2009年1月11日 (日)

仕事なんて

前回の更新からあっさり一週間経ってしまった。早い早い。

いきなりですが。私は仕事ができない。どんな仕事かによるなんて一般論はぶん投げといて、私はやっぱり仕事ができないと思う。でもそんな私にも一発逆転、魔法の呪文がある。それは「こんなところで仕事ができないなんてことは私の今後の人生において何の差し障りもないことだ」というものです。

あんなところで仕事ができたからって何になる。むしろこの世の中では仕事ができない人間は嫌な思いをするのだということを身をもって知れただけ仕事ができない方が得してるぐらいだ。

人の言ってることは理解できないし。分からなくても聞き返せないし。初めて経験することは大概失敗するし。きっと人生においてほとんどのことに向いてない。でもそんなことがそつなくこなせるからってなに?そんな人間が魅力的なのか?否。私がなりたいのはそんな人間じゃない。

私に必要とされているのはそんな一般的な技能じゃない。もっと仕事ができないってことに関して鈍感になれればもっと楽しく働けるのに。駄目だ。まだまだ自己否定に入る。あんなところで仕事ができなかったことなんて、後から思い返せば私にとって何の傷にもならないことだってことも目に見えてるのに。やっぱり普通の労働なんて向いてなかったな~、なんて微笑ましい思い出として思い返せるはずなんです。

仕事ができるできないってなんで人間の自尊心とか精神の均衡にここまで喰い込んでくるんでしょうねえ。そんなこと私という人間の能力のほんの一端に過ぎないし、そんなことができる人間になりたいわけでもない。私ぐらいそう思ってても振り切れないんだから、仕事って恐いね。働くって恐い。

もっと図々しくなっていい、私は。もう一度言う。あんなところで仕事ができなかろうがなんだろうが私の人生においては何の影響もない!そんなことに振り回されてたまるか。私は負けない。仕事ができなくたっていいんだもん。

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2008年5月 7日 (水)

ごらんしーん

全然ネットに繋がらなくならない。勘違いか…。よく分からん。まあしばらくは大丈夫みたいです。

ゴールデンウィークなんて俗世間のくだらないシステムには興味がありませんが、今回は九条世界会議に参加。4日と5日に幕張メッセであったんですが、結構楽しかったです。特にブース会場では一歩歩くごとに「よろしくお願いします」と乱れ飛ぶビラ、ビラ、ビラ…。本来ならそういうのってすごく疲れるんですが不思議と嫌じゃなくて、月並みですが私もなにかしなければと思わせられました。

行動を起こすというのは大切な事で私が苦手とするところでもあるんですが、前回も書いたように少しずつ自分の殻を破りつつあり、活動家まであと一歩と自分では思っています。気に入らない事があるとキチガイとかなんとかネットに書き込むようなクサレ外道の事も少しは見習わなきゃなって思うんです。ああいう人達は自分の無知さや狭量さに鈍感で自分がおかしいと思ったことを正直にただおかしいと主張しその稚拙さを省みることもないオナニー集団なわけですが、時にはそういう鈍感さも必要なんじゃないかと思う時があります。

一人の人間が知りうることなんて限られていて、真実なんてものは一生かけたって語りえない。自分の言ってる事は間違ってるかもしれない、もっと知らなければ分からないと言ってたら延々と表現というものに近づけないわけです。完全じゃなくても知識に不備があってもおかしいと思ったものにはとりあえず声をあげてみるという勇気というのか。そういうものが必要で、あの集団にはそれがあって私には欠けている。知らないで喋るというのが怖いんです。でもオナニーでいい、自分が気持ちよければいいんだという思い切りも時には大事?と思います。見習おう。少しは。

                       「ここから変わります」

クサレ外道、クサレ外道、ああムカつくクサレ外道。ネット右翼とかいうクソ人種が私は大嫌いです。いつもいつも理性的な批判を心がけてきましたがたまにはいいでしょう。イラクの人質事件のときに自己責任だとか騒ぐクソ野郎。光市事件で死刑死刑騒いでるクソ野郎。理論的な裏づけなんてなく、ただ「死ね!ぶっ殺してやる!」って叫びたくなる時ってありますよね。ろくな考えもなくキチガイだとかなんだとか抜かしやがって。自戒もない。節度もない。理性もない。何もない。私がテメーの文章の何倍書いてると思ってんだ。お前のキチガイの4文字に私の文章が劣ってるとでも?ふっざけやがって、文句があるならそれなりの文章をきっちり書いて反論してみろっつうんだ。

