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2009年4月29日 (水)

今日はサボりで

自転車の鍵が見つからなくて、今日はもう嫌になって早朝バイトに行かなかった。人が好い真面目一徹の私にしては珍しい選択である。一年前の私なら真っ青になって探しまくって遅刻しようがなにしようが歩いてでも行ったんだと思うんだけど。

慣れとは恐ろしいもので。雨で人が激減とか、さらっと休む人たちの姿をどれだけ目の当たりにしても、私のような仕事もできない糞人間が皆さんと同じようにさらっと休むなんて考えられないことだと思って有休も使わずに思いつめてやってたのがついこの間なのに。

もうめんどくせぇんだよ。仕事のできなさもどうやらこれ以上はどうともならんっぽいな、という点まで達しつつあるし、あの程度の職場でそこまでの後ろめたさを感じていられない、私は。大体最近は人余り気味なんだっ、私の存在なんて必要とされていないんだっ。人がたくさんいたら仕事ができない人間なんてゴミ同然。誰もそんなことを口に出しては言ってこないけど私は自分で分かってる。私はそういうことをわきまえて生きてきたんだ。

なんだ。何の話なんだ。そんなことはどうでもいい。

ただそれでも私が休まずに通ってきたのは休めば次の日には「昨日はどうしたの?」トークが始まるからである。ある程度の頻度で何も言わずに休む人はいちいち理由なんて聞かれないけど、私のような真面目な人間が休むと話題になってしまうのである。多数派とそんな話をしなきゃならないぐらいなら行って三時間働いた方がマシ。そう思って週4日私は「真面目に」通ってきた。明日だって私は自転車の鍵の話を半笑いでするのである。中途半端な笑みを湛えて。心馴染めない人に向かって私は笑顔で。ヒヒッ、正気の沙汰じゃねぇな。

なんて言いつつも私は何とかあの職場に定着しています。休憩時間を共にするおばさんも一人二人いらっしゃるし(驚いたことに私の隣にいつも座ってくるおばさんがいるのです。そういう人はやはり普通とはちょっと違う)他の人もみんないい人です(作文調)。

大体この不況の折、人数的にも職務態度的にもあんなゆるい職場はそうそうないんじゃないかと思ってます。まあ何人か休んで回らないようじゃ困るからある程度は余裕をというのは分かるんですが、余りまくってるしね。3時間勤務はそもそも休憩時間なんて取る必要はないのに、忙しい時でもちょっと休んで残業したりとか。いやいや3時間急いでちゃんとやれば終わったんじゃないの?と真面目な私はいつも思う。いいのかそれで。いいならいいけどさ。

最近は30分休憩もざらです。それで人が減らされるということでもないようだし…。いい職場ですわ。

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2009年4月26日 (日)

草なぎ氏逮捕とか

えらい騒ぎになってますねえ。最初の頃はマスコミもお得意の「転んだ奴に集団リンチ」をかまそうとしてたみたいですけど、草なぎ人気は侮れないもので、予想外の同情派の量に軌道修正を図っているようです。復帰を心待ちにしています、みたいな論調に早変わり。

だってあの鳩山でさえ「最低の人間」発言を撤回したんだもんね。政治家ってのはまずいことを言っても「誤解を招く発言だった」とかなんとかいって発言自体は撤回しないんですよ。草なぎは強いねぇ。相当の抗議が来たんだろうねぇ。まああんな支持率最低内閣の総務相ごときが人気者に唾を吐こうなんてのが間違いのもと。身の程を知れっつーの。大体人殺しに言われたくねーよ!

で、私はといえばむしろ今回のことでむしろ好感度は上がりましたね。面白いじゃないですか、酒飲んで、服脱いで、騒ぐって。私はひねくれてるからみんなから嫌われだしたり叩かれ始めたりすると俄然興味が湧いてくる。亀田の時も朝青竜の時も。嫌われ者を半笑いで陰ながら応援するというのがいつもの楽しみで、まあ今回は草なぎもそこまで嫌われてないようだから応援するまでもないようだけど。

今回の騒動では深夜で周りに誰もいなかったこともあって、逮捕だの家宅捜索だのはやり過ぎなんじゃないかという声も聞こえます。私もそう思うんですが、その冷静さを一般人の事件の時にも欲しいよねぇ、と思いました。逮捕、家宅捜索という警察の対応やマスコミの報道の過熱ぶりから一歩引いて「そこまでのことか?」と考えられるのは草なぎ剛がスマップという人気アイドルグループの一員だったからですよね。

