。バイト先のおばさんが言ってたからああそうなんだと思って。それにしても学校なんていう子供版刑務所に入るのを入学式とかなんとか言祝いでいるのですね、世間は。ふん、失笑を禁じえない。入学式ならぬ入所式ってとこか。国旗も不快だしさ、私という人間は個人として完結しているのであり、日本なんてものが私のアイデンティティに入り込む隙なんてこれっぽっちもありはしないのです。大体たまたま日本に生まれただけなのに、何でそんなものを愛する事を強制されなきゃならないんだ。

卒業式の起立不起立の問題とかさ、私なんか不登校児ですから幼稚園の卒園式が最初で最後、立って君が代を歌わなきゃならないということ自体現実味がないんですが、実際事細かに式典の手順が決められてたり教職員が処分されたりしてんですよね。とんでもない話です。

さて、前回に引き続き映画靖国。煮え切らない。誰一人として自分がこうだから、というのを言わない。国会議員側は試写会要求すらしていないとか言い出すし、映画館側は供給側に言われたとかいうし。この騒動には主語がないんです。辛うじて右翼側には主語があるかな、と思ったりもするんですが、聞けば映画を観た事もないという話だし、週刊誌の言葉を鵜呑みにして街宣車で出かけていったとか何とか。あまりにお粗末です。自分の頭で考えるという事をほんの少しでも実践しようとした事があるなら、週刊誌の言葉一つで街宣車で出かけていったりするわけがない。

その程度の抗議に萎縮して公開自粛だなんて恥を知れと。議員の試写会要求にしたって同じこと、偏ってる最たるものである自民党議員に「偏っている」といわれて上映自粛なんて、街宣活動に屈してしまうよりも余計にたちが悪い。っていうかそれが一番偏ってんだろ。

表現に携わる人間だったら国会議員の難癖なんてむしろ勲章ぐらいに思ってなければやってけないと思うんですけどね。議員から試写会要求がくるってことはそれだけ日本の伝統と文化にとって不都合な真実だってことでしょ。表現の場を提供する者としてはそういうものこそ発表する機会を守らなければならないはずだし、それができなくてどうして映画なんてものに携わってるんでしょう。

表現の自由といった時の表現の中身ってのは国家や多数派とは違う考えのことです。国や多数派と同じ意見ならもう既に表現する自由は保障されてますから敢えて守る必要はない。それとは違う考えをどう守っていくかということが表現の自由、言論の自由ということです。そんな表現に携わるものとしての常識が上映中止を決めた人達にはなかったんでしょうか。国会議員に観せてくれと言われたらやめるのか。右翼に騒がれたらやめるのか。そうじゃない。そういうものこそ守らなければならない。潰されやすいものほど守らなければ。

映画館側も国会議員も右翼も、それぞれの程度は非常に低い。議員はしょうもないイデオロギーに固執し週刊誌を真に受けて映画見せろとか言っちゃったんだろうし、右翼も映画も観ずに週刊誌を信じて街宣車で行っちゃった。映画館は映画館で表現の自由を守るというポリシーも持たず漫然とやっていた所にこの2つが合わさって、映画を潰すほどのことになってしまった。本来はこの程度の事で上映中止なんてなるはずがないのに、一つひとつが最悪の形で組み合わさりこんな結果に。

主語がない、ポリシーがない。だから何か言われた時、自分の言葉で議論を交わしたり反論したりといった事ができない。言われるがまま萎縮し、摩擦を避け、「自分はこう思う」という主語がないまま他者に合わせていく。それが気持ちが悪い。多少捻じ曲がってても自分の考えを実現しようという主義主張があったほうがまだいい。だから今回の件で一番マシなのは街宣活動をやった右翼かもしれない。ニュース23で森達也も言ってたけど観てから言えよというのはあっても、街宣活動をやる自由はある。自分はこう思う、だからこうした、というのがハッキリしてるだけ責任の所在も明らかだし。それと戦うだけの自我を持たなかった映画館側がやっぱり一番たちが悪いんです。そりゃああの右翼も思慮が浅いけどさ。

