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2010年12月21日 (火)

日比谷公会堂で集会「死刑のない社会へ」に参加

先週の日曜日、日比谷公会堂で行われた「死刑のない社会へ 地球が決めて20年」という集会に参加してきました。死刑については常に関心を持ってきたつもりでしたが、やはり日々の生活の中でおざなりになってしまっていた部分もあって、今回色々な人の話を聞くことによって問題意識が呼び覚まされる思いでした。

いつも「私は死刑制度に反対です」と、こう言うのは簡単なんですが、「なぜなら…」と二の句を継ごうとするとはなんだかもやもやしてスッキリしない。もちろん考え始めれば理由はたくさんあるし、死刑制度の廃止を望むという意思が揺らぐことはありません。でも、弾丸のように理由を列挙し「ほらね、どう考えたって死刑廃止すべきなのよ」と爽快に言い切るだけの思い切りの良さは私にははどうもないのです。

色々な反対の理由を挙げてみると、やはり命は大切だなと思いますし、殺されたら殺し返すという報復の連鎖は断ち切るべきだとも思いますし(それも個人レベルならまだしも国家が被害者感情を汲んで処刑を断行するなど刑罰の範疇を激しく超えている気がする)、どんな凶悪犯罪者でも私たちと同じ人間ですから、殺して排除するのではなく社会の中でその人をどう扱っていくかということを考えるべきだとも思っています。

そして何より、私は処刑が嫌なんです。生きている人間の手足を縛り目隠しをし、首に縄をかけ床板を外し死に至らしめる。その光景を生々しく想像すればするほど「こんなことがあっていいのか」と叫びたくなる。あまりに恐ろしく、あまりに凄惨なその処罰が今の日本で受け入れられてしまっている、「仕方がない」と片付けられていることを思うとやり切れない。殺されて仕方がない命などない、正しい殺人などないのだと私は言いたくて、死刑は絶対に日本から、全世界からなくならなければならない、と愚直に思うのです。

しかしまあこれらの主張はとても情緒的です。私の気持ちの本当のところではありますが、これを言っても死刑はなくならないし、情緒に頼れば情緒で返される。つまり「じゃあ殺されてしまったこの人はどうすんだよ、帰ってこねーだろ」とか「被害者遺族の気持ちが」と言われれば私は黙るしかない。

私が情緒的に何かを語っても誰の共感も呼びません。むしろ嫌悪感を煽るだけです。私自身「誰かが処刑されるのは絶対嫌」という感情と「あの凶悪犯をぶっ殺せ」という感情とにどれだけの差があるのかはよく分からない。どちらも結局は生理的な反応なんです。理屈じゃない。その理屈ではない絶対に相容れないだろうと思われるそれぞれの反応が、死刑存置派、廃止派などに分かれて争っている。そんなことじゃないだろうという気もするのです。もっとお互いの生理的な反応を超えたところで、建設的な議論が行われていくべきだろうと。

ただそのように理性派ぶっても、私にもどうしても許せないことがあるのは事実です。「人を殺したんだから当然でしょ」というような発言を聞けば私も感情的な廃止派に早変わり。「その人がどういう経緯で犯行に及んだのかについてお前は思いを馳せたことがあるのか」とか「人を処刑するということがどういうことか、きちんと想像してみたこともないくせに」と言いたくなる。やはりこれは生理的な反応です。「だって嫌なんだもん」という。

結局のところ、私の死刑廃止論の出自は立派なものではありません。人の命は大切だからという天使のような考え方から出発したわけでもなく、ぶっ殺したくてたまらない凶悪な犯罪者をなんとか許して「やっぱり死刑はよくない」に至ったわけでもない。

私は最初から、加害者に共感していたのです。世の中に入っていけない感じ、人より劣っている自分を絶えず見続けなければならない感じ、誰からも顧みられない感じ、他の人が当たり前のようにしていることが自分にはできない感じ、等々。私だってずっとそれを感じてきた。惨めだった。私は色々な偶然的な要素によって、今は自己肯定できているし、この状態が維持できれば人を殺すことはないだろう。でもそうはいかなかった人たちがいる。救われなかった人たち。どうにも惨めで死にたくなるような状態から脱せなかった人たちがいるんです。そんな人たちを死刑台に立たせて殺すなんて私にはできない。

