2009年4月26日 (日)

草なぎ氏逮捕とか

えらい騒ぎになってますねえ。最初の頃はマスコミもお得意の「転んだ奴に集団リンチ」をかまそうとしてたみたいですけど、草なぎ人気は侮れないもので、予想外の同情派の量に軌道修正を図っているようです。復帰を心待ちにしています、みたいな論調に早変わり。

だってあの鳩山でさえ「最低の人間」発言を撤回したんだもんね。政治家ってのはまずいことを言っても「誤解を招く発言だった」とかなんとかいって発言自体は撤回しないんですよ。草なぎは強いねぇ。相当の抗議が来たんだろうねぇ。まああんな支持率最低内閣の総務相ごときが人気者に唾を吐こうなんてのが間違いのもと。身の程を知れっつーの。大体人殺しに言われたくねーよ!

で、私はといえばむしろ今回のことでむしろ好感度は上がりましたね。面白いじゃないですか、酒飲んで、服脱いで、騒ぐって。私はひねくれてるからみんなから嫌われだしたり叩かれ始めたりすると俄然興味が湧いてくる。亀田の時も朝青竜の時も。嫌われ者を半笑いで陰ながら応援するというのがいつもの楽しみで、まあ今回は草なぎもそこまで嫌われてないようだから応援するまでもないようだけど。

今回の騒動では深夜で周りに誰もいなかったこともあって、逮捕だの家宅捜索だのはやり過ぎなんじゃないかという声も聞こえます。私もそう思うんですが、その冷静さを一般人の事件の時にも欲しいよねぇ、と思いました。逮捕、家宅捜索という警察の対応やマスコミの報道の過熱ぶりから一歩引いて「そこまでのことか?」と考えられるのは草なぎ剛がスマップという人気アイドルグループの一員だったからですよね。

一般人なら「○○の容疑でA氏の自宅が家宅捜索されました」となればやっぱり、当然やったんだろうと見なされるだろうし、逮捕されればその時点で犯人、とんでもないことをやった奴として認識されることだろうと思う。でも警察は時にやってもいない罪で人を捕まえるし、悪意に満ち満ちた解釈で人を罪に問うたりしてくるわけです。そしてマスコミはその警察の発表を鵜呑みにし、一方的なストーリーを垂れ流す。そんなことは今まで何度も起こってきた。

だから草なぎみたいな人気者の時だけじゃなく、警察の対応やマスコミの洪水のような情報を普段から疑ってかかって欲しいと思うし、私もそうしなければと気持ちを新たにしました。今回のことはとてもいい傾向だと思う。これだけ多くの人が初期の段階で警察やマスコミのやってることに疑問を呈するというのはそうそうないこと。

にしても、たかが酔っ払って服脱いだぐらいであんな神妙な顔して記者会見まで開かねばならないとは…。アイドルの優等生イメージは凄い。私は幅が広がってよかったと思うんだけどね。あの程度のことは大人として恥ずかしくもなんともないよ。人生腹の立つこと、嫌なことばっかり。一人で脱いで勝手に騒いでたぐらい可愛らしいガス抜きじゃないか。私はこれが草なぎじゃなくたって別に何とも思わない。

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2008年11月23日 (日)

たけしの日本教育白書

リアルタイムで見ながら感想を書いてみます。

トロッコ問題。難しいけど私だったら「何もしない」を選びますね。人間を頭数で考えるようになったら人権もへったくれもなくなる。多数を救うためなら少数の犠牲は仕方ない。スイッチを切り替えることはそういう考え方を助長させる選択です。5人が助かれば1人はどうなってもいい?

トロッコが向かってきてるのは変えようがない。どのみち誰かは死ぬ。でもスイッチを切り替えるという人為を加えればそれはその1人に対しての殺人になる。人の命は数では図れない。1人より5人の方が大切と勝手に判断し手を加える事自体が命の軽視に他ならない。だから私は何もしない。


通り魔事件とか。常識人がこの手の事件について語っても何もならない。特に加藤智大の事を生半可な認識で語ろうものなら私が許さない。常識に塗れた議論。常識に塗れた冗長な説教。そういうものをブチ破らなきゃ殺人者予備軍なんて救えないよ。

石原良純。こんな奴に何が分かるのか。キャスティングがおかしいよね。岡山県突き落し事件か。これは確か父親の事が好きだったのに「仕事をしろ」と言われて突き放されたような気がして事件に及んだ、という話だったと思う。痛々しいなあ。いじめの時に守ってくれたり、一見いい親に見えなくもないけど、俗世間的常識より自分の息子を優先させるというところまではいかなかったのね。

身の丈に合わない大学を目指したのだって、父親に認められたいという一心だったと思う。いつまでも等身大の自分を受け入れられないわけだから、永遠に背伸びし続けるしかない。でもその背伸びも否定されてヤケになった。

結局一人の人間として息子を認めてこなかったんだよね、あの父親は。いつまでも弱い存在として、守ってやらなくきゃ何もできない人間として扱った。それだと父親への依存心は高まっても、精神的自立がいつまで経っても訪れない。守る事は大切だけど、一人の対等な人間として認めた上じゃないと、自尊心までも根こそぎ奪っちゃう。こういう事件は辛い。切ない。


夕飯の時、父親にだけ刺身をつけたらどうなるかという実験。くだらない家族ストーリーを見せやがって。人と人とが対等な関係を築くという簡単な事がなぜできない?男が偉いとか親が偉いとかどうかしてる。ただ子を持ったというだけで、男に生まれたという事だけで他人より一段上にいるなんて理不尽な事実をなぜ受け入れられる?

思考停止的な上下関係を叩き込めば人は馬鹿になる。上には卑屈な笑みを浮かべ、下には醜い支配を行う。上だ下だ権威だという醜悪なものは断じて再生産させてはならない。汚らしい手垢に塗れた理屈の通らない上下関係など直ちに粉砕すべきだ。


次は夢。「夢を持て」という言葉はくだらないよね。そんなものなくたって生きていけるし、いつまでも夢を追いかけて真面目に働いてなかったりすると、それはそれで文句を言われるわけだしね。結局働いてそれなりの賃金を得て税金を納めるという規定路線の範囲内で夢を見ろって事でしょ。ふざけろと。夢ってのは身を持ち崩すぐらいの凄絶なものじゃないと綺麗じゃない。結局それを食い扶持にする事がゴールというのも面白くないしね。

夢を持てなんて本来は生半可な気持ちで言えることじゃないんですよ。それに生業として成功させる事だけが夢じゃないでしょ。一生働かないというのも夢だし。一生家から出ないというのも夢だし。

そうやって職業としての成功を夢として強制するから息が詰まる。若者は苦しむ。やりたい事を仕事にするって誰にでもできることじゃないよ。難易度の高いことをできて当然のように流布するのはよくない。仕事は仕事と割り切って考えるってことも教えていかないと。


学校の教育制度をどういじくりまわすかという話には興味がない。学校をどう潰すかという話なら聞くけど。教育委員会なんてどうだっていい。

採決禁止はおかしいね。校長の発言の機会がないからって採決の方を封じちゃうってのは無理があるだろ。そうでもしなきゃ発言もできないような奴を制度で支えてまで封建的なヒエラルキーを維持したいの?馬鹿なんじゃない。石原都政の汚点ここに極まれりって感じ?

