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2009年6月28日 (日)

多数派、少数派について

多数派、少数派の定義から、お互いの批判や問題提起まで、「相互理解」の礎となるような話をよろしくおねがいしますよ。

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2009年6月27日 (土)

臓器移植法改正

今回のような拙速な議論の進め方には危機感を覚えます。特に先ごろ衆院で可決したA案は本人の同意がなくても家族の同意だけで、15歳以下の子供から成人に至るまでの臓器提供を可能とするものであり、もっと分かりやすく言えばA案は本人が生きられるところまで生きていたい、と思っていたかもしれなくても、家族の同意だけで生きている人間を死体にできる法案です。

A案では現行の臓器移植法で「脳死した者の身体とは、その身体から移植術に使用されるための臓器が摘出されることとなる者であって脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止するに至ったと判定されたものの身体をいう。」となっていたものの前半部分が削られ、「脳幹を含む全脳の機能が~」の部分だけになっています。脳死は人の死だというわけ。なぜそんなことを法案でハッキリさせる 必要があるのか。何をもって人の死とするかは言うまでもなく、宗教や思想の違いによって様々です。それを法律によって「脳死は人の死である」と言い切ってしまうことには違和感を感じる。

というとA案の提出者は「生前に拒否してもらえれば臓器が提供されることはない」だの、「脳死を人の死と認めない人は法的脳死判定を受けなければよい」だの「臓器移植以外の場では脳死が人の死となることはない」だの抜かすのですが、そんな問題ではない。

脳死は「原則」人の死であり、認めない人は拒否「することができる」というその姿勢こそが問題なのです。その「原則」をだれが何の根拠で決めたのか?「することができる」ってなに?そんなことは当たり前でしょう。臓器を提供しない権利、脳死を人の死と認めないという当然の権利を「原則とは違うもの」と法律が規定すること自体考えられません。

臓器移植以外の場面では脳死を人の死とはしないというのも矛盾だらけです。だったら現行の臓器移植法の「脳死した者の身体とは~」の部分を削る意味もないし、脳死が人の死ではないのなら、当然その患者はあらゆる意味で生きているわけで、生きている人間に対して本人の意思確認なしになぜ、無呼吸テストを含む患者の生存を損なうような法的脳死判定を受けさせることができるのか。

というのは衆院の厚生労働委員会でC案提出者の阿部知子氏がしていた質問です。それに対するA案提出者の答弁は「A案では本人の意思が確認できなくても家族が法的脳死判定を受けさせるかどうか決めることができる」の繰り返しで、阿部知子氏の再三再四の要求にもそれが「なぜ」であるのかは一度も説明しなかった。彼女の質問によって、私はA案の問題点をとてもよく理解することができました。

全てに通底するのは「どうせもう目覚めないんだから。あとはもう死ぬだけでしょ、移植を受ければ助かる人がいるんだからそういう人に命を譲れよ」という態度です。私にはこれが我慢ならない。二度と目覚めることがなかろうと、人工呼吸器なしに生命が維持できなかろうと、その時点ではすべての人間と等価な命です。誰がこれが死であるという原則を強いることができるのか?誰が本人の意思と無関係に臓器を取り出すことができるのか。

臓器移植を推進する人達はいとも簡単に「助けられる命」という言葉を使う。本当にそうでしょうか。正しくは「家族がまだ温かく、心臓も動いている身内から人工呼吸器を取り外し死体にするという重い重い決断を下して初めて」助けうる命です。そこの葛藤が、苦しみが明らかにすっ飛ばされて臓器移植が語られている。助かる命ばかりが強調され、脳死患者は他人を助けるためのパーツとしか見なされない。

死んでも尊厳がある。人権がある。自己決定権は自らの死後の死体の処理にまでも及ぶはずです。しかしA案では明確な拒否をしない限り、臓器移植の波へと強制的にのみ込まれてしまう。家族という他人の意志によって。こんな重要な問題が「グーグル方式」のような軽率なやり方で決まっていってしまっていいのか?拒否しない限りは勝手に家の写真を公開する。勝手に本の内容をデータベース化する。それですら揉めているのに、臓器提供のような命にかかわる問題はなおさらです。常に危機意識を持って拒否の意思表示ができる人はいい。しかしドナーカードだって普及率はせいぜい数%です。

