2012年5月22日 (火)

俗人宣言?

どうもみなさん、いかがお過ごしでしょうか。皆さんと言っても、このブログをまだブックマークなりなんなりに入れて時々はチェックしてくれている、なんて人が何人いるのか。もういないかもね。ちょろちょろアクセスはあるものの、半分以上はここに公開してるメールアドレスを得たいがために自分で検索してたどり着いてるものだし。

最後の更新は去年の6月か。ちょうど病気の治療を始めてちょっとした団体に所属することになって、みたいなところで終わってたんですね。あと彼氏ができた事も綴ってある。その後私の人生は激変したわけなんですが…。

一つひとつ挙げていくと、まずその去年の記事に書いてあった彼氏とはすぐ駄目になりました。私が求めるものがいろいろと大きすぎて、先方の供給できるレベルを優に超えてしまったためです。最終的には「彼女として好きだったことは一度もない」とか、「好きになる努力はしているが現状としてそれを他のことに優先しては行えない」とか。

もう散々でして、努力とまで言われてつながっている必要もないわ、と思って引きずりながらもなんとか離脱。で、ここからが割と急展開なんですが、その後朝のバイト先の人と仲良くなって付き合うことになり、今は一緒に住んでいるという。現在同棲中。うふ。

病気の治療も病院を変えてからおおむねうまく言っており、当ブログで色々やり取りしていたオールドニック氏に言わせると私は「常識的でつまらない人間」になってしまったそう。やっぱそうかな。

とにかくいろんな意味で、私が劇的に「治った」ことは間違いないと思われます。人が前ほど怖くない。余裕ができた分前ほど他人を敵視しなくなった。周りの視線からも解放されつつある。ちょっとした雑談ならもはやプロ級(?)ではないかと思うぐらいで。

こうして書いていても「なんだか最近いいですよ」という話で終わってしまいそうだ。その反面どうしたものかと思っていることといえば、今まで確固として自分の中にあった「不適合者としての自分」がぼやけてどこかにいってしまったような感覚。こうなると私はいったい誰なのか、よく分からなくなってくる。

というのも考えてみれば当たり前の話で、彼氏がいて一緒に住んでて幸せで、外に出ても他人の視線にそこまで困らされることもなく、雑談もそれなりにこなす。それってつまり自分が今まで「多数派」としてきた人間像そのものじゃない。生きててそこまで不適合な現実がないんだから、段々「普通」になっていくのは仕方ないことなのかもしれない。

それに伴って「多数派」とか「普通」とかいう言葉を使うのも億劫になってる。そんな線引き必要か、と。勝手なもので自分もそこに含まれるかもしれないとなるとその手の言葉自体を遠ざけるようになる。うるさい、うるさい。どうせ私は普通よ。

けどまったく世の中の一般の人に混じって遜色ないかといえばそんなこともないわけで、自分をクズだとしか思えない性根はまだ残っているわけで。なんというか宙ぶらりん。どこでどんな顔をしているのが「自分」なのか…。

とりあえず今は病気を治療することに専念してます。他人が怖くなくなれば、本当の意味で私は私として生きていける気がして。治療の中で、私は今までどれだけ取るに足らないことで行動を阻害されてきたのか、実感しました。やりたいようにやればいい。日々の場面場面で躊躇を取り払うように心がけてます。

私はこれからどういう人間になっていくか分からないけど、この場は残しておくつもりです。ああいう時期があったからこその自分、だし。

因みに団体での活動もしています。駅頭でティッシュとかビラとか配ったりね。これもまた精神的負担が大きいしかつての自分からもかけ離れてるしで大変なんですが、とにかくなんでもリハビリだと思ってやってます。私から「恐怖」を取り除けばもっと強い存在にバケると思うんですよね。

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2011年3月22日 (火)

社会不安障害でした

どうも。前回の記事に引き続き、どんどん自分の内面的な話をぐちぐち書いていくつもりだったんですが、例の震災によって私も世の中もそれどころではなくなってしまったため、書くに書けなくなっていました。

あれから十日以上経ち、被災地はまだまだ大変な状況で、原発も危機的な状況ではありますが、私は私の話をそろそろ再開させていただきたいと思います。あの震災で被害を受けたり亡くなったりした方には本当に申し訳ないですが、「ご冥福をお祈りします」なんて口上を並べても上っ面だけな気がする。だから「私は今日ものうのうと生きています。電力や食料を消費して、物資の満ち足りた東京で。」ということは言っておきます。ごめんなさい。

話を始めますが、地震があったあの日、私は実はクリニックにいました。そう、前回の記事で書いたように、精神科(看板は心療内科なのですが)を訪ねてみたのです。大量に渡された問診票にせっせと書きこんでいる最中に地震が起きました。ビルの上の方だったことも手伝って尋常ではない揺れを感じやや慌てましたが、そんなことより気になったのはそこにいた人が口々に「怖かったですね~」等のコミュニケーションを取っていたこと。

「何だ普通にできるんじゃん」と私は思ってしまった。あんな時ですら私は「他人と口を利かなきゃなんねぇのがめんどくせぇ」と思ってました。それは確かに私だってあれだけ揺れれば少しは恐かったけど、だからって何故それをあなたと共有しなければならないわけ?今日会ったばかりのあなたと。みんな口々に「家で一人でいる時じゃなくてよかった」と言ってましたが、私は素直にそんな風には思えなかった。こんなところに治療に来てまではみ出し者なのかと思ったら泣きたかった。

そんな紆余曲折はありつつも、診察を受けました。いくつかの質問に応え、視線恐怖の症状を説明し、社会不安障害ではないか、ひいては回避性人格障害も当てはまるのではないかとの話をしたところ、「その二つを治療していくという感じでいいんじゃないか」との返答でした。きちんとした診断というよりは「あなたがそう言うならそうなんじゃない」みたいな雰囲気だったのはやや引っかかりますが、問診票も書いて質問にも答えたんだからまあそうなんでしょう。正式な診断としてはどうなのかということを次回以降は聞いていきたいと思いますが…。

