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2008年7月30日 (水)

というわけで今回は特別企画

オールドニックさんは果たして素直なのか?無礼なのか?あなたはどう思う?

と書いておいて、事の経緯を説明すると、これを書くことにしたのは当ブログの相も変わらずマスコミはという記事のコメントで、オールドニックさん自身の提案を受けてのことです。因みにオールドニックさんは自閉世界というブログの主で、私とは最近知り合ったネット上のお知り合いという感じで。

で、冒頭の問いでお分かりいただけるように、この人の態度は問題になる事が多いようです。私はまだオールドニックさんと知り合って間もないというのに、既になんやかんやと注意されたり説教されたりしている場面を何度も目撃している。世の中の人に嫌われやすい、誤解されやすい人だということは間違いない。

というのもやっぱり世の中の人はオブラートに包んだ言葉のやり取りに慣れているから、突然ああいうむき出しの言葉を投げつけられるとびっくりするんだと思います。耐性がないから恐怖ですらあるのかもしれない。私は普段からオールドニックさんの言葉遣い程度には様々なものを口汚く罵ったりしているのでまったく気にならないのですが。この差は何かと考えてみると、今の世の中に怒りをもっている人間と、それなりに満足しちゃってる人間との温度差じゃないかと思います。

とはいえ私は幸か不幸か、そういった配慮がまったく出来ないわけではないので人と話す際にそれが障壁となったりは今のところしていないのですが、オールドニックさんは議論云々の前に色々指摘されてしまいそもそも本質的な話ができていないことが多々ある。それは端から見ていて結構悲惨です。基本的に世の中は自分達と同じ言い方、同じ礼儀、同じ配慮ができる人間にしか議論の場は開かれていないようです。

オールドニックさんが世間の人に話を聞いてもらおうと思うなら、言葉遣いを改めて、クッションをはさんで優しさを装えばいいのでしょうが、私はオールドニックさんのそんな腑抜けた文章は断固として見たくない。

それにここで私の勝手な礼儀論を展開させてもらうと、本当に礼儀をわきまえている人間は、無礼な人間に対して怒ったりはしないものです。礼儀とは見返りを求めぬもの。無礼な相手と出会った時、相手に同様の礼儀を求めるのではなく、何も言わずに自分は自分の礼儀を通すのが本物なのです。無礼だなんだと人の態度に腹を立てているうちは見返りありきのエゴイズムであり、礼儀など名ばかり。

遠慮なくものを言うだけで反発を招いてしまうような社会はまったく不健全で、だから私のようなヘタレとは違って、常識も礼儀も無視して「お前らおかしい」と正論を言い切ることができるオールドニックさんのような人が必要なのです。

礼儀とか優しさ、配慮などもっともらしい事を言われると人間というのはひるむ。そうかな、と思うし、そうした方がいいかな、と弱気になるのです。でもオールドニックさんにはそれがない。いくら礼儀だ配慮だと言われても「そんなもので封殺できると思ったら大間違いだ!」と言い切るんです。ここまで世間的な価値に気兼ねしない人はそうそういるもんじゃない。凄いと思うし、そんな人に配慮だなんだってそりゃあもう無粋というものです。

以上がオールドニックさんに対する私の解釈であり、配慮なんて必要ないという結論ですが、別にその方向に誘導したいわけではまったくなく、各自自閉世界などを参照し闊達な議論をしていただければ幸いです。

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2008年7月26日 (土)

相も変わらずマスコミは

世の中は無差別殺傷ブーム。さっき見たニュースでは女性が後ろから刺されて全治8日だって。その女性の方が受けた心身のダメージはいかほどかと思いますが、一対一で全治8日じゃニュースとしては弱い。それぐらいの事件ならたぶん普段からそれなりに起こってるだろうし、いつもならニュースなんかにはたぶんならない。でも今はその事件に秋葉原の事件によって付加価値がプラスされて、「犯罪増えてますよ、っていうか無差別に人が刺されまくってます!」というキャンペーンに使われる。

しょーもないマスコミのいつもの手口です。三菱のリコールの時も不二家の時もそう。何か一つ大きな事件が起きると普段は扱わない小さなニュースも総動員されてイメージの固定化が行われる。それで世の中の人はものの見事に引っかかって怖い怖い言いまくって、でもしばらくしたらもう忘れてるんだよね、次の旬のネタに夢中で。

日本は治安がいい。これは純然たる事実。この間の八王子の啓文堂の事件も、それがニュースになるということ自体が日本は平和だっていう証左だと思うんですよね。一人死んでニュースになるって事はそれだけ人が殺されるのが珍しいって事でしょ?誰かが誰かに殺されるということが日常茶飯事になったらそれこそそんなものはニュースじゃなくなる。なんせそれが日常なんですから。人が殺されて「怖いわよね~」なんて言ってるうちは日本は平和なんです。

