2008年7月26日 (土)

相も変わらずマスコミは

世の中は無差別殺傷ブーム。さっき見たニュースでは女性が後ろから刺されて全治8日だって。その女性の方が受けた心身のダメージはいかほどかと思いますが、一対一で全治8日じゃニュースとしては弱い。それぐらいの事件ならたぶん普段からそれなりに起こってるだろうし、いつもならニュースなんかにはたぶんならない。でも今はその事件に秋葉原の事件によって付加価値がプラスされて、「犯罪増えてますよ、っていうか無差別に人が刺されまくってます!」というキャンペーンに使われる。

しょーもないマスコミのいつもの手口です。三菱のリコールの時も不二家の時もそう。何か一つ大きな事件が起きると普段は扱わない小さなニュースも総動員されてイメージの固定化が行われる。それで世の中の人はものの見事に引っかかって怖い怖い言いまくって、でもしばらくしたらもう忘れてるんだよね、次の旬のネタに夢中で。

日本は治安がいい。これは純然たる事実。この間の八王子の啓文堂の事件も、それがニュースになるということ自体が日本は平和だっていう証左だと思うんですよね。一人死んでニュースになるって事はそれだけ人が殺されるのが珍しいって事でしょ?誰かが誰かに殺されるということが日常茶飯事になったらそれこそそんなものはニュースじゃなくなる。なんせそれが日常なんですから。人が殺されて「怖いわよね~」なんて言ってるうちは日本は平和なんです。

だから世の中の人が怖がってるのはもう完全に平和病。これだけ治安のいい国で何をそんなに怯える必要があるのか。犯罪がゼロになるなんて事はありえないんだから、それぐらいのリスクとは社会全体で付き合っていくしかないでしょう。マスコミに踊らされるのもほどほどになされた方がよろしいかと。

社会というのは色々な人間がいて成り立っているわけで、マスコミの言うようななんだかわけの分かんない化け物のことも包摂してなんとかやっていかなきゃならないんだと思う。最近思うのは殺人者を否定するってことは人間そのものを否定する事なんじゃないか?ということです。殺人というのはそもそも人間の一側面なんじゃないかと。それをなんとか抑えて、あるいはうまく付き合って社会の秩序を形成しようというのが最近になってからの人間の努力で、一部のおかしい奴が殺人を犯すんだというのは違うんじゃないかなと。

人間の本質は社会の秩序を守る事でも犯罪を犯さない事でも傷つけ合わない事でもないから、そこから逸脱する者が出てくるのはある意味では当然。殺人は人間の一側面と考えれば、そこはやはり自分の身に照らして考えてみるべきだし、社会の秩序に浴する者としては煩悶すべき課題であると。

犯罪にどう対処するかというのは社会の在り方に対する理念が色濃く反映されるものと思いますが、私はやっぱり共生を掲げたい。あまり綺麗事も言いたくないのですが、実際問題この国にはくだらない制約が多すぎる。そういうものを取っ払っちゃってどんな人間でもとりあえず生きられるようにした方が私も気持ちよく生きられるし、社会の成熟度という面でもいい事だと思う。

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2007年11月26日 (月)

殺人はニュースか

いやいや、やっぱりブログをやってる以上更新頻度が低いのを開き直ってちゃだめだよな、とまた思い直しております。意味が分からない人は前回の記事を参照のこと。

とはいえ、何か目新しいネタがあるかといえばそういうわけでもないのが困った所。生活上のことで言うなら、結局12月からヤマハに通うことにしました。バリバリ練習して弾きこなすぜ、エレクトーン。あとそろそろ仕分けとか単純作業系のバイトを探してみようかと思っとります。よく考えてみたらこんな性格のくせになぜ接客業にこだわっていたのか、謎です。本が好きだからって別に本屋で働かなくてもねえ。

ま、こんなくそ面白くもない私の報告はさておいて、最近のニュースってどう思われますか。どうって言われても困るかもしれませんが、私から見ると最近のニュースはただその日起こった事の垂れ流しというか、で?という事が非常に多いのです。家が燃えました、人が殺されました、とか言われてもへーとしか思えません。

私が思うニュースってのは諸々の社会現象に対して独自の目線で解釈なり論評なりを加えたりするものなんですが、最近のニュースはどうもそうでない。ただ家が燃えた燃えた騒ぐだけなら誰にだってできる。いちいち燃えるたびにそれを言われてもね。そんなんだったらアホみたいに報告するのではなく、定期的に火災原因の統計を出しつつ火災防止について特集を組んでやってくれればそれでいいわけで、1件1件の燃えましたというニュースは意味があるのでしょうか。

