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2010年5月12日 (水)

惨め。

私のフリースクール時代って惨めだったなぁと最近よく回想する。9歳の時から7年半ほど通わせていただいたのですが、どう考えても「楽しかった」と総括する気になれない。最近色々と家の中を片付ける機会があって昔のものとかも出てくるんですが、そうするとやっぱり気分が重くなるもの。

無論、学校なんかに通っていたらと考えたら天国のような場所だったと思うし、私がこうなれたのも(こうってどうだよ突っ込みはまた後ほど)あそこに通っていたからだとは思う。楽しいことだってあったはずだし、孤立もそれほどしてなかったし、でもなぜか総体として思い出した時「惨めだった」という言葉が自然と出てくるのです。

恋愛がうまくいかなかったということは大きく影響していると思う。挫折に次ぐ挫折、恥を上塗りし過ぎて何某かのものが一回りも二回りも大きくなった気がするし、そういうことを思い出すとやっぱり楽しかったことに意識が向かないくらいに陰惨さが際立ってくる。

ここでやはり主観と客観との差を実感するよね。客観的な事実を述べるならこう。学校を早々に離脱し、何事も強制されることのないフリースクールに出合い、そこに居場所を得て、うまくはいかなかったけど好きな人だっていて、楽しい十代を過ごしたのです。

でも主観的には全然違う。人と関わる際はいつも腰が引けていて、何某かの不全感を絶えず抱えていて、なにも理由がなくても苦しかった。自分の置かれている状況を考えただけで自由に泣ける時期だってあった。なんで私だけ、と結構よく思っていた気がする。

原因を色々探るとこれは場所の質云々ではなく、そもそも人と関わるということの問題からきていると気づく。私は人と関わると惨めになるのです。これはこの世の中のほぼすべての人間と成り立つ原理。私にとって他人とは自分を惨めにし貶める存在でしかない。だから他人との思い出はいつも虚しい。対等だったことなんてないもの。

そう考えればどこかに所属していたことなんかがいい思い出なはずもない。毎日毎日人の中にいれば惨めになる機会だって今の何十倍、何百倍です。これで「惨めだった」という言葉以外に一体何が出てくるというのか。

これは何か特定の事柄についての劣等感からくるものではなく、まさに「私が私である」というところから発生しているものです。学歴がないとか、フルタイムでちゃんと働いてないとか、ネクラだとか、そういうことを引け目に感じることは全然ない。私は自分自身そういう世間的価値は追わないし、他人のこともそういう基準で判断しないからね。

じゃ、何が問題なのかといえば、やはり前述の通り「私が私である」ということになります。これは付加価値の問題じゃない。私が今後何を改善しても、何を身につけても、そのベースとなる自分自身がどこか超越的なところで劣っているという感覚、もっともらしく言えば超越的自虐みたいなものが私にはある。これは多分救いようのないことで、もう死ぬまでこうなのだと思う。何がどうだからという理屈では説明、解決できない問題。

でもその一方で不思議なことに私は自分のことが誰よりも好きなんです。人より劣っていても私には関係ないし、むしろ劣っているから好きなのかもしれない。そういう屈折した自己愛が私の特徴で、自分を誰よりも下位に置いた上で「他の誰よりもお前がいい」と自分自身に声をかけてやることで、うまいこと均衡がとれているというかなんというか。

だから、私にとって他人と関わるということは最下位だと見せ付けられること、すなわち惨めになるということで、一人でいるということは「お前が一番」という声をずっと聞いていられるということです。こうやって整理すると私がなぜ人とうまく関われないのかについての答えがくっきり見えてきます。一人の時間よりも他人と過ごす時間が増えれば破滅だということもね。

私が人からの愛で癒される日は来るのかしら。今のところ大概の善意は惨めさに打ち消されるか悪意に変換されるかして私のもとには届きません。人といることでは幸せになれない人間なのかな、私は。

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