学校を運営していくのに校長の権力が必要?校長が有無を言わさず決定を下すことが必要なの?みんなで話し合って創りあげていくに適した場所なんじゃないの、学校って。

なんちゃって、腐った学校には腐った制度がお似合いだからこれでいいのか。校則だ制服だとつまらない決め事で生徒をがんじがらめにしてる「教育」とやらの帰結が採決禁止ってユーモアとしては笑えるよ。生徒を管理するしか能がない教師が上から管理されて採決も取れないなんて皮肉だわ。教師に「採決禁止はおかしい」なんて言える資格のある奴がいるかが問題だよね。学校教育という腐った枠組みの中なら採決禁止も映えるよ。


石原登場。親玉だな。人と人との関係を権力を介してしか捉えられない可哀想な人種。こういう人にとっては「対等な関係」など存在しないのでしょうね。年齢、性別、肩書き、国籍、人種…。あらゆる選別が瞬時に行われ、汚らしい目で蔑んだり見上げたり。従わせるか従うかという殺伐とした世界観。

「個性、感性が大事。人間自由なんだ」。いいこと言ってるのに、やってることは権力による支配。国旗掲揚、国歌斉唱を強制しといて「個性が大事」って矛盾だらけじゃん。感性を潰すことばっかりやってるくせに何を言ってるの?


三知事対談。力で押さえつける教育はもう持たない。体罰容認の空気がガンガンに漂ってますが…。少しでも暴力を解禁すれば今旗色の悪い「子供には強制が必要」派が盛り返してくる。適度な体罰なんて学校の中まで入り込んでちゃんと監視できるの?責任持てるの?そんな力を用いなければ教育もできないようじゃ話にならない。

力に対する耐性は誰でも持ってるわけじゃないし、誰もが持たなきゃならないものでもない。自分がそういう暴力に晒されて育ったからといって他人にもそういう環境で育つ事を強制するなんてなんたる狭量な価値観だろう。力による教育でうまく育つ人もいるだろう。でもそうやって育った人には弱い人を思いやる能力などない。強くあるという事は弱さの否定に直結するからです。

終わった。280分。たらたら思ったことを書いてみましたが。見てなかった人には伝わりづらいでしょうが、まあ雰囲気だけでも楽しんでください。

総論としては普通。目新しいことは特にない。本当に今現場で苦しんでいる若者に対して共感能力のある人間が一人も居なかったことが教育を語るというのに問題だし、学校だの家庭だのに原因を求めるばかりで肝心の社会という視点が欠落していたのも問題。

教育は家や学校だけで行われるのではない。人を育てるのは社会です。私達一人ひとりが構成している社会。何かあると特定の家庭や学校に責任を押し付けて自分は大丈夫、自分は関係ないと安心する。そういう他人事のような考え方を改めて自分の問題として考える意識を持たないと、状況はよくならないと思います。

今回のテーマは「変わらなきゃ」。私のメッセージは「社会の復権」ですね。当事者意識を持て、日本人。

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2008年6月29日 (日)

さよなら江原さん

昨日のオーラの泉は酷かったですね。私はもう完全に見限りました。

狩野英孝、私結構好きなのにもう散々な言われよう。

神主は神主らしく?逃れられない宿命もある?んなもんクソくらえだ!自分の生きたいように生きて何が悪いの?生まれた時からどう生きるかが決められてる人生なんて最悪じゃん!

下衆の勘繰りとか言うけど、無償の愛というのは言わなくたって伝わるものです。本当に無償の愛だったなら「神社なんて継がなくてもいいんだよ」というメッセージを発する機会なんていくらでもあったはずでしょ?子供にそんな勘繰りをさせるほうが悪いんで、下衆の勘繰りという断罪はまったくナンセンスだ。

小さい頃から神社を継げということを言われまくって育ったのは事実なんだから、その結果「僕は跡取りとしてしか愛されてないんだ」と思ったらそれがすべて。それはそう思っちゃった子供が悪いの?否!そんなものは親の期待が悪いに決まってる。

で、結局最後は神主になります、ってオイ!お前はそれでいいのか狩野英孝。地域の人達のためってさあ、人間って地域の人達のために生きてんの?へ~、常にみんなのために何かをしている立派な人間しか存在意義はないんだ。それは知りませんでした。

そもそも誰かのためなんていうのは欺瞞なのです。なんにしたってそう。自分がやりたいからやってるという事実を見失い「人のため」とか言ってる人間のタチの悪さを考えれば分かるでしょう。人間なんて結局は自分のためでしかないのに。

私は誰にも感謝しないし、誰にも束縛されないし、誰のためにも生きない。全ては「自分がそうしたいから」そうするのです。これは前にも書いた。

人一人の人生や苦しみを無視して神主は神主らしく生きろなどとは言語道断、愚の骨頂。狩野の今まで生きてきた苦しみやわだかまりをあんな風に片付けるなんて。人をなんだと思ってるんだ。

結局は家のために神社を継ぐってことが狩野にとっていい選択だったのか?江原さんに言われてその時は継ごうと思ったっていざ実家に帰って親の顔を見たらやっぱり自分じゃない誰かが求められてる気がして苦しむんじゃないの?大丈夫?と要らぬ心配をしてしまう。

狩野がそれでいいならいいけどさ。でもあんなつまらない説教で人がどうにかなるのを見せられるのは気分よくない。

神々とかなんとかいって行動を制約されるのはまっぴらだ。江原さん、一時期好きだったのが嫌になる。やっぱりあなたは変わられてしまったのですね。もういい。もうスピリチュアルなんて信じない。

私のこの壊滅的な性格がもしかしたら悲劇的な前世によるものかも、という考えももう捨てる。私の性格は私のせいだ。

信じてたのに、信じてたのにぃ!もうあんな番組二度と見るもんか!でも来週は小島よしお。見ますよ。ええ見ますよ。だって好きだもん。

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2008年6月19日 (木)

過去記事発掘ぅ

気が付いた方もおられるかもしれませんが、右側に出てるカテゴリーを、増やしたり昇順を調整したりしてみた。ココログはカテゴリーの順番を好きなように変えるのに妙に苦労するんですが、なんとか解決。こんな方法があるんだって。

で一部イタい記事もちゃんとまとめて「できれば消したい記事」に。恋愛の話なんて何で書いてしまったのかと死ぬほど後悔している。今後あの記事たちの存在は間違いなくこのブログの足を引っ張る!どれだけ社会派っぽい事を書いたってあのチャラい記事が私の文章の権威を下げるんだわ、いや元からないとか分かりきってるんで黙っててください。

それでまあ、その中でも私の卑屈っぽさが現れててまあいいかな、というものは色恋の話に残し、救いようのなさそうなやつをできれば消したい記事にポイっとしました。

で、他にも色々見ているうちに下書きのまま眠っている記事を見つけたので、今日はそれを公開。それほど酷くない、というか昔の私いいこと言うじゃないか、とちょっと思ってしまった。恥ずかしい。

              2007年7月8日  「思い上がりスピリチュアル」 

江原さんって最近変わりましたよね。江原啓之。オーラの泉の。

オーラの泉は始まった当初は結構好きで、テレビ欄に丸をつけて毎週見てました。まだ23時台だった頃の話。知らない方のために番組内容をざっと説明すると、江原啓之と美輪明宏と国文太一が毎週ゲストを向かえ、そのゲストのオーラの色や前世、守護霊のことについて語らう番組です。

まずこの手の番組に対しては、スピリチュアルな事を信じるか信じないかという問題が出てくるので最初に言っておくと、私は結構信じます。江原さんのあの言い方を聞いているととても嘘を言っているようには見えないし、そういう力のある人なんだなあ、とは思ってます。

私が最初の頃なぜこの番組が好きだったかというと、それは江原さんがとても謙虚だったからです。上記のような守護霊や前世のこともそうですが、そういうこの世とは違う世界のことが見通せる力があって、様々なことが見えているのにもかかわらず、その考えをそのまま押し付けることが江原さんは無かった。あの人の言葉はその人その人の生き方や考え方を尊重した上で、こういう世界もあるんですよ、というあくまでも提示であった。昔はね。