もちろんみんながみんな私が挙げたような人たちではないでしょう。色んな人がいる。でも私はどんな人にも「そうなった経緯」というものがあると思う。そしてそれは完全に個人に還元できる性質のものではなく、やはり社会が登場すべき問題であると思う。今のこの社会ではその人が人を殺そうとした時に歯止めになるものが何もなかった。何故だろう。その「何故」を考えるところから私は始めたい。わけのわからないキチガイが人を殺したんじゃない。私たちと同じ人間が、人間を殺した。なんとかならなかったのか。社会として止めることはできなかったのか。そういうことをとことんまで考えた末の刑罰であるべきだと思う。そしてそれに死刑はそぐわない。

死刑という問題は感情と理屈が複雑に絡み合っている。私は常々感情と理屈は分けて考えるべきだと言ってますが、死刑制度についてはそれが難しい。結局は人を殺すんです。人を吊るして死に至らしめる。命は大切だとか国家による暴力は許されるべきではないとか言ってみても、結局はそれに耐えられるか、それを望むかという感情的なレベルに落ち着いてしまう。

私は加害者の体に取り縋って「この人を死刑にしないで」と泣き叫びたい人です。気持ちが分かる気がするから。世の中で普通に生きている人よりも道を外れてしまった人の方に共通点が多くある人間だから。

人間には遍く感情がある。何が好きで何が嫌いか、何に嫌悪感を感じ何に共感するか。その感情の部分は自分ではどうしようもない部分もあると思う。私はつい加害者の存在に心が吸い寄せられる。でもそれは、その加害者が犯した罪を正当化したり、被害者の苦しみを軽視しているわけではないんです。そのことは分かって欲しいと思う。一人の人を想って涙を流すことに正しい場合と間違っている場合なんてあるんですか?私が秋葉原事件の加藤智大の孤独を思い心を痛めることと、多くの人があの事件で亡くなった人に心を痛めることと、そんなに違いますか。私は悪いんですか?

罪を憎んで人を憎まずという言葉もある。私は被害者の方にこの言葉を投げつけるつもりはもちろんない。でも私たちは、犯罪当事者ではない私たち社会の側は、やはりこの言葉を忠実に守っていくべきではないでしょうか。個人レベルでは「あいつが許せない、殺したい」という感情はあると思う。でも数と力を持った私たち社会の側が、一人の個人の死を願うなんて、そんなグロテスクなことがあっていいだろうか。私はいいとは思わない。

話が大幅にそれてきましたが、私はやはり自らの感情の傾向には自覚的であるべきだと思います。私は加害者に同調しすぎる。犯した罪の方もしっかり見て、被害者の気持ちを踏みにじる方向にいかないように自重すべきだと常々思っています。でも世の中の多くの人にはそういう自覚はないように思える。被害者は可哀相、加害者は化け物、私たちとは違う人間。そう思って死刑死刑叫んでれば事足りる。「もっと悩めよ!」とぶん殴りたくなる。

私だって「死刑をなくしたい、加害者だって人間だ」と言う時には被害者の存在を思ってます。それでいいのか、そう言うことによって被害者の人は、と考えますよ。でも世の中の多くの人は「死刑で当然」と言いながら更生の可能性について悩んだりはしない。死んで当然だと本気で思ってる。その揺らぎの無さが私は恐いんです。「なんなの?野蛮人なの?」と思ってしまう。もう断絶しているような気がしてくる。

最終的に私は死刑存置か廃止かということよりも、そこに至る経緯や、その人が自らの感情にどれだけ自覚的であるかの方が重要だという結論に達しました。いくら素晴らしい死刑廃止論を述べる人がいたとしても、それが当然だと思っていたり、自らの感情にあまりにも忠実であったりすれば、異なった立場の人に受け入れられない。それでは意味がないのです。

その意味で言わせてもらえば、パネリストとして参加していた中山千夏という人はなんたら思慮の浅い人だろうか、と思った。あまり書きたくもないのですが、あの人は殺人というのは常に間違いでなければならず、国家による正しい殺人なんてないんだという文脈の中で(これ自体は間違いではないと思いますが)、「間違って起こってしまった殺人はしょうがない」と言ったんです。聞き間違いかと思った。そのあとすぐに「被害者の方は大変ですけどね」と付け加えていましたが、そんなことは問題じゃない。

