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2009年5月27日 (水)

虚無主義関連の話

なにかっていうと記事の内容と関係なく虚無主義の話に発展するので、とりあえず虚無主義や善悪についての議論はここ、と決めてしまいます。

「議論」というカテゴリーは前からあって、記事が一件だけ入ってたので、今後は記事と関係のない議論が勃発した場合はここに記事を増やしていくことにします。

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2009年5月21日 (木)

最近のニヒリスト事情

最近なぜか。休憩時間になると私を中心に人が集まってくるんですよ。いや、もちろん主流グループとは別の3人のおばさんが、ですが。

私は休憩時間になるとまず3つしかないパイプ椅子を確保し、日の当たらない隅の方に座る。そうすると私とちょっと仲のよいおばさんが隣に来て、そのおばさんの知り合いも隣に来て、もう一人の人も、という具合で、本当になぜか、私を中心に休憩時間が進行するんです。私が座ってる場所があの人達の定位置だからそうなる、ということでもなくて、私がどこに座ってもなぜかそうなる。

この私を入れて4人になるメンバーの共通点が何かといえばそれは「仕事ができない」ということ。私が「全体のことはよく分からなくって~」とか言えば「そうそう、もう言われたことだけやるって感じよね」とか「ここは首から下を使う仕事だと思ってやってる」とかなるし、他にもあそこのレーンは早くて大変よね、とか、あそこはプレッシャーかかりますよね、とか、そんな話をしてる時はみんなの目が輝いている。自分だけではないと思いたいのだ、人間は。

とはいっても。おばさんはどうあってもおばさんで、休憩時間中私がそんなに喋っているわけでは当然なく、喋ってるのは主に別の二人。私はその話を黙って聞いて、適度な相槌、適度な笑顔を欠かさずに…って無理~。今日なんかはもう最初から機嫌がよろしくなく、完全にスイッチが切れてしまい、どんな顔をして隣に座っていていいやら苦慮しました。

あまりつまらなそうな顔をしていると想定外のトラップがあって、おばさんは何も言ってこないけど(まあ話に夢中だし、私も話しかけられればちゃんと対応するし)、なんと職場きってのクソオヤジが「休憩時間苦痛でしょ~、話の合う人がいないもんね」とかいって話しかけてくるんです。「ああ、お前が話しかけてくるせいで苦痛だよ!」といつも思うの。自分に甘く他人に厳しい基本的に腐ってる人間なんだもん。いつも「チッ、死んだらいいのに」と仕事振りやその他の言動を見て思ってるんだ、私は。

大体同世代の人間がいれば話が合うだろうみたいな言い方をすぐするんだけど、私はそもそもこの国に話の合う奴がいるかどうかからして怪しいんだよ!同世代の女?勘弁してくれよ、そんなんだったら「チーム仕事ができない」のおばさんの方が絶対マシ。私がつまらなそうな顔をしてることをフィーチャーされることからして迷惑なんだよ、私だってそれなりの顔をして隣に座ってようと思ってることは思ってるんだから…。

で、結局周りからは「大人しい人」だと思われちゃってるみたいだし。つまんないよね、黙って座ってるか当たり障りないことを言うだけなんて…。当たり前の話なんだけど、毒舌封印も最近はちょっときつい。頭の中で考えてるだけでもエスカレートして顔に出そうだから本当に何も考えないようにしてるんですが、そのうち何か言ってしまいそうだ。

しかし私が素で言葉を発せばきっととんでもないことになる。この前なんて「天気予報は余計なお世話が多くてうるさい」って言っただけで「過激」って言われたんだもん。まあ例によってスイッチが切れて表情に苦慮したまま長時間の休憩に耐えた後だったので不機嫌っぽくなってたことはなってたけど。

私が言いたかったのはこういうことなの。最近の天気予報は腐っている。やれ洗濯日和だのやれ爽やかな一日になりそうです、だの…。余計なお世話なんだよ。晴れてりゃ洗濯日和なことなんて誰にだって分かるでしょ?それをいちいち天気予報ごときに言われたくないし、「何?それは洗濯しろっていう命令?」といつもイライラする。

爽やかな一日なんてのは論外で、なぜこうも健常者目線なのか?と思う。世の中晴れに爽やかさ、清々しさを感じられる人間ばっかりじゃないよ。爽やかかどうかは「私が」決めることであって多数派の価値観をいちいち押し付けてくるんじゃねえ!たかが天気予報風情が!お前は天気と気温だけを淡々と伝えてりゃあいいんだよ!…次に「行楽日和」とか言ったら殺すからな!

