2008年11月28日 (金)

かもしれない人生

かもしれない運転ならぬ。

嫌われたかもしれない。

鬱陶しいと思われたかもしれない。

つまんない奴だと思われたかもしれない。

面倒臭いと思われたかもしれない。

嫌な奴だと思われたかもしれない。

否定されるかもしれない。

拒絶されるかもしれない。

笑われるかもしれない。

酷いことを言われるかもしれない。

私の言葉が誰かを傷つけたかもしれない。

言い方が悪かったかもしれない。

嫌な思いをさせたかもしれない。

説明が悪かったかもしれない。

かもしれない。こんな風に色々考えながら生きるのが「かもしれない人生」。相当疲れる。

他の人の何倍消耗してるんだろう。

時々嫌になって全部やめたくなる。運転で言うなら「そこの角から人が飛び出してくるかもしれないからもう車なんて乗らない」みたいなことです。どうせ嫌われるからもう人となんて関わらない、ってことですね、現実に直すと。

この性格は一生変わることはないでしょう。経験や時間の経過と共に多少なりとも緩和されることはあってもこの病気が治ることはない。永遠に。

私だって「かもしれない」から解放されて思ったことをそのまま言いたいし、相手の言葉をそのまま受け取りたい。でも微に入り細を穿つ執拗な被害妄想がそれを許さない。自然に人と関わるってどういうことか、私には分かりません。私にとっては人と関わること自体が不自然そのもの。

端から何も期待しない。端から何も求めない。諦めこそが楽になる道だってことになるのも仕方ないよね。

まあ変えようとか変わるべきだとかはあまり思わないので、つまらない自己啓発に耳を傾けるつもりもないし、積極的に何をしようとも思いませんが、被害妄想とうまいことつきあっていくというのは考えなくちゃダメだよね。

こういうのは自分で被害妄想を抑えようとすると余計に悪化するんです。とりあえず客観的な事実で被害妄想を否定できる部分と、ここはもう被害妄想にどっぷり浸かっちゃおうという部分と、両方大事にしなきゃなりません。被害妄想も個性だから。

で、その客観的な事実で被害妄想を否定できる部分が増えることが成長ってことだと思うんだな。これでも何年か前から比べると随分マシになってきてるんです、私の被害妄想も。これは私が嫌われてるわけじゃないんだな、と判断できる機会が増えた。

だから自分の性格は変えようとするんじゃなくてうまいこと折り合いをつけていかなきゃならないんだというお話です。説教かよ!

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2008年5月 7日 (水)

ごらんしーん

全然ネットに繋がらなくならない。勘違いか…。よく分からん。まあしばらくは大丈夫みたいです。

ゴールデンウィークなんて俗世間のくだらないシステムには興味がありませんが、今回は九条世界会議に参加。4日と5日に幕張メッセであったんですが、結構楽しかったです。特にブース会場では一歩歩くごとに「よろしくお願いします」と乱れ飛ぶビラ、ビラ、ビラ…。本来ならそういうのってすごく疲れるんですが不思議と嫌じゃなくて、月並みですが私もなにかしなければと思わせられました。

行動を起こすというのは大切な事で私が苦手とするところでもあるんですが、前回も書いたように少しずつ自分の殻を破りつつあり、活動家まであと一歩と自分では思っています。気に入らない事があるとキチガイとかなんとかネットに書き込むようなクサレ外道の事も少しは見習わなきゃなって思うんです。ああいう人達は自分の無知さや狭量さに鈍感で自分がおかしいと思ったことを正直にただおかしいと主張しその稚拙さを省みることもないオナニー集団なわけですが、時にはそういう鈍感さも必要なんじゃないかと思う時があります。

一人の人間が知りうることなんて限られていて、真実なんてものは一生かけたって語りえない。自分の言ってる事は間違ってるかもしれない、もっと知らなければ分からないと言ってたら延々と表現というものに近づけないわけです。完全じゃなくても知識に不備があってもおかしいと思ったものにはとりあえず声をあげてみるという勇気というのか。そういうものが必要で、あの集団にはそれがあって私には欠けている。知らないで喋るというのが怖いんです。でもオナニーでいい、自分が気持ちよければいいんだという思い切りも時には大事?と思います。見習おう。少しは。

                       「ここから変わります」

クサレ外道、クサレ外道、ああムカつくクサレ外道。ネット右翼とかいうクソ人種が私は大嫌いです。いつもいつも理性的な批判を心がけてきましたがたまにはいいでしょう。イラクの人質事件のときに自己責任だとか騒ぐクソ野郎。光市事件で死刑死刑騒いでるクソ野郎。理論的な裏づけなんてなく、ただ「死ね!ぶっ殺してやる!」って叫びたくなる時ってありますよね。ろくな考えもなくキチガイだとかなんだとか抜かしやがって。自戒もない。節度もない。理性もない。何もない。私がテメーの文章の何倍書いてると思ってんだ。お前のキチガイの4文字に私の文章が劣ってるとでも?ふっざけやがって、文句があるならそれなりの文章をきっちり書いて反論してみろっつうんだ。

大体あれですよ、ハンディ。私が文章書くのに100考えてるとしたら向こうは1しか考えてない文章を次々に投げつけてくる。私はそれにも100考えて反論しようとするから私ばっかり疲れる。質より量作戦に負けそうだ。どう考えてもおっつかない。でも1にしちゃったらクサレ外道になっちゃうし。質を維持するためにはどんどんどんどん知識を入れてかなきゃ追いつけないんだってことですね。