で、薬も出ました。SSRIというセロトニン再取り込み阻害剤(脳内のセロトニンの量が安定すると気分の落ち込みが緩和されるそうです)と、それが効きだすまでの即効性が高い抗不安薬、それと副作用の胃のむかつきを抑える胃薬。そういうものへの偏見や恐れはほとんどゼロに近い私は(強いて言うならこの程度のことで薬を飲むなんて甘ったれかしらとの思いは少しあったけど)好奇心丸出しでクイっと飲んでみました。さあどこまで効くんだ。私の性格は?症状は?と。

飲んでみて、少し症状が改善してみて思ったのは「やっぱり私は普通じゃなかった」ということでした。人とすれ違ったり、店で店員と接したりするだけで不安を感じてイライラするのは普通じゃない。早朝のバイトから帰ってくる時も、人とあまりすれ違わなければ当たり、人とたくさん遭ってしまえば(誤字でなく、わざと「遭う」なんです)はずれと考えていて、はずれの日はもの凄く不愉快でした。他人を悪意を持った物体としてしか認識できてない。そんな状態はやっぱり普通ではないんです。

私は治療には消極的でした。前回の記事でも触れましたが、卑屈に生きていくことが私のアイデンティティだと思ってたんです。人と普通に関われるようになることなんて望んでなかった。でも私は本当にこれからもずっと、他人と接するたびにこんなに惨めでしんどい思いをしていかなければならないんだろうか。社会不安障害の発症年齢の平均は結構若い。それに照らし合わせても私はおそらく14、5歳の時にこの障害を発症し、そのせいで惨めな思いをしてきたんだと思う。それを今後もずっと続けていくの?本当にそんなものが私のアイデンティティなんだろうか。

一つエピソードがあります。信号のない横断歩道を渡るとき、車が止まってくれることがありますよね。私はそういう時、運転席が直視できなかったんです。だって私の世界の中では運転席に座っている人は明確な悪意を持って私のことを見ているんだもの。「早く渡れよ、邪魔くせえな」等、その他あらゆる悪意を持って私を見ている。だから私は車と対峙するのが嫌で、道を渡る時も車から逃げ回っていました。

でも薬を飲み始めて、何の気なしに、なんの気負いもなしに、ふと運転席を見やることができました。そしてその運転席の人は軽く会釈をして走り去って行きました。たったこれだけのこと。たったこれだけのことが私にとってはこれまで何年も耐えがたい苦痛だった。そう思ったら、もういいだろうと。もう何年も十分に苦しんできたんだから、それは治療してみたらどう、と自分に言ってやりたくなりました。

私はなんだかんだいって自分は普通に「社会生活」を送れていると思っていたんです。ひきこもってもいないし、自傷行為もアルコール依存も薬物依存も拒食も過食もしてない。バイト先でのつまらない会話も覚えたし、そこそこ外の世界と接点を持って普通にやれちゃってるじゃん、と思ってた。でも私のは「社会生活」ではなくただの「生活」だったんです。不安を感じる状況を避け、そしてそれが当たり前になり過ぎて避けているという自覚すら希薄になって、今の自分の安定した生活の外に、私にはできないことや、するのに苦痛を伴うことがあまりにも大量に存在しているという事実を忘れていたんです。

別に世間的な道徳を持ちこむつもりは毛頭ない。今の私は間違ってないし、「もっとこうあらねば」とも思わない。ただ客観的な事実として、私は自分ができてると思ってるほどには何もできてなかった、ということに気付いたのです。薬を飲んで、少し「普通」の世界を垣間見てみると、「あんた、その障害を抱えたままどうやって生きていくつもりだったの?」と言いたくなる。

できないこと=悪いこと、劣っているという図式にははまりたくない。けど、できないことがあまりにも多過ぎて、そのせいで辛い思いをしているなら薬の力を借りるのも悪くない。というか、私は自分で思っていたよりもずっと、治療が必要な状態だった。なにもパーティーに出たり友達を増やしたりしたいわけではないけれど、私の行動はあまりにもこの障害によって、この社会不安障害という病気によって制限されていた。こんなことはもういい加減にしたい。終わりにしたいんです。

だから私は本格的に治療に乗り出そうと思う。薬も飲むし、診察も受け続ける。ただなるべくこれまでの自分を否定しないように、ネクラであるというアイデンティティを損なわないように細心の注意を払いながらやっていくつもり。最終目標は「もっと底意地の悪い人間になる」です。思ってもいないことを飛びっきりの笑顔で、どうでもいいことを自動再生、ぐらいの狡猾さがなければ世の中やっていかれないもの。

思えば2009年の年末2010年の3月の記事にあるように、この頃から私はそういう人間になりたがってた。不安障害という私がうまくいかない理由を突き止めた今、更にこの目標に向かってまい進すべきと言えるでしょう。考えてみれば思ってもないことを平気で言いたいという欲求自体、私がアスペルガー症候群ではないという証左よね。私はそんなに正直者でも純朴でもない。ただ不安障害によって縮こまっていたから性格の悪さが顕在化してなかっただけなんだわ。

私はきっとなってみせる。多数派とのコミュニケーションでまごついたりおどおどしたりなんかしない人間に絶対になってやる。もう惨めな思いなんてするもんか。自分の身は自分で守るしかない。一般人との会話で疲弊するなんて本当に無意味です。そして私はもっと活動の幅を広げるのです。

「回復」の過程はまたここで記事にします。私が底意地の悪い人間になっていく過程。

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2011年3月 9日 (水)

「自分探し」を敢行中

結局のところ私は一体なんなのかということが目下の課題となってます。どう考えても私がいわゆる標準的な人々と何も変わらないとは思えない。できないこと、不愉快なことが多すぎる。いったい何でこんなことに?

