2011年6月26日 (日)

社会不安障害の治療中。

どうも、皆さま本当にお久しぶりです。こんなに長く更新を空けてしまってすみません。ブログに書くような変化はいくつもあったんですが、内向してました。

前回の記事から変わったことを一つひとつ挙げていきますが、まず医者は変えました。あの記事の後の診察で私が「薬が効かなくなってきた。これでまた薬の量を増やしたり種類を変えたりしても、結局は元の状態に戻ってしまうんじゃないか」というような話をしたら「まあまあそう言わずに」とあっさり別の種類の薬を出されて帰されたためです。こいつは人の話をまともに聞く気がねえな、と。

その後の二人目の先生はなかなかいい感じで、話もそれなりに聞いてくれるし、説明もちゃんとしてくれます。その先生によると私が出されていた薬の量は十分でなかったらしく、薬を飲まないで治す方法もあるけど、どうせ飲むならきちんと効く量をちゃんと飲んだ方がいいとのことだったので、薬の種類はルボックスだけになり量は三倍に増えました。150㎎を朝晩に分けて飲んでます。

薬以外の認知行動療法的な部分についても的確なアドバイスをしてくれて、今は鋭意リハビリに励んでいます。社会不安障害はやはり事実に基づかない思い込みや恐怖が症状なので、恐怖を感じる場面をちょっとしたことから繰り返していって、「自分の思ったほど周りはそんな風には思ってない」ということを実感していくのが治療になるようです。

被害妄想やマイナスの思い込みは私にとっては大変愛着のあるもので、それを「事実ではなかった」として是正していくことは寂しくもあり、若干の抵抗も感じていますが、今は病気を治すことに専念しています。

リハビリと称して以前は距離を置いていたこと、絶対に無理だと思っていたことに取り組んでいます。ここでブログを書いていた頃の私とは随分変わりました。職場でのボーリング&飲み会にエイッと参加してみたり、ちょっとした内向サークルに出てみたり、カラオケで歌ったり。人と関わることに対して、前のようなじりじりとした恐怖感みたいなものは消えつつあります。

それを素直に「よかったこと」として喜べないのは、私がネクラ至上主義の価値観にどっぷりつかって生きてきたからです。外向的な人間は馬鹿なんだと思ってた。人と何も考えずに話せるような人間は軽蔑の対象だった。そしてネクラで人とすれ違うことですら疲弊する私はいい人間。ちゃんとした人間。ずっとそう思って生きてきましたから。

社会不安障害を克服しつつあって、これから色んな可能性が私には開かれていますが、それでも私の「趣味」は変わらないでしょう。別に明るい人間になりたくて、あるいは世の中の人に好かれたくてこんな治療に励んでるんじゃない。ただ「怖いから無理」を「めんどくせえからやらねえ」とか「嫌いな奴とは戯れねえ」とかに変えたくて。ネクラが好き。非社交的がいい。そういう趣味は変わりません。ただ不安や恐怖からくる回避行動をなくそうというだけ。

…言い訳がましいですが。しばらくは来るもの拒まずでリハビリを繰り返すつもりです。

そしてもう一つちょっとした変化を言うとすれば、彼氏ができた、とか。11年に渡って引きずり回してた人とやっと付き合うことができて。少し幸せです。

ということを書き連ねれば書き連ねるほど気が滅入る。暗いこと、死にたくなるような思いを書いてればハイになれるんですけどね。最近はそういう快感はないなあ。そこそこ前向きに保たれてしまっていて、うーんって感じです。悪いことじゃないんだけど。悪いことじゃないんだけどね…。

ぼろくそになじってくれて構いません。どう考えたって変わってしまった私が悪い。でも今はリハビリの期間なんだ。病気が治ったら、病気が治りさえすれば。今はさなぎの期間なんだと思うことにする。決めた。この期間を経れば、私は誰にも恥ずかしくない自分として生きていける。相手を選ぶぜ。普通の奴は切るぜ。興味の無いことについて質問したりしないぜ。そのかわり今はしょうがないんだ。さなぎなんだ!もっとネクラな自分になるための通過儀礼なんだ!そう思わなきゃやってられないぜ!