今まで感情的にならないようにって気をつけてたんです。自分の言ってる事こそが正しいんだという独善人間になりたくなかったし、だからその言い分も分かるけどでも、という言い方を崩した事はなかった。でもムカつく時はムカつくし、私はクサレ外道は大嫌いです。

思想は数限りなくある。その中でどんな思想を持とうとそれは自由ですが、クサレ外道の自分の言っている事が間違っているかもしれない、相手の言ってることも一理あるかもな、という考えの欠如が私は本当に許せないんです。自己批判のない人間なんてオナニーです。そんなオナニー野郎にキチガイとか言われたくないし、っつーか死ね!とか思ってしまう自分もいますし…。なにか言えばそれだけじゃあ自分はどうなんだという問いが返ってくる。だから私の人生はちっとも気持ちよくないわけですが、まあそういう禁欲生活もいいかなと。でもさっきそういう思い切りも必要だって書いたんだっけ…。

と、ここまで書いていつもの自分の文章との違いに目を見張るばかりですがどうしようかなあ、ところどころ綺麗な言葉に直す?めんどくさいなー、それをやっちゃうと躍動感みたいなものも失われそうだしぃ。いいや、このままで。ここから変わりますとか書いとけば大丈夫だろ。引く奴は引け。私はこういう奴だ。

まだまだ全然言い足りないけどここで憎悪を撒き散らしても仕方がないのでそのエネルギーは理論的批判に振り向けるべきだという結論を導きつつ(もう遅い?)今日はこの辺で。最後にクサレ外道に「キチガイはどっちだ」という言葉を贈りつつ…さよなら。

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2007年11月30日 (金)

ああもう

私は綺麗事が嫌いです。家族、愛、絆、反吐が出る。私のそういう類のものに対する拒否反応は相当なものだと思う。人のためとか、思いやりとか、吐き気がするようなセリフを並べ立てた挙句、規範意識の欠如とかいう結論に持っていく似非評論家などを見ていると正直言って殺意すら覚える自分がいる。

私は私のために生きたい。誰にも何も干渉されず、私だけのために。余計な説教も指図もされたくない。私に勝手に余計な荷物を背負わせようとするのはやめてくれ。

自殺を悪だという奴を私は許せない。人間の生など親のエゴか不注意かでしかないのです。そんなものを後生大事に守らなければならない理由などありはしない。命の大切さという言葉も大嫌いです。あの押し付けがましい響きには本当にウンザリする。頼んでもないのにね。私が生きたいって言ったか。そう聞いたのか。たまたま生まれてきちゃっただけなのに、感謝を強要し、死ぬ自由すら与えてくれないと言うのか。世間とはなんと冷たい。それでいて暑苦しい。

ほうっておいてくれないだろうか。罰当たりだと言うのなら、命をありがたく思わなければ生きていてはいけないのなら、最初に生まれてこない事を選択できなかった事に同情してくれ。というか命を与えてくれたとされる先祖やら神やらはそんなに押し付けがましい方々なのだろうか。生きる事、感謝する事を強要するような?規範が欲しい奴らの後付けじゃなかろうか。私の存在はたまたまなんだから誰にも感謝しないし、誰にも束縛されたくない。私はなんだかんだ言ってこの先生きるかもしれないけど、それは大切な命だからではなく私に死ぬ理由がなかったからというだけの事です。そこんとこハッキリさせとかないと。

私が今生きている事に意味や価値など与えないで欲しい。私はただ偶然の集積によって今ここに存在しているに過ぎない。私の人生には価値が無いのだなあ、意味も無いのだなあ、と思えばこそ、私は生きていられるのです。価値も意味も追わずただ生きる事が私にとっての生き甲斐。無価値というのは美しいと思いますね。誰にも感謝されず誰にも気付かれず、世界を裏から眺め嘲笑。すっばらしい人生じゃないですか。

っつーわけで今日は我が儘でへそ曲がりな私の魅力が存分に出せたと思いますが。結局今必要なのは吐き気のするような劣悪ストーリーを上からかぶせていく事ではなく、個々の生の充実を図る事だと思うのです。例えば家族みんなで食事を取りましょう、の代わりに、家族をぶっ壊しても自分の生きたいように生きましょう、にしてみるとか。世では規範意識の欠如だの何だの言ってますが、一人一人が生きたいように生きるという事がどれだけ制限されてるか、気付いてないのですね、そういう事を言う人は。

押し付けがましい独善説教をやめ、もっと幅広い生を認めなければこの社会の閉塞感が、とかなんとか言う前にこれ以上私につまんねえ説教聞かすな、と言った方が手っ取り早いかな。私は誰の指図も受けん。

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2007年8月 9日 (木)

私は卑屈

なんだかものすごーくだるいです。なんのひねりもなく申し訳ないのですが、普通に夏ばて気味で食欲も落ちてます。

私って人と関わるのダメじゃないですか。とか言うとキム兄みたいな人に「知らんがな」とキレられそうですが、ダメなんですね、人と関わるのが。

慢性的な不安とか恐怖に支配されていて、人と自然に関わるって事ができない。これってひょっとすると前に書いたかもしれないんですが、確認するのが嫌なのでこのまま書きます。

その不安や恐怖が何によるものかといえばそれは自分自身に対しての自信のなさ。私は自分が人からどう思われているか、という事で言うと、嫌われているかいてもいなくても同じかのどちらかだと思っている。これは何でそう思うのかとかいうレベルではなく私の中での強固な思い込み、と言うか実際そうなんだろうとも思うんですが。