もうこの際「聖火自粛」とかもやったらどうか。中国はチベット問題でなんか揉めてる。オリンピック開催を阻止したい人達がいるらしい。双方の言い分はよく分からん。自分の考えはない。「じゃあなんか危なそうなんでパスで」と言えば日本がどういう国か、世界の人々によ~く分かってもらえると思う。日本の人々がいかに日々何も考えずに生きてるかってのを世界に見せつけてやろうぜ。そのためには、聖火自粛、いいと思うけどなあ。一生ど根性大根だの芸能ニュースだのに沸いて朽ち果てればいいんですから、日本国民なんて。馬鹿は馬鹿らしく政治問題化したものには首つっこまないってのが一番いいんじゃないですか。ああこんな国に生まれなきゃよかった。

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2008年4月 3日 (木)

右翼が騒ぐことは何もするなってか

映画「靖国 YASUKUNI」が上映中止に追いこまれた、なんて話が巷じゃ話題になっとりますけども。まあ普通に考えて問題ですよね。読売ですら「表現の自由を守れ」なんて言ってるんですから、今回の上映自粛が表現の自由に抵触するというのはある程度社会の共通認識なのでしょう。にもかかわらずなんでこんな腰砕けというかなんというか、当然守られるべきものがいとも簡単に軽視されるような状況になっているのか。

やっぱり日本人特有の「誰とも喧嘩したくないよう」気質が影響しているような気がします。角を立てずうやむやのうちに事を何とかしようという嫌な国民性が最悪の形で表に表れたのがこの体たらくではないかと。実際に嫌がらせがあった映画館もあるようだけど、そうでない映画館までもが「なんとなく危なそうだから」的な理由で自粛してしまうのは日本の映画人も相当重症ですね。映画というのは様々な価値観の提起、社会へのメッセージ性など、表現活動の最たるものと思われますが、それに関わる人間の気概やらなんやらはもうどこかに吹き飛んでしまったのでしょうか。

日教組の集会の時もそうでしたが、自由というものに対してどんどん感度が鈍くなってきてますよね。日本というのは画一化社会ですから、大多数の人間と同じことをやっていればとりあえずは表現の自由も集会結社の自由も保障される。そういうぬるま湯に浸かっていると現状で認められている自由やら権利やらの外に出る必要がなくなり、結果どんどんどんどん当たり障りのないもので世間は埋め尽くされていき、気がつけば人と違う意見がいえない、反論や抗議が来るものは何もできないという国になっていく。

表現の自由も集会結社の自由も、本来細心の注意を払って守っていかなければならないものなのに、「なんとなく」で自粛され押し潰され侵害され。周辺に迷惑がかかるから、というソフトな理由がまた癪に障るのよね。どうせだったらもっと政治的イデオロギーを前面に押し出したギラギラした理由で表現の自由を握りつぶしてくれればいいのに。上映を自粛した人間自体は右翼でもなんでもなくて、ただなんとなく方々からの圧力に屈してしまっただけ。

そんな話ってあります?言論の自由というものに対する危機感がなさ過ぎます。自分のすぐ傍まで言論統制が迫ってから気がついたって遅い。普段からの努力の積み重ねなんですよ、こういう権利関係はね。なんとなく、なんとなく流されてるうちに段々思想の魔女狩りが横行し始め、その内右翼が騒ぐ事は何も言えなくなる…。そんなことであっていいはずがない。表現の自由に対する妨害に断固として戦わなければ。周辺の迷惑なんて漠然とした理由でやっていい事じゃないんです、上映自粛なんて。

あったり前のことなんですけどね。こういう風に上映自粛となればみんながおかしいと言うし、表現の自由は大切だとなる。でもそれでも摩擦を避けたい事なかれ主義がなんとなくまかり通ってしまう。街宣車や嫌がらせぐらいで映画が一本止められてしまうのです。これは言うまでもなく相当な危機ですよね。これはやっぱりひとえに自由というものに対して日本社会全体が疎くなっているからではなかろうか…。

ああこんな当たり前の事を長々と書いてしまった。なんのひねりもない記事だ。日本では既に言論の自由などどこにも存在しないというシニシズム的見地に立てば私の言ってる事なんてちゃんちゃらおかしいんだろうな。実は更新頻度を上げようと普段はスルーしていたであろうこのネタで、頑張って書いているのです。靖国に対する知識もなければ右翼の主張の中身もよく知らない。そんな引き出し不足の状態ですが、最低でも5日に一度ぐらいは更新しようと決めたので書きました。言い訳終わり。記事も終わり。おやすみなさい。

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