一つ話を分かりやすくするために言っておくと、基本的に多くの人の考えや認識よりも様々なことを悟っている人間が、それをまったく理解していない人間ひとりひとりに一から説明をし続けた場合、思い上がりを伴わないケースは極めて稀です。あの人もその例に漏れず、何も分かっていない人間にオーラとはこうで、守護霊とはこうで、霊はこのようなものだ、と初心者向けに噛み砕いて説明するうちに、段々そんなことも知らないのか、だからそう言ってるでしょ、という気持ちが芽生え始め、やはり思い上がったと私は見る。

だんだんそちら側の世界、すなわち霊界での常識や当たり前とされていることを押し付けてくるようになりました。実はこうこうこうなんですよ、という説明口調は影をひそめ、だってそうでしょ、という断定にとって変わった。自分が知っている事が何にも勝る真理であり、霊界はこういう風になっているんだから、あなたもこうあるべき、と本人の在り方を無視した一方的なものになってしまったように私には見えるのです。

例えば、自殺は悪だとあの人は言う。自殺をしても救われない、死んでから苦しむのだと。なんか江原さんも最近優しくないな、と思い始めていた時に、このセリフを聞き、この人はもうダメだと私に思わせました。正直この人はなんて酷いことを言うんだろう、と。

今ある苦しみから脱したいと思った時に、死という方法しか思いつかない人がいる。死というものが最終的な心の拠り所になっている人もいる。何かあっても死ねば楽になれる、と思って現実に耐え一生懸命生きている人がいる。そういう人に対してたとえそれが真実だとしても、自殺したら死んでから苦しむんだよ、なんてセリフがよく吐ける。生きても地獄死んでも地獄ならその人は何を頼りに生きていけばいいのか。

私が知ってる番組が始まった時の江原さんなら、きっとこんなセリフは分かってても言わなかったと思う。自分が知っているスピリチュアルな世界というのはたくさんある思想や価値観の一つであり、苦しんでいる時になにかの役に立つこともあるかもしれません、というスタンスだったはずなんです、最初は。その人その人の在り方によって、オーダーメイドのようにその思想を噛み砕き、人を傷つけることは絶対に言わない。そういうやり方でこの人はものを言っているなあ、と思ったから私はあの番組を毎週見ていた。どんなにゲストがウザくても我慢して見たさ。

でもあの人は変わった。あんなに力がある人でも自分の思い上がりには気付けないのか。どんなことでもそれが全てってことはない。正義も真理も十人十色です。あの人の能力は確かにすごいけれども、それが何にも勝る超越的なものってことはやっぱりないよ。江原さんにとってそのスピリチュアルの世界が正しくても、唯一の真理でも、他の人には違う。そんなの信じないよ、という人もいればこの部分は分かるけどそっちの部分は分からない、という人もいるだろうし。やっぱり傲慢になったよなあ。

安易なこうあるべき論を振りまくようになってしまったオーラの泉。もう私は見れません。関係ないですが、美輪さんは最初からああいう考え方だったと思うな。江原さんが優しかったからバランス取れてたけど、江原さんがそっちに流れたらもう見れたもんじゃない。ああいう弱者に優しくない番組は大っ嫌いです。国文の今まで何の悲哀も知らずに生きてきましたよぉ、みたいな馬鹿ヅラも嫌い。全部嫌いです。いくら言っている事が正しくても、本人の今を無視した一方通行では意味がありません。昔はその人その人の今を汲み取って話すことができていたのに。

私はああやって思い上がるぐらいなら一生卑屈のままでいいや。人にこうあるべきなんてえらそうな説教たれるようになったら私の存在意義はその時点で消滅する。お前何様だよという言葉を一生自分に投げかけながら生きていきたいと思う。

この記事から1年ほど経過した今、江原さんがどうなっているかは知らない。ゲストがあまりにも嫌いなヤツばかりなので、最近じゃオーラの泉なんて見たこともなかったのです。「江原さんは今」企画もその内成立させます。

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2008年5月24日 (土)

靖史は何であんなに怒ってんだ

太田総理。例によって見てましたが。少年法に関するマニフェストだと分かった時点でこうなる事は分かっていた。太田はこの手の話に関しては普段の愛すべき存在からはかけ離れてしまうし、靖史は前回だったか「そんな凶悪犯罪を犯したヤツに弁護士がつくとか考えられない」というクソ発言でお馴染み。こういう話を聞いていると本当に胸がムカムカしてくる。

実名報道。それをしたから反省するという根拠はどこら辺に存在するのでしょうか。社会からのリアクションを受け止めるべきだとかなんとか言ってましたが、実名だろうが匿名だろうが世間はマスコミに煽られ馬鹿騒ぎ、名前が出てなくたって十分リアクションは得られてるじゃん。そりゃあ直接にではないにしてもさ。匿名だから反省しないとか実名出したら反省するとかどういう論理で思い込んでるんでしょうかね。わっけ分かりません。

この国で実名を出すということはどういうことか。光市事件の時のあの反応を見れば分かる。正当な弁護をしているだけの弁護士に執拗なバッシングが行われ、6000件もの懲戒請求や脅迫状まで送りつけられた。被告を弁護するのが弁護人の仕事であるという基礎的事実すら理解できない国民が山ほどいるこの民度の低い国で少年の実名を出す?目眩がしてくる。犯罪者でもない弁護士でこの有様なのに、少年だったらどうなるかなんて火を見るより明らかじゃないですか。今回のマニフェストだって視聴者の賛成は現時点で92%。こんな国で実名出したら本人はおろか家族だってまともに生きてなんていけません。

自分達とは違う人間だ、という便利で醜悪な意識によって激烈な排除の論理が働き、犯罪者やその家族は存在ごと否定される。事件が起こった背景も加害少年の精神状態も一切顧みられず、憎しみだけがものすごい勢いで増殖する。日本はもはや法治国家ではないと思わざるを得ないぐらい、死刑死刑の大合唱。私はこんな国に生まれた事、今現在生きている事を心の底から恥ずかしく思う。

ああいう人達の怒りというのは理不尽なんです。法の裁きを超えた憎しみ、犯罪者のくせに笑ってる、飯食ってる、許せねえという怒りについては対処のしようがない。犯罪者だって笑うし飯を食う。人間なんですから。それが反省してないってことになるんでしょうか?そんなものは言いがかりです。この先死ぬまで一生クスリとも笑わず飯も食わずに生きてゆけとでも?そんなことは不可能に決まっているし、人間として生きるということそれ自体の否定です。事件の当事者でもないのになぜそこまで憎しみに囚われるのか。私には分からないのです。

もちろんやった事には一生向き合っていかなければならないし反省もし続けなければなりません。でもどっかで許さなければ際限がない。その許しの一つの目安が刑期であり、これは原始的な目には目を歯には歯をシステムから脱却し、理性による社会運営を図るための素晴らしい仕組みだと私は思います。それなのに刑期を終えた後もいつまでも犯罪者犯罪者と呼び続けてしまったらその精神が台無しだし、何のための刑期なのか分からない。もちろん刑期を終えたからといって犯した罪が消えてなくなるわけじゃない。でも少なくとも法律上は罪を償ったというこの事実を以って社会はその人を受け入れる努力をすべきだし、事件当事者以外の第三者は基本的にはその人を許すべきです。

刑が軽すぎるというなら法改正や運用面での改善などが国民全体で議論されるべきだと思いますが、その時も犯罪を犯した人に対する個人攻撃ではなく、あくまで反省や更生を促し且つ妥当な刑期はどの程度なのかということが司法制度全体を通して理性的に話し合われるべきであり、あんなとんでもない奴がいるから刑を重くしようぜ、という感情論は極力排除すべきです。