…実はとある人に誘われて、mixiまで始めてしまいました。でもこの場所とリンクさせる勇気はありません。ここはリアルで知っている人には絶対に教えないと心に決めて始めた場所だから。mixiの方でもちょこちょこ日記を書いたりするので、ここでの更新頻度はまたあれかもしれません。でも続けてはいきます。悲惨な時期に思いを吐き出してきた場所ですからね。今後ともよろしくお願いします。

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2011年3月26日 (土)

活動家デビュー?

まずここに、今私がとんでもないことになっていることをお知らせします。今までの私の自己像やキャラクターすべてを洗いざらいどっかに取っ払ってしまったかのような事態です。

その話の前に、医者はハズレを引いたようです。というかあの先生は臨床ではなく研究が専門なので、症状に対して薬を出す、ということしかできないんだと思います。診察はものの数分で終了し、薬の量が少し増えました。まずい傾向か。しかし自己診断でも社会不安障害には間違いないと思うし、セロトニンの再取り込みを阻害する薬が増えるというのは理に適っている。

グチグチ言っても仕方がないので、プロフェッショナルな診断を受けるという目的は一旦脇に置くこととし、そのクリニックは認知行動療法も手掛けているので、そちらへ受け渡されるのを待つことにする。自分の不安がどこからきているのかを分析し、不安な状況にあえて飛び込み(暴露療法)不安を是正していくのです。もうなんとでもなれという感じ。

しかしながら、精神科医にきちんとした診察、診断を受けることが私の当初の目的であったことは事実で、その目的が達せられなかったことによって、私はまた別に精神科を訪ねなければならないのか、精神科巡りか、ということで大変気分を害しました。だから私は緊張時服用のワイパックスを水なし一錠服用し、渋谷に繰り出したのです。馬鹿にならない交通費を掛けて診察が数分なんて不愉快極まりない、映画を観るか本屋を覗くかしようと思って渋谷へ。

これが私にとってどれほど凄いことかお分かり?私にとって予定の変更はご法度です(ちょっとアスペルガーっぽいでしょ)。今までそんなことを試みたことはないし、「これをしにここへ行く」という予定は絶対に守られなければならないのです。それ以外のことは絶対にしない、行かない。なぜと言われても困る。それが私の法則なんだから。でも私は気分が悪くなったからワイパックスを飲んで渋谷へ行ったわけです。

で、ここからが冒頭の「とんでもないこと」に繋がってくるわけですが、そこへ行ったらたまたま都知事選候補者の小池あきらが演説を始めようとしているところで、これはラッキーと思って私は話を聞き始めたわけです。そしたら運動をしている若い人に声を掛けられて、普段ならそれだけで固まってしまって不安に襲われる私ですが、薬が効いてるからなのかなんなのか、そこそこ話が弾んでしまい、なんと最終的にその活動のメンバーになることが決定してしまったのです。

あれよあれよと言う間に「最初に会う日を」ということになり、私は次の日、昨日会ったばかりの人と駅で待ち合わせ、事務所で活動の説明を聞き、その他会話を交わすなどの所業をやってのけたのです。少し緊張はしたけど襲ってくるような不安はなかったし、会話も楽しめたと思う。これは暴露療法なのか。「私は一体誰?」という気もしてくる。薬を飲んでなかったら間違いなく無理だった、ということは言える。

私は政治的にシニシズムには陥っていない。割と色々なことを変えていこう、関心を持っていこうと思っている方です。でもそれを人に伝えていこうとか、連帯しようという気はなかった。というか自分には無理だと思っていたのね、だって人と少し接するだけでも激しく落ち込んでしまうんだから。ああすればよかった、こう言えばよかった、私みたいな無能な人間は死んだらいいんだ、と人と関われば思ってしまう。けど薬でそれを抑えた今、もしかしたら今までできなかったことも可能になるのかもしれない。

考えなければならないことは腐るほどある。この不安は取り除けるものなのか、最終的に薬がなくてもやっていけるようになるのか、そしてその不安から解放されたとして、どこまで人と連帯してやっていくべきなのか。世の中を変えたいなら、連帯した方がいいに決まっている。でも私はその言葉がクソほど嫌いだった。私と他人とが繋がれるはずなんてないと、思ってたんです。