大体あれですよ、ハンディ。私が文章書くのに100考えてるとしたら向こうは1しか考えてない文章を次々に投げつけてくる。私はそれにも100考えて反論しようとするから私ばっかり疲れる。質より量作戦に負けそうだ。どう考えてもおっつかない。でも1にしちゃったらクサレ外道になっちゃうし。質を維持するためにはどんどんどんどん知識を入れてかなきゃ追いつけないんだってことですね。

今まで感情的にならないようにって気をつけてたんです。自分の言ってる事こそが正しいんだという独善人間になりたくなかったし、だからその言い分も分かるけどでも、という言い方を崩した事はなかった。でもムカつく時はムカつくし、私はクサレ外道は大嫌いです。

思想は数限りなくある。その中でどんな思想を持とうとそれは自由ですが、クサレ外道の自分の言っている事が間違っているかもしれない、相手の言ってることも一理あるかもな、という考えの欠如が私は本当に許せないんです。自己批判のない人間なんてオナニーです。そんなオナニー野郎にキチガイとか言われたくないし、っつーか死ね!とか思ってしまう自分もいますし…。なにか言えばそれだけじゃあ自分はどうなんだという問いが返ってくる。だから私の人生はちっとも気持ちよくないわけですが、まあそういう禁欲生活もいいかなと。でもさっきそういう思い切りも必要だって書いたんだっけ…。

と、ここまで書いていつもの自分の文章との違いに目を見張るばかりですがどうしようかなあ、ところどころ綺麗な言葉に直す?めんどくさいなー、それをやっちゃうと躍動感みたいなものも失われそうだしぃ。いいや、このままで。ここから変わりますとか書いとけば大丈夫だろ。引く奴は引け。私はこういう奴だ。

まだまだ全然言い足りないけどここで憎悪を撒き散らしても仕方がないのでそのエネルギーは理論的批判に振り向けるべきだという結論を導きつつ(もう遅い?)今日はこの辺で。最後にクサレ外道に「キチガイはどっちだ」という言葉を贈りつつ…さよなら。

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2007年11月30日 (金)

ああもう

私は綺麗事が嫌いです。家族、愛、絆、反吐が出る。私のそういう類のものに対する拒否反応は相当なものだと思う。人のためとか、思いやりとか、吐き気がするようなセリフを並べ立てた挙句、規範意識の欠如とかいう結論に持っていく似非評論家などを見ていると正直言って殺意すら覚える自分がいる。

私は私のために生きたい。誰にも何も干渉されず、私だけのために。余計な説教も指図もされたくない。私に勝手に余計な荷物を背負わせようとするのはやめてくれ。

自殺を悪だという奴を私は許せない。人間の生など親のエゴか不注意かでしかないのです。そんなものを後生大事に守らなければならない理由などありはしない。命の大切さという言葉も大嫌いです。あの押し付けがましい響きには本当にウンザリする。頼んでもないのにね。私が生きたいって言ったか。そう聞いたのか。たまたま生まれてきちゃっただけなのに、感謝を強要し、死ぬ自由すら与えてくれないと言うのか。世間とはなんと冷たい。それでいて暑苦しい。

ほうっておいてくれないだろうか。罰当たりだと言うのなら、命をありがたく思わなければ生きていてはいけないのなら、最初に生まれてこない事を選択できなかった事に同情してくれ。というか命を与えてくれたとされる先祖やら神やらはそんなに押し付けがましい方々なのだろうか。生きる事、感謝する事を強要するような?規範が欲しい奴らの後付けじゃなかろうか。私の存在はたまたまなんだから誰にも感謝しないし、誰にも束縛されたくない。私はなんだかんだ言ってこの先生きるかもしれないけど、それは大切な命だからではなく私に死ぬ理由がなかったからというだけの事です。そこんとこハッキリさせとかないと。

私が今生きている事に意味や価値など与えないで欲しい。私はただ偶然の集積によって今ここに存在しているに過ぎない。私の人生には価値が無いのだなあ、意味も無いのだなあ、と思えばこそ、私は生きていられるのです。価値も意味も追わずただ生きる事が私にとっての生き甲斐。無価値というのは美しいと思いますね。誰にも感謝されず誰にも気付かれず、世界を裏から眺め嘲笑。すっばらしい人生じゃないですか。