少し前までは性格だけでここまで卑屈に、かつねじ曲がってきたんだと思ってました。そしてそういう自分が好きだったんです。親に冷遇されたわけでも誰かにいじめられたわけでもないのに、こうも卑屈になった私とはなんて素晴らしいんだろう、と。まさに生まれながらのネクラ。それが自分のアイデンティティであり、誇りでもあった。

しかし。ここ最近やはり私はいわゆる「普通」とは違うのではないか、という思いがまた頭を擡げてきました。卑屈でネクラな自分は好きだったけど、他の人が当たり前のようにできていることが自分にはできない、という事実に傷ついてきた面があったのもまた事実です。「ここらでそろそろ原因を明らかにする必要があるのでは?」と思ったのです。

そこで何年か前から気になっていたアスペルガー症候群に一旦照準を合わせて動いてみたのですが、発達障害者センターに問い合わせたところ、診断を下してくれる専門的な病院は都内に二つで、最近は自分もアスペルガーではないかと考える人々が急増しているらしく、どちらも予約を取るのも一苦労とのこと。

そうなるとちょっと厳しいよなあ、とその病院のホームページを見ていると、「うつ病や統合失調症、社会不安障害などの違う原因によるコミュニケーション障害に起因する症状を、アスペルガー症候群によるものと誤解して受診するひとがきわめて多い」との一文が。鬱と統合失調症は分かるけど社会不安障害とは一体?と思ってインターネットで調べると私に当てはまること当てはまること。

私はむしろこっちなのかもしれない、と思いつつもアスペルガーではないかということへの拘りがあったので、なんだか社会不安障害なんて格落ちの診断を見付けてしまったようで素直に受け止められない部分もあり、とりあえず受診する前にアスペルガーと社交不安障害の本を同時に読み進めることにしました。

そして色々と本を読んでみた結果、やはり私はアスペルガーではないのかもしれない、と思いました。発達障害と呼ぶには私の幼少時のエピソードはあまりにも平凡だったのです。私は「早くしなさい」と言われれば「早くする」ということはどういうことなのか知っていたし、学校に行く準備をするという時に準備の中身が分からない、ということもなかった。つまりある程度抽象的な指示でも意味を読み取ることができた、ということです。

言葉の字義通りの解釈についてもそれほど困った記憶はなく、比喩も「本当にそういう意味で言っているわけではないこと」もそれなりに理解できていたと思う。私はアスペルガーとされる子供に比べたらずっと「常識的」な子供だった。周りに馴染めてはいなかったけどね。幼稚園からして登園拒否気味だったし。

でも大人のアスペルガーとされる人の話には共感する部分が多かったのは事実なんです。自伝を何冊か読みましたが、道に迷った時の感覚や(理性はどこかにいってしまう)、コミュニケーションについて他の人が知っているルールを自分は一切教えられていない、という感覚、他者に対するドライな反応、そもそも人との接触をそれほど必要としていない感じ等々。でも前述の通り、幼少時の私は「普通」だったし、もっと言うと感覚過敏だって思い当るところがない(太陽の光がまぶしくて嫌い、急に大きな音がすると心がざわざわする程度のことはありますが)。

その点やはり社会不安障害は自分の話であることが明らかなんです。人に見られている感じがたまらなく嫌で、馬鹿だと思われているんだろうな、こんなこともできない無能な人間だと笑っているのだろう、などという「思い込み」に支配されている。そしてその感じを味わうことを避けるために、どんどん社会的な状況を回避していってしまう、というのが社会不安障害です。人と接することをやめていってしまう、というわけ。

それは確かに私のことだ。私が人とすれ違うだけでもイライラしたり、「私は誰からも好かれない」という数年間に渡る強固な「思い込み」に基づいて生きてきたことは、この障害の症状だったのです。

ふうん、と思ったものの、まず最初に思ったのは「私はそれを治す必要があるのか?」ということでした。人ともっと関わりたい、パーティーにも出たい、友達も増やしたいとか思ってる人ならそりゃあこの障害はかなりの苦痛でしょう。馬鹿にされたり嫌われることに心が捕らわれていて、何の自由も利きませんからね。

でも私は?別に人と関わりたくもないし友達も増やしたくない。みんなが私を嫌い馬鹿にし見下しているんだ、という「思い込み」を是正したからといって、私にいったい何が残るだろう。むしろ中途半端に治療なんてしてしまえば、私のアイデンティティは崩壊してしまうのではないか?人と関わるのを楽しくしてしまってどうするのだ。私が今まで感じできたこの苦痛や不安は私を多数派と隔ててくれていたのではないのか?それを治して私は一体どうなりたいのか。そんなことを考えました。

それにこの障害の診断を受けて「治療」を受けるに当たってもう一つのネックは、先程から使っているこの鉤括弧つきの「思い込み」、つまりこの思い込みは本当に「思い込み」なのか?という疑問です。私が思い込みに括弧をつけるのは、嫌われている、馬鹿にされているという私の認識が完全に虚妄であるとは断じたくないからです。やはり私のこの知覚の方が正しいんじゃないか、とどこかで信じたがってるんです。

そもそも私が自分のそういった感じ方を完全な事実としてではなく被害妄想的な位置づけにしているのは、いつもいつも自分が他人から嫌われているなどという考え方は自意識過剰であり恥ずかしいことだ、ということに気付いてしまったからです。他人が自分を好いている可能性に賭けたいわけでも、自信がついたわけでもなく、単純に「そうとは限らないこと」に気付いてしまったんです。

自分が思うほど他人は自分のことを良くも悪くも思っていない、だなんて不愉快な事実を認識する機会が増えたものだから、私は仕方なく、どっぷり馬鹿にされた嘲られたという思いに浸るでもなく、かといってそういった考えと無関係に気楽に他者と口を利くでもなく、ずっと宙ぶらりんの日々を過ごしてきました。そして私がこの状況をどっち方向になんとかしたいと思っていたのかと言えば、やはりそれはもう馬鹿にされたい、徹底的に見下されながら生きたい、と思っていたのでした。