不安と性格とアイデンティティとやるべきことと。私はどういう風に変わっていくんだろう。私なりの新しい形、立ち位置を見付けるにはまだ時間がかかりそうです。

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2011年1月20日 (木)

タイガーマスク運動とか。

タイガーマスク運動とやらが世の中では盛んなようで。私はニュースで少し耳にした程度で、まったくなんの関心も抱いてなかったんですが、色んな人からどう思うか聞かれるので、少し思いを馳せてみました。

最初はとにかくただただ気に入らず、というのも私は今回のような集団で物事が動いていくようなことが大嫌いだからです。みんながやってるからとか、なんか盛り上がってるからとか、そういう理由で冷やかし抜きにそれに参加してしまう人の単純さ、無垢さ、素直さ、従順さみたいなものが生理的に受け付けないっていうか、そこはとりあえず「ばっかじゃねぇの!」と吐き捨てておかなければ気が済まないみたいな気持ちにどうしてもなってしまうんです。とにかくそういう精神性が嫌いなんですね。まあ反吐が出る的な。

でもなかなか言いづらいのは、今回起こってること自体は悪いことではないからなんですよね。金塊とか、当選宝くじとか、ランドセルとかが届けられれば喜ぶ人がいて、助かる人もいて、何の悪いこともないじゃないかと言われれば私も「まあそれはそうなんだけどね」と言って黙るしかない部分がある。偽善だとか言って難癖をつける私が悪者なのか、という気にもなってくる。

が、しかしです。やはり気に入らないものは気に入らないのであって、ここで言葉を飲み込んでしまったら私が廃る。こういう時に冷や水をぶっ掛けるのが私の役割なはずだ。

私はですね、こういうのを見るとまず「で?」と思ってしまう。一過性ですか。困っているのはなにも子供達だけではないはずですけれども。メディア等で目に入ってくるものだけがすべてなのですか、崖っぷち犬と同じようなレベルで孤児院に群がっているのですか、等々。言いたくなるし、考えずにはいられない。

それにランドセルやお金が手に入ってもそれはその時だけのことで、みんなが忘れ去った来年の春にも小学校に上がる孤児は確実に存在するわけで。継続的な支援や関心というのは何に対してでも不可欠です。

とはいえ、私は別に善意にプロフェッショナルを要求しているわけではないんです。それを言うなら私だって別にそんな立派なことをしているわけではないし、寄付だのフェアトレードだのと言ってみても、今回の「伊達直人」とやらとそう変りないレベルかもしれません。

ただ私はそのことに自覚的であれと言いたいんです。自分にできることなんてたかが知れているということに、その場で金品を贈ったからといって問題が解決するわけではないことに、そして自分が関心を失った後も孤児はずっと孤児であり続けるという事実に対して。

それらを全部分かった上で、少しでも何かの役に立てば、というのはいいことだと思うんです。そもそもあらゆる善意は多かれ少なかれ自己満足や欺瞞を含んでいるものであって、それらを全部排除しようとすれば、支援なんてものは成り立たなくなってしまいますからね。その場限りでも、本当に相手が必要とするものから少しずれていても、自分がしていることがその程度だということに自覚的である限りは、許容されていくべきだと考えています。私も人の善意を重箱の隅をつつくみたいにねちねち言いたいわけではないんです。

ただメディアにほだされてランドセルを贈ったぐらいでいいことした気になってたら、それは甘いんじゃないですかというのも私の正直な実感です。「あなたはそれを来年もするの?」と聞きたい気持ちもあるし、身の程を知ることよりも善意に酔うことにご熱心とあらば、そこの欺瞞は指摘していかなければ気が済まない。

私は自己満足的な側面と、「本当の支援とは」について思いを巡らす側面と、どちらも必要だと思ってます。大切なのはそのバランスであって、今回のタイガーマスク運動とやらには自己満足的な臭気がプンプンしたので、「気に入らない」の方にカテゴライズさせてもらいました。

