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2008年5月31日 (土)

バイト先のつまらない人達

今日は久々にバイト先の話でも。もうすぐ始めてから半年経っちゃうわけですが、さすがに少しは慣れてきました。ここで慣れたと言える日が来て本当によかった。人間関係も基本的には良好。誰からもいじめられる事もいびられる事もなく何とか生きながらえています。ただまあ今日はそんなつまらない現状報告をしたかったわけではない。

そのバイト先に一人まだ若い20代の主婦がいるんですが、その人はあらゆる事に未練たらたら、ああしとけばよかったこうしとけばよかったのオンパレードで、人を見れば「いいなー、いいなー」って言ってるような人。他人と比べる事でしか自分の人生の価値を決められない、ビッグイシューで雨宮処凛も言っていた、自分の人生を生きてない人、と私には見える。

つまらない。そういう人生はひどくつまらないものです。私は魅力もなければ価値もない、ゴミのような人間であると自分をよく卑下しますが、自分の人生を他人よりも劣っていると考えた事は一度もない。他の人を見て羨ましく思うこともほとんどないし、私は私であるという事がこれでもかというほどに徹底されていて隙がない。私はある種の人間から見れば羨ましく映るほどに自信家だ。自分自身をゴミ人間であると定義しつつも自分の人生については誰にも劣っていない(勝ってもいないのですが)という強烈な自負を持つ。このアンバランスさはどこから来るのだろうと思いますが、今はそれをうまく説明できる言葉が見つからない。

私のバイト先は3時間勤務にもかかわらず休憩がある。恵まれているといえば恵まれているのでしょうが、この休憩時間も色々と気苦労が多いのです。私はつまらない話を聞き飽きたのとみんなと一緒に座っていたのでは休憩にならないのとでここ何ヶ月かはずっと一人で過ごしてきたのですが、この間休憩中ふとした拍子に上記の自信のない主婦と目が合ってしまいこっちに座らないかというような事になってしまったので、最近はまた仕方なくみんなと一緒に仲良く休憩をとっている。

ここで私の頭の中を少しだけご紹介。

最初の日  「誘ってもらっといて座らないってのは『いやあんたらと一緒に座りたくねーから』って言ってるのと同じだよな…(座る)」

次の日  「今日座らなかったら『昨日は誘われたから仕方なく座ったけどあなた達と休憩を共にするのは本当に苦痛だ』って言ってるのと同じだよな…(座る)」

またまた次の日 「とりあえずほとぼりが冷めるまで座っといた方がいいか…(座る)」

で今に至ると。今まで私が一人でいるのを気に掛けやがった気に掛けていただいた方は3人。おばさんが多い職場にしては奇跡的数字と言えるかもしれませんが、そういう余計な気を回されてもね。みんながみんな仲良く輪になって休憩したいわけじゃないっていう当たり前の事に気が付けない神経はマジョリティに共通する欠陥です。それにしてももう一人の輪に加わらないおっさんはほっといてもらえてる風なのに、なぜ私だけが集団への同致を強いられてしまうのか?やっぱり私が若くて可愛いからかしら。困っちゃう。

でもまあいい。なんか不登校が学校に通い始めたみたいな復帰の仕方は不本意ですが、私が輪に加わることがあの人達にとってのゴールなら別に私は構わんよ。私が一人でいることで下手な気を遣われ続けるのはウンザリだし、私が輪に加わることによって「いつも一人でいたあの子もやっとこっちに来て座ってくれた、よかったよかった」というショボい充足が得られるのなら別に付き合ってやってもいいよ。これは「私って大人」という愉悦を味わうためでもある。心の底で見下しながらの割り切ったお付き合い。素敵。

ただ一つ心残りなのは私が休憩時間に輪に加わるようになる直前にしょうもない説教を一人のおっさん(上記の輪に加わらないおっさんとは別人)から聞かされていたという事実。一人でいる私に対して「寂しくないの?」から始まり「ああいうのも社会勉強だよ」って。失笑する気にもならない。社会勉強。世の中はこんなつまらない人間で構成されているんだよという勉強にはなるかもしらんが。直接言うわけにもいかないのでここで声を大にして言っておく。お前に言われたから座ってるわけじゃねーから!私はあの自信のない主婦に気兼ねしてんだよ!

