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2010年12月21日 (火)

日比谷公会堂で集会「死刑のない社会へ」に参加

先週の日曜日、日比谷公会堂で行われた「死刑のない社会へ 地球が決めて20年」という集会に参加してきました。死刑については常に関心を持ってきたつもりでしたが、やはり日々の生活の中でおざなりになってしまっていた部分もあって、今回色々な人の話を聞くことによって問題意識が呼び覚まされる思いでした。

いつも「私は死刑制度に反対です」と、こう言うのは簡単なんですが、「なぜなら…」と二の句を継ごうとするとはなんだかもやもやしてスッキリしない。もちろん考え始めれば理由はたくさんあるし、死刑制度の廃止を望むという意思が揺らぐことはありません。でも、弾丸のように理由を列挙し「ほらね、どう考えたって死刑廃止すべきなのよ」と爽快に言い切るだけの思い切りの良さは私にははどうもないのです。

色々な反対の理由を挙げてみると、やはり命は大切だなと思いますし、殺されたら殺し返すという報復の連鎖は断ち切るべきだとも思いますし(それも個人レベルならまだしも国家が被害者感情を汲んで処刑を断行するなど刑罰の範疇を激しく超えている気がする)、どんな凶悪犯罪者でも私たちと同じ人間ですから、殺して排除するのではなく社会の中でその人をどう扱っていくかということを考えるべきだとも思っています。

そして何より、私は処刑が嫌なんです。生きている人間の手足を縛り目隠しをし、首に縄をかけ床板を外し死に至らしめる。その光景を生々しく想像すればするほど「こんなことがあっていいのか」と叫びたくなる。あまりに恐ろしく、あまりに凄惨なその処罰が今の日本で受け入れられてしまっている、「仕方がない」と片付けられていることを思うとやり切れない。殺されて仕方がない命などない、正しい殺人などないのだと私は言いたくて、死刑は絶対に日本から、全世界からなくならなければならない、と愚直に思うのです。

しかしまあこれらの主張はとても情緒的です。私の気持ちの本当のところではありますが、これを言っても死刑はなくならないし、情緒に頼れば情緒で返される。つまり「じゃあ殺されてしまったこの人はどうすんだよ、帰ってこねーだろ」とか「被害者遺族の気持ちが」と言われれば私は黙るしかない。

私が情緒的に何かを語っても誰の共感も呼びません。むしろ嫌悪感を煽るだけです。私自身「誰かが処刑されるのは絶対嫌」という感情と「あの凶悪犯をぶっ殺せ」という感情とにどれだけの差があるのかはよく分からない。どちらも結局は生理的な反応なんです。理屈じゃない。その理屈ではない絶対に相容れないだろうと思われるそれぞれの反応が、死刑存置派、廃止派などに分かれて争っている。そんなことじゃないだろうという気もするのです。もっとお互いの生理的な反応を超えたところで、建設的な議論が行われていくべきだろうと。

ただそのように理性派ぶっても、私にもどうしても許せないことがあるのは事実です。「人を殺したんだから当然でしょ」というような発言を聞けば私も感情的な廃止派に早変わり。「その人がどういう経緯で犯行に及んだのかについてお前は思いを馳せたことがあるのか」とか「人を処刑するということがどういうことか、きちんと想像してみたこともないくせに」と言いたくなる。やはりこれは生理的な反応です。「だって嫌なんだもん」という。

結局のところ、私の死刑廃止論の出自は立派なものではありません。人の命は大切だからという天使のような考え方から出発したわけでもなく、ぶっ殺したくてたまらない凶悪な犯罪者をなんとか許して「やっぱり死刑はよくない」に至ったわけでもない。

私は最初から、加害者に共感していたのです。世の中に入っていけない感じ、人より劣っている自分を絶えず見続けなければならない感じ、誰からも顧みられない感じ、他の人が当たり前のようにしていることが自分にはできない感じ、等々。私だってずっとそれを感じてきた。惨めだった。私は色々な偶然的な要素によって、今は自己肯定できているし、この状態が維持できれば人を殺すことはないだろう。でもそうはいかなかった人たちがいる。救われなかった人たち。どうにも惨めで死にたくなるような状態から脱せなかった人たちがいるんです。そんな人たちを死刑台に立たせて殺すなんて私にはできない。

もちろんみんながみんな私が挙げたような人たちではないでしょう。色んな人がいる。でも私はどんな人にも「そうなった経緯」というものがあると思う。そしてそれは完全に個人に還元できる性質のものではなく、やはり社会が登場すべき問題であると思う。今のこの社会ではその人が人を殺そうとした時に歯止めになるものが何もなかった。何故だろう。その「何故」を考えるところから私は始めたい。わけのわからないキチガイが人を殺したんじゃない。私たちと同じ人間が、人間を殺した。なんとかならなかったのか。社会として止めることはできなかったのか。そういうことをとことんまで考えた末の刑罰であるべきだと思う。そしてそれに死刑はそぐわない。