それにしても賛成92%って。これだからこの国は嫌。社会全体で少年を受け入れようなんて話であるはずもなく、白日の下に引きずり出して自分のした事を思い知らせてやりたいという処罰感情に満ち満ちている。つまんねー国。吐き気がする。

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2008年3月 8日 (土)

太田総理ネタ

久々に太田総理からネタを得て書いてみたいと思います。

今日のマニフェストは「ネットを一日1時間までにします」。Byテリー伊藤。

…あんなにつまらない人だとは思ってなかった。私が何よりも嫌いなのは強制、管理。何かあると一方的に基準を決めてそれに従え、というやり方はとっても日本人的。大体あの人は自分だって人から色々言われてその通りにするなんてことはとてもしそうにないのに、人に対してはそういう規制をかけて従わせようとするのは矛盾している気がする。

私はここでネットの功罪について云々する気はない。それに関しては番組内で言っていたような、想像力の欠如、主体性の欠如などもその一端を表していると言えるし、もちろんそれ以外にも見ず知らずの人からの一言で救われたり、有益な情報を得たりという面があるのも事実です。というかいい面悪い面両方あるというのは何を対象にしても当然ある事でネットだけが飛びぬけて構造的な欠陥があるとか劇的な良薬であるなんて事はないと思うのです。だからネットのいい悪いはこの際置いといてあの番組でのテリー伊藤の態度ね、これを問題にしたいわけです。

そもそも日本人の主体性のなさ、想像力のなさは別にネットのせいじゃないでしょう。ネットを取り上げた所で馬鹿は馬鹿、突然半径5メートルの範囲からいきなり飛び出して主体的に動き出すなんて事が起こり得るはずがない。ウチの親父だってパソコンそんなに使いこなせないんですよ。日本人の気質的欠陥をネットに全て押し付けるのはおかしい。番組内でも言っていたように、同じくネットが普及しているアメリカではそのような主体性の欠如と言った問題は起きていないという。それならやっぱりこれは日本人の赤信号みんなで渡れば怖くない式の主体性のなさがネットによって噴出しているに過ぎないと解釈するのが自然で、それは当然ネットの使用時間の規制では解決できない。

それともう一つはああいう生き方の強制ね、私はああいうのが反吐が出そうなぐらい嫌い。私はテリー伊藤を不真面目で非日本人的な面白い人だと少しは思っていたのです。ここで言う不真面目とはもちろん褒め言葉です。でも太陽や星を見て想像力が云々とか引きこもりが悪いとか、お前らたるんでる式の話の持っていき方はただの日本人だ。ノスタルジジイと言ってもいいぐらい。色んな生き方がある。色んな考え方がある。それを認めようとせず自分の自論を振り回すだけの人は何を言っても魅力がないのです。

ネットのせいで想像力がなくなっている。全部ネットからのパクリで主体的に自分の頭でものを考えなくなっている。そう主張しながら自分の考えを上から押し付けるのは完全な矛盾じゃないだろうか。ネットは一日一時間にしましょう。はーい。お前ら主体性を持て。分かりました。…正直者の私は嘘つきです発言に比肩するパラドックス。

ネットは一日一時間と決められてその通りにする事が主体性のある人間のすることなのか。私のように個人の自発性、自律性に重きを置く人間としてはそんなものは愚の骨頂、主体性というのはあれしろこれしろっつって育てるものではないのです。自分で型を作りそれに人を当てはめていくというやり方は主体性の欠如を憂えているつもりでも結局は画一化を進行させる事にしかならない。

少なくとも私はネットは一日一時間だのなんだのと命令されたくない干渉されたくない。大体なにかっていうとルール、規制という考え方は学校的で気持ちが悪い。勝手に決めて人をそれに従わせてれば満足なのか。主体性主体性と言いながら自分からその芽を摘むような行動をとってるじゃないか。自分と違う生き方考え方を認めて始めて主体性を語る資格が生まれる。ネットをやると馬鹿になるというのはまあ確かに一側面ではあると思いますが逆に言えば一側面でしかない。本人も反発がくるのは分かってるんでしょうがああいう独裁者的なルールの設定の仕方は大嫌いです。

まあでも最近のブログは半径5メートルの事しか書いていないからつまらない、馬鹿になるというのは一理あるかもと思いました。時々検索かけて他の人のブログを覗いたりするんですが数行で今日これ食べました(写真付き)とか、他にも面白かったとかつまらなかったとか短文が目立つ。そんなんでいいなら私のブログの更新頻度だって…とか思う事もある。まあ私みたいにだらだら長ったらしく書いても誰も最後まで読んでくれないんでしょうけどね。どっちもどっちか。

最後に一つ言わせてもらえば私はやっぱり引きこもりに対するいわれのない批判は我慢ならない。外に出て人と触れ合う事が家で引きこもる事より大事だなんてのは一体誰が決めたんでしょう。内向的という言葉も悪い意味でばかり使われますが、外に出てくだらない人間と関わるより自分の内面と向き合う方が大切な事もある。外に出て人と話すのがいい事だという基準で全てを塗りつぶしてしまうのは人間の個性を潰すことで、それは結果として人を追い詰める事にもなる。

大体言ってしまえば一人でいられないのも孤独を必要以上に恐れるのも立派な病気なんで、なぜ人と関わるのが苦手な側だけが叩かれ矯正の対象となってしまうのか、これは絶対おかしい。じゃあお前携帯の電源切って1週間、1ヶ月と誰とも関わらずにいてみろよ、と。それもできないような奴が平気で「外に出たほうがいいよ」とか「人とのふれあいの大切さが」とかなんとか抜かしてる。それが現状です。私は一人でいる時間より人と関わってる時間の方が多くなったら間違いなく精神を病んで破滅する。そういう病気なのです。でも私は誰かに対して人と関わるな、一人でいろなんて命令した事はない。一度もです。なぜならそんなものはただの性格的な違いに過ぎずどちらが「正しいか」なんて事は究極的には誰にも判断できるはずがないからです。

そこら辺をわきまえず人とのふれあいが大事だなんてぬけぬけと抜かすような奴には私は用はない、よってテリー伊藤にも用はない。まったく幻滅しました。私の一人でいる自由を侵害するものは何人たりとも許さない。ネットを制限すれば引きこもりも治ってハッピー、なんてしょうもないストーリをゴールデンタイムで垂れ流されるのも不快だ。引きこもっててなにが悪い。大体ネットにしか救いを求められないような状況に追い込んだのは誰だよというそもそも論もあるし。踏み躙るだけ踏み躙っといてネットだけ規制して外に出てきなさいというのもほんと無茶苦茶よね。だったらその社会の受け皿のほうはどうなってんだ、と。異質なものを認める器の大きさは身に付いたのか。もうこうあるべき論を押し付ける事も迫害もやめる?そんなわけはない。社会の方は何も変わらないのです。変える必要があるとも思ってない。ただ全てをこちらの性格的問題に帰し傲然と座っているしか能がない。そんな奴らに批判される筋合いは本当にまったくこれっぽっちもない。

最後に一つとか言って長くなっちゃった。もうやめます。長く書きゃいいってもんじゃないよね。でも一応半径5メートルブログとは差別化を図りたいかな、という感じで。たまにはいいけどいつもいつも自分の衣食住で占められてるブログもどうかと思いますからね、やっぱり。お前はアイドルかという。誰も興味ねえだろうと思いますもん。ま、読まない自由があるわけですからあまりぐだぐだ言う気もないんですが。それでは長くなりました、この辺で。おやすみなさい。

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2007年7月 1日 (日)

多数派の暴力

なんか何回書いても釈然としないのよね。相変わらず平岡さんに対するバッシングは続いているみたいだし、私の記事を2ちゃんねるに貼り付ける奴まで出てきてるし。すっごい分かりやすく嫌われてるよね。