ただ実際にどうかは知りません。「伊達直人」を名乗って物を贈った人に話を聞いたわけでもないですしね。もしかしたら私が書いたようなことには案外みなさん自覚的で、たまたまいいきっかけになったぐらいの気持ちでこの運動に加わったのかもしれない。

でもメディアを通して伝わってくる全体の雰囲気としてはやっぱり臭ぇな、と。とにかく趣味じゃない。何かをするにしてもなぜこれに便乗しなければならないのかがまったく理解できないんですよね。自分の関心のあることに対して自分の納得できる形で物をやればいいじゃないか。なぜ好き好んで人の二番煎じ、三番煎じをやらねばならないのか。つまりは普段からそんなことに関心を持っているわけでもなく、メディアや他人にひな形を作ってもらわないと自分から寄付もできないような、そんな人間の集まりだってことですか、この国は。

馬鹿馬鹿しい。馬鹿馬鹿しいけれども、そういう受け身的な形とはいえ潜在的な善意が広く存在するのなら、各支援団体に掘り起こしの余地はあるってことですよね。でもそれもどんどんやればすぐに飽和する。スマトラ島沖、ハイチ、チリと地震が相次いで、パキスタンでの洪水には支援があまり集まらなかったのと同じように(テロのイメージなどの偏見もあったにしても)、孤児が、難病患者がと次々にやっていれば人は「またか」と思いだすんです。

人の善意なんて所詮は恣意的で限りあるもの。それは私だってそう。ただ一人ひとりでは微々たるシケた善意でも、寄って集まればそれなりの大きな力になることもなくはないと思う。その意味で希望は捨てていませんが、今回のような運動は大嫌い。ただこういう流れを継続的な何かに繋げていける人がいたら、尊敬します。私にはできないことですから。

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2011年1月 8日 (土)

あけましてご愁傷さま。

やや遅れましたが、あけましておめでとうございます。と言いつつ思うのですが、世の中そう年が明けてめでたい人ばかりじゃないよね、と。

まあ「今年もいい年にしよう」とか前向きに考えられる人はいいし、「今年もいい年になりそうだ」とか希望観測的に思える人も勝手におめでとうとか言っときゃいいんだけど、なんか生きちゃってる人、2011年という年がどう考えたって悪い年になると分かり切っている人だってたくさんいるわけです。そういう人に向かってどの面下げて「あけましておめでとう」なんて言えばいいの?「何がめでてぇんだ、このクソ野郎」という心情は察するに余りあるわけで。

だからそういう人用の新年の挨拶というものが必要だと思う。差し当たって「あけましてご愁傷さまです」というのはどう?

生きてることを喜ぶ気になれない人だっている。また365日の繰り返しが始まることにうんざりしている人だっている。猫も杓子も「あけましておめでとうございます」なんて抜かす必要はないわけで。影響力ゼロのクソブログですが、この場だけでも新年がめでたいということへのアンチテーゼを。「あけましてご愁傷さま」という言葉を皆様に送ります。今年もまた始まりやがった、今年もまたクソみたいな人生を消化していくんだ、という思いを噛み締めてください。

それはそれとして、私が一昨年立てた去年の目標は(分かりにくいっすね)コミュニケーション弱者からの脱却でした。まあ何気ない一般会話などは昔に比べたらできるようになって、その点は大幅な進歩でしたが、やはり人と関わるということの根本的な不快感は消えない。ペラいことが多少できるようになっても性格は変わるわけではないのです。当たり前のことですが。

だから一周回って元に戻ってきたというところです。そこそこ口が利けるようになったら今度は他人を締め出す方にシフトしていかなければなりません。多数派と戯れることが私の目標だったわけではないんですから。

だから今年の目標は、他人を締め出しつつ社会派に復帰すること。このブログを含め、もう少し活動的になっていきたいところです。社会に風穴を開けていきたいよね。活動家元年になればいいけど。

なんつって、冒頭にクソネガティブなことを書きつつ、自分はそうでもなく案外前向きだという事実、みたいな。私のネガティブは嗜好品なんですよね。本当に後ろ向きなのではなく、後ろ向きなことが好きなアンチ前向きなんです。今年も「ネクラ権」を主張していきますよ。ネクラでいる権利を勝ち取るのです。

