« 2008年11月 | トップページ | 2009年1月 »

2008年12月31日 (水)

一応更新

いよいよ今年も終わりですねえ。なんて戯れ言は何人のブロガーに使い回されたのかしら。私が世間と同じ言動をとっても自分に対する嘲りや世間並みに対するおちょくりが脊髄反射のようにやってくるもんで、私はどう転んでも普通とは程遠いわけでございます。

今年はいつにも増して大晦日感ゼロ。年々どうでもよくなっていくようで、このまま年を重ねるごとに四季折々の行事を忘れていけたら理想です。カレンダーをも超克した生を目指します。「来年の抱負」かなっ。

今日はこのまま「大晦日は徹夜でテレ東」の慣例に則って徹夜です。これをだらだら見るのが唯一の行事らしい行事。

それでは皆さんよいお年を〜。やっつけ更新丸出しですが。

| | コメント (27) | トラックバック (0)

2008年12月19日 (金)

腐れ多数派

今日はバイト先でまた被害にあった。せっかく休憩時間を静かに過ごせる場所を見つけたと思ったら、少しだけ仲良くなったおばさんに引き戻されてしまった。中途半端な人間関係なんてやっぱ邪魔ね。

で、その日のコンディションとかそもそもの許容量とかに基づいて、多数派の会話に耐えられる時とそうでない時があるんだけど、今日は全然ダメ。私は機嫌が悪くなると隠すのが下手で苦労します。こういうところは年相応というか、ガキっぽいというか。

今日の多数派は「笑う門には福来たる」とか言ってゲハゲハ笑ってんの。しかもそれを言ってたのが私が一番嫌いな腐ったジジイだったもんだからほんとにムカつきました。バッカじゃねえのと思って。
       
大体さ、普段からヘラヘラ笑ってられる奴にそれ以上福なんて必要ねえだろ。笑いたくたって笑えないような状況にある者にこそ福は分配されるべきだ。

それなのに。福は能天気で愚鈍な奴の所に喜んで流れていくというのっ?

もういい。そんな根性の腐った福なんて追うもんか。こっちから願い下げだ。考えてみれば今の格差社会を象徴するような言葉よね。笑える奴はどんどん幸せ、笑えない奴はどんどん落ちてく。ああ不条理。神様も福も、何が起きても笑顔と前向きさを失わない白痴がお好みですか、ああそうですか。

上等だ。こっちにだってプライドがある。自分の良心に反してまで福なんか拾いにいくもんか。真実から逃げ回る腐れ多数派にまとわり付いてる福なんていらない。自力で幸せになってみせるわ。まったくヘラヘラ笑ってりゃあ幸せになれるなんて馬鹿な多数派に有利な諺だよ。そんなうまいこといくかっつうの。

「笑う門には福」こねえよ!そのうち巷に溢れてるプラス思考なんて全部反証してやる。今に見てろよ。

因みに私が好きな諺は「すまじきものは宮仕え」です。会社などに勤めて人に使われるということは気苦労が多く辛いものだから、できることならしない方がいいですよ、という親切且つ的確な教えです。まあそう言われたって現代では多くの人がそうしなきゃ食っていかれないわけですけどね。でも「辛いことはしない方がいいよ」という至極当然の主張は今の日本では新鮮に響きます。こういう精神を大事にしていきたいよね。

| | コメント (17) | トラックバック (0)

2008年12月15日 (月)

クリスマスの話と自己分析

やっぱりパソコンが使えないと更新する気が失せるんだよね。自分の文章の意味のなさ稚拙さに気を取られずに勢いで書くってことができないのよ、携帯は。書きかけてやめた回数、数知れず。打つのが遅いから途中で嫌になる。

色々考えてたことはあった。いくつかネタもあったし。でも「ああこれブログに書いたらいいなあ」と思ってもすぐ忘れる。あんまり捗らないからパソコンが来るまでは手書きで文章を考えることにしました。ちょうど無駄に漢字の練習も始めてたとこだったし。携帯よりは捗ります。

さて。この間考えてたつまんない話をいくつか。

世はクリスマスとかなんとかでイルミネーションもたけなわですが、毎度の事ながらフライング過ぎるよね。11月下旬からもうやってたし、日本人は待てなくなったなんてなことを最近よく耳にしますが、これもそのせいかしら。

キャラ的にはイルミネーションを見るたびに苦々しい思いをしてた方がいいんだろうけど、残念ながらイルミネーションには特に何の思いもない。むしろどちらかといえばちょっと好きなぐらいで。