っつーわけで今日は我が儘でへそ曲がりな私の魅力が存分に出せたと思いますが。結局今必要なのは吐き気のするような劣悪ストーリーを上からかぶせていく事ではなく、個々の生の充実を図る事だと思うのです。例えば家族みんなで食事を取りましょう、の代わりに、家族をぶっ壊しても自分の生きたいように生きましょう、にしてみるとか。世では規範意識の欠如だの何だの言ってますが、一人一人が生きたいように生きるという事がどれだけ制限されてるか、気付いてないのですね、そういう事を言う人は。

押し付けがましい独善説教をやめ、もっと幅広い生を認めなければこの社会の閉塞感が、とかなんとか言う前にこれ以上私につまんねえ説教聞かすな、と言った方が手っ取り早いかな。私は誰の指図も受けん。

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2007年1月25日 (木)

自分自身を強制終了

最近起きるのが辛い。もう何回も聞いたよとか言われそうなんですが、最近は特にひどいんです。

私の好きな作家に町田康という人がいる。この人はもう世の中の営みからこぼれ落ちていく人間の悲哀、みたいなものを書くのがこれでもかってぐらいうまい。だからめちゃくちゃ好きなんですが、今までこの人の話に触れなかったのは、何となくこの人の事を書くなら軽い感じではなく、どこがいいのか吐き気がするぐらい煮詰めて書いた方がいいんじゃないかと思えたからです。でもまあそこまで思いつめなくてもいいか、という心境になってきたので、今日は気に入った部分を少しだけ。

一応冒頭の起きるのが辛いって部分にも繋がるんですが、町田の小説のもう今日も酒を飲んで寝てしまおうという場面で、町田は「自分自身を強制的に終了してしまおう」という言葉を使っていたのです。ああもうこの人すげえなあと。正直読んだ直後より今の方がきてます。

寝てしまえば自分という人間をやらずに済む。まさに強制終了ですよね。そこにもう一刻も早く自分という人間を終了してしまいたい、という感情がありありと表れていてなんかいい。

で、私の場合も寝るじゃん?でぇ、起きるじゃん。もうなんか起きるって動作が最近辛くてしょうがないの。町田の言葉の逆を言うなら自分自身を起動したくない。もうずっと終了したままにしておきたいのね。ただ眠いから起きたくないとかそういう事だけじゃなくて、なんていうのかなー、もう自分という人間がこれから起きてすること、それを想像するだけで鬱になってくる。

飯は食うよね、とりあえず。で、録画したビデオでも見るのかな。後はほら、新聞とか片付けてー、ってつまんねえ。その動作には何の価値も無い。そのほかにも自分が考えそうなつまんない事とか先取りして考えてみたりすると、なんかもう吐き気だよね、すべてが。吐き気と鬱って言葉がずっと頭の中をぐるぐるしてて1時間ぐらい布団の中でうだうだしてました。

で、やっとの思いで布団から這い出して、飯食って、ここでうだうだ書いてたら、あら不思議、もう外が真っ暗だー、あははははー、笑っちゃうね。

強制終了の究極の形は死ですよね。でも私は漠然と死について考える事はよくあるけど、本気で死のうと思ったことはまだ1度も無い。なんだかんだ言って、私は人よりは恵まれているからね。幸せなはず。

もうなんか疲れてきました。とりあえず、これからも日々自分自身を強制終了しつつ生きながらえる所存です。なんか急にこの強制終了ってフレーズが気に入っちゃったもんで、たぶんこれから結構使います。

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2007年1月16日 (火)

心身ともに絶不調

最近妙に人恋しくなる。何ででしょうねー、家でやりたい事とかやらなきゃいけない事に追われていればそんな考えにはあまり取り憑かれないもんなんですが、最近は心身ともに不調なようで、ふとした瞬間に寂しくなる事が多いです。

でもこういう事は何ができるわけでもない。

「寂しいなら誰かに連絡を取ってみれば?」

「嫌です。」

「何か新しい人間関係に飛び込んでみるつもりは?」

「ないです。」

みたいな感じで、すべてが自己完結。なんもできません。したくもないし。

なんかね、今日の午後からメンテナンスがあるみたいで、その前に更新しとかないとまた次の記事まで間が空いちゃうな、とか思って書き出しただけで、別にこれといった書くことがあるわけでは。ごめんね。