だから世の中の人が怖がってるのはもう完全に平和病。これだけ治安のいい国で何をそんなに怯える必要があるのか。犯罪がゼロになるなんて事はありえないんだから、それぐらいのリスクとは社会全体で付き合っていくしかないでしょう。マスコミに踊らされるのもほどほどになされた方がよろしいかと。

社会というのは色々な人間がいて成り立っているわけで、マスコミの言うようななんだかわけの分かんない化け物のことも包摂してなんとかやっていかなきゃならないんだと思う。最近思うのは殺人者を否定するってことは人間そのものを否定する事なんじゃないか?ということです。殺人というのはそもそも人間の一側面なんじゃないかと。それをなんとか抑えて、あるいはうまく付き合って社会の秩序を形成しようというのが最近になってからの人間の努力で、一部のおかしい奴が殺人を犯すんだというのは違うんじゃないかなと。

人間の本質は社会の秩序を守る事でも犯罪を犯さない事でも傷つけ合わない事でもないから、そこから逸脱する者が出てくるのはある意味では当然。殺人は人間の一側面と考えれば、そこはやはり自分の身に照らして考えてみるべきだし、社会の秩序に浴する者としては煩悶すべき課題であると。

犯罪にどう対処するかというのは社会の在り方に対する理念が色濃く反映されるものと思いますが、私はやっぱり共生を掲げたい。あまり綺麗事も言いたくないのですが、実際問題この国にはくだらない制約が多すぎる。そういうものを取っ払っちゃってどんな人間でもとりあえず生きられるようにした方が私も気持ちよく生きられるし、社会の成熟度という面でもいい事だと思う。

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2008年7月18日 (金)

虚構を楽しむ

死刑について考える時、私はいつも何かしっくりこないというか、アンビバレントに陥る。それは私が普段は命が大切だなんて思ってないのに死刑の話になると人の命は大切だとか言い出すからです。

私は仮にもニヒリストという名前を名乗っていて一切の価値は虚構に過ぎないという立場を取っているわけです。そりゃあそこまで虚無主義を極めたわけではないですが、基本的には人が生きて息を吸ってる、それが群れをなしてるという事実がある以外は全て無効だと思ってます。そんな私があまり命が大切だとか連呼するのもどうかなと。

そんな事が言いたいために死刑に反対してるんでもないんだし。むしろ人の命の大切さなんてどうでもいい。私は人間の命がどれだけ無価値でもゴミ同然でも扱いに最低限の配慮ってのは必要だと思うの。私が死刑に反対するのは気持ちが悪いからです。国家権力とタチの悪い世論とが共謀して人を処刑するあの醜悪さが見るに耐えない。

私は善悪の観点からこんな事を言っているのではない。死刑廃止を訴える私と死刑存置を訴える他者と。別に何も変わらない。私の言ってることが正しくて向こうの言ってることが間違ってるなんて私は思ったことない。ただ私とは好みが合わないってだけ。全てはくだらない嗜好に過ぎないのです。死刑は私の口に合わないの。

何の正当性も必然性もないのに、ただ口に合わない気に入らないというだけでどれだけ騒げるかの勝負。究極のエゴイストになれるかの勝負。こうすべきだという道徳的、理論的裏付けはなく、嫌だからやめろという我だけでやっている。私はニヒリストであると同時にエゴイストであらなければならない。何の価値もないところからエゴを取ったら何もすることがなくなってしまう。

でもそれと同時に自分のしたい社会にするためには他人の支持を取り付けなければならない。ただ私が嫌だって言ってもじゃあやめるねって言うこと聞いてくれるわけもない。他人を巻き込むにはもっともらしく理屈を述べなければならないし、それが何らかの価値に規定されているかのように語らなければならない。単なるむき出しのエゴイズムじゃなんともならん。

私は人を説得するとか自分の考えに染めるなんて事は考えたことがなかった。人それぞれ色々な考えがあるし、なにより自分にそんな力があるなどとは思いもしない。でもそれじゃあいつまで経っても生きやすくならない。苦しいまま。嘘と分かっていても虚構と分かっていても何らかの価値を語り人を巻き込んでいく事がきっと大事で。宗教者ってのはそうやって人を騙してきたんだと思うし。石原も中曾根もそうやってエゴイズムを加工してるんだし。