あーあ。どうかしょうもない自分のオナニー説教で人がどうにかなったなんて考えは捨てていただきたい。どう思ってるか知らないけどさ。そんなわけで世間の縮図であるつまらない人間達のつまらない話を今のところ聞いている。つまらん!お前の話はつまらん!

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2008年5月24日 (土)

靖史は何であんなに怒ってんだ

太田総理。例によって見てましたが。少年法に関するマニフェストだと分かった時点でこうなる事は分かっていた。太田はこの手の話に関しては普段の愛すべき存在からはかけ離れてしまうし、靖史は前回だったか「そんな凶悪犯罪を犯したヤツに弁護士がつくとか考えられない」というクソ発言でお馴染み。こういう話を聞いていると本当に胸がムカムカしてくる。

実名報道。それをしたから反省するという根拠はどこら辺に存在するのでしょうか。社会からのリアクションを受け止めるべきだとかなんとか言ってましたが、実名だろうが匿名だろうが世間はマスコミに煽られ馬鹿騒ぎ、名前が出てなくたって十分リアクションは得られてるじゃん。そりゃあ直接にではないにしてもさ。匿名だから反省しないとか実名出したら反省するとかどういう論理で思い込んでるんでしょうかね。わっけ分かりません。

この国で実名を出すということはどういうことか。光市事件の時のあの反応を見れば分かる。正当な弁護をしているだけの弁護士に執拗なバッシングが行われ、6000件もの懲戒請求や脅迫状まで送りつけられた。被告を弁護するのが弁護人の仕事であるという基礎的事実すら理解できない国民が山ほどいるこの民度の低い国で少年の実名を出す?目眩がしてくる。犯罪者でもない弁護士でこの有様なのに、少年だったらどうなるかなんて火を見るより明らかじゃないですか。今回のマニフェストだって視聴者の賛成は現時点で92%。こんな国で実名出したら本人はおろか家族だってまともに生きてなんていけません。

自分達とは違う人間だ、という便利で醜悪な意識によって激烈な排除の論理が働き、犯罪者やその家族は存在ごと否定される。事件が起こった背景も加害少年の精神状態も一切顧みられず、憎しみだけがものすごい勢いで増殖する。日本はもはや法治国家ではないと思わざるを得ないぐらい、死刑死刑の大合唱。私はこんな国に生まれた事、今現在生きている事を心の底から恥ずかしく思う。

ああいう人達の怒りというのは理不尽なんです。法の裁きを超えた憎しみ、犯罪者のくせに笑ってる、飯食ってる、許せねえという怒りについては対処のしようがない。犯罪者だって笑うし飯を食う。人間なんですから。それが反省してないってことになるんでしょうか?そんなものは言いがかりです。この先死ぬまで一生クスリとも笑わず飯も食わずに生きてゆけとでも?そんなことは不可能に決まっているし、人間として生きるということそれ自体の否定です。事件の当事者でもないのになぜそこまで憎しみに囚われるのか。私には分からないのです。

もちろんやった事には一生向き合っていかなければならないし反省もし続けなければなりません。でもどっかで許さなければ際限がない。その許しの一つの目安が刑期であり、これは原始的な目には目を歯には歯をシステムから脱却し、理性による社会運営を図るための素晴らしい仕組みだと私は思います。それなのに刑期を終えた後もいつまでも犯罪者犯罪者と呼び続けてしまったらその精神が台無しだし、何のための刑期なのか分からない。もちろん刑期を終えたからといって犯した罪が消えてなくなるわけじゃない。でも少なくとも法律上は罪を償ったというこの事実を以って社会はその人を受け入れる努力をすべきだし、事件当事者以外の第三者は基本的にはその人を許すべきです。

刑が軽すぎるというなら法改正や運用面での改善などが国民全体で議論されるべきだと思いますが、その時も犯罪を犯した人に対する個人攻撃ではなく、あくまで反省や更生を促し且つ妥当な刑期はどの程度なのかということが司法制度全体を通して理性的に話し合われるべきであり、あんなとんでもない奴がいるから刑を重くしようぜ、という感情論は極力排除すべきです。