と、天気予報には並々ならぬ思いがあるわけですが、もちろんバイト先で言ったのは「最近天気予報も余計なお世話が多いですよね。洗濯日和とか、うるさいんですよね」だけです。まあ正確には「うるっさいんですよね」だったかもしれないけど。もちろん話の文脈からも逸脱してません。それでも過激って言われるんだもん。私はまだ10%の力も出してないのにぃ。

しかし誰からも排除されたりいじめられたりしてこなかったことに対して、少数派としての自信を失いかけていた時だったのでその意味ではよかった。やっぱり私は少数派であった。余計な事を喋ってはいけないよ。黙って座っているんだ。

というわけで。今のバイトは「チーム仕事ができない」に所属しつつ細々と頑張ることになりそうです。

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2009年5月10日 (日)

人間たるもの

ついつい徹夜しちまった。5時起きで6時から9時のバイトをしながら土日は徹夜ってのも若いからできるんだろうねえ。

今日未明に不気味な笑みを湛えつつ書いた「人間たるもの」をどうぞ。

人間たるもの。常に自嘲を本分とすべきである。自分の身の程を弁えるべきである。自分が最低であるということに全力を懸けるべきである。

何事もケースバイケースで常にこうあるべきだ、と言い切れることは非常に少ない。しかしその中でも自嘲は別格である。これ無しには何も始まらない。これが無い人間などに一片の魅力も見出しようがない。しかし。その自嘲に酔うことは許されない。それは自嘲など縁のない、一度も鼻をへし折られたことのない人間よりも数段上の醜悪さを世に晒すことになる。

例えば。自分が謙虚であると思うのは一種の思い上がりである。自分は傲慢であるということを自覚することこそが「正しい」認識だ。しかし。これだと「私は謙虚であると表明することは傲慢である」から、「私は自分が傲慢だということを自覚しているのだ」と言うことよって一段上の謙虚さを得た気になっていることになる。醜悪。傲慢の極み。しかしこの醜悪さには終わりがない。そうやって一段上の謙虚さを得た気になっている傲慢さに気付いた自分は謙虚、みたいなのはまた傲慢で、以下ずっとこのような感じでエンドレスです。

そういうわけで、自嘲には終わりがなく安らぎもない。自らが醜悪である、というか人間自体醜悪であるな、ということに気が付いたからといって、自分自身の徳が高まったりとかは一切しないのである。最低な人間が自分が最低であることに気が付いたからといって最低じゃなくなるわけじゃない。ここ重要。気付いてない人間よりはマシとかも基本ない。そりゃあ「あの思い上がりのクソ野郎よりかは私ってば人間できてる」とか思う時もある。でもやっぱりそれは錯覚で、私の振り切れた最低さはそんな雀の涙、ハチドリが運んだ雫程のものじゃプラスに転化しようもありません。

正直他人なら、そういうことを痛いほど自覚してる人に対して「カッコいいな」とか「私もああなりたい」とか思うけど、自分となれば話は別。その人だって自分がカッコいいなんて思ってないわけだし。そう思ってたら私もカッコいいなんて思わないわけだし。奇妙なバランスが成り立ってるのよね、ここには。

こうだ、と言い切った傍から価値が、疑惑が、滑稽さが、醜悪さが、頭を擡げてくる。そうじゃないんだと抑えにかかればまた別のところから軽薄で傲慢な「奴」が。結局のところモグラ叩きのようにそれらをぶっ叩きながら、醜悪な様を晒して生き続けるよりほかないのである。と言い切るとまた「生き方を悟ったような顔しやがって気持ちが悪いんだよ!」という自分の声が…、今度は「それは私自嘲あるんだアピールですか?」という突っ込みが、何を言っても滑稽さからは逃れられないのね…、となれば「今度は悲劇のヒロインかよ!」と。

しまいにゃ何も書けなくなりそう。「だったらやめろ、お前の文章なんて誰もお呼びじゃねえよ!」

…私は謙虚な人間である、私は傲慢な人間である。このどちらにしても、こう言い切ってしまって差し支えない人は結局どこかで自分の傲慢さ醜悪さに目を瞑って、あるいは全く気が付かずに生きている人と言えると思います。とても健全で素晴らしいと思いますが、魅力的ではない人。

自らの醜さに身悶えながら、吐く言葉、記す言葉すべてが、世に触れるたび強烈な羞恥に襲われる。しかしそれでも何故か何事かを発信し続ける人。そういう人はたまらなくセクシーだ。魅力的だ。そそられるね。

人間たるもの。常に自嘲を胸に抱いて行動すべきである。自嘲を。自虐を。自滅を。自壊を。

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