だから私は恐いんです。薬で不安感を和らげながら認識を改めてしまったら、「正しい判断」ができなくなってしまうのではないかと。馬鹿にされていることにも嫌われていることにも気付かずに、チャラチャラ他人と口を利くようなネアカに変貌してしまうのではないかと思うとたまらなく怖い。どうして周りの人間が私を馬鹿にしないなんてことがありえるんだ。そんなことはなくていい。やっぱり私は馬鹿でのろまなどうしようもない人間なんだ、そう思っていたい…。

などという思考の変遷を辿りながら、それでもやっぱり自分の原因、抱えている問題は明らかにしておきたいので、どこかしらの精神科を受診してみるつもりです。でも自分の中でどこまでを治療の対象とするかはまだ揺れています。苦しんでいたいこと、苦しまなくてもいいこと、苦しまない方がいいことなどが混然一体となっていてどうすべきか分からない。

でも一つこの社会不安障害について調べてて嬉しかったのが、この障害が重症化したものという位置づけで回避性人格障害が紹介されてたこと。回避性人格障害と言えばっ、五年ほど前に7つの診断項目を見付けて以来の心の恋人です。つまり私は社会不安障害を突き抜けて回避性人格障害と診断される可能性も十分に有しているわけです。ついニヤニヤしてしまう。

世間的には診断なんて差別や偏見に繋がるばかりで何の役にも立たないでしょうが、私がこれから生きていく世界では、何らかの診断名を得ることが肩書きとして役に立つ気がするんです。自分を明らかにすれば生きる糧にも繋がっていくかもしれないし。

とにかく、ここらで私が抱えている問題を専門家の手によって明らかにすべき時が来たようです。頑張って一歩を踏み出してみます。

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2010年5月12日 (水)

惨め。

私のフリースクール時代って惨めだったなぁと最近よく回想する。9歳の時から7年半ほど通わせていただいたのですが、どう考えても「楽しかった」と総括する気になれない。最近色々と家の中を片付ける機会があって昔のものとかも出てくるんですが、そうするとやっぱり気分が重くなるもの。

無論、学校なんかに通っていたらと考えたら天国のような場所だったと思うし、私がこうなれたのも(こうってどうだよ突っ込みはまた後ほど)あそこに通っていたからだとは思う。楽しいことだってあったはずだし、孤立もそれほどしてなかったし、でもなぜか総体として思い出した時「惨めだった」という言葉が自然と出てくるのです。

恋愛がうまくいかなかったということは大きく影響していると思う。挫折に次ぐ挫折、恥を上塗りし過ぎて何某かのものが一回りも二回りも大きくなった気がするし、そういうことを思い出すとやっぱり楽しかったことに意識が向かないくらいに陰惨さが際立ってくる。

ここでやはり主観と客観との差を実感するよね。客観的な事実を述べるならこう。学校を早々に離脱し、何事も強制されることのないフリースクールに出合い、そこに居場所を得て、うまくはいかなかったけど好きな人だっていて、楽しい十代を過ごしたのです。

でも主観的には全然違う。人と関わる際はいつも腰が引けていて、何某かの不全感を絶えず抱えていて、なにも理由がなくても苦しかった。自分の置かれている状況を考えただけで自由に泣ける時期だってあった。なんで私だけ、と結構よく思っていた気がする。

原因を色々探るとこれは場所の質云々ではなく、そもそも人と関わるということの問題からきていると気づく。私は人と関わると惨めになるのです。これはこの世の中のほぼすべての人間と成り立つ原理。私にとって他人とは自分を惨めにし貶める存在でしかない。だから他人との思い出はいつも虚しい。対等だったことなんてないもの。

そう考えればどこかに所属していたことなんかがいい思い出なはずもない。毎日毎日人の中にいれば惨めになる機会だって今の何十倍、何百倍です。これで「惨めだった」という言葉以外に一体何が出てくるというのか。

これは何か特定の事柄についての劣等感からくるものではなく、まさに「私が私である」というところから発生しているものです。学歴がないとか、フルタイムでちゃんと働いてないとか、ネクラだとか、そういうことを引け目に感じることは全然ない。私は自分自身そういう世間的価値は追わないし、他人のこともそういう基準で判断しないからね。

じゃ、何が問題なのかといえば、やはり前述の通り「私が私である」ということになります。これは付加価値の問題じゃない。私が今後何を改善しても、何を身につけても、そのベースとなる自分自身がどこか超越的なところで劣っているという感覚、もっともらしく言えば超越的自虐みたいなものが私にはある。これは多分救いようのないことで、もう死ぬまでこうなのだと思う。何がどうだからという理屈では説明、解決できない問題。

でもその一方で不思議なことに私は自分のことが誰よりも好きなんです。人より劣っていても私には関係ないし、むしろ劣っているから好きなのかもしれない。そういう屈折した自己愛が私の特徴で、自分を誰よりも下位に置いた上で「他の誰よりもお前がいい」と自分自身に声をかけてやることで、うまいこと均衡がとれているというかなんというか。

だから、私にとって他人と関わるということは最下位だと見せ付けられること、すなわち惨めになるということで、一人でいるということは「お前が一番」という声をずっと聞いていられるということです。こうやって整理すると私がなぜ人とうまく関われないのかについての答えがくっきり見えてきます。一人の時間よりも他人と過ごす時間が増えれば破滅だということもね。

私が人からの愛で癒される日は来るのかしら。今のところ大概の善意は惨めさに打ち消されるか悪意に変換されるかして私のもとには届きません。人といることでは幸せになれない人間なのかな、私は。

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2009年11月10日 (火)

自身の恋愛感情に対する超理性的な考察

私は現在進行形の恋愛から遠ざかってもう長いわけですが、進行してなかろうとなんだろうときっぱり忘れる、消去するということができていなければ煩わしさという点では進行している場合とそう変わらないのであり、今回はその煩わしさをずるずると掘り下げたいと思います。

まず何が嫌って客観的な評価が難しくなるのが嫌。自分の感情に対しても相手の存在に対してもその他あらゆるものに対して客観的に見てどうか、ということが一切分からなくなる。とくに相手の人間性に対する評価というのはトップクラスの難易度です。