だから人と接していて相手が自分に対していい印象を持っているなんて事は夢にも思わないレベルだし、そうやって常にマイナスに考えていないと、自分を保っていられないんです。何か行動を起こすたび嫌われたんじゃないか、幻滅されたんじゃないかという思いに駆られるから、そんな中で自分はこの人に好かれている、友達だ、と思おうとするとかなりの摩擦が生じる。私はこの人と友達、と思おうとした所でマイナスに考えてしまう自分には勝てないし、いらない苦痛を生むだけなのです。

その点普段から私はよく思われていない、という前提に立てば、嫌われたかも知れない事や幻滅されたかも知れない事なんかはどうでもよくなるわけです。だってそもそもよく思われていないのは分かりきっているわけですから、今更一喜一憂する必要もない。私は何を言っても何をやっても嫌われる、あははそれはもう仕方ないですよ、と思っているととても楽なんです。

ただね、問題なのはこんな生き方をしていれば、誰だってこんな卑屈な人間は嫌だろうから自然に孤立しそうなもんだけど、まだ1人2人メールをすれば返してくれるような人がいる事です。どうせよく思われてないから、とマイナスに固定して疎遠にしてしまえば迷惑もかけないし楽なのかもしれませんが、私もなまじそういう人がいるもんだからついメールしちゃったりするんですね。矛盾だらけです。

でもそういう人と関わるのはものすごく怖いです。上記のようによく思われていない前提に立てばなんでもないような事が、向こうもそれなりには私の事よく思ってくれてんのかな、という前提にひとたび立とうとすると、全てが足下から崩れ落ちて何もできなくなってしまう。嫌われたかも、幻滅されたかも、が死ぬほど怖いんです。

これは明らかに前に書いた記憶がありますが、私にはこれをやっていれば嫌われないだろう、という安牌が存在しない。卑屈で暗いのはやっぱ鬱陶しがられるかな、と思うからあまりこういう内面の話はしないでおこう、とかも思ったりするんですが、でもじゃあどうするかと考えた時、明るく何にも怖くない風を装って普通にやったって、思い上がりとか図々しいみたいな方向で嫌われるかもしれない。結局どうやっても嫌われるかもから逃れられないから、素に近い卑屈で暗い方でやってます。

自信とか安心の土台がそもそもないから、ちょっとした事で「ああやっぱり私はダメなんだ」という所に落ち着いてしまう。でも後からそのちょっとした事に相手はなんの意味も込めてなかった事が分かったりするので、そんなにビクビクする事もないのかな、とその時は思うけど、やっぱり次の瞬間には「~かも」が怖くなっていて。

ここで私の自信のなさ、卑屈さを分かりやすくお伝えするため、恋愛の話を絡めつつお話したいと思います。といっても私が人生において人と付き合っていた時期は半年しかなく、それも小学生の時だったからカップルらしい事は何もしてないので、あくまで想像ですが、まあお聞きください。

まず永遠の愛なんてのは私は信じない。思い上がりも甚だしいですが、私の事を好きになってくれる人が将来現れたとしましょう。その人に私は永遠なんて事は言わせませんし、そんな将来のどうなるか分からない話はどうでもいいんです。人の心は変わります。今は私の事を好きと言っていても、その次の瞬間気が変わったり、私に幻滅したりしないなんて誰にも言えない。そしてそれはその人を責められるものでもない。

浮気や他に好きな人ができる、なんてのも言ってみれば当たり前というかね。私だけを好きでいろなんて私は言えませんね。人の心は自由であるべきだし、そういう縛りは究極の所では役に立ちません。私にそんな魅力があるとも思えませんし。相手がずっと自分を好きでいるのが当たり前なんてどうして思えるのか不思議です。私にもし彼氏ができたら、私はそんな永遠は夢見ませんし、根拠のない約束なんかより、今その瞬間の気持ちが嘘でなければそれでいい。

私は変なのかも知れませんが、振られる事より、嫌われたかもの方がずっときついんですね。事実今までも振られた事よりメールの返信1通来なかった事の方が辛かった。一旦無理と言われてしまえば後は私が勝手に立ち直ればいい事ですが、かもの場合は直接言われてない分「やっぱ嫌われてんだ」と思うまでに時間が掛かるし、その数日がまたきっついんですね、ものすごく。それでいて相手に確認もできないから完全に生き地獄。中途半端な状態でかもかも言ってるよりは、無理となった時の立ち直り方の方が私は知ってるし、そっちの方がよっぽど楽です。だから私は恋愛で白黒ハッキリしない状況はもう発狂しそうになります。それなのにそういう時期が長かったものですから大変でしたね、あれは。

「仕事と私どっちが大事」とかいうのもよく聞きますが、私はあれは言えませんね。あれは前提となっているのは「仕事よりも私が大事にされるべきなのにあなたはなんなの」という事ですよね?私は自分が大事にされるべきなんて思えないから卑屈女には無縁の啖呵です。

というわけで、今日は私の卑屈さの紹介でした。ただ最後に付け加えておくと、私は不特定多数の人間や全く親しくない人間からはどう思われても平気です。ただ特定の人との嫌われたかもの間が苦手なんですねえ。もうこれはほんとに資質としか言いようがない。今後年と共に少しは改善されてってくれるとありがたいんですけどね。

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2007年1月25日 (木)