というのも不幸な奴ほど他人の幸せとか華やかなものに腹を立てているというのは自明の理でしょ?私ぐらい幸せだと街がクリスマスモードだからってイライラしたりしないのよ。カップルが歩いていようと。家族連れが仲睦まじく歩いていようと。究極の自己肯定の末の平穏はちょっとやそっとのことじゃ乱れない。私って何でこんなに幸せになっちゃったんだろ。

まあそんなこと言って強がってるみたいに思われても嫌だから何でも正直に白状すれば、私だって寂しいとまったく思わないわけじゃない。時々人と話したいと思うこともあるし、恋愛云々にしたってそう。でもそれはクリスマスだからどうとかいう質のものじゃないわけです。

クリスマスに一人で寂しいというのはクリスマスは誰かと過ごすのが当然という常識があるから派生してくるものでしょう?私にはそんな常識ないもの。大体もし彼氏ができたとしてもクリスマスを一緒に過ごしたいなんてちっとも思わない。あんなものの何がいいのかさっぱり。

世のクリスマスムードに負けて一人が寂しいなんて思ってる奴には「そんなくだらないことに拘ってんじゃねえよ」と言いたいんです。一人の寂しさは普遍的なもの。でもクリスマスの寂しさは俗物の浮薄な悩みです。

だから私は残念ながらイルミネーションに憎悪を抱きながら鬱々としてるような生活を送ってはいないというわけ。でもツリーに火をつけて器物破損か何かで逮捕された男の言い分が「クリスマスの雰囲気に腹が立った」とかだったら間違いなく同情するけどね。イライラはしなくても好きではないクリスマス。わざわざ鬱積物を抱え込んだ人間を刺激するような雰囲気を作ることないのよ、一ヶ月も前から。

さて。二個目の話題。最近自己分析がはやりです。というか常日頃から自分の複雑怪奇な精神構造を見極めるのには余念がないのですが、さっきまた思いついたのが、私は自分の存在が軽んじられるのが死ぬほど嫌なのだということ。

自己分析なんてのはいつも何かに気づいて、忘れて、の繰り返しなのですが、今回はわりといい線いってる気がする。私が人と関わりたがらない理由として。

私はかなり屈折してはいるものの、自分が大好きなんです。私は私の事をいつも100%愛してる。でも他人は違う。自分にとっての100%が他人から見ると10%であったり50%であったりする。この落差に耐えられないわけです。それなりの会話。それなりの付き合い。自分が他人にとってのその他大勢に堕ちるあの感覚。ありえな~い。

私ほど私の事を愛してくれる人がいるか?私ほど私の事を理解してくれる人がいるか?いない。この自分への愛が強すぎるために、それより下回ることしかありえない他人の好意に自分を差し出すのが嫌なんですね。恐いと言ってもいい。私は私を傷つけないけどその逆はもちろん保証の限りではないからです。

イメージとしては、私自身が私の手を掴んで離さないって感じ。私も居心地がいいからその手を振り払ったりはしないというかできないというか。他人の評価が介在する余地がない分、絶対的で一生途切れることはないであろう自己愛。人と関わる煩わしさを考えればこの安定供給されている自己愛を手放す理由もないわな。

というか。もっと恐ろしいことを言ってしまえば他人なんて自己愛の邪魔、という考え方もできる。一人でいればまさしく上記の通り、安定した生き方が保証されてる。でもそこに他人が入り込んできたらどうなるか。私は今まで自分で供給してきた愛を他人に頼ることになるわけです。愛の自給率が下がる。何を言ってるんだろう。

60%が自己愛で40%が他者からの愛、なんて折衷案は私にはない。人と関わるとしたら「あんたに私の代わりができんの?私の代わりに100%私の事を愛してくれるのかしら」という話になる。なんというめんどくさい人間だろう。やっぱり一人でいるのが一番いいというのが結論。

なんだか更に一段階吹っ切れた気がする。誰も私の代わりなんてできんのだ。私が他人を求めるということはもはや自己愛への背信行為である。

ふふ。私は一人なんじゃなくて死ぬまで「私」と一緒なのね。もういいや、誰とも関わらなくても…。

こうやって書いてるとどんどん考えが極端な方へいくのよね。書き上げてみるとなんだか新しい悟りでも開けたようだけど、たぶん明日になったらまた忘れてるんだろうなあ。さっきも書いたけど自己分析ってそういうもんだからね。私だけかもしれないけども。

ああ疲れた。年末か年明けまではパソコンがないので、年内の更新はもう後二回か三回程度になりそうです。まあパソコンあってもその程度かもしれませんけどぉ、ごめんね。

| | コメント (10) | トラックバック (0)

« 2008年11月 | トップページ | 2009年1月 »