それでも私は過去何度もそれを試みた。結局あれ(今回の記事では私の意中の人の呼称を「あれ」で統一したいと思う。なぜって彼とかあの人ではどうしたって甘ったるい感じになってしまうからに決まってるじゃないか)はどういう人間なのか?という問いを何度も繰り返した。ともすれば必要以上に美化したりこきおろしたりしてしまうのが恋愛感情の恐ろしいところで、私は恋愛感情に惑わされずそのことを冷静に判断する必要性をずっと感じていたんですが結局100%の確信を得るには至らなかった。というか好意なんてものに毒された頭でいっくら考えたところで冷静な判断なんてものが生まれるはずもない。

とはいいつつも、今までの何年かで出来上がった「一応的を得ているとは思うよ?」レベルの「あれ像」はある。それをここでちょっと書いてみようかと思う。

まず思想的には近いと思う。私と同じ少数派であると言ってもいいレベル。日本のような腐った国で生きていくには貴重な同志となりうる人物であり…とここまで言い出すと恋愛感情による美化が含まれている可能性大ですが、最低でも馬鹿な多数派じゃないことは確かです。

ただずっと思っていたというか引っかかっていたというか気になっていたのは、人と関わるということに対してそれほど深い悩みを抱えている人には見えない、ということ。もちろんネアカではない。どちらかと言えばちゃんと暗いし、社交的とかいう反吐が出るような称号は全くふさわしくない人ではあるの。でもあれには気心が知れた人がちゃんと何人かいて気を使わずに済むスペースがそれなりの範囲で普通に存在している。私にはそんなもんない。

結局のところ人間というのは人と普通に関われる人間と関われない人間に二分されると思う。前者はそれだけで悩みが少なくて済む。苦しい状況に追い込まれていたとしても人との触れ合いで簡単に(っていうと語弊はあるかもしれないけれども)助かる。要するに人に必要とされることだとか人から感謝されることだとかを経験すればすぐ立ち直れるような現金なクソ野郎なんですよ、はっ、しまったついコミュニケーション弱者の僻みが…。

話を戻すと、要するにその意味ではあれと私とでは決定的に住む世界が違うんじゃないかとずっと感じてきたし、今もそう思ってる。今でこそ「私とは違う人」なんて柔らかい言葉で表現できてますけど、当時はそれが気に入らず「能天気な馬鹿」とか「あんな奴には私の気持ちなんて分からないんだっ」とか気晴らしにつけてた非公開の日記はそんな話ばっかり、ぼろくそです。

そういう感情は満たされない恋愛感情の行き着く先としては一般的で見苦しい限りですが、その中でもより根源的な違和感、人種の違いのようなものの捉え方はたぶん正しかったと思う。あれは人と関わるとき私ほどつまらないことを考えない。その意味ではあれが健常者なら私は障害者、あれが多数派なら私こそが少数派です。本物のね。一生交わることのない何かを感じますよねぇ。

そんなこんなで幼稚な妬み嫉みや強固な恋愛感情から完全に解脱できたわけではない私ですが、絶対にこっちからは連絡をとらないということは決めています。あらゆる感情の不純物を取り除き、できうる限り冷静に見つめてもあれと私が「違う」というのなら、下心を克服できないうちに近づいたってろくなことにならないのは丸分かりです。超理性的じゃない?表彰されてもいいぐらいだわ。

今回だって「客観的に評価するなんて無理」と言いつつもこれだけの考察をしてみせる。本当に健気でありよくやっていると言わざるを得ない。これだけ物事が見えていれば今後道を誤ることもそうないであろう。安心してこの先の人生を任せられる。私が私でよかったと思うのはまさしくこういう瞬間ですね。

そうそう、指の怪我はほぼくっついて元通りになりました。万が一気に掛けている人がいたらと思って念のため。

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2009年4月12日 (日)

他人の視線が不愉快

故にその視線を持った人間が嫌いなのである。存在自体が不愉快なのである。

人間というのは自分に近づいてきた人間、自分のいる空間に入ってきた人間を何の気なしに、ふと見やりますよね。私はあれが嫌。駅のホームで一番前まで歩くとき、電車に乗り込むとき、飲食店で席に案内されるとき、歩くのがおっせぇ奴を追い抜くとき、私はいつも他人の視線を感じて不愉快になる。

そこに何の意味も含まれてないってことは分かるし、そこから更に他人の視線を集めるような奇異さは私にはないわけだから、その最初の一瞬だけ我慢すればいいわけですが、それが耐えがたい苦痛なのです。何を見る必要があるのか?何を確認する必要があるのか?普通に生活してて未確認生命体とかがお前に近づいてくるとでもいうのかよ!大概はごくごく普通のどこにでもいる人間が歩いてるんだから…いちいち見てくんな!と言いたい。

そう、言いたい。言いたいんですが、上記のような話は全部自分にも跳ね返ってくる話なんです。私も他人の存在が気になる。他人が私を変な目で見ていないか、という確認でもあることはあるんですが、あれは何故なんでしょうねえ、大抵はごくごく普通のどこにでもいる人間が歩いているというのに。

それでも意識がある時は視線の加害者、被害者どちらにもならないよう下を向く、目を瞑るなどの防御策を講じていますが、なにも考えずにボーっとしているとつい他人を眺めてしまったりします。その度に私は「ああしまった!」と自己嫌悪に駆られる。あれだけ自分がやられて嫌なことを他人にしてしまった、と思って。でも結局私がどんなに他人を見ないように気をつけても凶悪な他者は常に不躾な視線を投げつけてくるわけであって…私が気をつけても意味はほぼ無いといえる。

自分がやられて嫌なことは他の人にもやっちゃだめ、というのは多数派の間にのみ成立する話です。私が自分がやられて嫌なことを他人にしないように、と思ったら本当に腫れ物に触るように接しなければならず、相当疲弊します。というか半分ぐらいは現になってるんです。私と同じ人間なんていないんだからそこまで気を遣う必要はない、と思いながらもこれをやったら相手が気分を害するんじゃないかと気が気じゃない。

