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2011年1月20日 (木)

タイガーマスク運動とか。

タイガーマスク運動とやらが世の中では盛んなようで。私はニュースで少し耳にした程度で、まったくなんの関心も抱いてなかったんですが、色んな人からどう思うか聞かれるので、少し思いを馳せてみました。

最初はとにかくただただ気に入らず、というのも私は今回のような集団で物事が動いていくようなことが大嫌いだからです。みんながやってるからとか、なんか盛り上がってるからとか、そういう理由で冷やかし抜きにそれに参加してしまう人の単純さ、無垢さ、素直さ、従順さみたいなものが生理的に受け付けないっていうか、そこはとりあえず「ばっかじゃねぇの!」と吐き捨てておかなければ気が済まないみたいな気持ちにどうしてもなってしまうんです。とにかくそういう精神性が嫌いなんですね。まあ反吐が出る的な。

でもなかなか言いづらいのは、今回起こってること自体は悪いことではないからなんですよね。金塊とか、当選宝くじとか、ランドセルとかが届けられれば喜ぶ人がいて、助かる人もいて、何の悪いこともないじゃないかと言われれば私も「まあそれはそうなんだけどね」と言って黙るしかない部分がある。偽善だとか言って難癖をつける私が悪者なのか、という気にもなってくる。

が、しかしです。やはり気に入らないものは気に入らないのであって、ここで言葉を飲み込んでしまったら私が廃る。こういう時に冷や水をぶっ掛けるのが私の役割なはずだ。

私はですね、こういうのを見るとまず「で?」と思ってしまう。一過性ですか。困っているのはなにも子供達だけではないはずですけれども。メディア等で目に入ってくるものだけがすべてなのですか、崖っぷち犬と同じようなレベルで孤児院に群がっているのですか、等々。言いたくなるし、考えずにはいられない。

それにランドセルやお金が手に入ってもそれはその時だけのことで、みんなが忘れ去った来年の春にも小学校に上がる孤児は確実に存在するわけで。継続的な支援や関心というのは何に対してでも不可欠です。

とはいえ、私は別に善意にプロフェッショナルを要求しているわけではないんです。それを言うなら私だって別にそんな立派なことをしているわけではないし、寄付だのフェアトレードだのと言ってみても、今回の「伊達直人」とやらとそう変りないレベルかもしれません。

ただ私はそのことに自覚的であれと言いたいんです。自分にできることなんてたかが知れているということに、その場で金品を贈ったからといって問題が解決するわけではないことに、そして自分が関心を失った後も孤児はずっと孤児であり続けるという事実に対して。

それらを全部分かった上で、少しでも何かの役に立てば、というのはいいことだと思うんです。そもそもあらゆる善意は多かれ少なかれ自己満足や欺瞞を含んでいるものであって、それらを全部排除しようとすれば、支援なんてものは成り立たなくなってしまいますからね。その場限りでも、本当に相手が必要とするものから少しずれていても、自分がしていることがその程度だということに自覚的である限りは、許容されていくべきだと考えています。私も人の善意を重箱の隅をつつくみたいにねちねち言いたいわけではないんです。

ただメディアにほだされてランドセルを贈ったぐらいでいいことした気になってたら、それは甘いんじゃないですかというのも私の正直な実感です。「あなたはそれを来年もするの?」と聞きたい気持ちもあるし、身の程を知ることよりも善意に酔うことにご熱心とあらば、そこの欺瞞は指摘していかなければ気が済まない。

私は自己満足的な側面と、「本当の支援とは」について思いを巡らす側面と、どちらも必要だと思ってます。大切なのはそのバランスであって、今回のタイガーマスク運動とやらには自己満足的な臭気がプンプンしたので、「気に入らない」の方にカテゴライズさせてもらいました。

ただ実際にどうかは知りません。「伊達直人」を名乗って物を贈った人に話を聞いたわけでもないですしね。もしかしたら私が書いたようなことには案外みなさん自覚的で、たまたまいいきっかけになったぐらいの気持ちでこの運動に加わったのかもしれない。