大切な人を殺されてそれが「しょうがない」と思えるか。「大変」の二文字で片付くか。答えは明らかです。死刑廃止運動の風当たりが強いのが何故かといえばまさにこの問題故であるはずです。「被害者遺族の感情を考えたことがあるのか」。とてもシンプルですが、とても強い言葉です。確かに、と一瞬思う。もちろん被害者遺族にも色んな人がいるのは知っているけど、死刑を望む人が多いのも事実だから。

だからこのことにはよくよく慎重にならなければならないし、デリケートな問題であることを自覚した上での発言が望まれるというのに、言うに事欠いて「しょうがない」ときたもんだ。このバランス感覚の無さは一体何なのだろう。運動に20年関わってきた人がこれではそりゃあ死刑廃止なんて無理だろう、と21才の私から言わせてもらいたい。他にも「森さん(森達也さんのこと)はよくあんなに存置派の人と話ができますね、私はもう気持ち悪くなっちゃって」とか「私は自虐的なのは嫌いだからこの運動がダメだったという話はしたくない」とか問題発言のオンパレードなわけですが、これではいかんと思う。

だから先程の、存置派か廃止派かというよりも、人間の資質の方が大事という話にもどるわけです。自らの感情に徹底して自覚的であり、自分を相手より道徳的に高い位置に置かないこと。死刑廃止を当たり前だと思わず、私が考えた結果の私が望む社会が死刑のない社会なのだという姿勢を貫くこと。大事です。私はそうありたい。そうあることで死刑をなくしたい。

死刑のない社会に向けて、自分にできることをやっていこうと思います。活動したい。

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思想」カテゴリの記事

コメント

えらく熱く語ってるね。
死刑廃止に向けてJMでも団結して…と言いたいところだが、オデは死刑存置派なんでね。
死刑自体は必要だと思います。

>殺されて仕方がない命などない、正しい殺人などないのだと私は言いたくて

そういう人が圧倒的多数派ですよね。「悪人など存在しない」っていう…。

しかしそういう性善説に基づいて平和ボケした社会を作ったら悪人の思うツボだ。
最近メールで話したブスでネクラな子の件だって、そういう子をバカにした美人は死ぬべきだろう。悪人だから。

JMは存置派と廃止派が対等に議論できる本当の意味での平和な場所にしたいですね。

投稿: オールドニック | 2010年12月25日 (土) 11時57分

私は悪人など存在しないと言っているのではなく、悪人でも殺すなと言っているのです。

そもそも善人だの悪人だのと断定的に語ること自体私の主義に反しますが、まあそこは明確な悪人がいるという前提で話します。

争いをなくし、平和な社会を創っていくためにはまず悪に対して寛容になることが必要でしょう。
自分を相手より道徳的に高い位置に置き「あいつは悪人だから殺すべきだ」と言った瞬間、対話の道は閉ざされます。
相手を人間としてではなく「悪」のレッテルを貼って見てしまえば、今後はそうとしか思えなくなる。
そしてそうやって「人間ではない」と判断した相手に対して人間はどこまでも冷酷になれるんです。

しかしそのような憎しみの応酬に終始していたのでは平和な社会など創れません。
自らの狭い正義にとらわれ他者を断罪するのではなく、悪人とも共存する道を探るべきです。

オールドニックさんは悪人を一人ずつ殺していけば平和な社会が訪れると本当に思っているんですか?
「悪人は殺してもいい」という価値観を採用する限り、真の平和は永久に訪れないでしょう。
自分が「悪」として誰かの正義の犠牲になる危険性もある。

どんなに許しがたい相手でも、その「存在」は認める、生存権は害さないというのが理性ある人間の平和への第一歩ではないでしょうか。

投稿: ニヒリスト | 2010年12月26日 (日) 03時10分

>憎しみの応酬に終始していたのでは平和な社会など創れません。
>「悪人は殺してもいい」という価値観を採用する限り、真の平和は永久に訪れないでしょう。

そりゃ応酬してたら平和じゃないでしょうよ。
完膚なきまでに滅ぼすんです。 ゴキブリを駆除するのと一緒。


>許しがたい相手でも、その「存在」は認める、生存権は害さないというのが理性ある人間の平和への第一歩

そんなことはない。平和じゃないことをする人間の自由な行動を認めていたら、当然平和じゃなくなる。
ブスな女の子をバカにするカワイイ女の子がいなくなった方が、平和だろ?どうだ。


>そうやって「人間ではない」と判断した相手に対して人間はどこまでも冷酷になれるんです。

邪悪な者に対しては冷徹に粛清せねばならない。死刑はその最高手段というわけだ。
簡単な話、平和を犯す者を滅すれば必然的に平和が保たれるってわけ。実に論理的な判断だ。