冒頭にも書いたんですが、最近ちょっと調子悪いみたいなんです。なんか頭がボーっとして何もやる気がしなくなったりするし、寝つきが悪かったり夜中に気持ち悪くなって目が覚めたりもするし、ここ1ヶ月くらいなぜか膝も痛いし。もう最悪です。

今日も外歩いてたら何回か心臓のちょっと下ぐらいが急に痛くなって、なんだろう、ストレスかな、とか思ったりして。

でも一番ひどいのはやっぱり頭。なんか急にズーンと重くなって、鬱々としてきて、特に理由もなく泣きそうになったり。なんか完全に鬱病の症状ですよね。これが1ヶ月続いたら私は鬱病です。まあ一過性のものだとは思いますが。

ここまで書いて、ふと私の健康上の不具合を述べて一体何の意味があるのだろうかと考え出したら絶望したので、今日はもう「うっちゃり宣言SP」を見て寝る事にします。東京03が司会ってのが珍しい。私の本当の鬱病のサインはテレビを見なくなることでしょうね。

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2006年12月31日 (日)

卓球の話のはずが激しく脱線

今日は父親と約2年ぶりに卓球してきました。別に昨日ピンポンを見たからとかではありません。父親に誘われたので。ひっさびさに健全な事をした気がします。明日は間違いなく筋肉痛でしょう。

これでも私は2年前までは結構卓球がうまかったのです。男共に混じってほとんど毎日バカみたいにやってました。何かの集団に属してたのも卓球やってた時が最後ですかね。なんかそう考えると妙に感慨深いものがあります。

周りの奴はみんなバカばっかりでピンポンのペコとかスマイルの真似とかしてたっけ。私に安定した居場所があった最後の時。それなりに楽しかったけど、その時にやっぱりあの集団の虚しさみたいなものも知ってしまったのよね。

卓球なら卓球、ゲームならゲームと何でもいいんですが、基本的にそういうバカ騒ぎって誰でもいいんですよね。ある程度卓球やゲームができる人となら誰とでも盛り上がれて、その人が人間的にどんな人かなんて関係なく一定の楽しさを得られる。

そんな関わり方が急に虚しくなって私は卓球の集団からは抜けたけど、この間久しぶりに遊びに行ったらかつての人たちは相も変わらずゲームやら卓球やら鬼ごっこやらに興じていて、よく飽きねーなー、やっぱり男ってバカなのかしら、なんて高飛車な考えが浮かんできたり。

だって私があの人たちと卓球ブームでつるみ始めたのはもう4、5年前までさかのぼる訳で、あれから今現在まで多少メンバーの入れ替わりがあると言っても、あのバカ騒ぎをずっとやってると思うと逆にすげえなあ、と思って。

私の方はあれ以来人に求めるものが一変してしまいました。この人と共感は生まれるだろうか、私の気持ちを分かってくれる人だろうか、という事を必要以上に精査して少しでも違うと思ったら踏み込まない。そんな関わり方をするようになった。

てきとーなバカ騒ぎはもううんざり。誰か分かってくれる人とボーっとしてたいです。そういう態度で、声掛けてくれる人からもなんか違うとか言って身を引いてたら、その内取り返しのつかない孤独に落ちたりするんでしょうか。

でもだからといってなし崩し的に人に依存はしたくない。人を自分の孤独を癒す道具にはしたくないのです。人と関わるという事は、自分の辛い事を引き受けてもらう代わりにその人の辛い事も引き受けなければならない。自分がこうして欲しいという欲求ばかりでは成り立たないのです。

だから人と関わるという事は常に何かを犠牲にする事であると言えるし、なんらの犠牲も覚悟せずただ楽しさのみを求めるような発想ではろくな関係は築けない、というのが私の考えです。

だって本気で人と関わろうと思ったらそれはもうどろどろのぐちゃぐちゃですよ。所詮は赤の他人な訳で、それを分かり合おうなんて思ったら並大抵の苦痛じゃ済まない。相手を理解するなんて簡単に言うけどこれほど難しい事も他にない。

でもどうせ人と関わるならそれぐらい深い関係になりたいって思うので、何となくの薄っぺらい関係というのが私は苦手なのです。まあそれらを排除しているうちに一人になってしまうわけですが。たぶん私が思うに人と関わる際にいちいちそんな深い関係を求めていたらダメなんでしょうね。薄っぺらい関係を質より量でいっぱい持っておくのが今の主流なんでしょ。