でもメディアを通して伝わってくる全体の雰囲気としてはやっぱり臭ぇな、と。とにかく趣味じゃない。何かをするにしてもなぜこれに便乗しなければならないのかがまったく理解できないんですよね。自分の関心のあることに対して自分の納得できる形で物をやればいいじゃないか。なぜ好き好んで人の二番煎じ、三番煎じをやらねばならないのか。つまりは普段からそんなことに関心を持っているわけでもなく、メディアや他人にひな形を作ってもらわないと自分から寄付もできないような、そんな人間の集まりだってことですか、この国は。

馬鹿馬鹿しい。馬鹿馬鹿しいけれども、そういう受け身的な形とはいえ潜在的な善意が広く存在するのなら、各支援団体に掘り起こしの余地はあるってことですよね。でもそれもどんどんやればすぐに飽和する。スマトラ島沖、ハイチ、チリと地震が相次いで、パキスタンでの洪水には支援があまり集まらなかったのと同じように(テロのイメージなどの偏見もあったにしても)、孤児が、難病患者がと次々にやっていれば人は「またか」と思いだすんです。

人の善意なんて所詮は恣意的で限りあるもの。それは私だってそう。ただ一人ひとりでは微々たるシケた善意でも、寄って集まればそれなりの大きな力になることもなくはないと思う。その意味で希望は捨てていませんが、今回のような運動は大嫌い。ただこういう流れを継続的な何かに繋げていける人がいたら、尊敬します。私にはできないことですから。

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2011年1月 8日 (土)

あけましてご愁傷さま。

やや遅れましたが、あけましておめでとうございます。と言いつつ思うのですが、世の中そう年が明けてめでたい人ばかりじゃないよね、と。

まあ「今年もいい年にしよう」とか前向きに考えられる人はいいし、「今年もいい年になりそうだ」とか希望観測的に思える人も勝手におめでとうとか言っときゃいいんだけど、なんか生きちゃってる人、2011年という年がどう考えたって悪い年になると分かり切っている人だってたくさんいるわけです。そういう人に向かってどの面下げて「あけましておめでとう」なんて言えばいいの?「何がめでてぇんだ、このクソ野郎」という心情は察するに余りあるわけで。

だからそういう人用の新年の挨拶というものが必要だと思う。差し当たって「あけましてご愁傷さまです」というのはどう?

生きてることを喜ぶ気になれない人だっている。また365日の繰り返しが始まることにうんざりしている人だっている。猫も杓子も「あけましておめでとうございます」なんて抜かす必要はないわけで。影響力ゼロのクソブログですが、この場だけでも新年がめでたいということへのアンチテーゼを。「あけましてご愁傷さま」という言葉を皆様に送ります。今年もまた始まりやがった、今年もまたクソみたいな人生を消化していくんだ、という思いを噛み締めてください。

それはそれとして、私が一昨年立てた去年の目標は(分かりにくいっすね)コミュニケーション弱者からの脱却でした。まあ何気ない一般会話などは昔に比べたらできるようになって、その点は大幅な進歩でしたが、やはり人と関わるということの根本的な不快感は消えない。ペラいことが多少できるようになっても性格は変わるわけではないのです。当たり前のことですが。

だから一周回って元に戻ってきたというところです。そこそこ口が利けるようになったら今度は他人を締め出す方にシフトしていかなければなりません。多数派と戯れることが私の目標だったわけではないんですから。

だから今年の目標は、他人を締め出しつつ社会派に復帰すること。このブログを含め、もう少し活動的になっていきたいところです。社会に風穴を開けていきたいよね。活動家元年になればいいけど。

なんつって、冒頭にクソネガティブなことを書きつつ、自分はそうでもなく案外前向きだという事実、みたいな。私のネガティブは嗜好品なんですよね。本当に後ろ向きなのではなく、後ろ向きなことが好きなアンチ前向きなんです。今年も「ネクラ権」を主張していきますよ。ネクラでいる権利を勝ち取るのです。

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