殺人だって同じ事。私に言わせればあんなものはニュースではありません。あれを1件1件事細かにだらだら報じる時間を使ってどれだけの有益な情報を発信できるか。どうせその事件を扱ったからといって事件の背景を抉り出せるわけでもない、ただみんなが満足できるよう、近隣住民の証言から都合のいい部分を切り取り、犯人を救いようのない残虐非道な鬼畜のように見せかけるぐらいしか能がないのですから、もうやめたらいいよ。

結局あれです。この国の人達は人を憎んで罪を憎まずなんですね。あまりテレビでは報道されないような事件には興味が無いし、海の向こうの人権侵害や戦争犯罪にも興味は無い。罪を憎むのではなく、マスコミが大々的に取り上げるような事件の犯人を、一個人を死んで欲しいというレベルで徹底的に憎むのです。被害者の痛みに敏感なのではなく、自らの攻撃性に忠実なだけ。だから被害者への同情は申し訳程度、目に付いた事件に怒り狂っているだけでいつまでたっても問題の本質に行き着かない。それで死刑死刑喚く。喧しいなあもう。

で、ニュースはその一翼を担ったりするだけで役に立っていない。社会現象をどう解釈し位置付け伝えていくかという役割を負うべきなのに、事実の垂れ流しか事実の部分的拡大しかできないんですから。その事実が何を示唆し何を意味しているのかという論説を加えない報道など何の意味もなく、そんなものはそこら辺のおばさんにその日起こった事を聞いたって同じです。

語弊を恐れずに言うなら私はどこの家が燃えようと誰が殺されようとそんな事には関心が無い。そんな事実を一方的に垂れ流しにされても私はどうすればいいのか。現実問題として今日火事が起きて何人かが死んだという報告が私に一体何をもたらすのか。何ももたらさない。だからなんなんだという思いが膨らむばかりで。自分がその立場だったらと考えてみても、今私の家が燃えて焼け死んだとしてそれがニュースだとはとても思えない。誰かに知って欲しいとも思わないし、それを伝えた所で何も生まれないだろう。私が殺されたとしたら、でも同様です。

まともな特集を組まないですよね、最近の報道は本当に。誰かが死んだ話ばかり、警察発表の垂れ流しだというのを雑誌の見出しかなんかで見ましたが、本当にそればかりを。私はそんな事実には興味がないのに。世の中の人はそんなに人の死に関心があるのでしょうか。誰かが殺される事がそんなに珍しいのでしょうか。この国を一歩外に出れば自爆テロでたくさんの人が死んでいますけどね。国内だって年間3万人の自殺者がいますし。なぜ殺人事件であれほど色めき立つのか、私にはやっぱり理解できない。あんなのはローカルニュースで扱えば十分だと思うけどなあ。

やっぱり共同体の外部を強調し内部の団結を強化するために、とんでもない奴がいる、凶悪事件が増えている、という共通認識を必要としているのでしょうか。そうやってキャーキャー言いながら盛り上がってるのが楽しいのか。正義感とかでは絶対ないんだろうと推測します。

人が殺されるということは、そりゃ痛ましいですよ。私だって何とも思わないわけじゃありません。だけど個々の事件の詳細はどうでもよくないですか、と。被害者の写真や実名まで出して何回も何回も同じような事を報じるのは、殺人事件を考える事ではなくただのエンターテイメントです。ある一定の時期が来ればそんな事件があった事も忘れ、次の事件に色めき立つわけでしょ。だから被害者への同情なんて申し訳程度、と言うんです。大体殺人の背景を考える時に被害者の子供の残した作文なんて関係がないでしょ。罪もない子供が殺された、というセンチメンタルに浸るのは結構ですが、そんな次の日には忘れているような薄っぺらい感情に浸っていても殺人事件は減りませんから。

だから私は個々の事件の詳細には関心がありませんが、客観的な数値に基づいた凶悪犯罪は本当に増えているかの検証や、単純な勧善懲悪的な世界から脱した上での原因解明には大いに関心があります。ニュースのやるべき事はその日あった事を報告する事ではなく、今起きている事をきっちり解釈をつけて報道する事です。事実を伝えるというのも大切な事ですが、そんなのはもっとコンパクトにまとめて、その上でじゃあその事実がなんなのか、というのを伝えていかないとバカみたいなんでね。誰々が自宅で死んでたとか、そんなのをフラッシュニュースで伝えても意味がない。