そうか、私が他人に気を遣うのは自分がされたくないことがあり過ぎるからだったのか。対人関係における想像力の乏しい私には、相手の感情は自分の体験に照らして類推するしか方法はなく、その私の体験は大概の他人は一生味わうことはない。思いっきりずれている。そりゃ疲弊するわ。うまくいくはずもない。

話を戻そう。視線。飛びぬけて容姿にコンプレックスがあるわけでもないし、内面なんて外から見て分かるはずないんだから、そこまで他人の視線に怯える必要もなさそうなもんですが、実際問題、生活に影響が出ている。一歩外に出ればそこは視線地獄。その日その日のコンディションによって許容量は違うのですが、具合が悪い時は自分の歩いている道に他人が一人いるだけで気分が悪くなる。すれ違うだけでも凄まじいストレスである。人間なんてこの世からみんな消えてなくなればいいのにと思う。無論私は例外で。

自分の被害妄想やコンプレックスを客観的事実で抑え込むのは至難の業です。長年自虐によって歪んだ目で世界を眺めていればそれは本人にとっては強固な真実となる。私もそう。私が見る世界は歪んでいる。他人もそうだし、もしかしたら自分さえも。私はこの世界の誰よりも愚劣で無能な人間である。この事実とどう向き合っていくかが大事であり、この事実を「そうじゃないかも」なんつってひっくり返そうとしようもんなら大変なことになります。

だからもうなんだったら自らを愚劣で無能な人間に近付けるべきなんです。自分の被害妄想と客観的事実をなるべく同じにしたいと思ったら、被害妄想を修復するより愚劣で無能な人間になる方が楽だし、そっちの方が今の自分を変えずにできる。私の自己認識は常に合ってなきゃならない。誰からも嫌われ軽んじられる私でなければ。

これを視線の話に当てはめると、常に他人から冷笑、白眼視されている「気がする」のだから、もう実際に疑いようもない形で冷笑、白眼視されればいい、ということになる。それはそれで結構ハードル高いな…。

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2009年3月22日 (日)

人間嫌い宣言

私は人間が嫌いだ。今まではたまたま私が好きだと思える人間が少ないだけで、だからといって人間そのものが嫌いとまでは言い切れないんじゃないか、とかお茶を濁してきましたがもう限界。どんな人間であれ私に全く不快感を与えないなんてことはあり得ないし、私に嫌悪感を抱かせないということも不可能だし。これで人間自体は好きなんて話はやっぱり筋が通らないのであって、基本的に好きな「人間」の中に嫌いな奴がいるんじゃなくて、基本的に嫌いな「人間」の中に時々見るべき人間がいるのである。うん、間違いない。

でもこれはもしかしたら自己否定感情の裏返しであるのかもしれない。私は誰からも受け入れられることがない、私を受け入れない人間なんていても意味がない、結果人間なんて嫌い!という思考回路なのか。もしこれが会う人全員私を受け入れてくれるような、全員がちやほやしてくれるような状況だったら私は「人間が嫌い」なんて言うだろうか?まあそれはそれでとっても気持ちが悪い状況ではあるんですが…どうだろうなあ、それで私は人間が好きになるのかしら。

たぶんならないんでしょうね。「誰にも受け入れられない」というのは私の心の問題なので、いくら現実に周りの人間がちやほやしてくれたって全員となれば嘘で言ってる奴もたくさんいるんだろうし、中に何人か本気で言ってる人間がいたとしても私が「一人で誰からも受け入れられない事実」が変わることはない。結局物理的な他人のいるいないではない絶対的なところで私は「一人」なのです。だったら物理的にも一人でいることが自然ということになり、私は今よりもっと人間関係を切っていかなければならないということになる。それによく考えたら他人の好意ほど面倒なものもないし。

私は誰かから告白されたりしたことはないけど、好きでもない相手からそういうことを言われるのも相当面倒ですよね。私には好きじゃないのに付き合うということが理解しがたいです。別にこれは恋愛に幻想を持ち込んでるわけではなくて、単純に「だって面倒じゃん」ということです。普通に関わるのも面倒なのに、付き合うなんてその上をゆくかったるさですよ。そんなもの私にとっては恋愛感情があってとんとん、なければ徒労です。他人となんてできるだけ関わりたくない。

なんて書いてると寂しい少女が強がってるみたいになって嫌ね。私はそういうしみったれた人間だけにはなりたくないもので、ここで強く断っておきますが、私は自分のそんなしょうもないプライドで本当に一人の生活を謳歌してる人の足を引っ張りたくないし、逆に自分もそんな惨めったらしい奴に足を引っ張られたくない、と思ってます。

例えば結婚してない一人の女がなんでいつまでも「寂しい人」と見られてしまうのかといえば、口で「結婚だけが幸せじゃない」とか「一人もいいものよ」とか言ってても、それがあからさまに強がりにしか見えないような惨めったらしい女がそこらじゅうに転がってるからです。人間は結婚して家庭を持つものだという世間の圧力があったとしても、本当に一人で幸せそうに生きてる人が増えれば結婚だけが人生じゃないという価値観ももっと浸透しそうなものです。

だから私は本当に寂しかったら寂しいって言うし、他人が必要な時もそう言う。強がりほど惨めなものはないからね。でも今は一人の時間こそが私には必要です。研鑽に励まねばならない時期。自由な時間があるのもいつまでか分からない、今できることは今やらなければ。

近々カテゴリーの刷新を予定しています。本来は途中から変えたりはあまりしないのでしょうが、最初の設定がいい加減すぎたため私にもそれぞれの違いが分からないという問題が発生中。まあ自分の恥と向き合いつつもう少しうまく分類してみようかと。

なんて言いながら「言ったことをやらない」というのはもはやこのブログの定番となっているわけですが(更新頻度上げるとか、写真をもっとアップするとか…)。

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2008年11月28日 (金)