でも私はやっぱりそれじゃ嫌です。そんな妥協をするぐらいなら一人で持ちこたえようと思う。人と関わる事イコール犠牲を払う事ですから、どんな犠牲もいとわないと思える人とだけお友達になります。傷つく事はかったるいですし、つまんないヤツと関わるぐらいなら一人の方が楽ですから。

一緒にいるだけで楽しいなんて甘っちょろい関係は私の中には存在しません。相手が何も悪くないとしても、私は勝手に自己嫌悪や徒労感に襲われ、頑張らなかったら誰かとなんていられない。

ふあー、でもこうやって書き出してみると私ってほんとめんどくさいですね。人に求めるものが重いって言うかなんていうか。0か100かという極端さが鬱陶しい。もっと要領よくやんないとダメなんですよ、人生は。

さて、今日は日付が変わってもう31日です。なんか実感湧きませんが今日でもう今年は終わりなんですね。ほんと早い。今まで散々一年が終わる虚無感について述べてきましたが、いざ最終日になってみるとこれといった感情もなく。結局こういうのって、もう終わっちゃうって駆り立てられるのは31日よりも27、8日ぐらいなんですよね。

まあそんなのはどうでもいいや、31日ですから恒例の挨拶で締めたいと思います。皆様よいお年をお迎えください。

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2006年12月21日 (木)

どいつもこいつも

なんつーか、私は今猛烈にイライラしている。なぜか。そぉれぇはぁ、私の周りのヤツがそろいもそろってバカだからだ。

私は前回の記事にも書いたように高卒認定試験に合格したわけですが、それがよくなかった。なんか知らん内に私が大学に行くためにその資格を取ったのだと祖母らが勘違いしてるらしい。数ヶ月前から何となくテンションが違う、とは思っていたけどめんどくさいので訂正せずにいたのがまずかった。

まあでもそんなのは別に行かないと言ってしまえば済む事で、それ自体は大した話じゃない。何で私が今こんなに気分が悪いかと言うと、試験合格のお祝いにメロンが送られてきたまではいいものの、それにはしっかり手紙が添えられていて、その手紙の内容が基本的にものすごく不愉快だったのです。

ざっと内容を述べると、要は「今まで何年も不安だったでしょう、今回合格と聞いて本当に安心しました、東京には沢山大学があるからもう心配してません、目標を持って大学に入れるよう頑張ってください」とかそんな感じで、母親あての方には、「合格と聞いて久しぶりに笑顔がこぼれました、浪人しないように受験さして、無事大学生になるのを望んでいます」とかなんとか。これで大きな顔ができますね、とかも書いてあったっけ。

もうなんか物を言う気も失せる感じ。別にちっとも不安じゃなかったし。今まであまり文句を言ってこないな、と思っていたけど、結局正規の道を歩んでいない私の事を不幸だとか欠陥品だとか思っていたのですね。分かってはいたけどさ。沢山大学があればバカでも入れるだろうって事か。失礼な。

それにしても随分つまらん価値基準をお持ちのようです。たかが高卒認定試験合格ぐらいの事で大きな顔ができるってのもこれどうなのよ。要するにあなたはあなたの孫でもあるあの高校中退の彼を私が見下していれば満足なのですか。どんな教育だ。

親父は親父で相変わらずどっかに所属しているという事をことさら重視し、先のことをちゃんと考えた方がいいとか大して身にもならないような事を言ってきます。今日だって急に「大学がいいとも限らないけどね」みたいなことを言い出して、一体何の心境の変化があったんだ、と思っていたら「専門学校とか予備校とか」と続けた。どこだって一緒だよ。

もー、ほんとにどいつもこいつも私をなめているとしか思えない。その程度の視野で私の人生に口を出そうなどと百年早いわ。調子に乗りやがって。

まあ私だって自分のせいで誰かが悲しむのはイヤだから、自分に出来る事なら付き合ってやってもいいよ。でも大学はダメです。誰かが悲しむからといって我慢して行けるような代物ではない。そんな事のために4年間を棒に振るわけには行かない。