それにしても賛成92%って。これだからこの国は嫌。社会全体で少年を受け入れようなんて話であるはずもなく、白日の下に引きずり出して自分のした事を思い知らせてやりたいという処罰感情に満ち満ちている。つまんねー国。吐き気がする。

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2008年5月16日 (金)

映画「靖国」

映画靖国を観てきました。上映中止問題の時にこのブログでも何度か取り上げましたが、ああいう騒ぎになってかえって上映館が増え、渋谷シネアミューズにいたっては上映期間の延長までされるというのは日本の民主主義の底力だと思っていいんでしょうか。たとえ上に乗っかってる人々にはその意識はなくとも、下には言論の自由を支えてる人がちゃんといる。この事実には安心します。でも私たち一人一人が常日頃から自由や権利を意識し守ってゆく努力を怠ればそんなものはすぐに消し飛んでしまうのであり油断はできませんが。

映画はよかったです。別に反日だ上映中止だと大騒ぎするような映画ではなく、靖国とは一体何なのかという問いに対してその答えの一端を見せてくれる映画です。あの程度で反日なんて言われるようなら映画なんて作れないだろう、と思いますね。当時の日本軍に対して批判もダメ、侵略という言葉もダメ、さもなきゃ潰すというんじゃ言論の自由も何もあったもんじゃないですし、私にはあの映画のどこらへんが反日なのかよく分からないということです。

ただ単に負の側面を封殺する事によって過去の戦争を美化し、祖国のために戦い殉じた英霊を祀った靖国神社を絶対的なものとして君臨させたいならそれこそ安っぽいイデオロギーに過ぎないわけで、事実を全部さらけ出してさあ靖国どうなんだという事を考えるには右にとっても左にとっても有益な映画であったと私は思う。全部を一色に染めておかなければ気がすまない人間のヒステリックな批判に耳を貸す必要は別にない。

内容としては台湾の方が合祀取り下げを求めているシーンが一番印象的で、これ以上ないだろうってぐらいの正論なんですね、言ってることが。自分の身内が戦争で死に、その加害国に英霊として祀られるということの理不尽。日本のために戦ってなんかいないのに名誉を押し付けられる。亡くなった人をどう弔うかというのは故人や遺族の意思によって自由に行われるべきものであり、もっとも誰からも干渉されたくない事柄だと思われますが、それに対して靖国神社が国家として介入し合祀の取り下げにも応じない。どう考えても理不尽です。

映画を観終えて総論としてはやっぱり靖国酷いな、と思いました。でもそれはこの映画が反日的な構成になっているからではなく、私自身にそもそも靖国に対するいいイメージが無かったからです。先の九条世界会議の分科会で靖国問題のシンポジウムに参加したのもありますし、そもそも軍国主義の頂点である靖国に対して私が好感を持つというのも考えにくい話ですし。

この映画は個々人の心の中にある靖国を投影する鏡のようなもので、それ自体は反日でも親日でもない。観た人が靖国をどう思っているか、それがそのまま表れてくる映画なんです。

それにしても、靖国は魔性です。侵略戦争なんて無かったという内向きで独善的な思想にはとても賛同できませんが、あれほど多くの人を今なお惹きつけ60年前の映像の見紛うほどの運動が繰り広げられている靖国とは一体なんなんだと、寒心すると同時に興味をそそられます。そう思ってパンフレットを買ったら「もっと靖国を知りたい人のためのブックガイド」が載っていてほくそ笑む。読みたい本読まなければならない本山積みの中ではいつ読めるか分かりませんが…。

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2008年5月 7日 (水)

ごらんしーん

全然ネットに繋がらなくならない。勘違いか…。よく分からん。まあしばらくは大丈夫みたいです。

ゴールデンウィークなんて俗世間のくだらないシステムには興味がありませんが、今回は九条世界会議に参加。4日と5日に幕張メッセであったんですが、結構楽しかったです。特にブース会場では一歩歩くごとに「よろしくお願いします」と乱れ飛ぶビラ、ビラ、ビラ…。本来ならそういうのってすごく疲れるんですが不思議と嫌じゃなくて、月並みですが私もなにかしなければと思わせられました。