まあそれだけ世の関心事だったという事でしょうか。前回の記事前々回の記事を更新した昨日のアクセス数は前日比664倍。考えられない数字ですね。これは平岡さんに対する関心が集まってるからなのか、私の考え方が異質だからなのか。まあ前者ですよね。あまり自分を買いかぶっちゃいけないわ。

それと私の記事を題材に記事を書いてくださった方がいました。加害者の人権を認める気はないなど相容れない部分はありますが、それなりに私の文章を評価してくださっているようです。(http://blog.so-net.ne.jp/c-cat/2007-06-30)私の記事に対してその方が言う、10代ですからはいらねえだろ、というのはごもっとも。私も最後の最後で弱気がでまして、やっぱ言いすぎかなあ、語弊ありまくりだろうなあ、と思っているうちに10代ですからがぽろっと出てしまったというわけです。次からはもう言いません。

それでは改めて前回言い足りなかった部分をまた書かせていただきます。しつこいですか、すいません。

まず私は、もう何回も言ってるんですけどね、被害者の事を顧みなくていいなんて事は一言も言ってないんです。太田総理で少年院で結局1、2年で出てこれてしまうケースが紹介されてましたが、それがおかしいというのは私も異論のないところです。犯した罪に対してきちんと責任を負う必要があるという事も分かっています。ただ私は刑罰としての死刑や少年への過剰な刑罰には反対、というだけであって。

少しでも加害者の肩を持とうとすると、すぐさま被害者がその犠牲になるかのような事を喧伝する人がいますが、そんな事はありません。私なりに何故そういう人間がいて何故それが支持されるか考えてみた結果、やはり根底にあるのは蔑視感情だと思われます。

加害者の権利や更生を訴える事は被害者をないがしろにする事には繋がらないのに、さもそれが直結するかのように言う人ってのは、口では被害者の心情とか人権が大切なんて言ってますが、結局自分の差別感情を被害者を通して訴えたいだけなのではないでしょうか。現に被害にあっても加害者の更生を願うような被害者がいる事はあまりピックアップしないでしょう。

自分の差別感情を都合よく代弁してくれそうな被害者だけを賛美するのは、それこそ被害者感情を利用する汚い行為というか、やはりあまりにも公平性を欠いています。もういっそのこと被害者の心情なんてものをかくれみのにするのはやめて、正直に言ったらいいんじゃないですか。

俺は人を殺すような人間は人間とは思えないし、そいつがこの世の中で息を吸っている事自体が許せない。そいつが育つ過程でどれだけ劣悪な環境があろうとも、殺人なんて行為に及ぶのはそいつ個人の欠陥によるもので、そんな奴に生存権及びその他の人権なんてものを認める気は一切ない。こういう考えなんですよね。

それを被害者の心情がなんて言うから気持ちが悪いんです。じゃあ加害者に更生してほしいと思っている被害者の気持ちはどうするんです?尊重しなくていいんですか。もし今大多数の被害者が加害者の更生を望むようになったら、今度は亡くなった人の事を考えてないとか言って遺族の方にまで攻撃の手を広げるんじゃないんですか、あなた達は。自分がそんな奴は死ぬべきだと思ってる事を被害者のためなんて美化するのはやめてください。被害者の盾に隠れているのは卑怯ですよ。被害者がなんと言おうと自分は加害者には死んで欲しいと思ってるとはっきり言ってください。

私は被害者が加害者に対して感情的になるのは当然だと思います。それに対して死刑にしたって亡くなった人は帰ってこないんだから、加害者の更生を望むのが一番いい方法でしょう?なんて言い方をするのにはやはり抵抗を覚えますし、被害者本人に言っていい事だとも思っていません。私だって身近な人が犯罪の被害にあったら、ここまで冷静でいられるかどうかは分からないしね。もちろん死刑には反対しますが無期懲役ぐらいは望むかもしれません。ですがやはり第三者はそのような感情的な立場であってはならないでしょう。

先日の太田総理の放送の中でケビンが「目には目をじゃないか、ハンムラビ法典か」と言ったのを、目には目をでいいじゃないかとおっしゃっている方を多数見かけましたが、率直に言っていいわけがありません。やられたらやり返すでいいなら、何のための裁判ですか。裁判は復讐の執行には手を貸しません。国会に陳情して仇討ち法でも人を殺したら無条件で死刑法案でも作ってもらってくださいよ、それが本当に正しいと思ってるなら。

被害にあった時、憎しみの感情に任せて相手に同じ苦しみを味あわせる事は認められていないんです。事件が起きた時被害者と加害者の間に入り、ただの報復にはよらない、被害者の心情も、加害者の更生も、両方を考慮したうえで、双方にとってもっとも妥当だろうと思われる落とし所を見つけるのが裁判の役目です。それは被害者感情を無視したものであっても、加害者の人権を著しく無視したものあってもダメなのです。

裁判がそうした葛藤を踏まえて運営されているわけですから(もっとも最近の裁判は世論に配慮しすぎでそのような葛藤の上に成り立っているかは疑問なんですが)、第三者である私たちだって公平な目線で物事を見ねばなりません。しかも2009年からは私たち国民も裁判に呼ばれる事が決まっているわけですから、今の被害者に偏りきったこんな世論では、裁判が加害者に対する集団リンチに堕しかねません。

もうね、私自身よく分からないんですよ、自分ももしかしたら人を殺すかもしれないと思う人間と思わない人間の違い。単純にそんな事を思う奴の人間性に問題があると片付ける事もできそうな反面、社会の多数派に守られ、社会の「規律」と言われるものを問題なく遵守してきた人間の欠陥であると言う事もできる。やっぱりそうやって今まで生きてくるとそこから外れた者の気持ちが分からないじゃないですか。

人を殺す事は悪い事でお年寄りに席を譲るのはいい事だという分かりきっているはずの善悪からふっと外れてしまう瞬間がある事を私は身近に感じられる。社会の多数派から弾き飛ばされ軽蔑のまなざしを送られながら生きる事がどれだけ辛いか、少しは想像する事ができるから。とはいっても差別者側に被差別者側の気持ちが分かるかといえば分かるはずないんです。分かるなら差別なんてしませんから。

そもそもなぜ世論の大半が加害者に感情移入できないのかといえば、やはり自分達が常日頃から行っている差別や排他的な態度にあまり気付いていないからだと思います。というか差別を行っているという自覚すらない人間の方が多いのでしょう。例えば不登校にしてもたかだか学校に行かないからというだけでダメ人間のレッテルを貼られたりする事が往々にしてあるわけで、ニートや引きこもりも同様です。

そちらにしてみれば、学校に行くのも働くのも生きてれば当たり前でしょう、という感覚かもしれませんが、その動作を行うのがどうしようもなく辛い、と思う人間だっているのです。そのような状況にある人間に対して、集団の中で何不自由なく暮らしている自分の基準をそのまま適用し、弱いとかたるんでるとか言うのはやっぱり想像力が欠如していると言わざるを得ない。

そうやって一人ひとりが無意識的に行っている選別作業によって、異質なものを認めない均質的な社会が創られ、その結果そこに適合できない人は異常者とか、病気だとか、非人間的な扱いを受け、結果犯罪に走ってしまう、という構図もあるんですよ。

自分達が普段何気なくやっている事が人を追い詰めているかもしれないんです。人殺しを生み出しているのかもしれないんですよ。全部が全部そうとは言いませんが、そういう一面もあるという事を理解していただいて、犯罪は社会全体の責任であり、ひいては自分自身の責任でもあるという危機意識を持ってもらいたい。