死刑という問題は感情と理屈が複雑に絡み合っている。私は常々感情と理屈は分けて考えるべきだと言ってますが、死刑制度についてはそれが難しい。結局は人を殺すんです。人を吊るして死に至らしめる。命は大切だとか国家による暴力は許されるべきではないとか言ってみても、結局はそれに耐えられるか、それを望むかという感情的なレベルに落ち着いてしまう。

私は加害者の体に取り縋って「この人を死刑にしないで」と泣き叫びたい人です。気持ちが分かる気がするから。世の中で普通に生きている人よりも道を外れてしまった人の方に共通点が多くある人間だから。

人間には遍く感情がある。何が好きで何が嫌いか、何に嫌悪感を感じ何に共感するか。その感情の部分は自分ではどうしようもない部分もあると思う。私はつい加害者の存在に心が吸い寄せられる。でもそれは、その加害者が犯した罪を正当化したり、被害者の苦しみを軽視しているわけではないんです。そのことは分かって欲しいと思う。一人の人を想って涙を流すことに正しい場合と間違っている場合なんてあるんですか?私が秋葉原事件の加藤智大の孤独を思い心を痛めることと、多くの人があの事件で亡くなった人に心を痛めることと、そんなに違いますか。私は悪いんですか?

罪を憎んで人を憎まずという言葉もある。私は被害者の方にこの言葉を投げつけるつもりはもちろんない。でも私たちは、犯罪当事者ではない私たち社会の側は、やはりこの言葉を忠実に守っていくべきではないでしょうか。個人レベルでは「あいつが許せない、殺したい」という感情はあると思う。でも数と力を持った私たち社会の側が、一人の個人の死を願うなんて、そんなグロテスクなことがあっていいだろうか。私はいいとは思わない。

話が大幅にそれてきましたが、私はやはり自らの感情の傾向には自覚的であるべきだと思います。私は加害者に同調しすぎる。犯した罪の方もしっかり見て、被害者の気持ちを踏みにじる方向にいかないように自重すべきだと常々思っています。でも世の中の多くの人にはそういう自覚はないように思える。被害者は可哀相、加害者は化け物、私たちとは違う人間。そう思って死刑死刑叫んでれば事足りる。「もっと悩めよ!」とぶん殴りたくなる。

私だって「死刑をなくしたい、加害者だって人間だ」と言う時には被害者の存在を思ってます。それでいいのか、そう言うことによって被害者の人は、と考えますよ。でも世の中の多くの人は「死刑で当然」と言いながら更生の可能性について悩んだりはしない。死んで当然だと本気で思ってる。その揺らぎの無さが私は恐いんです。「なんなの?野蛮人なの?」と思ってしまう。もう断絶しているような気がしてくる。

最終的に私は死刑存置か廃止かということよりも、そこに至る経緯や、その人が自らの感情にどれだけ自覚的であるかの方が重要だという結論に達しました。いくら素晴らしい死刑廃止論を述べる人がいたとしても、それが当然だと思っていたり、自らの感情にあまりにも忠実であったりすれば、異なった立場の人に受け入れられない。それでは意味がないのです。

その意味で言わせてもらえば、パネリストとして参加していた中山千夏という人はなんたら思慮の浅い人だろうか、と思った。あまり書きたくもないのですが、あの人は殺人というのは常に間違いでなければならず、国家による正しい殺人なんてないんだという文脈の中で(これ自体は間違いではないと思いますが)、「間違って起こってしまった殺人はしょうがない」と言ったんです。聞き間違いかと思った。そのあとすぐに「被害者の方は大変ですけどね」と付け加えていましたが、そんなことは問題じゃない。

大切な人を殺されてそれが「しょうがない」と思えるか。「大変」の二文字で片付くか。答えは明らかです。死刑廃止運動の風当たりが強いのが何故かといえばまさにこの問題故であるはずです。「被害者遺族の感情を考えたことがあるのか」。とてもシンプルですが、とても強い言葉です。確かに、と一瞬思う。もちろん被害者遺族にも色んな人がいるのは知っているけど、死刑を望む人が多いのも事実だから。

だからこのことにはよくよく慎重にならなければならないし、デリケートな問題であることを自覚した上での発言が望まれるというのに、言うに事欠いて「しょうがない」ときたもんだ。このバランス感覚の無さは一体何なのだろう。運動に20年関わってきた人がこれではそりゃあ死刑廃止なんて無理だろう、と21才の私から言わせてもらいたい。他にも「森さん(森達也さんのこと)はよくあんなに存置派の人と話ができますね、私はもう気持ち悪くなっちゃって」とか「私は自虐的なのは嫌いだからこの運動がダメだったという話はしたくない」とか問題発言のオンパレードなわけですが、これではいかんと思う。

だから先程の、存置派か廃止派かというよりも、人間の資質の方が大事という話にもどるわけです。自らの感情に徹底して自覚的であり、自分を相手より道徳的に高い位置に置かないこと。死刑廃止を当たり前だと思わず、私が考えた結果の私が望む社会が死刑のない社会なのだという姿勢を貫くこと。大事です。私はそうありたい。そうあることで死刑をなくしたい。

死刑のない社会に向けて、自分にできることをやっていこうと思います。活動したい。

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