今の議論は脳死患者やその家族に対して当然払われるべき敬意が払われているとは言えず、それどころか最低限の礼を失していると思う。少しでも長く生きていて欲しいという家族として当然の情が、生への過ぎた執着として非難され臓器提供を促されるような状況が生まれないとは言い切れない。そのような状況では私は他人に臓器を提供する決断を下せない、というか下したくない。

臓器を提供しないということを選択した結果、僅かでも非難がましい目を向けられる社会があるとすれば、またそのような社会を創る可能性が法案にあるとすれば、私はそれに断固反対し続けるし、それを態度で示す。だから私はドナーカードの「臓器を提供しません」に丸を付けて持っていることにした。

申し訳ないけれど、私のこの態度が風向計のようなものになると思う。私のこの意志表明に対する周りの反応を見れば、臓器提供をしない選択に対する風当たりがよく分かる。

臓器を提供しない権利、家族にぎりぎりまで生きていて欲しいと願う権利が100%なんの妨げもなく認めらている状況があって初めて、純粋な善意が発生しうるのです。良心の呵責や、周りからの圧力などの不純物が1%でも含まれていてはならない。助けられる命だなんだと言ったって、他人の生存権をないがしろにして助かっていい命など一つもないんです。

だから、私は臓器を提供しない。A案提出者の連中のような無神経な議論の進め方をする人間がいる限り。臓器提供を強要するような社会の目がほぼゼロにならない限り。これは当然の権利です。

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2009年6月17日 (水)

にんげんあれるぎー

最近精神の具合があんまりよろしくないようです。他人への嫌悪感の倍増。それに伴って外出時の疲労も倍増。非日常の疲れや緊張から出ることがある手の震えも日常に進出してきた。

だからなのか、外に出て不快要因と接していると「あなたが嫌いなものはなんですか?」「はい、それは人間です」という無意味な問答がずっと頭の中をぐるぐる回っていて、それは次第に「人間が嫌いだ、人間が嫌いだ、なんでこんなに人間がいるんだ」という繰り返しに変わり、外を歩いている間はずっとそれに取りつかれている。

まだある。何かものを見るとそれを破壊する映像が無意識に頭に流れるようになった。木々は燃やすか真っ二つにへし折る。アスファルトにはつるはしを。車はフロントガラスを叩き割りボディをべこべこにする。家は窓に石を投げ外壁を破壊。信号機は割る、そして折る。看板もバス停も花壇も自動販売機も…人間も。どうやら破壊衝動があるらしい。

私はこれを実行に移さない、移せない理由を考えてみたんだけれども、やっぱり私は人の注目を集めるのが嫌なようです。人の目は怖い。そんな感情の発露を他人に見られるなんて不愉快だ。もしうっかり外で私が破壊をやっちゃったら、即座に「そういう目」で見られていることにいたたまれなくなり「そんな目で私を見るな!」とかいってそいつらに危害を加え始めるんだろうね。どっかで聞いたような話だよ。

まあ後は警察に連れていかれたら侮辱を受けるだろうという予測と、それらを勘案し破壊しない判断を下せるだけの理性(余裕とも言える)が私にある、というのが破壊を行わない大きな理由。踏みとどまってるねぇ。実に善良だわ。

話は変わりますが、私は最近ドクター・ハウスという深夜の海外ドラマを見ていて、それがとても面白い。主人公の医者は患者は絶対嘘をつくという信念を持っていて、診察が大嫌い。その上シニカルで、この世界全般に対して冷めている。愛だの希望だの言われると心が腐るタイプの人間にはとっても心地がいいドラマです。

患者の症状から何の病気かを推理していく一話完結ものなんですが、その中ですべての症状の原因が結局15歳の時にいれた銅製の十字架の避妊具だった、という回がありました。要するにその患者は銅アレルギーで、長い間アレルゲンに晒され続けた結果、臨界点に達したとき凄まじい症状が出てしまったというわけ。それを見た時思ったんです。私のアレルゲンは人間なんじゃないか、と。

確かに今は何の症状も出ていないけれども、これをこのまま放置して人間と関わり続ければ、いつかとんでもない症状がでてしまうかもしれない。というか、もしかしたら今もうすでに症状が出始めているのかも。明らかに許容範囲が狭まってきているのは分かる。東京の殺伐とした街頭、駅頭の雰囲気の一端を自分が担ってしまっているということも…。どんどん外を歩く際の目つきが悪くなっている。しかしこっちだって必死なのだ。自分を守りながら外を歩くのは容易なことではない。