投稿: オールドニック | 2010年12月26日 (日) 19時38分

>そりゃ応酬してたら平和じゃないでしょうよ。
>完膚なきまでに滅ぼすんです。 ゴキブリを駆除するのと一緒。

そんなのどうやるんです?まったく現実的でないように思いますが。

「平和」の概念が一致しない人間など腐るほどいます。
そういう人たちをゴキブリ呼ばわりして駆除していけば平和になると?
それはただの暴力でしょう。しかも切りがない。

>そんなことはない。平和じゃないことをする人間の自由な行動を認めていたら、当然平和じゃなくなる。
>ブスな女の子をバカにするカワイイ女の子がいなくなった方が、平和だろ?どうだ。

オールドニックさんの言う「平和」とは「秩序」の間違いでしょう。
オールドニックさんの是とする価値、オールドニックさんにとっての「平和」以外は認めず暴力によって排除する。
そうやっていれば「秩序」は保たれるのでしょうが、「平和」は永遠に訪れません。

私にとっての「平和」とは一切の暴力や排除を認めないことです。
暴力は一つ認めれば際限がなくなります。
「この場合だけは暴力を認める」と言ったとしても「この場合」はどんどん拡大解釈され、最終的には状態化する。
話し合いより殺して排除するほうが楽ですからね。それが暴力の性質なんです。

平和のために殺す。平和のために人を排除する。矛盾だとは思いませんか?
その行為自体が既に平和から逸脱している。

そうやって殺され排除されている人がいる限り私はそれを「平和」とは認めません。
平和とは一定の範囲だけではなく、あらゆる範囲を指すものでなくてはなりません。

オールドニックさんはもう「平和」という言葉は使わず、
「自分は秩序ある世界を望む、そのためには人を殺して排除することも厭わない」と言っていてくださいよ。
それがオールドニックさんの主張に即しています。「平和」なんて言葉を使うのは欺瞞だと思います。

投稿: ニヒリスト | 2010年12月30日 (木) 15時19分

>>完膚なきまでに滅ぼすんです。 ゴキブリを駆除するのと一緒。

>そんなのどうやるんです?まったく現実的でないように思いますが。

現実にゴキブリはいなくならない(人類発生前からいる!)のでしょうが、かといって駆除をストップするわけにはいかない。


>私にとっての「平和」とは一切の暴力や排除を認めないこと

それは世にも恐ろしい集団ですね。身の毛がよだちます。
目に見える暴力や排除を無くしたら、我々(?)がいつも苦しめられてる構造的暴力(曖昧な中でこちらは反撃できない卑怯な暴力)がはびこり、
多数派や悪人の思うツボ。

ニヒリストさんはおまきんさんといっしょに「殴り合いをしろ」って言ってたじゃないですか。
暴力上等なんでしょ?

そもそも暴力を排除するというなら、暴力を振るう人をどうするんです??

投稿: オールドニック | 2010年12月30日 (木) 22時49分

>目に見える暴力や排除を無くしたら、我々(?)がいつも苦しめられてる構造的暴力(曖昧な中でこちらは反撃できない卑怯な暴力)がはびこり、
>多数派や悪人の思うツボ。

構造的暴力に対して本当の暴力で対抗しようというのはいくらなんでも馬鹿っぽくないですか?
もちろん説明する能力がなかったり鬱屈し過ぎたりで暴力に訴えてしまった人に同情はします。
でもオールドニックさんや私はひとまず口は立つわけですし、そこは暴力に寄らない解決法を模索すべきでしょう。
私は暴力なんて原始的な力に訴えなくても、それを指摘し声を上げることで対抗できると思ってますから。

大体、暴力なんてあからさまな非難の対象になる行為に訴える方が向こうの思うつぼでしょう。
それを正当化するだけの権力もバックグラウンドもこちらにはないんですから。
少数派の暴力は反撃でも統治でもない、単なる暴力です。犯罪です。
キチガイや悪人のレッテルを貼られてお終いですよ。

>そもそも暴力を排除するというなら、暴力を振るう人をどうするんです??