自分自身を強制終了

最近起きるのが辛い。もう何回も聞いたよとか言われそうなんですが、最近は特にひどいんです。

私の好きな作家に町田康という人がいる。この人はもう世の中の営みからこぼれ落ちていく人間の悲哀、みたいなものを書くのがこれでもかってぐらいうまい。だからめちゃくちゃ好きなんですが、今までこの人の話に触れなかったのは、何となくこの人の事を書くなら軽い感じではなく、どこがいいのか吐き気がするぐらい煮詰めて書いた方がいいんじゃないかと思えたからです。でもまあそこまで思いつめなくてもいいか、という心境になってきたので、今日は気に入った部分を少しだけ。

一応冒頭の起きるのが辛いって部分にも繋がるんですが、町田の小説のもう今日も酒を飲んで寝てしまおうという場面で、町田は「自分自身を強制的に終了してしまおう」という言葉を使っていたのです。ああもうこの人すげえなあと。正直読んだ直後より今の方がきてます。

寝てしまえば自分という人間をやらずに済む。まさに強制終了ですよね。そこにもう一刻も早く自分という人間を終了してしまいたい、という感情がありありと表れていてなんかいい。

で、私の場合も寝るじゃん?でぇ、起きるじゃん。もうなんか起きるって動作が最近辛くてしょうがないの。町田の言葉の逆を言うなら自分自身を起動したくない。もうずっと終了したままにしておきたいのね。ただ眠いから起きたくないとかそういう事だけじゃなくて、なんていうのかなー、もう自分という人間がこれから起きてすること、それを想像するだけで鬱になってくる。

飯は食うよね、とりあえず。で、録画したビデオでも見るのかな。後はほら、新聞とか片付けてー、ってつまんねえ。その動作には何の価値も無い。そのほかにも自分が考えそうなつまんない事とか先取りして考えてみたりすると、なんかもう吐き気だよね、すべてが。吐き気と鬱って言葉がずっと頭の中をぐるぐるしてて1時間ぐらい布団の中でうだうだしてました。

で、やっとの思いで布団から這い出して、飯食って、ここでうだうだ書いてたら、あら不思議、もう外が真っ暗だー、あははははー、笑っちゃうね。

強制終了の究極の形は死ですよね。でも私は漠然と死について考える事はよくあるけど、本気で死のうと思ったことはまだ1度も無い。なんだかんだ言って、私は人よりは恵まれているからね。幸せなはず。

もうなんか疲れてきました。とりあえず、これからも日々自分自身を強制終了しつつ生きながらえる所存です。なんか急にこの強制終了ってフレーズが気に入っちゃったもんで、たぶんこれから結構使います。

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2007年1月16日 (火)

心身ともに絶不調

最近妙に人恋しくなる。何ででしょうねー、家でやりたい事とかやらなきゃいけない事に追われていればそんな考えにはあまり取り憑かれないもんなんですが、最近は心身ともに不調なようで、ふとした瞬間に寂しくなる事が多いです。

でもこういう事は何ができるわけでもない。

「寂しいなら誰かに連絡を取ってみれば?」

「嫌です。」

「何か新しい人間関係に飛び込んでみるつもりは?」

「ないです。」

みたいな感じで、すべてが自己完結。なんもできません。したくもないし。

なんかね、今日の午後からメンテナンスがあるみたいで、その前に更新しとかないとまた次の記事まで間が空いちゃうな、とか思って書き出しただけで、別にこれといった書くことがあるわけでは。ごめんね。

冒頭にも書いたんですが、最近ちょっと調子悪いみたいなんです。なんか頭がボーっとして何もやる気がしなくなったりするし、寝つきが悪かったり夜中に気持ち悪くなって目が覚めたりもするし、ここ1ヶ月くらいなぜか膝も痛いし。もう最悪です。

今日も外歩いてたら何回か心臓のちょっと下ぐらいが急に痛くなって、なんだろう、ストレスかな、とか思ったりして。

でも一番ひどいのはやっぱり頭。なんか急にズーンと重くなって、鬱々としてきて、特に理由もなく泣きそうになったり。なんか完全に鬱病の症状ですよね。これが1ヶ月続いたら私は鬱病です。まあ一過性のものだとは思いますが。

ここまで書いて、ふと私の健康上の不具合を述べて一体何の意味があるのだろうかと考え出したら絶望したので、今日はもう「うっちゃり宣言SP」を見て寝る事にします。東京03が司会ってのが珍しい。私の本当の鬱病のサインはテレビを見なくなることでしょうね。

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2006年12月31日 (日)

卓球の話のはずが激しく脱線

今日は父親と約2年ぶりに卓球してきました。別に昨日ピンポンを見たからとかではありません。父親に誘われたので。ひっさびさに健全な事をした気がします。明日は間違いなく筋肉痛でしょう。

これでも私は2年前までは結構卓球がうまかったのです。男共に混じってほとんど毎日バカみたいにやってました。何かの集団に属してたのも卓球やってた時が最後ですかね。なんかそう考えると妙に感慨深いものがあります。

周りの奴はみんなバカばっかりでピンポンのペコとかスマイルの真似とかしてたっけ。私に安定した居場所があった最後の時。それなりに楽しかったけど、その時にやっぱりあの集団の虚しさみたいなものも知ってしまったのよね。

卓球なら卓球、ゲームならゲームと何でもいいんですが、基本的にそういうバカ騒ぎって誰でもいいんですよね。ある程度卓球やゲームができる人となら誰とでも盛り上がれて、その人が人間的にどんな人かなんて関係なく一定の楽しさを得られる。