かもしれない人生

かもしれない運転ならぬ。

嫌われたかもしれない。

鬱陶しいと思われたかもしれない。

つまんない奴だと思われたかもしれない。

面倒臭いと思われたかもしれない。

嫌な奴だと思われたかもしれない。

否定されるかもしれない。

拒絶されるかもしれない。

笑われるかもしれない。

酷いことを言われるかもしれない。

私の言葉が誰かを傷つけたかもしれない。

言い方が悪かったかもしれない。

嫌な思いをさせたかもしれない。

説明が悪かったかもしれない。

かもしれない。こんな風に色々考えながら生きるのが「かもしれない人生」。相当疲れる。

他の人の何倍消耗してるんだろう。

時々嫌になって全部やめたくなる。運転で言うなら「そこの角から人が飛び出してくるかもしれないからもう車なんて乗らない」みたいなことです。どうせ嫌われるからもう人となんて関わらない、ってことですね、現実に直すと。

この性格は一生変わることはないでしょう。経験や時間の経過と共に多少なりとも緩和されることはあってもこの病気が治ることはない。永遠に。

私だって「かもしれない」から解放されて思ったことをそのまま言いたいし、相手の言葉をそのまま受け取りたい。でも微に入り細を穿つ執拗な被害妄想がそれを許さない。自然に人と関わるってどういうことか、私には分かりません。私にとっては人と関わること自体が不自然そのもの。

端から何も期待しない。端から何も求めない。諦めこそが楽になる道だってことになるのも仕方ないよね。

まあ変えようとか変わるべきだとかはあまり思わないので、つまらない自己啓発に耳を傾けるつもりもないし、積極的に何をしようとも思いませんが、被害妄想とうまいことつきあっていくというのは考えなくちゃダメだよね。

こういうのは自分で被害妄想を抑えようとすると余計に悪化するんです。とりあえず客観的な事実で被害妄想を否定できる部分と、ここはもう被害妄想にどっぷり浸かっちゃおうという部分と、両方大事にしなきゃなりません。被害妄想も個性だから。

で、その客観的な事実で被害妄想を否定できる部分が増えることが成長ってことだと思うんだな。これでも何年か前から比べると随分マシになってきてるんです、私の被害妄想も。これは私が嫌われてるわけじゃないんだな、と判断できる機会が増えた。

だから自分の性格は変えようとするんじゃなくてうまいこと折り合いをつけていかなきゃならないんだというお話です。説教かよ!

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2008年4月29日 (火)

社会に適応したくない

最近少しずつですが自分の殻を破れてる感じがする。行動的になってきてるというか。いやね、本音を言えばずっと家に引きこもってたいし、店員に声かけるの一つとってももじもじしてたいし、人と会話をするたびに鬱になってたいんです。でも私にはやらなきゃいけないことがたくさんあって、そのためには人と口も利かなきゃなんないし、人の集まりの中に分け入っていかなきゃなんないし、自分の主義主張を行動で表さなきゃなんない。この性格は嫌いじゃないし直そうとか変えようとかは思わないけど、目標のために克服しなきゃならないこと、これはある。

まあ元来行動力のない私のことですから色々出来るようになってきたといっても高が知れてるんですが、最近だと死刑が執行されれば法務省にメールを出したりだとか、色々な集会に参加したりだとか、公開講座に参加したりだとか、そんなことをやってます。ただ活動家になるためには(活動家になりたかったのかよ)こんなもんじゃダメで、もっと積極的にデモに参加したり抗議文を出しまくったりしなきゃ。どこかに所属するってことも考えなきゃダメだし。結局あれです。こんな社会じゃダメだという強烈な問題意識と人と関わるのは嫌だという強烈な内向き思考とのせめぎあい。ただ最近は前者の問題意識が若干勝ってるかなという状態で、この社会を変えるための一歩を踏み出さんとしている所です。

でもその流れでいろいろな事ができるようになっていく自分というのが寂しくもあって、例えば昔だったら飲食店に入るんでも「どうしよう混んでるかな、座る場所がなかったらどうしよう、っていうか店に入っても店員に気付かれなかったらどうしよう」とかなんとか逡巡した結果、結局入んないで帰ってきちゃったりしてたのが、最近ではそれほど考え込む事もなくパっと店に入ってチャチャっと注文して普通に食べて帰ってきちゃったりするわけで、そういう時に「ああ私変わったなあ」としみじみ思うわけです。

そうやって色んなことが出来るようになって、どんどん社会に適応していって、私普通になっちゃうんじゃないか、と思うと無性に悲しくなったり…。だって私といえば5年間同じ場所に通って結構な割合でコンビニで買い食いしていたにもかかわらず、一度も肉まんを買ったことがない人間ですよ。なぜなら「肉まんく下さい」を言うのが嫌だったから。肉まん食べたいけど言うのやだなあとかいうレベルでなく、店員に言わなきゃ買えないようなものはそもそも選択肢としてなかった。そんな私がいまや普通に飲食店に入っちゃうんですもの。人間って望むと望まないとに関わらず成長するもんですね。

他にも挨拶ができるようになってきちゃったり、外出のハードルも下がった気がするし、全般杞憂も減ってきてるし…。だんだん自分がつまらない人間になっていくようで、日々の生活で自分の成長や変化を感じるたびなんとなく後ろめたい。私がまともになっちゃったら後には何も残らないのです。日本国民じゃなくなっても何も困らないけど、この性格じゃなくなったら相当困る。私のアイデンティティは病気だということで、色んな事がそつなくこなせるようになればなるほど自分が自分じゃなくなっていくような気がして落ち込む。普通は喜ばしい事なんだろうけど。変りたくない、という思いが強いです。

ただ積極的に活動していく、という目標からすれば喜ばしい変化であることも事実。なるべくこの性格を踏み倒さずに活動にシフトしていければいいのですが。

さて、お知らせですが明日から2週間ほどパソコンがネットに繋がらなくなるので更新が滞ることが予想されます。携帯から更新するとか方法がなくもないんですが、まあ2週間ぐらい空いちゃうかも、という心構えでよろしくお願いします。

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2007年8月 9日 (木)