根気強く口で言っていくしかないんですよ。
最終的な手段として暴力を残しておく限り、暴力は永遠になくなりません。
暴力はよくないと言っている人間が暴力で人を排除するのは単純に言って矛盾でしょ?結局は暴力を認めてるんだから。

暴力を正当化する道を残しておいてはいけないんです。
秩序のためならいいとか、悪人に対してならいいとか、そんないくらでも拡大解釈できるような理由で暴力を認めるなら、どんな暴力だって正当化できます。

だから暴力はすべからく「悪」であるとすべきなんです。
暴力を一つ認めれば、それは全部認めたのと同じですから。

投稿: ニヒリスト | 2011年1月 6日 (木) 12時35分

>説明する能力がなかったり鬱屈し過ぎたりで暴力に訴えてしまった人に同情はします。
>でもオールドニックさんや私はひとまず口は立つわけですし、そこは暴力に寄らない解決法を模索すべきでしょう。

ニヒリストさんが多数派を説得できた実績がありますか?これからも出来そうですか?


>指摘し声を上げることで対抗できると思ってますから。

じゃぁなんで君は声を上げないの?


>少数派の暴力は反撃でも統治でもない、単なる暴力です。犯罪です。
>キチガイや悪人のレッテルを貼られてお終いですよ。

だからその構造的暴力こそを何とかしようと言ってるんじゃないですか。分からん人やな。


>根気強く口で言っていくしかないんですよ。

言わないだろ、お前も!
オデ一人でやれって言うのか!<`ヘ´>

大体、ニヒリストさんはくるねこストーカーの説得に失敗・断念した実績がある。
アレに暴力以外の言語が通じると今でも思ってるのか??


>最終的な手段として暴力を残しておく限り、暴力は永遠になくなりません。

最終的な手段ではない。先制攻撃も辞さない。それが抑止力になるのだ。
なぜなら大概の奴は暴力・圧力といった言語でしか物事を理解できないからだ。


>暴力はよくないと言っている人間が暴力で人を排除するのは単純に言って矛盾でしょ?結局は暴力を認めてるんだから。

暴力自体は悪くないんですよ。ソコを勘違いしちゃダメ!
そもそもニヒリストさんはなんで肉体的暴力を目的の如何を問わず「絶対的な悪」だと思うんですか?
なんで肉体的暴力が精神的暴力や構造的暴力よりも酷いと思うんですか?
殴ったら相手の心が傷つくと本気で信じてるんですか??

変な拡大解釈ナシのリアル悪人に向けられる暴力については、あらゆる手段が認められるべきだ。
ソレで悪人サンが悲しんで泣くとでも思うのか??

投稿: オールドニック | 2011年1月12日 (水) 23時04分

>ニヒリストさんが多数派を説得できた実績がありますか?これからも出来そうですか?

そういうオールドニックさんだって暴力で問題を解決できたことなんてないんじゃないですか?

私は実のところ説得なんて作業は大嫌いです。
「言っても分かんねえ奴には言わねえ」が私のポリシーですから。
ただ暴力に訴えずとも自分たちの価値観や居場所を確保していく術はあるんじゃないかということが言いたいのです。

確かに話の分からない奴はいるし、構造的暴力は口で言ってもなくならないかもしれない。
でも私はそういう連中を暴力で排除することによってではなく、「私たちは私たちでやる」というところに活路を見出したい。
気に入らない奴は排除するという多数派じみたことをして格を下げたくないんですよ。

>じゃぁなんで君は声を上げないの?

今現在生活に不自由してないのと、他人と連帯するのが苦手だからです。
まあ何とかしていかなければならないなあ、とは思っていますよ。
近いうちに私なりの方法を見つけます。

>だからその構造的暴力こそを何とかしようと言ってるんじゃないですか。分からん人やな。

だからその構造的暴力は暴力では解決できないと言ってるんですけど。

>最終的な手段ではない。先制攻撃も辞さない。それが抑止力になるのだ。
>なぜなら大概の奴は暴力・圧力といった言語でしか物事を理解できないからだ。

確かにそういう人もいるんでしょうけど、相手が暴力という言語でしか物事を理解できないからといってこちらもそれに乗っかってしまったら、その人には永遠にレベルの低い言語しか通用しないことになります。

話の分からない奴にいつまでも対話を続ける必要はないかもしれませんが、その人が変わる可能性、いつかは暴力以外の言語も理解するようになるかもしれない可能性を切り捨ててしまったらまずいと思うんです。
こちらは対話の意思はある、ただ向こうがそれを理解しないのだという体は守っておかないと、こちらが単なる加害者、排除する側ということにもなりかねません。
私は言っても分からない奴には言わないけれども、暴力の行使者にはなりたくない。
自分が理性や言語を放棄したようで、不愉快だからです。

>なんで肉体的暴力が精神的暴力や構造的暴力よりも酷いと思うんですか?
>殴ったら相手の心が傷つくと本気で信じてるんですか??