一般人なら「○○の容疑でA氏の自宅が家宅捜索されました」となればやっぱり、当然やったんだろうと見なされるだろうし、逮捕されればその時点で犯人、とんでもないことをやった奴として認識されることだろうと思う。でも警察は時にやってもいない罪で人を捕まえるし、悪意に満ち満ちた解釈で人を罪に問うたりしてくるわけです。そしてマスコミはその警察の発表を鵜呑みにし、一方的なストーリーを垂れ流す。そんなことは今まで何度も起こってきた。

だから草なぎみたいな人気者の時だけじゃなく、警察の対応やマスコミの洪水のような情報を普段から疑ってかかって欲しいと思うし、私もそうしなければと気持ちを新たにしました。今回のことはとてもいい傾向だと思う。これだけ多くの人が初期の段階で警察やマスコミのやってることに疑問を呈するというのはそうそうないこと。

にしても、たかが酔っ払って服脱いだぐらいであんな神妙な顔して記者会見まで開かねばならないとは…。アイドルの優等生イメージは凄い。私は幅が広がってよかったと思うんだけどね。あの程度のことは大人として恥ずかしくもなんともないよ。人生腹の立つこと、嫌なことばっかり。一人で脱いで勝手に騒いでたぐらい可愛らしいガス抜きじゃないか。私はこれが草なぎじゃなくたって別に何とも思わない。

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2009年4月23日 (木)

善悪はエゴに塗れている

2007年10月に「善悪は存在しない」という記事を書きました。普遍的な善悪が存在しないという点では前回と変わってないのですが、ただ善とか悪とかいう言葉に普遍的な意味を持たせることが多少面倒になってきたので、今日はそれについて。

以前の私は善とか悪とかいう言葉に無条件に「普遍的」という言葉をくっつけていたのです。というか世間でも基本的には善悪といえばそこには個人的な好き嫌い以上の何か、普遍的、絶対的なものがあると思われている。だからまあ私もその捉え方に則ってそのような善悪は存在しない、私の意見は(普遍的な)善でも(普遍的な)悪でもないということになっていたのですが、果たして善悪という言葉ににそこまでの意味を背負わせることが必要か?と考えたところ必要ないんじゃないか、と。

善悪には明確な規定も根拠もない。利害でもなく、自己満足でもなく「価値あるもの」に則った道徳律などありえない。概して自明のこととされている事柄はそれほど自明ではない。そもそも普遍的な意味など付与しようもないのですから善悪はもっとエゴイスティックな使い方をしてもいいのではないか?と思ったのです。

普遍、且つ絶対の善悪が存在しないからと言って、私の私的な善悪まで「存在しない」と言わなければならないのは文章としても煮え切らなくなるし、言ってる方も気持ちが悪い。好き嫌いより善悪の方がパンチが効いてるし、私の中に「道徳」がないわけでもないし。というわけなので、善悪という言葉はエゴと同程度、好き嫌いとはほぼ同義語として使い、普遍的な意味を持たせたい場合は「普遍的」を付けるか括弧で囲うことにします。

因みに善とは「よいこと、道理にかなったこと」、悪とは「わるいこと、否定すべき物事」です。世界の総人口である六十数億通りの解釈が可能って感じですね。まあその中の一つとして私の善悪があると。

その点、正義という言葉は「人が行うべき正しい道理」とあります。気持ちが悪い言葉ですね。この言葉にはどうやっても普遍的な意味が絡みついてくるようなので、正義は存在しない、故に不正義も当然成立しえないとします。

善を他人にまで適用しようとしたときそれは「正義」となり、その「正義」に基づいて嫌いなものを見たときそれは「不正義」となる。狭量なシステムです。価値を生み出したくない私には関わりたくないシステム、というか関われないシステム。自分の善悪に価値を見出そうとした瞬間、吹き出してしまうんだもん。「これがなんなの?」と。「なに、みんながこれに基づいて生活すべきだって言うの?冗談でしょ?」となる。無理。私は真面目に正義や不正義を語れる人間じゃない。

というわけで、前回の記事は「普遍的な善悪は存在しない」とするのがよく、私的な善悪については存在するが無価値と。私にとって善かろうが悪かろうがそこには何も生まれてない。

私個人の利害、執着、趣味、思想、性格、行動、愛…そのどれもがつまり屑そのもの。「そうであること」が何らの必然性も持たず、何らの価値も生まず、何らの影響を与えることもなく消える。いいことだ。それはとっても健全なことだ。