行動を起こすというのは大切な事で私が苦手とするところでもあるんですが、前回も書いたように少しずつ自分の殻を破りつつあり、活動家まであと一歩と自分では思っています。気に入らない事があるとキチガイとかなんとかネットに書き込むようなクサレ外道の事も少しは見習わなきゃなって思うんです。ああいう人達は自分の無知さや狭量さに鈍感で自分がおかしいと思ったことを正直にただおかしいと主張しその稚拙さを省みることもないオナニー集団なわけですが、時にはそういう鈍感さも必要なんじゃないかと思う時があります。

一人の人間が知りうることなんて限られていて、真実なんてものは一生かけたって語りえない。自分の言ってる事は間違ってるかもしれない、もっと知らなければ分からないと言ってたら延々と表現というものに近づけないわけです。完全じゃなくても知識に不備があってもおかしいと思ったものにはとりあえず声をあげてみるという勇気というのか。そういうものが必要で、あの集団にはそれがあって私には欠けている。知らないで喋るというのが怖いんです。でもオナニーでいい、自分が気持ちよければいいんだという思い切りも時には大事?と思います。見習おう。少しは。

                       「ここから変わります」

クサレ外道、クサレ外道、ああムカつくクサレ外道。ネット右翼とかいうクソ人種が私は大嫌いです。いつもいつも理性的な批判を心がけてきましたがたまにはいいでしょう。イラクの人質事件のときに自己責任だとか騒ぐクソ野郎。光市事件で死刑死刑騒いでるクソ野郎。理論的な裏づけなんてなく、ただ「死ね!ぶっ殺してやる!」って叫びたくなる時ってありますよね。ろくな考えもなくキチガイだとかなんだとか抜かしやがって。自戒もない。節度もない。理性もない。何もない。私がテメーの文章の何倍書いてると思ってんだ。お前のキチガイの4文字に私の文章が劣ってるとでも?ふっざけやがって、文句があるならそれなりの文章をきっちり書いて反論してみろっつうんだ。

大体あれですよ、ハンディ。私が文章書くのに100考えてるとしたら向こうは1しか考えてない文章を次々に投げつけてくる。私はそれにも100考えて反論しようとするから私ばっかり疲れる。質より量作戦に負けそうだ。どう考えてもおっつかない。でも1にしちゃったらクサレ外道になっちゃうし。質を維持するためにはどんどんどんどん知識を入れてかなきゃ追いつけないんだってことですね。

今まで感情的にならないようにって気をつけてたんです。自分の言ってる事こそが正しいんだという独善人間になりたくなかったし、だからその言い分も分かるけどでも、という言い方を崩した事はなかった。でもムカつく時はムカつくし、私はクサレ外道は大嫌いです。

思想は数限りなくある。その中でどんな思想を持とうとそれは自由ですが、クサレ外道の自分の言っている事が間違っているかもしれない、相手の言ってることも一理あるかもな、という考えの欠如が私は本当に許せないんです。自己批判のない人間なんてオナニーです。そんなオナニー野郎にキチガイとか言われたくないし、っつーか死ね!とか思ってしまう自分もいますし…。なにか言えばそれだけじゃあ自分はどうなんだという問いが返ってくる。だから私の人生はちっとも気持ちよくないわけですが、まあそういう禁欲生活もいいかなと。でもさっきそういう思い切りも必要だって書いたんだっけ…。

と、ここまで書いていつもの自分の文章との違いに目を見張るばかりですがどうしようかなあ、ところどころ綺麗な言葉に直す?めんどくさいなー、それをやっちゃうと躍動感みたいなものも失われそうだしぃ。いいや、このままで。ここから変わりますとか書いとけば大丈夫だろ。引く奴は引け。私はこういう奴だ。

まだまだ全然言い足りないけどここで憎悪を撒き散らしても仕方がないのでそのエネルギーは理論的批判に振り向けるべきだという結論を導きつつ(もう遅い?)今日はこの辺で。最後にクサレ外道に「キチガイはどっちだ」という言葉を贈りつつ…さよなら。

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