「よりも酷い」というよりは全く別次元のものだと思っています。心が傷つくかどうかも別にどうでもいいです。
ただ私は暴力という手段が気に入らないんです。
口で言って分からせることを放棄した、人としての堕落形態であると思うので。

投稿: ニヒリスト | 2011年1月13日 (木) 14時40分

>そういうオールドニックさんだって暴力で問題を解決できたことなんてないんじゃないですか?

ありありですよ。いつもそれでのみ解決できてますけど…。
本当に不思議なことに、コレが一番穏便に済むんです。
逆にニヒリストさんなんかがいくら説得しても、余計トラブルが大きくなるだけなんでしょうねぇ。


>暴力に訴えずとも自分たちの価値観や居場所を確保していく術はあるんじゃないかということが言いたいのです。

そんな術はありません。


>気に入らない奴は排除するという多数派じみたことをして格を下げたくないんですよ。

気に入らない奴を排除するんじゃなくて、悪い奴を排除するんですよ。分からん奴やなっ。


>構造的暴力は暴力では解決できないと言ってるんです

この議論では、暴力で解決するのは「悪い奴」であって、構造的暴力ではなかったはずです。
私は構造的暴力について 「コレが肉体的暴力よりも問題だから何とかしよう」と言ったんです。
構造的暴力が無くなって、目に見える分かりやすい暴力だけになれば、かなりフェアですよ。


>その人が変わる可能性、いつかは暴力以外の言語も理解するようになるかもしれない可能性を切り捨ててしまったらまずいと思うんです。

低い可能性に賭けることはないよ。
そうしている間にもコチラは攻撃を受け続けるんだからな。


>私は暴力という手段が気に入らないんです。
>口で言って分からせることを放棄した、人としての堕落形態であると思うので。

堕落ではない。正義の戦士だ。勇敢さだ。

投稿: オールドニック | 2011年1月15日 (土) 03時13分

>ありありですよ。いつもそれでのみ解決できてますけど…。
>本当に不思議なことに、コレが一番穏便に済むんです。

それって具体的にはどういうことですか?
殴って済ませてるってこと?

>そんな術はありません。

金さえあれば、経済力さえ身に付ければ好きなように生きていくことなんて簡単なのにね。
そこに辿り着くまでがやはり私たちのような人間には至難の業です。

>気に入らない奴を排除するんじゃなくて、悪い奴を排除するんですよ。分からん奴やなっ。

悪い奴と気に入らない奴の差なんて紙一重です。善悪自体が不確かなのですから。
まあそれを扱う人間の程度によって単に気に入らないから排除しているのか、
一応何らかの理屈に寄って悪に分類されるから排除しているのかの差はあるにしても、元を辿れば同じでしょう。
自分にとって好ましくないものを排除するという部分は変わりないんですから。

オールドニックさんにとっての「悪い奴」は別に他の人にとってはそれほどでもなく、
オールドニックさんのしていることが単に気に入らない奴を排除しているだけに見えてしまうことは容易に想像できます。
自分の感性や価値基準が他の人よりも優越しているということには根拠がないですよね。
なぜそれを信じ込めるんですか?

>この議論では、暴力で解決するのは「悪い奴」であって、構造的暴力ではなかったはずです。

「悪い奴」を暴力で排除しようとしても構造的暴力はなくならないと思うんですが。

>低い可能性に賭けることはないよ。
>そうしている間にもコチラは攻撃を受け続けるんだからな。

でも話し合いは必要です。
全ての気に入らない奴、「悪い奴」を根絶することなど不可能なのですから、
共存する方法を模索するのは当然のことでしょう。
分かりあう必要はありませんが、最低限互いの生存を害しないぐらいの距離感は学ぶ必要があります。
私は人間の理性を信じたい。時間をかければ少しずつ変わっていくこともあるはずです。

>堕落ではない。正義の戦士だ。勇敢さだ。

正義って一体何の役に立つんですか?