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2010年7月24日 (土)

芸人大水洋介を目撃

火曜日に帰ってきてました。しかしながら、というか当然のことながら、水曜と木曜は全く使い物にならず、二日続けて6時9時の早朝バイトから帰ってくるやいなや夕方5時までフルタイム睡眠をかましてしまったので、金曜の今日(ってもう日付変わってるけど)やっとブログの更新に精を出しているというわけです。私がどこに行っていたかは前回の記事をどうぞ。

まあ8割から9割方を悪口に費やしており、しかも最後まで読まないと私が法事で高知へ行っていたってことは分からないんですけどね。とここで法事に行っていたと書いてしまった時点で前回記事のリンクの意義がかなり薄まっているわけですが、少しでも前後の繋がりが気になる方がいたら一応クリックしてみてください。こうやって回りくどい前置きを書いている時が一番幸せです。まあ一番ってのは嘘ですけど。

実は本題のはずだった四十九日法要の報告は特にありません。なんだかんだとやかましい件の母の実家には泊まらずに済ませたし、納骨の後の会食でも座る場所をきっちりと選んだ結果、大きな被害はありませんでした。

そんなことより。そんなことよりなんです。羽田空港へ向かおうと京急の品川駅で電車を待っていた時、私見てしまったんです。ラバーガールの大水を!すれ違った瞬間すぐに「ラバーガールだ!」と分かりました。ややあって大水という名前を思い出し、その後電車が来るまでチラ見。そして電車が羽田に着くまでもチラ見、向こうが目を閉じている間はガン見。やたら頻繁に「なんか違うんだよなあ」という顔をしながら首を捻っているのがおかしくて、見ていて全然飽きないので羽田に着いちゃうのがもったいなかったです。もっと観察してたかった~。

こういう時に自分が「あのぅ、ラバーガールの大水さんですか?いつも見てます~、頑張ってくださ~い」とかいって声をかけられる人種じゃなかったことがちょっとだけ残念。絶対無理だもの。いつもって言うほどテレビ出てないしな、とか失礼なことを考えてしまうし、頑張ってくださいなんて人に言いたくないし。

しかしそれでも芸人好きの私にとっては「あれキムタクじゃない?キャー!」というのに匹敵するほどの好事であり、おかげでクソ面白くもない道中がパッと華やいだのでそれだけでよしとします。

帰宅後検索をかけて公式ブログを見てみたんですが(っていうか大水って誰だよ、といい加減もやもやしてる人はそのブログを見てください。右側のでっかい方が大水です)これがなかなか面白い。大水は普通に文章がうまいのです。長文の記事はそれほどないのですが、クスッと笑える言い回しなどが絶妙で、ついつい読み進めてしまいました。読書家のようで、やはり本を読む人は文章もうまいのだなぁ、ってなんだかもの凄く一般的な感想であれですが。

私は覇気のない芸人を見るとすぐ好きになってしまう癖があって、今回もご多分に漏れず、です。他にもブサイク、ネクラ、毒舌、コンプレックスの塊、性格が歪んでいる等の条件を満たしているとついつい好きになります。多分一般の人がジャニーズに抱く感情と同じようなものなのでしょう。

というわけで今回好きになった大水に関してはスケジュールを調べたり、場合によってはDVDを購入したりして楽しみたいと思います。ラバーガールの今後に要注目。

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2010年4月11日 (日)

悪口。とにかく悪口。

今日はなんとバイト先のクソジジイの送別会とやらに参加。今までの私からしたらあり得ない行動なんですが、私も最近多数派と軽口を叩くのに精力を傾けていたおかげで多少の自信は身について、あれこれ理由をつけて逃げ回る方が大変と判断し参加するに至りました。

因みにそのクソジジイがどれだけクソなのかを説明しておくと、まず正視に堪えない顔面(目が腐っているので)、軽石で肌を削ってやっても気がつかなそうな鈍感でデリカシーの欠けらもなさそうな風体、そしてジジイの半分は差別と偏見でできています(バファリンCM風)みたいな、日本的価値観の良くないところを切り取って集めた結果が俺ですよ、みたいな中身。