そんな関わり方が急に虚しくなって私は卓球の集団からは抜けたけど、この間久しぶりに遊びに行ったらかつての人たちは相も変わらずゲームやら卓球やら鬼ごっこやらに興じていて、よく飽きねーなー、やっぱり男ってバカなのかしら、なんて高飛車な考えが浮かんできたり。

だって私があの人たちと卓球ブームでつるみ始めたのはもう4、5年前までさかのぼる訳で、あれから今現在まで多少メンバーの入れ替わりがあると言っても、あのバカ騒ぎをずっとやってると思うと逆にすげえなあ、と思って。

私の方はあれ以来人に求めるものが一変してしまいました。この人と共感は生まれるだろうか、私の気持ちを分かってくれる人だろうか、という事を必要以上に精査して少しでも違うと思ったら踏み込まない。そんな関わり方をするようになった。

てきとーなバカ騒ぎはもううんざり。誰か分かってくれる人とボーっとしてたいです。そういう態度で、声掛けてくれる人からもなんか違うとか言って身を引いてたら、その内取り返しのつかない孤独に落ちたりするんでしょうか。

でもだからといってなし崩し的に人に依存はしたくない。人を自分の孤独を癒す道具にはしたくないのです。人と関わるという事は、自分の辛い事を引き受けてもらう代わりにその人の辛い事も引き受けなければならない。自分がこうして欲しいという欲求ばかりでは成り立たないのです。

だから人と関わるという事は常に何かを犠牲にする事であると言えるし、なんらの犠牲も覚悟せずただ楽しさのみを求めるような発想ではろくな関係は築けない、というのが私の考えです。

だって本気で人と関わろうと思ったらそれはもうどろどろのぐちゃぐちゃですよ。所詮は赤の他人な訳で、それを分かり合おうなんて思ったら並大抵の苦痛じゃ済まない。相手を理解するなんて簡単に言うけどこれほど難しい事も他にない。

でもどうせ人と関わるならそれぐらい深い関係になりたいって思うので、何となくの薄っぺらい関係というのが私は苦手なのです。まあそれらを排除しているうちに一人になってしまうわけですが。たぶん私が思うに人と関わる際にいちいちそんな深い関係を求めていたらダメなんでしょうね。薄っぺらい関係を質より量でいっぱい持っておくのが今の主流なんでしょ。

でも私はやっぱりそれじゃ嫌です。そんな妥協をするぐらいなら一人で持ちこたえようと思う。人と関わる事イコール犠牲を払う事ですから、どんな犠牲もいとわないと思える人とだけお友達になります。傷つく事はかったるいですし、つまんないヤツと関わるぐらいなら一人の方が楽ですから。

一緒にいるだけで楽しいなんて甘っちょろい関係は私の中には存在しません。相手が何も悪くないとしても、私は勝手に自己嫌悪や徒労感に襲われ、頑張らなかったら誰かとなんていられない。

ふあー、でもこうやって書き出してみると私ってほんとめんどくさいですね。人に求めるものが重いって言うかなんていうか。0か100かという極端さが鬱陶しい。もっと要領よくやんないとダメなんですよ、人生は。

さて、今日は日付が変わってもう31日です。なんか実感湧きませんが今日でもう今年は終わりなんですね。ほんと早い。今まで散々一年が終わる虚無感について述べてきましたが、いざ最終日になってみるとこれといった感情もなく。結局こういうのって、もう終わっちゃうって駆り立てられるのは31日よりも27、8日ぐらいなんですよね。

まあそんなのはどうでもいいや、31日ですから恒例の挨拶で締めたいと思います。皆様よいお年をお迎えください。

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2006年12月21日 (木)

どいつもこいつも

なんつーか、私は今猛烈にイライラしている。なぜか。そぉれぇはぁ、私の周りのヤツがそろいもそろってバカだからだ。

私は前回の記事にも書いたように高卒認定試験に合格したわけですが、それがよくなかった。なんか知らん内に私が大学に行くためにその資格を取ったのだと祖母らが勘違いしてるらしい。数ヶ月前から何となくテンションが違う、とは思っていたけどめんどくさいので訂正せずにいたのがまずかった。

まあでもそんなのは別に行かないと言ってしまえば済む事で、それ自体は大した話じゃない。何で私が今こんなに気分が悪いかと言うと、試験合格のお祝いにメロンが送られてきたまではいいものの、それにはしっかり手紙が添えられていて、その手紙の内容が基本的にものすごく不愉快だったのです。

ざっと内容を述べると、要は「今まで何年も不安だったでしょう、今回合格と聞いて本当に安心しました、東京には沢山大学があるからもう心配してません、目標を持って大学に入れるよう頑張ってください」とかそんな感じで、母親あての方には、「合格と聞いて久しぶりに笑顔がこぼれました、浪人しないように受験さして、無事大学生になるのを望んでいます」とかなんとか。これで大きな顔ができますね、とかも書いてあったっけ。

もうなんか物を言う気も失せる感じ。別にちっとも不安じゃなかったし。今まであまり文句を言ってこないな、と思っていたけど、結局正規の道を歩んでいない私の事を不幸だとか欠陥品だとか思っていたのですね。分かってはいたけどさ。沢山大学があればバカでも入れるだろうって事か。失礼な。

それにしても随分つまらん価値基準をお持ちのようです。たかが高卒認定試験合格ぐらいの事で大きな顔ができるってのもこれどうなのよ。要するにあなたはあなたの孫でもあるあの高校中退の彼を私が見下していれば満足なのですか。どんな教育だ。