あらゆる人間が数多の正義を打ち立て、それと同時に悪を定義づけて駆逐しようとしていますが、争いはなくならないし、世界はちっとも良くなりません。

私にとって正義とは不寛容の象徴であり、排除や差別、戦争の元です。
どんなに素晴らしいことを説いていても、悪を設定して叩いたり暴力による排除を認めた時点でそれはエゴイズムであり、私にとっては「不正義」です。

私は「正義」という言葉を使うなら、それはもっと全人類的なものであるべきだと思います。
限られた人間だけ、理解できる人間だけのものではなく、あらゆる人間の生存を保障するような概念が真の「正義」であるべきです。

投稿: ニヒリスト | 2011年1月24日 (月) 17時33分

>>本当に不思議なことに、コレが一番穏便に済むんです。

>殴って済ませてるってこと?

まぁそうです。本当は暴力なら何でもいいんですけど、ワシら精神的暴力みたいな陰湿なことはようせんでしょ。
どうしてそんな酷いコトされて納得するのか分かりませんが、とにかく溜飲が下がるみたいですよ。

彼らが「酷い!」とダメージを受けるのは、言葉で説得されることのようです。
殴れば感謝され、諭せば恨まれる。そういうことです。不思議ですが…。


>金さえあれば、経済力さえ身に付ければ好きなように生きていくことなんて簡単なのにね。

何か、ものを売らなきゃね。


>一応何らかの理屈に寄って悪に分類されるから排除しているのかの差はあるにしても、元を辿れば同じでしょう。

泣いて馬しょくを斬るという諺がありますが、そういう世の中の数多の「何らかの理屈」の中に、本当の正義もあるんです。


>自分の感性や価値基準が他の人よりも優越しているということには根拠がないですよね。
>なぜそれを信じ込めるんですか?

しかしニヒリストさんだって「人間の程度によって単に気に入らないから排除しているのか、一応何らかの理屈に寄って悪に分類されるから排除しているのかの差はある」と言ってるじゃないですか。
優劣があるんですよ。それをないと言い張るのは詭弁でしょ?屁理屈でしょ?


>「悪い奴」を暴力で排除しようとしても構造的暴力はなくならないと思うんですが。

だから順番が逆だって言ってるでしょーが!
構造的暴力を何とかして、手段としての肉体的暴力が解禁されて、「悪人」を暴力で排除する。という流れなんです。
問題は構造的暴力をなくす過程では肉体的暴力が禁止されているということです。我々に別の暴力が振るえるか?巧妙な暴力、陰湿な。


>私は人間の理性を信じたい。時間をかければ少しずつ変わっていくこともあるはずです。

ニヒリストさんはまだくるねこストーカーの理性を信じますか?
理性なしと判断したから説得を諦めたんでしょ?

信じられる根拠など皆無。そんな兆候は一切ない。
すべてはニヒリストさんの妄想なわけです。結果はいくつも出ています。


>悪を設定して叩いたり暴力による排除を認めた時点でそれはエゴイズムであり、私にとっては「不正義」です。

まぁそれは、ニヒリストさんが単純な暴力を絶対的「悪」と妄想しているからですねw
狩りをして生活の糧を得るのは「殺害」「肉体的暴力」なわけですが、それが「悪」ですか??


>あらゆる人間の生存を保障するような概念が真の「正義」であるべきです。

「悪人と共存する」は論理的矛盾です。悪人は善人と共存しないのですから。

投稿: オールドニック | 2011年1月26日 (水) 19時46分

私が死刑継続論者か廃止論者かは、別にして。
>私たちと同じ人間が、人間を殺した。なんとかならなかったのか。社会として止めることはできなかったのか。

の箇所には、共感します。
前にコメントしたように、息子はアスペルガーの診断を受けてますし(年齢と共に違う診断に変わるかもしれませんが、発達障害である事は揺るぎないです)、友人も一人も居ません、つか、他人との距離感をつかめないのです、挙句にイジメで不登校。

そんな中、凶悪な事件が起こって、犯人は、発達障害であったとか、アスペルガーであったとか云う記事を読むたびに、そうなる前に、なんとか出来なかったのかと胸が痛みます。

ただ、
>私は人間の理性を信じたい。時間をかければ少しずつ変わっていくこともあるはずです。
これは、恐らく無理でしょう。
悲しい事ですが、生れつきの脳の回路欠陥は、どうにもならないのです。
理解する為の回路欠如は、訓練でも薬でも、どうにもなりません。
訓練して、できる様になる事と、理解出来る事には、大きな隔たりがあるのです。
理性の問題では、無いのです。