これでもまあ、何年か前より改善されてはいるのです。何年か前の私はまず表情の固定ができなかった。どんな顔をして歩いていれば「普通」なのか?答えは見えず、とにかく下を向いて顔をムズムズさせながら歩いた。それと立ち止まって時刻表を見たり、席を立って飲み物を買いにいくなどもNG。少しでも他人の目を引く行動とりたくなかった、というかとれなかった。

今は一応表情は定まるし、時刻表も見れるし、飲み物も買える。でもそれは「な~んだ、みんなが私を馬鹿にしてるなんて被害妄想だったんじゃ~ん」という朗らかな方向転換によってではなく、「見るなら見ろ、馬鹿にするなら馬鹿にしろ」という血の滲むような開き直りによってです。根本的な問題は何も変わってない。世の中の人間は私を馬鹿にする。絶対に。徹底的に。

開き直ったとはいっても無論まだ完全ではない。疲労や嫌なことによって許容範囲が狭まってしまえば、明らかにそのような視線は苦しい。しんどい。しかも今は上記のような精神状態で、コップの水は常に六割がた満たされている状態。早くこの不愉快な水を捨ててしまいたいけれども、それも叶わない。残りの四割でなんとか持ちこたえて、なんとか踏ん張って、もう疲れました。

それに輪をかけて厄介なのが、私にこの「被害妄想」を克服する気が一切ないということです。「自分に自信を持とう、あなたは十分魅力的」系の自己啓発の一切を受け付けない鋼の卑屈精神。私は世の中から馬鹿にされ蔑まれる「べき」だという無根拠な自信。まあそういうところが可愛くて仕方がないんだけどね…。最も劣ったものであるからこそ、私にとっては最も愛すべき存在なのです。超屈折。

結局、被害妄想から解放されて楽になってしまったら、また別の苦悩が生まれるんですね。それは個性の喪失であり、自分が誰であるかを説明する術をなくすという苦悩。

これらを踏まえて私にできることは「開き直り」をもう一歩二歩進めて、許容範囲を広げること。今までもそうしてきた。今はとにかく六割近く満たされてしまったコップの水を蒸発させるところからです。普通の水は熱や太陽の光で蒸発するけど、私は違う…ということで窓に段ボールを貼ってみた。早く水がなくなるといいな。

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2009年6月 7日 (日)

民主党代表選

今回は久々に政治ネタを。やや時間が経ってしまって熱が冷めつつはあるんですが、民主党の代表選とかについてつらつらと。

民主党の代表は鳩山氏になりましたが、私も大多数の例に漏れず「岡田の方がよかった~」と思いました。

まあ小沢氏が辞めた段階では民主党の代表が誰になるかなんてことにはこれっぽっちの関心もなかったので、そんなものはさっさと内輪で決めちゃって政治をちゃんとやって欲しいと思ってたんですが、これがテレビなんかを見てると岡田氏が意外といいこと言ってたんです。

例えば官僚に対してなんですが、「官僚の人達だって最初は国民のため、日本のために仕事がしたいという思いで入ってきたはずで、そういう初心を思い出させるような政治をやらなきゃいけない、叩くだけでは駄目なんだ」というようなことを言ってました。

最近は何でも悪者を作ってそれを叩いてさえいればいい、みたいな風潮がマスコミの腐敗とも相俟ってかなり強いわけですが、そういう中でのこの発言に冷静さを感じたのです。政治は特にですが、物事は是々非々です。いいものはいいし、悪いものは悪い。善はこれ、悪はこれ、とおおざっぱに二分して騒ぐのは世論やマスコミに対して受けはいいんでしょうけど、それは結果的に必要なものまで削ってしまったり、無駄を蔓延らせてしまうことに繋がる。小泉改革なんてのがその典型。

その点、鳩山氏は浮ついている印象。今回の代表選の期間中も国民の感情に訴えかけるような抽象的な話が多かったし、今までも常に隙あらば馬鹿な大衆を味方につけて民主党を浮揚させようという態度が見え隠れしてたし。大体世論なんて汚いものです。ちょっとでもケチがついた人間は集団リンチ、なにやら格好がいいものは是非もなく持て囃す。そんなものにふらふら付いて回ってるようじゃ駄目なんです。