親父は親父で相変わらずどっかに所属しているという事をことさら重視し、先のことをちゃんと考えた方がいいとか大して身にもならないような事を言ってきます。今日だって急に「大学がいいとも限らないけどね」みたいなことを言い出して、一体何の心境の変化があったんだ、と思っていたら「専門学校とか予備校とか」と続けた。どこだって一緒だよ。

もー、ほんとにどいつもこいつも私をなめているとしか思えない。その程度の視野で私の人生に口を出そうなどと百年早いわ。調子に乗りやがって。

まあ私だって自分のせいで誰かが悲しむのはイヤだから、自分に出来る事なら付き合ってやってもいいよ。でも大学はダメです。誰かが悲しむからといって我慢して行けるような代物ではない。そんな事のために4年間を棒に振るわけには行かない。

だから私は上に書いたようなことは一切言わずに丁重にお断りします。私って大人ー。言っても分からない人には言わない。私の中の鉄則です。めんどくさいし。

学校に行かなくなって、正直もうここまでくれば私に普通を求める奴なんていないだろう、と高を括ってました。甘かったと言わざるを得ませんね。でも普通高校行かなかったら大学も行かないでしょ。学校嫌いなんだから。

これからひとつひとつ、大学には行きません、本屋さんでアルバイトがしたいと思ってます、という事を説明して回らなければならない訳です。ほんとバカみたい。これぞ無駄な労力というものでしょう。

でもさー、私ってこれでも結構マジメちゃんな方だと思いますよ?新聞読んでるし、本も好きだし、色んな事に関心あるし。それでも世の中が支持するのは親の金でプラプラしてる大学生なのですね。別にそれが悪いってんじゃありませんが、私の方が絶対そんな人よりも学習意欲はあると思う。

べっつにー、だから認めてくれなんて甘ちゃんな事を言う気はないけど、そんな世の中の腐った様を垣間見た今日は気分が悪いと、こう言いたかっただけです。

なんか色んな人に言われれば言われるほど大学なんてぜってー行くもんか、という気分になってきますね。誰かの言う通りにするという事が心底嫌いなようです。でも本当の正念場はこれから。今私がこうやっていきがってられるのも、まだ社会に出てないからかもしれません。

家で言うだけなら誰だって言える。世の中の冷たさや汚さや不条理にさらされてもこれが言えるなら問題ありませんが、案外あっさりひしゃげてしまう、という事も充分ありえます。私ってほら、弱いから。

もう疲れたから寝る。久々に長く書いたなあ。

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2006年11月20日 (月)

試験終了

はー、やっと終わりました。一昨日は見るからに鬱って感じの記事を公開してしまいましたが、今日はなんとか平気です。疲れがどっと出てはいますが、試験二日目の昨日は制服の人たちがいなかったので随分楽でした。

やっぱり私はあの手の人種が苦手らしく、昨日は場の雰囲気だけでこんなにも違うもんかってぐらい安心して試験を受ける事ができました。

やっぱり色々な年齢層の人がいて雑多な感じだと、私もその雑多な中の一人として人格を否定されない安心感があります。でも制服の人がいっぱいいて既に集団が出来上がってる感じだと、自分がいかにこの世の中にとって規格外な存在か、いかに弱っちい人間かということをいやでも思い知らされる。

だから昨日は会場につくまでもう怖くて仕方がなかった。電車に乗ってる間も過去に感じた疎外感、びびってばかりで何一つうまくいかなかった出来事などが思い出され、周りの人は全員敵に見えるし、もう泣きそうになりながら向かいました。

でもそんな感じで鬱々としながら行った割にはことのほか雰囲気がよかったんで、帰りはもう意気揚々と、「私が嫌な思いをしない場所もきっとあるに違いない、だって世の中はこんなに広いんだもん、あははー」といったテンションにまで回復し、まったく現金なものです。

だから今はそれなりには元気なんですが、考えさせられる出来事ではありました。孤独について、対人関係について。

やっぱり今回思ったのは集団の中で孤立して生きていくには拠り所がないと辛い。「ふふん、あんた等なんかに適応できなくたって私にはこっちに居場所があるもんね」という逃げ道がないと、居場所や友人を作れない劣等感でぐちゃぐちゃになってしまう。

私がフリースクールに通ってた時がそうだった。これといった友人を作ることもできず、一人の時間が多くて、そんな時私の逃げ道兼拠り所になってくれたのが、例の彼です。他の誰と仲良くなれなくても、彼が私の事を分かってくれて話しかけてくれてる内は、私には居場所があったし劣等感を感じずに済んでいた。

でもやっぱり彼があまり話しかけてくれなくなってからは劣等感や孤独感にさいなまれ、楽しそうにつるんでる人を見ては疎外感を感じてみたりする日々。

なんかこういう風に書くと誤解されそうなんで補足しておきますが、別に私はその多数派の集団と仲良くなりたいわけではない。つまんない奴と話すぐらいなら一人の方がましだと思ってるし、そういう意味では一人は好きです。ただ自分なりの居場所が作れない、関係が築けないという事それのみにコンプレックスを感じているわけでー、って言えば言うほどみじめって感じー?