ついでに言うと日曜夕方5時半からの報道特集は好きです。私が求めているのはまさにああいう事です。サンデープロジェクトもそうですが地に足着いてる番組です。こういう番組の比率が上がればいいのに。

なんだかニュースとか報道という用語の使い方がいまひとつしっくりきてない感じもしますが、眠くなってきたのでもう寝ます。一応総括すると、事実を棒読みするだけがニュースじゃないぞ、という事が言いたかったのだと思います。その比率があまりにも高く感じたので。これでフォローできたかしら。ああもうダメだ、おやすみなさい。

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2006年12月 4日 (月)

犯罪被害者のプライバシー

30代の男性教諭が交通事故死した6人の児童の写真を無断でホームページに転載していたというこの事件。(詳しくはこちら

もちろんこの教師がした事は許しがたい事で、遺族の方々の心情は察するに余りあるものです。それに追い討ちをかけるようなことは私だって言いたくない。でも、これって少しプライバシー意識に欠けているとは言えないだろうか。

インターネットというのは不特定多数の人がいて、心無い言葉なんてそこらじゅうに飛び交ってる。そんな中に写真を掲載してたらそりゃあそんな奴も出てくるだろう。だからしょうがないなんて言い方はしたくないですが、それでなくとも亡くなってしまった人はいい悪いの意思表示ができないわけですから、そういう場所に写真を掲載するのはもう少し慎重であって欲しかった。

こういった話をすると犯罪被害者の実名報道などの話にも及ぶのですが、私はそもそも犯罪被害者の実名や生前の映像などが毎回でかでかと出される事に疑問をもっている。もし私が何かの犯罪に巻き込まれた場合、今の報道のように連日顔と名前を出されるような事はほんとに勘弁して欲しいと思うし、もう死んだんだからそっとしておいてくれと心から望む。

それでこういう事を言うと知る権利だのなんだの抜かす奴が出てきますが、ほんとにそんな権利は必要でしょうか。「今日未明、東京都で30代女性の刺殺死体が発見されました」。これでは何か不都合がありますか。どこの誰でこんな顔です、ということを出す必要性が私には分からないし、即刻やめていただきたい。

遺族の怒りや悲しみを共有するためだとか、被害者の軌跡をたどり犯罪被害者となるまでのいきさつを知る事によって犯罪撲滅の気運がどうだとか。私は別にそんな個人個人のストーリーはどうでもいいと思ってます。被害者がどんな人か、なぜ殺されたのかなんて事が分からなければ痛ましい事件だと思えないのなら、むしろそんな想像力の欠落した人間ばかりになってきた社会の方が問題でしょう。

そうやってワイドショー的な味付けがなされなければ犯罪被害者に思いを馳せる事ができないのであれば、それは人間としての欠陥です。そうやって個人のプライバシーが社会全体の想像力の欠如の犠牲になっていることは悲しいことです。知る権利と守られるべきプライバシー、どう考えても知る権利がいき過ぎている。

そのように個人のプライバシーを考えた場合、当然のことながら遺族だって本人ではない。だから遺族らが写真や実名を公表するということを決断するのなら(現在では遺族が選べるようにはなってませんが)「あの人(故人)だったらどう思うだろう、公表することの社会的意義はなんだろう」という事と真摯に向き合った結果であって欲しいと思うし、その考えからいくと、今回のホームページに写真掲載という行動は軽率だったのではないかと思う。亡くなった子供にもプライバシーはあると思うし。死んだから何してもいいってわけじゃないと思うのよね。

でも自分の身内が死んでしまった時にそんな事まで考えろってのも酷なのかもしれません。今日ニュースで遺族の方が泣いているのを見た時、ちょっとこれ書くのをやめようとも思いましたし。でもやっぱり写真以外にも事件を伝えていく方法というのはあると思うし、何度も言うように子供にはもう許可は取れません。選べないのです。やっぱりネット上に公開するということは当然今回の事件のようなリスクも伴う事だと思うので、もう少し慎重に、そういったリスク込みで写真を掲載する意義があるのかないのか、考えてもらいたい。

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2006年11月 1日 (水)

報道が語る正義

最近報道の節操のなさにつくづく腹が立っています。何か1つ目立つ事があればそれに飛びつき、その事象をことさら派手に報じて、不安や問題意識を煽るようなことを散々した挙句、ブームがある程度去ったらその問題が解決された訳でもなんでもないのに、とたんに報じなくなる。

今はいじめが「ブーム」なようです。別にここ最近急に増えたわけでもない。そんなものは前からずっとあって、たまたまちょっと目を引く学校のいじめ隠蔽と子供の自殺という事実があったから、報じられているに過ぎない。根本的な解決とは程遠い所で騒いだ挙句、その内ぱったりと扱わなくなるのです。