だったら私も思ってもないことをなんて悩んでる場合じゃないよね?私は人間の命が大切だなんて思わない。でも目的達成のためならなんとでも言いましょう。死刑推進派よりも派手に華麗に壮大に、嘘を並べる。私は今悪魔に魂を売った。何度でも言える。人間の命は大切だ。それは何物にも変えがたい。

罪悪感なんてない。エゴイストはそんなことでくよくよしない。自分のしたいようにすることこれが唯一の目的。そのためにどのような価値を拾ってきてくっつけるかあるいは自ら捻り出すかが重要なの。そう言い切ってしまうと迷いがふっ切れて楽しくなってくる。人道主義者のようなことを言っても人権派のようなことを言っても心の中で「まあそんなこと本気で信じちゃいないけど」と笑っていればアンビバレントに悩む必要もない。私は自分にとって心地いいものを身にまといエゴイズムとニヒリズムを隠匿していればいい。

私にとって論理は借り物、あらゆる価値はその場限りのお付き合い。自分のしたいようにするための方便、虚構に過ぎない。

こうして人生の目的ができた。「あなたの夢はなんですか?」「究極のエゴイストとしてこの世の中を牛耳ることです」。素晴らしい。実に素晴らしい。もっともっと嘘のバリエーションを増やさなきゃ。私はそれに一生をかける。

最後に言っておくと私がこんな事をおおっぴらに書くのはおそらく最初で最後であろうと思われます。こんなことをいつもいつもぶっちゃけていては私の言っている事の信憑性が失われてしまう。私は真面目に人権を主張しなければならないのでもうこんな事は書きません。

今ふっと全てを台無しにする考えが頭をよぎったのですが、もしかして全ては

単なるいい人に陥らないための屁理屈なんじゃ

違う違う!そんなわけないでしょ!

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2008年7月 5日 (土)

偏狭で頑迷な皆様へ

加藤智大のこと、書き込みを読んだ直後ほどには胸が締め付けられるような思いはなくなりましたが、やはり今でもテレビなどで彼の話題が出ると緊張するのが分かる。彼の事を悪く言われるのは私の事を悪く言われるのと同義です。もちろん殺人は悪い。でも彼に対する批判の多くはその罪よりも彼の人間性そのものへの批判なのです。

私はそれを冷静に聞いていられない。「彼の話をしないで。私に聞こえる所で彼の話をしないで!」と叫びたくなる。前の記事では大きな声では言わなかったけれど、やはり私は彼の携帯書き込みを読んだ上で彼に共感できないような人間には興味がない、というか軽蔑すらしている。

人間の苦しみに対してどうしてそこまで鈍感になれるのか?私にはサッパリわからない。彼の書き込みを見て死刑だなんてなぜ言えるのか。そういう奴らが彼をあんな凶行へ追い込んだんじゃないのか?その自覚なくして彼を批判する資格のある人間などいるはずない。ましてやテレビのコメンテーターなんて腐りきってる。

彼の苦しみに共感することなくして犯罪なんて防げるだろうか?答えはNOです。共感とまでいかなくても、せめて頭の中だけでも彼もなんか辛かったんだな、と思うぐらいのことはできないものだろうか。彼を徹底的に指弾して、死刑死刑騒いで、実際に死刑が執行されて。それで殺人が減るのですか?それでもう第二の加藤智大は現れないのですか?これも答えはNOです。

人を殺そうがなにしようが、私達と「違う」人間などいない。当たり前の事です。彼を死刑にしてこの社会が得るものとは何か。何もない。不幸な事件を生み出す愚劣で醜悪で排他的なこの社会が温存されるだけ。私が今感じているこの不自由さ、これこそが犯罪の素地です。ひとり一人が生きたいように生きるという当たり前の事がなぜ保障されないのか。その結果息ができなくなって人を殺したってそれはかなりの割合で社会が悪いんじゃないの?ワーワー言う前に生きさせろってことでしょ。雨宮処凛じゃないけどさ。

この国で生きるのは辛い。息ができない。孤独だ。私にこんな思いをさせているうちはこの社会は不健全なんです。まずは私に息をさせてみろよ。私にこの国も捨てたもんじゃないと思わせてみろって。それからですよ加藤智大を批判するなんざ。

私程度も救えないで殺人のない社会なんて作れるわけがないでしょ。グダグダ言う前に犯罪抑止力を体現しろ!何もしないで自分達の社会が安泰だなんて甘いんだよ!

少数派を迫害し、復讐されたらまたその原因を彼、彼女が少数派であったことに持っていく。そんなところで還流させてたって犯罪減らねえっつーの、ばっかじゃねーの!少し心を広く持つだけで済む。たったそれだけの事です。少数派の存在を認めいわれのない非難、迫害をやめること。ただこれだけ。…やれよ!

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