だから私は上に書いたようなことは一切言わずに丁重にお断りします。私って大人ー。言っても分からない人には言わない。私の中の鉄則です。めんどくさいし。

学校に行かなくなって、正直もうここまでくれば私に普通を求める奴なんていないだろう、と高を括ってました。甘かったと言わざるを得ませんね。でも普通高校行かなかったら大学も行かないでしょ。学校嫌いなんだから。

これからひとつひとつ、大学には行きません、本屋さんでアルバイトがしたいと思ってます、という事を説明して回らなければならない訳です。ほんとバカみたい。これぞ無駄な労力というものでしょう。

でもさー、私ってこれでも結構マジメちゃんな方だと思いますよ?新聞読んでるし、本も好きだし、色んな事に関心あるし。それでも世の中が支持するのは親の金でプラプラしてる大学生なのですね。別にそれが悪いってんじゃありませんが、私の方が絶対そんな人よりも学習意欲はあると思う。

べっつにー、だから認めてくれなんて甘ちゃんな事を言う気はないけど、そんな世の中の腐った様を垣間見た今日は気分が悪いと、こう言いたかっただけです。

なんか色んな人に言われれば言われるほど大学なんてぜってー行くもんか、という気分になってきますね。誰かの言う通りにするという事が心底嫌いなようです。でも本当の正念場はこれから。今私がこうやっていきがってられるのも、まだ社会に出てないからかもしれません。

家で言うだけなら誰だって言える。世の中の冷たさや汚さや不条理にさらされてもこれが言えるなら問題ありませんが、案外あっさりひしゃげてしまう、という事も充分ありえます。私ってほら、弱いから。

もう疲れたから寝る。久々に長く書いたなあ。

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2006年11月19日 (日)

世の中への疎外感

なんとか試験一日目は無事終了ー、といいたい所ですがテンションに著しい減退が。

というのも試験の結果がいまいちだった事もさることながら、今回は8月に受けた時と雰囲気が全然違っててその差に私はげんなりなのです。

8月に受けた時はなんかいかにも高校中退しましたみたいな若者とか、今から受けんのかよってぐらい年がいった人とか色んな人がいて、一応は世の中の筋道から外れたみたいな人の集まりだった気がして、その中に私がいてもそれほど違和感なく、安心して試験を受ける事ができた。

でも今回はなぜか制服を着た集団が大挙していて落ち着かない…。なんかあの手の集団を見ると自分が如何に世の中から外れた存在かという事を思い知らされる。私がかつて感じていた疎外感も呼び覚まされたし。

私は嫌な事は考えないようにするたちなんで、家にいるとすぐ実感がなくなってしまうんです。でも私がそうしている間にも世の中が変わるなんて事はなく、私にとって都合の悪いこの世の中は絶えず存在し続けている。

私とは相反する強い人がいっぱいいるんですね、この世には。私はどうあがいたってあの人たちのようになることはできないし、馴染むこともできない。私は一生弱者の側で生きていかなくてはならないのだと、今日改めて実感しました。

正直怖いんです。あの制服を着た人たちを見ていると「お前は弱者の側で生きていくしかないんだよ」と言われている気がして。ああ、私って弱い人間だったなあ、と思い出させられた格好。強い弱いなんてのは比較対象があってこその話で、家にずっと引きこもってたら自分が弱い人間だって事も、人と関わるのが苦手だって事もすぐ忘れます。

特に私みたいな現実逃避をモットーにしてる人間は。で、その頭の隅に追いやっていた自分の欠陥や世の中の生きづらさみたいなものが現実感を伴って一斉に襲い掛かってきているわけで、もう私は耐えられません。

頭では分かっていたはずだった。居場所が見つかる可能性が低い事も、自分が弱い人間である事も、世の中が私とは相反する人種で構成されてることも。でもいざそれを見せつけられるとこれでもかってぐらいあっさりと傷ついてしまう。つくづく弱い。

私みたいな人間は誰にも受け入れてもらえないんじゃないか。私みたいな人間はどこに行っても疎外感を味わい続けるんじゃないか。私みたいな人間は…って考え出すともう怖くて仕方がない。


すいません、明日も試験があるんで今日は寝ます。遅くなってしまった。きっと明日も疎外感を味わう事になると思うので、明日また書きます。おやすみなさい。

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2006年10月19日 (木)

世間一般への憎悪

私の使っているテンプレートだと、続きを読む、にして文をふせる機能が使えないようです。正直今回の日記は全文公開にできるような代物ではないですが、できないものは仕方がないので、今回はヘビーでも大丈夫な人だけお読みください。