社会に普通に生きてると気が付かないかもしれませんが、そこから少し普通じゃない生き方をしようとすると実はものすごい圧力がかかるんですよ、今の日本では。しかも社会全体のこうあらねばならないという考えはたいした根拠のない迷信である事が非常に多い。学校に行かないと育たないとか、家にずっといたらダメになるとか、社会が当たり前だと思ってる事は実は少しも当たり前じゃない。それが何故当たり前じゃないかはまた稿を改めたいっていうか、不登校の記事なら過去に書いたやつがあるのでどうぞ。http://kyomutotomoni.cocolog-wbs.com/blog/2007/05/post_788f.html

無意識的にそういう枠にはめ込もうとしていたり、そこから外れた人間に対してものすごい差別を行ったりしているんです、社会は。その結果、社会から外れた事により周りからすさまじい差別を受け、人格が壊れ犯罪を犯したらお前が悪い、という事ではあまりにも酷すぎませんか、と私は言っているんです。事情があるから責任を取らなくてもいいなんて言っていなくて、社会全体が加害者を追い詰めてしまったのかもしれない、という視点も持てませんか、という提案をしているのです。

そもそも社会に不安を与えたなんて事が加害者に対する刑罰の際に加算される事が私はどうしても納得いかない。謝らなけらばならないのはどっちか。罪を犯す前に止められなかった社会の方なんじゃないの。虐待を受けていたケースなんかで言うと、その人は虐待を受けている間は被害者です。ずっとずっと被害者で、ある日ついに耐え切れずに心が壊れ加害者になってしまった。被害者である間に助けられなかった事を私達は詫びなくていいのだろうか。個人の責任に押し付けてしまっていいのだろうか。私はいいとは思わない。

虐待なんて分かりやすいケースでなくてもこの考えは適用できると思います。皆さん善悪の判断がつかなかったから人を殺したんだと本気でお考えですか?それならばどうして両親が教師であるというような環境の人間が人を殺すのでしょう。何がよくて何が悪いかなんて事はもうウンザリするぐらい教え込まれているはずですよ、そういった境遇なら。

ですから犯罪の背景にあるのは、孤独感であったり、自尊心の崩壊であったり、あるいはまったく逆で世間の差別感情に染まりきってしまったから、という事も考えられるでしょう。例えばホームレスを襲った中学生などは、親や社会のホームレスに対する偏見をそのまま受け継ぎ、ホームレスの事を暴力を働いても許される存在なんだと勘違いしたのかもしれません。皆さんも差別してるでしょう?ホームレスの事を。ある意味その中学生達はあなた方が定めた善悪を忠実に守ったとも言えます。自分達と違う人間は差別して排除するのが当然だというね。

太田総理に出てきた被害者の方の息子さんも、障害者で動けないのをいい事にかなり陰湿なやり方で殺害されたそうですが、普段から障害者やその他マイノリティに思いやりがないのはどちらかといえばむしろそちら側だと私は思うわけで、あなた方が加害者に死を!とものすごい勢いで叫ぶ姿勢は逆に加害者予備軍を作りあげる可能性があるという事なんです。分かりにくいですかね。

要するにあなた達は自分達と違うものが嫌いなんです。俺達に同化しないと人間として認めないぞ、という横暴を日々知らない内に働いています。それが自分と違う人間は差別してもいいんだという考えを生み、行き過ぎると殺してもいいんだとなる。人の上に人をつくり人の下に人をつくる教育をしているのはあなた方多数派です。マイノリティはそういう態度にことのほか傷ついていますよ。私だってそう。

そうやって少数派排除を推し進めていけば、いずれこの社会は立ち行かなくなるだろうし、その内あなた方は復讐されます。変な脅しをかけているわけではなく、あなた方が知らない内にこちら側の人間は結構な怒りを溜め込んでいますし、下手をすれば身内からも差別感情が行き過ぎた加害者が出てくるわけでしょう。大変ですね。その都度気違い扱いしてれば事足りると思ってたら痛い目見ますよほんとに。で、人を殺してしまえば自分と同じ出身でも鬼畜呼ばわりしたり平気でするわけでしょ。冷たーい。それでも人間なのかしら。こちら側が加害者に同調するのとはえらい違いだよ。

ですから加害者の犯罪がどれだけ残虐であろうとも、同じ痛みを味あわせてやれ、というような短絡的な発想で解決できるような状況ではもうないと私は思うんです。本当の意味で加害者の立場にたって、何故そうなったのかという事を社会全体で真剣に考えていかないと、犯罪の数も減らせませんし理不尽な理由で苦しむ人も救えません。

そのように考えるとやはりどうしたって死刑には人道上の問題がある。現実的な対案としては仮釈放のない無期懲役というのが必要ではないかと思います。模範囚をやっていればすぐ出れるなんて事では被害者も納得しないでしょうし、犯罪に対して一定のペナルティを科していかなければ社会秩序も守れない。悪質だと判断されれば一生を刑務所で終えるという事も仕方がないでしょう。ただ何をもって悪質とするかに関してはまだまだ偏りがあり過ぎる。私は何が何でも情状酌量なんて事を言っているわけではありません。とにかく公平な目で世の中を見ていきましょうという事です。分かっていただけたでしょうか。

もう全部読んでくれる人なんて今度こそいない気がするよ。この話はそろそろこの辺で区切りをつけたいな。この数日多数派と戦う事で頭がいっぱいでかなり生活が狂ってきてるんで。そろそろまた細々としたブログに戻りたい。アクセス数前日比664倍ですよ。おちおち愚痴も書いておれんじゃないか、まったく。

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2007年6月30日 (土)

昨日の太田総理について

アクセス数があ、アクセス数があ!今までこのブログがどれだけの低空飛行だったか知ってます?昨日の夜から今日の昼まででもう私が完全にびびっちゃうようなアクセス数を記録してます。昨晩の太田総理は思いのほか波紋を呼んでいたようですね。私のまったく希望しない方向に、ですが。

平岡バッシングが物凄いことになっているのをあの記事を更新してから知りました。平岡秀夫で検索しても出る記事出る記事バッシングの嵐。これでは私まで被害者感情を無視した鬼畜のように言われてしまいますねー。私はあの人いい事言ってると思っちゃいましたし、それを昨日の記事でも書いてしまいましたからね。

あのバッシングの中で平岡秀夫いいこと言ってるなんて書いた私の記事はきっと浮きまくりなんでしょう。このアクセス数もその好奇の目プラス軽蔑しきりみたいな事で記録されたんでしょうか。

でもねえ、私は考え方を変えるつもりはありませんよ。だってこれ以上多数派の横暴を許せませんもの。平岡さんは確かに配慮に欠けていたかもしれないけれど、だからといって自らの偏った考えを棚に上げ、こちら側に対して被害者のことを考えてないじゃないか、なんていけしゃあしゃあと述べるような人間がのさばってるこの世では、私は書かねばなりません。

まずね、偏ってるって何なの。私今日は頭に来てるんで全般的に口が悪くなるかと思いますがご容赦いただいて言わせていただくと、てめえが言えた口かよ、と。偏ってる?あんたらにだけは言われたくねえわ。人に対して偏ってるというのなら、自分は公平な目でもって世の中を見れていることが大前提でしょう?