…それにしても自分の力で安らぎやそれにつながる人間関係を築いていく能力に欠けるってのはうやっぱり悔しいし、もっとなんとかならないもんかなあ、と思います。人を求める気持ちはあるのに、私が人と接する際に消費するものはシャレにならないぐらい多い。自己嫌悪は必至だし、あらゆる恐怖は襲ってくるし。

つくづく人と関わるのに向いてない、っていうか最近私にはそんな資格ないんじゃないかと思えてくる。この自己嫌悪や恐怖は消せなくて、それが相手の負担になっているという思いも消せなくて、一人で悶々とする。ちょい虚ろって感じー。別に深い意味はないです。

でも私は自信が無いとか自己嫌悪だとか散々言ってはきましたが、今の自分にはそれなりに愛着がある。もし仮に明日から明るく元気なプラス思考人間になれる薬があったとしてもそんなの飲まないし、私はマイナス思考で弱くて対人関係に鈍くさいからこそ私なんであって、自分ではない他の誰かになりたいとは思わない。

その意味では自己肯定できてるはずなんですが、一度人と関わるとどうせ私なんか病に取り付かれてしまいどうやっても立ち行かなくなる。でもいつかは嫌わるかもなんて不安を感じる余地もないような関係を築きたい。私だって普通に幸せになりたい。とこの言葉は私の非公開の日記にいやというほど登場した言葉。

幸せになりたい幸せになりたいと書き殴りながら鬱々としていた日々が思い出されますねー。幸せを希求するテンションになってきたのはそれぐらい久しぶり。ふとどこかで諦めに入っていた自分に気付く。希望を直視してその通りにならなかったらと思うと怖いから、ついつい絶望ばかりを手に取ってしまう。

そんな風に楽な方ばっかりに流れてたらその内絶望がほんとになっちゃいますね。私もう少しだけ前向きになってみようと思います。頑張るのは嫌いだからほんとに少しだけ。何の報告だよって話ですけど。

ということで今日は試験も無事終わり一応はめでたい日です。今まで頑張った私を誰か褒めてください。失恋や一番信用してた彼との関係断絶を乗り越え、試験会場に足を運んだ私ってすごいでしょ。ねー、って無視すんなよう。まあ今日は一貫してテンションがおかしいわけですが、おかしいついでに今日はもうぶちっとこの辺で終わりにします。こんな長く書くつもりじゃなかったのにー。おっかしいなあ。

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2006年11月19日 (日)

世の中への疎外感

なんとか試験一日目は無事終了ー、といいたい所ですがテンションに著しい減退が。

というのも試験の結果がいまいちだった事もさることながら、今回は8月に受けた時と雰囲気が全然違っててその差に私はげんなりなのです。

8月に受けた時はなんかいかにも高校中退しましたみたいな若者とか、今から受けんのかよってぐらい年がいった人とか色んな人がいて、一応は世の中の筋道から外れたみたいな人の集まりだった気がして、その中に私がいてもそれほど違和感なく、安心して試験を受ける事ができた。

でも今回はなぜか制服を着た集団が大挙していて落ち着かない…。なんかあの手の集団を見ると自分が如何に世の中から外れた存在かという事を思い知らされる。私がかつて感じていた疎外感も呼び覚まされたし。

私は嫌な事は考えないようにするたちなんで、家にいるとすぐ実感がなくなってしまうんです。でも私がそうしている間にも世の中が変わるなんて事はなく、私にとって都合の悪いこの世の中は絶えず存在し続けている。

私とは相反する強い人がいっぱいいるんですね、この世には。私はどうあがいたってあの人たちのようになることはできないし、馴染むこともできない。私は一生弱者の側で生きていかなくてはならないのだと、今日改めて実感しました。

正直怖いんです。あの制服を着た人たちを見ていると「お前は弱者の側で生きていくしかないんだよ」と言われている気がして。ああ、私って弱い人間だったなあ、と思い出させられた格好。強い弱いなんてのは比較対象があってこその話で、家にずっと引きこもってたら自分が弱い人間だって事も、人と関わるのが苦手だって事もすぐ忘れます。

特に私みたいな現実逃避をモットーにしてる人間は。で、その頭の隅に追いやっていた自分の欠陥や世の中の生きづらさみたいなものが現実感を伴って一斉に襲い掛かってきているわけで、もう私は耐えられません。

頭では分かっていたはずだった。居場所が見つかる可能性が低い事も、自分が弱い人間である事も、世の中が私とは相反する人種で構成されてることも。でもいざそれを見せつけられるとこれでもかってぐらいあっさりと傷ついてしまう。つくづく弱い。

私みたいな人間は誰にも受け入れてもらえないんじゃないか。私みたいな人間はどこに行っても疎外感を味わい続けるんじゃないか。私みたいな人間は…って考え出すともう怖くて仕方がない。


すいません、明日も試験があるんで今日は寝ます。遅くなってしまった。きっと明日も疎外感を味わう事になると思うので、明日また書きます。おやすみなさい。

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2006年10月25日 (水)

私の遍歴

今日も明日も明後日も生きてくことがとっても辛いぜー。なんて、いい加減な前置きをしつつ、なんとなく煮詰まってきたので、私が何でこんなんになったのか、勝手に振り返ります。

私は自分が自分でいていいんだ、この人は私の事を好きでいてくれてるんだ、という心の底からの安心感をもう何年も得たことがない。たえず何かに怯えて何かが不安で。何でかなーと思ったらやっぱり私はある種の虚像を抱えていて、今本来の自分と他人からみた自分がなんか違う、という思いがあるからだと思います。