「友愛」だか何だか知らないけどさあ、政治家が愛を語るんじゃねえ、政策を語れ!と私は思うわけです。大体私はそういう選挙時の情動みたいなものが大嫌い。集団熱狂(発狂じゃねえかとも思う)的な翼賛世論になってくれるのを…隙あらば狙って待ってるんでしょ。「何をどう」が抜けたまま「変える、変える」と喚き散らすパフォーマンスはもうウンザリ。国民が馬鹿だからって諦めて雰囲気でなんとかしようとするのはやめて欲しいよね。

それと、そもそも代表選自体、議論がものすごく低調でした。これは日本人の、議論を戦わせることと相手の人格を否定することとは別、ということを理解できない国民性にも由来するのかもしれませんが、政治家としては情けない話です。「政策を一緒に作ってきた仲間ですからそれほど違いはないわけですが」とか、「敵はお互いというよりは自公政権ですから、政権交代に向けて全員野球で」とか、そんなのは選挙が終わってから言うことでしょ?

お互い代表選に立候補したからには自分でなければならない理由、相手候補との違いをしっかり表明しなければならないはずなのに、それはなされなかった。選挙ではガチンコでやりあっても、終われば挙党一致で政権交代だ、という洒然とした対応がとれる人間が民主党には少ないのね。その点では岡田氏も歯切れが悪かった。政権交代という目標のために挙党一致でいきたいというのも分かるけど、そんなことなら代表選なんてやる必要がなかった。

マスコミは代表が鳩山氏に決まってからというもの、やたらと「岡田さんが代表だった方が選挙で有利だったのに」みたいなことを言っています。それを民主党の人間が言うなら分かるけど、あんたらマスコミが言うのは違うだろ、と思うのは私だけ?代表というのは選挙に強いか否か、支持率が高いか否かだけで決めるものなのでしょうか?そこはやはり政策や政治家としての資質などを総合的に判断して代表にふさわしい人間をきちんと選び、国民に理解を求めていくというのが普通でしょう。

それをマスコミ自体が政治の質を落とすような、国民受けがいい奴を選んで雰囲気で選挙に勝てばいい、というようなことを言うのはもってのほかです。岡田氏と比べて鳩山氏に明らかな瑕疵があるならともかく、ただ単に小沢氏に近かった、国民の支持が岡田氏より下、というだけで鳩山氏を代表に選んだことに対する批判を繰り返すならそれは見当違いというものでしょう。

やたらと「民主党は変わったか」という質問を街頭インタビューにかけて「鳩山さんじゃ何も変わらないわ」みたいな回答を引き出していたのも気になる。そもそもだれがいつ「民主党を変える」と言ったのか?誰も言ってない。民主党の人間は「政権を変える」と言っているのです。挙党一致で政権交代だ、と。西松の問題では小沢氏の説明責任は認めるものの、検察の捜査に問題があったというのが民主党の姿勢なんだから、「小沢色」を必要以上に消すのは矛盾になってしまう。

マスコミの検察リーク垂れ流し報道でケチがついたから違うものがみたい、という国民の馬鹿欲求にいちいち答えていかなければならないのでしょうか?別にそんなものにとりあう必要はないでしょう。

選挙期間が短かったのも私はよかったと思います。福田が総理を辞めてさあ総裁選だとなった時、自民党が5人も候補者を立ててだらだら時間を割いたのを見て私は腐ってんな、と思いました。そんなことでテレビを占拠して、しかもそれで思惑通り支持率が上がるというのがまた腹立たしかった。雛鳥の刷り込みじゃあるまいし…、この国の人間はテレビで見た人間をそのまま好きになるのか?いい加減にしろっつーの。

同じ党にいて行動を共にしてればある程度はその人間の政策や政治家としての資質は分かるでしょう。判断材料はそろってるんだから、今回のように5日もあればふさわしい人間を選ぶことは十分にできる。それも含めて、今回の民主党の対応は現実的でよかったと思う。まあだから私が今後民主党を支持するかといえばそれは全く別の問題だけどね。

最後に、鳩山代表は自民党からも「具体性がない」と突っ込まれるような「友愛」なんて概念はもう口に出さない方がいいと思うね。大体私は愛だのなんだの抜かす奴は嫌いだ。その点やっぱし岡田の方が仏頂面でグー。

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