自分は加害者の側にも配慮した意見なんてのとは一切無縁なくせして、こちらが加害者を守れば被害者を無視してると喚く。じゃああんたらはどうなんだ。加害者を無視してるじゃないか。こんな横暴な理論がありますか。そもそも加害者にだって人権があるというごく当たり前のことすら理解できないような人間に、こちらの考えを偏ってるだの被害者を無視してるだの言う資格なんてないんです。それが言いたいのならそちら側も加害者の人権を配慮したような発言を心がけるべきでしょう。

平岡さんの問題となってるシーンは私も見てましたが、平岡さんの言っていることは間違ってはいなかったと思います。ただ被害者の方に直接言うには配慮がなかったと言わざるを得ないし「死んだってその人は帰ってこないんだよ」とか「じゃあ死ねば満足なんですか」的なことは本人に言うにはきつすぎる言葉であることは私も分かります。だから言ってる事は間違ってないけどそれを本人に言っちゃあ、と私は思いました。結局それが自分の事は棚上げ軍団からのバッシングの糸口を作ってもしまったわけですから。

でもそれはあの番組構成にも問題があると思いませんか。被害者の方を連れてきちゃったら、加害者側の人権を守ろうなんて言ってる人は何を言っても悪者じゃないですか。そうやって何を言っても被害者の事を考えていない、被害者感情を無視してる、なんて言われるようなフィールドに人を上げる事自体がフェアじゃない。とても姑息な方法だと思います。被害にあっても加害者に更生してほしいと思ってる被害者の方だっているわけですから、そういう方をもう一人呼ぶとか、そういう風にしないとこっちが一方的に悪者になるだけですよ。

で、その番組構成にそのまま流されてバッシングに走ってしまうような人がいるんでしょ。話になんねえよ。大体他の人と同じような事を言ってどうしようというのでしょう。別に私は気をてらう意味でこのような考えを表明しているわけではありませんが、他の人が散々言ってる事なら、ああみんな言ってるからもういいやって思いません?だってあなたが言わなくたって他の人がもう言ってますから、同じような事をね。

どうしても書きたいならもう散々言われてますが、みたいな前置きをするとか、さも自分が初めてこう考えたんだ、みたいに言ってるのを見るとちょっと笑ってしまいます。他の人がもう言ってる意見を声高に言うのって意味あるんですか。多数派の示威行為?これはこの件以外にも言えることですがね。平岡さんの配慮のない発言よりも、自分が常日頃からどれだけ傍若無人な発言をしているのか考えてみたらいいよ。

私は常日頃から犯罪は個人の責任だけに還元できるものではないと明言しています。それが子供ならなおの事、家庭環境や、社会環境に押し潰されてしまう事はままある。ですが今回の事で、他の人のブログを検索して読んでみてもそうだし、太田総理での竹山の発言を聞いてもそうだし、要するにそれがなんなんだ、とそっち側の奴は言うわけです。

だからなんなんだ。家庭環境が悪くたってちゃんと育つ奴はいるじゃないか。そんな事は罪を軽くする理由にはならないよ、と。

頭が痛くなります。このセリフに潜んでいるおぞましさに皆様はお気づきでしょうか。こんな人間が多数派を占めている世の中に私はゾッとします。ほんとに背筋が寒くなる思い。

あなた方が言っている事はこうです。虐待をされたってちゃんと育つ奴はいるんだから、犯罪に走るのはお前が弱いからだ。いじめを受けたって死なない奴は死なないんだから自殺するなんてちょっと精神がたるんでるね。受験のプレッシャーぐらいで何なの。そんな事で親を殺すなんてどうかしてる、弱過ぎる。そんな弱い人間は死刑で当然。社会にはお前みたいな弱い人間はいらねえんだよ。

そういうことでしょう?あなた方が普段言っているのは。強い人が、環境によらなかった人が一人いたら、私たち弱い人間はみんなそれに合わせねばならないのですか?居場所がなく拠り所もなく、押し潰され踏みにじられされた挙句人を殺せば我関せずなのですか。あなたのせいではないのですか。普段から人を差別してませんか。人をふるいにかけていませんか。そのせいで人殺しに走った人はほんとに一人もいませんか?

このように、普段あなた方が発している暴言に比べれば、平岡さんの配慮のなさは100倍ぐらいマシです。自分の考えが全てだと思ってるというような批判も見られましたが、私に言わせればどっちがだよという事になります。自分の偏りきった考えを棚上げし、人の考えを偏っているとなじる。人間として最低です。

想像力がない、人としての柔軟さがない、自分の正義が全てに適用されると信じて疑わない、相手の意見を聞かない。それがあなた方です。私はあなた方が怖い。太田総理の投票によれば、9割がたの人間が人殺しは死刑で当然と思い込み、9割がたの人間が自分が正義の鉄槌と信じて疑わないものを加害者に向けて全力で振り下ろしてくる。そんな状況じゃ私は被害者に寄り添えません。

だってそうでしょ。あなた方は偏った見方で加害者を断じるのが許されているわけですから、もうその時点で世論自体が偏ってるんです。そんな時に私が「被害者の心情も考えなきゃね、そういう法律を作ろう」と一歩でもそちらに歩み寄れば、その時点で加害者はリンチにされて殺される。そういう恐怖感、危機感が私にはあるのです。

私は被害者の心情を無視していいなんて言っていない。事情があるから殺しても仕方がないなんて言ってないし、責任を負う必要がないとも言ってない。こちらの言葉の意味を曲解し加害者を殺してもいい人間に仕立て上げようとするのは即刻やめていただきたい。あなた方が想像できようとできまいと、加害者に人権がある事も、犯罪に至る経緯を知る必要がある事も、死刑が人道上問題がある事も事実です。加害者が何をしようと、死刑を認める理由にはなりません。

私は今回の事は多数派の卑劣な言論統制であると考えます。まず相手の意見を冷静に聞く。その上で世論はどう動くのか想像してみる。そしてそれが多数派によるリンチになっているとしたら、じゃあ自分はやめておこうぐらいの自制心は持っていただけませんか。そうでなければ少数派はものが言えなくなる。あなた方は数に守られているいわば温室にいるのだという事をもう少し自覚した方がよろしいかと。

私は加害者をあなた方には殺させません。あなた方の想像力の欠如を加害者に負わせるわけにはいかないからです。世論の力は大変強い。だから私はこんな中で裁判員制度を入れるのには反対なのですが、決まったものは仕方がない。どうせあなた方は死刑を乱発するのでしょうね。被害者も法廷に乗り込んで報復裁判を作り出すでしょう。でも私は加害者を守ります。9割がたの人間が被害者に偏っている状況で、果たして私の態度が不公平だと批判できる資格を持った人間が存在するでしょうか。無理ですよね、自分の事を棚上げしなきゃ。

いずれにせよ、今回の事で私の考えは大声で表明したら投石ものなのだという事がよく分かりました。私がマイノリティたる所以もね。コメント欄を設けてたら完全に炎上してたでしょう。でも最後に言っておきたいのは、私だって被害者の事を考えなくてもいいなんて言っているわけではないという事です。私がここで被害者の立場についてあまり述べなかったのは、そちらが9割の圧力で加害者に死を迫ってくるからであって、それから加害者を守るにはこちらも被害者と加害者を同じ比率で論じていては手緩くなってしまうという事情があるのです。

ですから私は、被害者の人権も加害者の人権もどちらも同じように守っていかなければならないものだと思っています。同じようになんて表現を使うとまた棚上げ軍団に怒られそうですが。

とにかく殺されていい人間も人権を軽視されていい人間も存在しないということです。加害者だけの人権を見ているわけでも何でもないんですけどね。私の今回のこの文、かなり感情的で攻撃的な文章になっている事を認めます。ですが普段からあなた方が加害者に投げつけている暴言などに比べたらかわいいものかと。偏った見方に対して偏った見方で応酬するというのは子供じみているかもしれませんが、今の私はまだそこまで大人になる事ができません。まだ10代ですから。

そちら側の方を侮辱するような文言も含まれていたかもしれません。一応謝っておきます。申し訳ございませんでした。

7月2日追記:この記事に直接飛んできた方は、できればこの後の多数派の暴力も読んでいただけるといいかもしれません。この記事の方が比較的被害者の方の事も書いてあるので、私がただ単に加害者徹底擁護を主張しているわけではない、という事が多少なりとも分かっていただけるかと思います。長文なので無理強いはしませんが。リンクはこの記事の下にあります。