私は卑屈

なんだかものすごーくだるいです。なんのひねりもなく申し訳ないのですが、普通に夏ばて気味で食欲も落ちてます。

私って人と関わるのダメじゃないですか。とか言うとキム兄みたいな人に「知らんがな」とキレられそうですが、ダメなんですね、人と関わるのが。

慢性的な不安とか恐怖に支配されていて、人と自然に関わるって事ができない。これってひょっとすると前に書いたかもしれないんですが、確認するのが嫌なのでこのまま書きます。

その不安や恐怖が何によるものかといえばそれは自分自身に対しての自信のなさ。私は自分が人からどう思われているか、という事で言うと、嫌われているかいてもいなくても同じかのどちらかだと思っている。これは何でそう思うのかとかいうレベルではなく私の中での強固な思い込み、と言うか実際そうなんだろうとも思うんですが。

だから人と接していて相手が自分に対していい印象を持っているなんて事は夢にも思わないレベルだし、そうやって常にマイナスに考えていないと、自分を保っていられないんです。何か行動を起こすたび嫌われたんじゃないか、幻滅されたんじゃないかという思いに駆られるから、そんな中で自分はこの人に好かれている、友達だ、と思おうとするとかなりの摩擦が生じる。私はこの人と友達、と思おうとした所でマイナスに考えてしまう自分には勝てないし、いらない苦痛を生むだけなのです。

その点普段から私はよく思われていない、という前提に立てば、嫌われたかも知れない事や幻滅されたかも知れない事なんかはどうでもよくなるわけです。だってそもそもよく思われていないのは分かりきっているわけですから、今更一喜一憂する必要もない。私は何を言っても何をやっても嫌われる、あははそれはもう仕方ないですよ、と思っているととても楽なんです。

ただね、問題なのはこんな生き方をしていれば、誰だってこんな卑屈な人間は嫌だろうから自然に孤立しそうなもんだけど、まだ1人2人メールをすれば返してくれるような人がいる事です。どうせよく思われてないから、とマイナスに固定して疎遠にしてしまえば迷惑もかけないし楽なのかもしれませんが、私もなまじそういう人がいるもんだからついメールしちゃったりするんですね。矛盾だらけです。

でもそういう人と関わるのはものすごく怖いです。上記のようによく思われていない前提に立てばなんでもないような事が、向こうもそれなりには私の事よく思ってくれてんのかな、という前提にひとたび立とうとすると、全てが足下から崩れ落ちて何もできなくなってしまう。嫌われたかも、幻滅されたかも、が死ぬほど怖いんです。

これは明らかに前に書いた記憶がありますが、私にはこれをやっていれば嫌われないだろう、という安牌が存在しない。卑屈で暗いのはやっぱ鬱陶しがられるかな、と思うからあまりこういう内面の話はしないでおこう、とかも思ったりするんですが、でもじゃあどうするかと考えた時、明るく何にも怖くない風を装って普通にやったって、思い上がりとか図々しいみたいな方向で嫌われるかもしれない。結局どうやっても嫌われるかもから逃れられないから、素に近い卑屈で暗い方でやってます。

自信とか安心の土台がそもそもないから、ちょっとした事で「ああやっぱり私はダメなんだ」という所に落ち着いてしまう。でも後からそのちょっとした事に相手はなんの意味も込めてなかった事が分かったりするので、そんなにビクビクする事もないのかな、とその時は思うけど、やっぱり次の瞬間には「~かも」が怖くなっていて。

ここで私の自信のなさ、卑屈さを分かりやすくお伝えするため、恋愛の話を絡めつつお話したいと思います。といっても私が人生において人と付き合っていた時期は半年しかなく、それも小学生の時だったからカップルらしい事は何もしてないので、あくまで想像ですが、まあお聞きください。

まず永遠の愛なんてのは私は信じない。思い上がりも甚だしいですが、私の事を好きになってくれる人が将来現れたとしましょう。その人に私は永遠なんて事は言わせませんし、そんな将来のどうなるか分からない話はどうでもいいんです。人の心は変わります。今は私の事を好きと言っていても、その次の瞬間気が変わったり、私に幻滅したりしないなんて誰にも言えない。そしてそれはその人を責められるものでもない。

浮気や他に好きな人ができる、なんてのも言ってみれば当たり前というかね。私だけを好きでいろなんて私は言えませんね。人の心は自由であるべきだし、そういう縛りは究極の所では役に立ちません。私にそんな魅力があるとも思えませんし。相手がずっと自分を好きでいるのが当たり前なんてどうして思えるのか不思議です。私にもし彼氏ができたら、私はそんな永遠は夢見ませんし、根拠のない約束なんかより、今その瞬間の気持ちが嘘でなければそれでいい。

私は変なのかも知れませんが、振られる事より、嫌われたかもの方がずっときついんですね。事実今までも振られた事よりメールの返信1通来なかった事の方が辛かった。一旦無理と言われてしまえば後は私が勝手に立ち直ればいい事ですが、かもの場合は直接言われてない分「やっぱ嫌われてんだ」と思うまでに時間が掛かるし、その数日がまたきっついんですね、ものすごく。それでいて相手に確認もできないから完全に生き地獄。中途半端な状態でかもかも言ってるよりは、無理となった時の立ち直り方の方が私は知ってるし、そっちの方がよっぽど楽です。だから私は恋愛で白黒ハッキリしない状況はもう発狂しそうになります。それなのにそういう時期が長かったものですから大変でしたね、あれは。

「仕事と私どっちが大事」とかいうのもよく聞きますが、私はあれは言えませんね。あれは前提となっているのは「仕事よりも私が大事にされるべきなのにあなたはなんなの」という事ですよね?私は自分が大事にされるべきなんて思えないから卑屈女には無縁の啖呵です。

というわけで、今日は私の卑屈さの紹介でした。ただ最後に付け加えておくと、私は不特定多数の人間や全く親しくない人間からはどう思われても平気です。ただ特定の人との嫌われたかもの間が苦手なんですねえ。もうこれはほんとに資質としか言いようがない。今後年と共に少しは改善されてってくれるとありがたいんですけどね。

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