#と、言って、暴力で解決出来るかと言うと、それも無理です。あれは、調教と同じで、相手の人格を壊すだけですから。

悲しいかな、思考を生み出す脳が肉体である以上、回路欠陥は、いかんともしがたいです。

脳内物質分泌のバランス取りは、薬でなんとかなりますけどね。

投稿: Rej | 2011年7月14日 (木) 17時08分

人それぞれ、とりあえず自分を保っていられる、とりあえず他者を傷つけないでいられる立ち位置、ポジションみたいなものってあるんじゃないでしょうか。

それがどこにいてもやっていける人と、何か一つでも変わってしまったらまるで対応できずに転がり落ちていく人と、みたいに分かれていくんだと思います。

生きられる空間がもの凄く狭い人っているんですよね。でもそういう人でも自分なりの居場所とか立ち位置が見つけられれば、この社会の中で誰も傷つけずに生きていくことだってできるんじゃないかと思っています。

回路は変えられずとも、その人がとりあえず害を及ぼさずにいられる場所を見つけられればいいんじゃないでしょうか。

投稿: ニヒリスト | 2011年7月16日 (土) 01時24分

>回路は変えられずとも、その人がとりあえず害を及ぼさずにいられる場所を見つけられればいいんじゃないでしょうか。

「幸せ」だとこういう発想になるのかね?
それが存在しないから、アスペは日常が「トラブル」なんじゃないか?

ニヒリストさんはもう「多数派」じゃないか?

投稿: おまきん | 2011年7月16日 (土) 06時25分

>回路は変えられずとも、その人がとりあえず害を及ぼさずにいられる場所を見つけられればいいんじゃないでしょうか。

僕は「スキゾイド」だが、こう言われるってことは「おまえは地球から出ていけ」と言われるに等しいんだがな。
ニヒリストさんの中には、アスペ、スキゾ、自閉なんて存在しないんじゃねーの?

こう見るとあれだな。「社会不安障害」なんてのは、「普通の人」の範疇だわ。

「普通の人」には、アスペ、スキゾ、自閉なんて存在しないからな。
だから、ほぼ必ずと言っていいほど「普通の人」と接するとトラブルが起きる。
「普通の人」は存在しないモノは理解できないからな。
だから、キチガイの親(健常者)は苦労するんだろーな。

僕はニヒリストさんのこの言葉には「カン」にさわったわ。

投稿: おまきん | 2011年7月16日 (土) 06時45分

おまきん様
>それが存在しないから、アスペは日常が「トラブル」なんじゃないか?

悲しい事ですが、おっしゃる通りです。

ただ、ニヒリスト様の意見、
>回路は変えられずとも、その人がとりあえず害を及ぼさずにいられる場所を見つけられればいいんじゃないでしょうか。

多数の方々が、まずこう云う発想を持って下さるのが、最初の一歩かとも感じます。

>「普通の人」は存在しないモノは理解できないからな。

これも、おっしゃる通りです。
親であり、伴侶で有る私も深いレベルでは、理解出来ません。
行動、言動のパターンを覚えて何とか対処するのが、精一杯です。
逆も然りで、伴侶、息子も私を理解出来ません。

理解しあえない事を前提に、共存出来る道を探るしか無いでしょう。
何が言いたいのか、まとまりませんが。

投稿: Rej | 2011年7月16日 (土) 12時24分

ニヒリスト様

>生きられる空間がもの凄く狭い人っているんですよね。でもそういう人でも自分なりの居場所とか立ち位置が見つけられれば

居場所が全く無いわけでは確かにありません。
しかし、収容しきれるほど椅子は有りません。

しかしながら、社会的にも、認識され始めて、改善はされつつは有りますが、まだ時間がかかるでしょう。

では。

投稿: Rej | 2011年7月16日 (土) 12時38分

おまきん様
>ニヒリストさんはもう「多数派」じゃないか?
多数派でも少数派でも無いその狭間の超少数派な感じが私はします。

>オールドニック様
歴史的に、駆除的思想は、民族浄化や大虐殺につながってきたので、賛同しかねますが、現時点では、全般的には、ニヒリスト様の意見より現実的では、あると思います。

>ニヒリスト様
多数派とか、少数派とか的な思想では無く、異種とはどう云う存在かを掘り下げられると更に意見が深まるのでは無いかと思われます。

投稿: Rej | 2011年7月17日 (日) 10時56分

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