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クソマニフェスト再来

いやあもう腹立った。何って、今日の太田総理の事ですよ。あのカンニング竹山のマニフェスト、少年法を廃止しますってやつね。以前のメタボ議員はクビ法案から更にひどくなってます。もう今回の何が嫌だったって、太田が賛成に回ったこと、これ以外にない。あの人殺しがのうのうとテレビに映ってるのも心底嫌だったけどね。あの戸塚のことよ。

もうあんまり腹立ったから、番組終了後ですが、番組ホームページから意見を送り付けてやりました。以下その内容。

カンニングの竹山さんはじめ賛成席に座っていた方々は、殺人という犯罪がなぜ起こるのか、という事に思いを巡らせた事がないのだろうと思います。片一方ではこうあるべき、こうあらねばならないという考えを押し付け、加害者予備軍を作り上げておきながら、もう一方では事件の責任を本人に押し付け死刑も辞さないと嘯いている。これは明らかに論理矛盾ではないのでしょうか。もう少し社会全体の責任、ひいては自分自身の責任という事も考えてみるべきだと思います。賛成に回った太田総理にがっかりしました。

多少説明不足感はありますが、まあまあでしょ。ここで書くより丁寧ですよ、ここじゃあ竹山にさんなんて付けません。あんな奴は呼び捨てで十分だっつうんだよ、ほんとに。ああもう腹立っちゃって腹立っちゃって。

じゃあ厳罰化で反省を促せるのか、再犯を防げるのか。そういう管理的な方法でうまくいかなくなって犯罪を犯してしまったのに、刑務所の中でまたそういう方法で何とかしようとする。学習能力もへったくれもない。

それにしてもあの民主党の平岡秀夫って人はいい事言ってたなあ。あの高慢ちきな金に向かって「自分の責任じゃないみたいに言わないでくださいよ、あなただって大人なんですから」って言ったのはもうほんとすっとした。私が言いたかった事を分かりやすくビシッと言ってくれて素晴らしかった。

で、その平岡さんの言うように自尊心ってのはやっぱり大切だな、と思います。どうせ自分なんて社会にとって、また親にとって何の価値もない人間なんだ、と思って捨て鉢的な気持ちになってしまう事から、犯罪の芽が生まれる。だからまずはその人の存在を認めて、その上で反省を促し、ある程度の刑罰は受けてもらうというのが必要だと思うんですよね。

こういう事を言うとまた加害者の事ばかり考えているとか言われてしまう訳なんですが、でもやっぱり被害者の権利を望むなら被害者の権利を守るような法律を作っていけばいいわけであって、加害者の権利を剥奪する事によって同じ立ち位置に戻そうとするのはかなり強引な考え方でしょう。

日本の法律は復讐を認めていないし、裁判は報復の場にしてはならない。被害者の感情は尊重すべきものですが、だからといってそれを満たすために加害者を痛めつければそれでいいというものでもないでしょう。犯罪が凶悪な事と加害者に何をしてもいいという事は繋がってはいない。

国による死刑の執行は世の中には殺してもいい人間がいるというアピールになってしまう恐れがあり、人の命は大切なんだという言葉自体も説得力を失います。人間の命は何にも代えがたい大切なものだ、という事が言いたいのなら、どんな人間の命だって大切にすべきです。人を殺すような人間は国が殺してもいいという事なら、次はどんな人間が殺されて当然になるか分かったもんじゃない。

何故、という所を掘り下げていけば同情の余地のない犯罪者なんているはずないんです。それが子供なら特に。個人の責任に押し付けて死刑なんて事はあってはならないし、家庭的な雰囲気の中での更生という少年法の趣旨も尊重すべきです。

確かに被害者の事は常にきちんと考えなければならない。けど最近は報道も世論もあまりにも被害者に偏りすぎてるから、私も加害者の事を必死に庇わなければならなくなるのです。加害者が犯罪を犯すまでの過程をあまりにも誰も見ようとしないから。

自分だって加害者になるかもしれない、ぐらいの想像力を持ち合わせてたら、加害者の人権や社会復帰にも考慮した世論になっていくと思う。まああの少年院の1、2年で出てこれるってのは短すぎると私も思いますが。ある程度の期間刑に服してもらうという事は被害者感情からも更生の観点からも必要だと思います。でもそれと少年法を全廃するのとは全く次元が違いますから。刑務所で管理しても更生はできません。

最後に、竹山が反対席の民主党の人に「子供だって犯罪を犯さざるを得ないような状況に追い込まれているんですよ」みたいなことを言われた時に「そういう状況ってなんですか?」と聞いていたのが非常に印象的でした。まあ率直に言わせていただくとそんな事も人に聞かなきゃ分かんねーならこんなクソマニフェスト持ってくんなよという事になっちゃいますかね。想像力なさ過ぎでしょう。

被害者本人が加害者に対して感情的になるのは当然と言えますが、そうでない人までが第三者的な立場を超えて被害者にばかり同調するのは、やはり人を殺すような人間は自分達とは違う世界の人間なんだ、という考えがあるからのように思えます。そういう偏見がなくなれば厳罰化ありきの世論も変わってくれると思うんですが、なかなか難しいでしょうね。

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2007年6月27日 (水)

テレビっ子返上

以前馬鹿が付くほどテレビっ子というタイトルの記事を書いたことがありましたが、最近テレビのあまりのつまらなさに、かなりテレビ離れが進んでいるのでとりあえず今のテレビについて適当に述べてみたいと思います。

ま、簡単に冷めた理由というか、テレビが嫌いになった理由を言うと、まず一番の理由は、前々からゴールデンがウザいってのは分かってたんですが、近頃私の許容範囲がどんどん狭くなって、ゴールデンの笑いや趣向を一切受け付けなくなった事です。あのゴールデンの見え透いた、薄っぺらな、ベタベタな馬鹿騒ぎにはもうウンザリ。

それと夕方のニュースを見れなくなったことも大きい。あまりの下世話&殺人事件に一極集中な報道の仕方にこれまたウンザリして、前は夕方といえば各局にチャンネルを回して楽しんでいたものですが、今はつけていてもストレスが溜まるだけ。私が大人になったのか、報道が更につまらなくなったのか。

ジャーナリズムなんて言葉はどっかに消失してますね。他とは違う事をしようとかいう発想はないんでしょうか。どこもかしこも似たような事を繰り返し喚いているだけ。もっと独自の目線で報じるという事も大切だと思うのですが。問題が起きてから騒ぐだけではなく、問題になる前からもっと色々な事を取り上げるという習慣をつけたらいいと思う。殺人事件を詳述する時間を使って。

よく大局を見る鳥の目と現場を見る虫の目、といった事が言われますが、最近の報道は虫の目しか持ち合わせていないのでしょう。事の詳細を報じるばかりで、それが起きた本質的な背景や、再発を防ぐためにはどうするのがいいかという事をほとんど報じない。世界の中の日本といった視点なども欠落している。

とまあ報道批判は尽きませんが、こんな感じで私のテレビに対する依存度は下降の一途をたどり、それに加えて不都合な真実を観て以降、テレビをこまめに消すという事が習慣化したため、以前言っていたようなあの雑音が生活に不可欠といった事もなくなり、今は夕方もゴールデンもテレビが消えてる事が多いです。

まあ深夜番組は相変わらず好きなんですが、夕方もゴールデンも嫌いならこれはもうテレビ好きというよりは、芸人好き、お笑い好きといったほうが正しいでしょう。テレビは嫌いだけど、一部の深夜番組は好き、といった方がしっくりくる。この先はもうケーブルテレビでも入れない限りテレビっ子には戻らないでしょう。

という誰が知りたいのか分からない報告でした。ま、ブログってそういうものよね。

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