私は一時期妙なキャラで活躍していた時期があって、いわゆる所の男勝りというか、やれクラッシャーだの、やれ粗暴だの言われながら、暴力的なキャラで生きてた事があった。今の私では考えられませんが、周りの言葉に乗せられて私も調子に乗ってそのキャラを謳歌していたりなんだったり。暴言を吐く、あからさまに不機嫌そうなオーラを出して人を引かせるなど、そりゃあひどいもんでした。思い出したくない痛い思い出の一つですね。

最近ではすっかり丸くなって、かつての面影はなくなりましたが、やはりかつてのイメージというものは抜けきっていないような気がして、未だに強い人、サバサバしてる人などの部分だけが一人歩きしている感がある。私はそんな強い人間じゃない。私はそんなかっこいい人間じゃない。いつも自分の中でそう叫んでる。

私は今の人間関係は、私という人間のつまらなさ、かっこ悪さ、くだらなさ、、暗さなど、あらゆる欠陥がばれていない、分かられていないからもっているようなものだと思えてならない。私みたいな人間のありのままを知ったらみんな離れていくに決まってるんだ、という考えがどうしても抜けきらない。自信なんて数年前からとんと見かけなくなった。どこへやったっけなあ。数年前までは確かにここにあったはずなのに。探したら押入れの奥とかから出てきてくれないかなあ。

私は実はこんな性格が如実に表れだしてから結構日が浅い。気がつけばもうずっとこんな性格で生きてきたみたいな顔してるけど、4、5年前までは訳の分からないキャラで能天気に生きてましたからね。まあその頃から気質的には今みたいな人間になる兆候はあったのかもしれないけど。それでもその頃の私は今よりずっと強かった。いつからこんな弱体化したのかサッパリ分からない。

なんかきっかけは知人に「プラス思考過ぎじゃない?」って言われた事だった気がする。当時の私はそれが結構ショックで、ああそうか、私はプラス思考過ぎるんだ、とものの見事にそのまま受け取り、それから物事をいい方に考えなくなった。いや、ちょっとあんた単純すぎやしませんか。まあもとからそういう気質があってのきっかけに過ぎないとは思うんですけどね。

なんかそれを指摘された事によって、物事をいい方に考えてそれを信じて疑わない事の滑稽さを悟ってしまったように思う。自分が今までいかに愚かであったのか分かった時、子供ながらに恥ずかしかった。もうそんな恥ずかしい思いはするもんか、という発想が今のとりあえず最悪の結果を想定するといった行動につながっているんだと思う。私はわきまえている、身の丈以上の事を期待したりしないんだ、ということを誇示することによって過去を汚点を清算し、恥をかかないように、傷つかないように必死になっている。

傷つくことを避けようとすればするほど苦しみ、でも怖くて前が見れない。いやー、もう困った。どうやって生きていけばいいんでしょう。

なんかよく分からない内に色々と書き連ねてしまいました。こーんなもん誰が見て面白いって思うんだろう。まあ所詮はこんなもの自己満足に過ぎないんだから、その手の疑問はもう放っておこう。

生きてるだけで誰かしらに迷惑をかけているなんて考えは、自分の影響力に対する思い上がりなんだろうけど、それでも生きててごめんなさい的な感情を払拭できないでいる。そういえば生きる価値的なこともろくに向き合わずにここまで生きてきちゃったなあ。その内この場を借りて向き合ってみたいと思います。

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2006年10月 8日 (日)

2回目にして既に…

最初のうちはちょっとマメに更新しようかな、ってことで2日連続の更新です。とはいえブログに関しては右も左も分からず、何をどれだけ書いていいやら。困った。まあ取り留めのある事や健全な事を書こうったってそうはいかない。かっこつけてもしょうがないので適当に書いてみます。

私は人と関わるという事があほみたいに苦手です。そんな中で孤独ってのは私にとって一生ついてまわる問題です。もう人とうまく話す、傷つかずに話す、自今嫌悪に陥らずに話す、という事ができている自分、というのが想像できないのです。

人が当たり前のようにやっていることができない。全く無駄なところで気を遣い神経をすり減らし、そのたび人となんて関わらない方が幸せになれるんじゃないかと思う。でもそれがしばらく続いて人と話す感覚を忘れる頃になると、それはそれでちょっと寂しくなってきて、そしてまた話す機会ができると虚無感。人とのコミュニケーションが全くの悪循環なのです。孤独の辛さと人と関わる事の疲弊、どちらが楽かいつも天秤に掛けています。

そんな私にとって虚無はニュートラルです。そこから更に鬱に落ちたり、逆に元気になったり。要するに鬱になっても元気になっても、時間が経てば虚無に戻ってくるということです。ここで私の言う虚無と鬱に注釈を加えると、普段慢性的に感じている比較的軽い空しさが虚無で、そこから更に絶望感や自己嫌悪感が強まると鬱になります。因みに今は鬱よりの虚無って感じでしょうか。

最近では虚無状態ではない自分に罪悪感すら感じます。嬉しい事や楽しい事があってもすぐ虚無に戻そうとする自分がいる。元気な自分を認めないのです。幸せを拒んでいる節もあるかもしれません。お前は一人で鬱に陥っているのがお似合いなのだ、人と楽しく笑っているような事があればそれはもうお前ではない、という声がどこからか聞こえてくる。

ああ、ブログ2回目にして何たる暗さ。虚無と鬱の違いを真剣に語ってる場合じゃないですよ、姉さん。うら若き乙女の日記に鬱の文字が8個も。もうダメです。ごめんなさい。

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