たぶん今まで書いたことと重複する部分が大量にあるんでしょうけど、思想というのは同じところをぐるぐる回りながら、反芻しながらやるものですから気にしない。

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2009年4月12日 (日)

他人の視線が不愉快

故にその視線を持った人間が嫌いなのである。存在自体が不愉快なのである。

人間というのは自分に近づいてきた人間、自分のいる空間に入ってきた人間を何の気なしに、ふと見やりますよね。私はあれが嫌。駅のホームで一番前まで歩くとき、電車に乗り込むとき、飲食店で席に案内されるとき、歩くのがおっせぇ奴を追い抜くとき、私はいつも他人の視線を感じて不愉快になる。

そこに何の意味も含まれてないってことは分かるし、そこから更に他人の視線を集めるような奇異さは私にはないわけだから、その最初の一瞬だけ我慢すればいいわけですが、それが耐えがたい苦痛なのです。何を見る必要があるのか?何を確認する必要があるのか?普通に生活してて未確認生命体とかがお前に近づいてくるとでもいうのかよ!大概はごくごく普通のどこにでもいる人間が歩いてるんだから…いちいち見てくんな!と言いたい。

そう、言いたい。言いたいんですが、上記のような話は全部自分にも跳ね返ってくる話なんです。私も他人の存在が気になる。他人が私を変な目で見ていないか、という確認でもあることはあるんですが、あれは何故なんでしょうねえ、大抵はごくごく普通のどこにでもいる人間が歩いているというのに。

それでも意識がある時は視線の加害者、被害者どちらにもならないよう下を向く、目を瞑るなどの防御策を講じていますが、なにも考えずにボーっとしているとつい他人を眺めてしまったりします。その度に私は「ああしまった!」と自己嫌悪に駆られる。あれだけ自分がやられて嫌なことを他人にしてしまった、と思って。でも結局私がどんなに他人を見ないように気をつけても凶悪な他者は常に不躾な視線を投げつけてくるわけであって…私が気をつけても意味はほぼ無いといえる。

自分がやられて嫌なことは他の人にもやっちゃだめ、というのは多数派の間にのみ成立する話です。私が自分がやられて嫌なことを他人にしないように、と思ったら本当に腫れ物に触るように接しなければならず、相当疲弊します。というか半分ぐらいは現になってるんです。私と同じ人間なんていないんだからそこまで気を遣う必要はない、と思いながらもこれをやったら相手が気分を害するんじゃないかと気が気じゃない。

そうか、私が他人に気を遣うのは自分がされたくないことがあり過ぎるからだったのか。対人関係における想像力の乏しい私には、相手の感情は自分の体験に照らして類推するしか方法はなく、その私の体験は大概の他人は一生味わうことはない。思いっきりずれている。そりゃ疲弊するわ。うまくいくはずもない。

話を戻そう。視線。飛びぬけて容姿にコンプレックスがあるわけでもないし、内面なんて外から見て分かるはずないんだから、そこまで他人の視線に怯える必要もなさそうなもんですが、実際問題、生活に影響が出ている。一歩外に出ればそこは視線地獄。その日その日のコンディションによって許容量は違うのですが、具合が悪い時は自分の歩いている道に他人が一人いるだけで気分が悪くなる。すれ違うだけでも凄まじいストレスである。人間なんてこの世からみんな消えてなくなればいいのにと思う。無論私は例外で。

自分の被害妄想やコンプレックスを客観的事実で抑え込むのは至難の業です。長年自虐によって歪んだ目で世界を眺めていればそれは本人にとっては強固な真実となる。私もそう。私が見る世界は歪んでいる。他人もそうだし、もしかしたら自分さえも。私はこの世界の誰よりも愚劣で無能な人間である。この事実とどう向き合っていくかが大事であり、この事実を「そうじゃないかも」なんつってひっくり返そうとしようもんなら大変なことになります。

だからもうなんだったら自らを愚劣で無能な人間に近付けるべきなんです。自分の被害妄想と客観的事実をなるべく同じにしたいと思ったら、被害妄想を修復するより愚劣で無能な人間になる方が楽だし、そっちの方が今の自分を変えずにできる。私の自己認識は常に合ってなきゃならない。誰からも嫌われ軽んじられる私でなければ。

これを視線の話に当てはめると、常に他人から冷笑、白眼視されている「気がする」のだから、もう実際に疑いようもない形で冷笑、白眼視されればいい、ということになる。それはそれで結構ハードル高いな…。

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