現に飲酒運転なんかは既に廃れてきている。飲酒運転が減ったのか、それともなにかすばらしい改善策でも講じられたのか。そうではない。ただ「ブーム」がさった。それだけのことです。ある程度騒いだら次のネタを探して、また飽きたら次のネタを、っていうのがエンドレスです。こんなものは報道じゃない。ただの馬鹿騒ぎです。問題の本質的な解決ではなく、下世話な憶測や決めつけをもっともらしく述べる評論家が諸手を挙げて歓迎される。

それに今の報道は正義がとても狭い。正義なんてものは本当はもっとあやふやなものなのだと思う。それこそ10人いたら10とおりの正義があるぐらいの。でも今の報道は一つの正しさでしか報じない。責任の所在を一点に絞って、自分自身や社会全体の責任は棚上げし、その事に対して批判し憤る事が正義だと思っている。

いじめの話にしたってそうです。いじめの隠蔽があれば学校を批判する。確かに間違ってはいない。でも私に言わせればあんたらはそうやって学校を批判するけど、そのふざけきった学校を信仰して、人格を形成するのにおよそ関係のないはずの学校を、さもそこに通わなければ社会に通用しないかのような事を喧伝してきたあんたらや社会には責任はないのかと思うわけです。

どんな問題でもその背景や社会が与えた影響を考える事なしには始まらない。人のせいにしたいのは分かりますが、個人の問題や病理だけに責任を押し付けられるほど、ことは単純ではない。集団や権力は人を変えるし、そこに身を投じた時あなた方は道を誤らないと言い切れるのか。そういう人間の集団心理や、権力を持ったときにどうなるか、といった精神的な背景まで考えて報じてもらわなければ困る。ただ個人への批判や軽蔑に終始してしまってはならない。

その時代がもつ正しさというのはもっともらしく見えてしまうけど、それが本当に正しいかどうか、という考えを常にもっていなければ危険だと思うんです。自分の正しいと思ってることなんて間違ってるかもしれないという謙虚な気持ちを持ち続けなければ。

所詮人間なんて周りの環境や時代の風潮に影響を受けまくって生きている生物です。ちょっとした事で間違った正義(何が正しくて何が間違ってるのかなんてことは不確かですが)に進んでしまう事だって十分ありえる、というかむしろそうじゃなかったらおかしい。それをわきまえずただ時代が決めた正しさに乗っかって、人を殺すなんてとんでもない事だ、いじめの隠蔽なんて考えられない、耐震偽装は人間のすることじゃない、なんて嘆いていても物事の本質は見えてこない。

もちろん殺人や耐震偽装は到底容認できるものではありませんが、その人が何故そうなるにいたったのか、という背景を慮れる人間があまりにも少ないと思うわけです。ただ表層の事象だけをなぞり、喚くだけ。誰も社会全体の責任だなんて言わない。私は誰かが人を殺した、誰かが自ら命を絶ったということは、私にも責任があると思っています。社会の責任ということは、ひいてはこの社会の構成員である私にもその責任の一端はあると。

私がもっと強ければ、もっと積極的だったら、もっとなにかしらのメッセージを出せていたら、この社会の間違いを、弱者を追い詰める構造を指摘できていたら、それがその誰かに伝わって、何かの抑止力になったかもしれない。

まあそんなことを言いながら誰かが死んだニュースを聞くたびに嘆き悲しむほどの慈悲深さは持ち合わせてませんが、それでもマイノリティとしてもっと出来る事がなかったか、ということは時々考えます。この社会に生きる人間一人一人が、そういう考えでもって人を殺したり自ら命を絶った人に対して、自分の力不足を詫びるような、そんな意識がどこにでも転がっていれば追い詰められずに済んだ人もたくさんいるような気がする。

こんな世の中に生きてたら、そりゃあ鬱にもなるし、孤独に落ちてみたくもなる。不幸な人が多いのも至極当然のことと言える。でもこんな世の中だからこそ、私に出来る事、私に出せるメッセージを模索していきたいとも思う。自己満足と言い切りつつも、この場所がまかり間違ってでも誰かへの抑止力になることがあったらいいなあ、とか思いますよ、やっぱり。

自分一人も許容しきれない人間が何言ってんだ、と言われればそれまでですが。さて、相変わらず締めは思いつきません。まだ寝ないけどおやすみなさいが一番手っ取り早いので、おやすみなさい。

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