気分が悪い。とっても。私はいつもそう。慢性的に鬱積物を抱え、一定の周期で虚ろになるたびに吐き気がするような不快感とともに生きてかなきゃならない。なーんで?って言いたくもなる。私は普段から楽しく生きていたらいけないの?別段不幸があったわけではない。いつもと変わらない日常のそこかしこに私を不快にさせるものは潜んでいて、それに触れるたび私は生きている事が途方もない苦行に感じられ、さまざまな破壊衝動に駆られる。つって家具を破壊したりとかはしないけどね。

考えられる原因は、この社会全体が私のような人種を認めていないこと、私が人とうまく関係を築いていけない事、などでしょうか。とりわけ前者の原因が大きい気がしますが、私は社会に排除されるような事をした覚えは無い。

この日本という国はとかく「当たり前」を振りかざしたり、なになにらしく、というのを追求して型にはめようとしたりするのが大好きなようで、親を愛し敬うのは当たり前、学校に行くのは当たり前、不平を言わず働くのも当たり前。男らしく、女らしく、子供らしく、大人らしく、妻らしく、夫らしく。そんな規範に従ってたら人格が破滅する。全く以って付き合いきれません。

私はそんな「常識」と呼ばれるもののうさんくささや危険性をここで指摘しておきたい。皆が母の日のコマーシャルみたいに家族でカレーを食し、何の疑問も抱かず学校に通い、自分の体力、精神力、自分が本当にやりたいことなどを一切無視して盲目的に働き、男らしく、女らしく(以下省略)してりゃあ満足なのかと。ふざけんな。そうやってその型からこぼれ落ちていった人間が、型に収まりきらない人間がどんな思いをするか、ちょっと考えれば分かりそうなものなのに。

そんな世間の残酷性に触れるたび精神の具合が悪くなる。そうやって自分達が追い込んだくせに、自分達が排除したくせに、自分達は関係ないみたいな顔をして、犯罪者、不適合者に軽蔑の眼差しを送る。自分は絶対そんな事はしない、という訳の分からない自信がおありのようで。

そりゃあそっち側の人間には想像もできないだろう。そうやって排除された人間がどうやって人殺しに変換されていくのか。そうやって自分が侮蔑し、排除してきた人間が巡り巡ってあんたを殺す。ふん、自業自得だ、なんてどす黒い感情すら芽生えるほど、今日の私は病んでいる。そんな事を言っている私自身も、今背後から誰かに刺されて死んだら、ああやっぱりって思うだろう。私みたいな人間が犯罪に巻き込まれないはずが無いとずっと思ってる最近。

私は自分の親類を殺されテレビで奴は死んで当然の人間だと、死刑を訴える人にはどうしても感情移入できない。もちろん私だって親を殺されたらそうなるかもしれないし、被害者である以上ある程度は仕方がないこととも言える。でも、もとから人殺しに偏見があるかどうかは態度や言動で分かってしまう。人殺しは一部の異常者がやるもんだと思っているから、何の葛藤もなく死刑が当然なんて言えるのだと今の私には思える。被害者の心情は察するに余りあり、ここでこんな事を言うのも語弊があることは分かってはいますが…。

死んで当然の人間なんていない。排除したまま殺してしまうなんてひどすぎる。私だって人を殺さない保証。そんなものはどこにもない。排除され踏みにじられ、健全に生きていけるか自信が無い。本当は皆そうなはず。人を殺さないなんて言いきれる人間は、今まで世間の型にはまりきり、何も考えずに生きてきたという事を露呈しているようなものだ。誰だって環境しだいでは人を殺しうる。そんな認識が浸透すればいいなあ、と願ってやみません。

はー書いた。書き散らしてしまいました。誰かの気持ちを不快にさせるかもしれない文章、まあそんな事言い出したら表現そのものがそうなんですが、こんな私の黒い部分をぶちまけたような文章を公開すること、反省しております。もしうっかり最後まで読んでしまって不快感を感じてしまった人がいるならば、私は謝ります。でもこれは私の真実。きれい事を書くつもりならこんなもの始めなかった。今日はもう寝ます。この文の反省はまた後々…。

それとカテゴリーを新設。まだ適当に決めただけなんで、気に入らなかったら変わるかも。それではおやすみなさい。

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