私はこのジジイが前々から本当に嫌いで、近くに寄られるだけで吐き気がするというか精神的抵抗を感じていたぐらいなんです。よく屈伸だのゴルフの素振りだのと無駄に体を動かすんですが、私はその様を「蟯虫が悶えているようだ」と形容しました。だって本当だもん。もちろん心の中でですけどね。ずっと前から「頭をかち割りたいランキング」1位だったんですが、今回酔っぱらった醜態を目撃したせいで殿堂入りも間違いなしです。本当にゴルフクラブでフルスイングをかましてやりたい。後頭部にガツっと。

そういうような感じで私には嫌悪感しかなかったので、辞めると聞いた時はそれはそれは嬉しかったんですが、私の周りのよく話をするおばさんなんかはみんな「寂しいわ~」って言うんです。それも社交辞令っぽい感じでなく。私はこれが結構ショックで、やはり汚物を汚物と認識できない人間とは仲良くなれないなあと心の底から思いました。だってそうでしょ、例えば目の前でゲロを食ってる人間がいたらどう思う?ちょっとどうかと思う、というか引くでしょ。

私にとってあのジジイと仲良くしたり別れを惜しんだりするのはゲロを食うのと同じなの。その光景を目撃しただけでショックを受ける。「えっ、あなたは人のもどしたものが食べられるんですか?変わってますねぇ」と表面上は取り繕えても心にできた溝は大きい。やはりどこかで軽蔑してしまっている。

汚いものは汚い、腐っているものは腐っているわけで、それが分からないということはその人も多かれ少なかれ汚れているか、常日頃から腐ったものに囲まれているから鼻がバカになってるんじゃないかしら。私はそう思うの。だから、まあ相手が多数派である時点で分かり切ってはいるのだけれども、仲良くなれない理由がまた一つ増えたということで。

で、こんなにジジイの悪口に字数を割いてしまって肝心の送別会はどうでした?という話なんですが、それ自体はなんということはありませんでした。そのクソジジイ以外はみな大人というか人としてちゃんとしていたので、無理に酒を勧められることも延々とくだらない質問をされることもなく、はじっこで大人しくウーロン茶を飲みつつご飯を食べることができました。

ただ酔っぱらったクソジジイはやはり最低で、少しだけ絡まれてしまいプチ嫌な思いをしました。時間を置いて二度も「こんなところで終らないでね」と(まあもっとちゃんとしたところで働いて世に出ないとだめだよということが言いたいんでしょう)説教じみた話を聞かされた揚句、最後の方になって私に「○○さんどこかに勤めたことあるの?」とか聞いてくるから、正直に「ないです」と答えたら「あそう、ないの…」と人を馬鹿にしたような顔。で、ついつい反射的に「何か文句でも?」と言ってしまったのが唯一のプチ事件かしら。その瞬間、間違いなく私は素だった…。ほかのおばさんにフォローをさせてしまったわ。

ま、そんなこともありつつも、今後二度と顔を見ることもないと思えば気分は晴れやか。あのクソジジイがもう一年同じ職場にいたと思ってみ?もう最悪ですもん。頭はかち割ってやれなかったけど、私の前から消えてくれることには感謝しなきゃね。

私もそろそろ自分なりの立ち位置を見つけなければ、と思っています。それなりの稼ぎと嫌なことを嫌だとでかい声で言えるポジション。この二つが両立できなければ正気を保てないとわかっている以上、その方向で努力しなければなりません。今の世の中ではかなり贅沢な望みですが、私は自分にそれができないかもしれない、という心配はあまりしたことがないんですよね。自信過剰なのでしょうか。

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2010年3月 7日 (日)

対多数派戦略

あけましておめでとうございます、本年もよろしくうんちゃらかんちゃらなんてつまらない挨拶も遠く過ぎ去り、世の中はもう3月。まあ元来そういう型にはまりきった挨拶には吐き気を催す方なのであまり気にせず、更新が空いたら近況報告、ネタがないときの近況報告。

去年の年末に打ち立てた「コミュニケーション弱者脱却計画」は着実に進行中です。私の場合感情が目詰まりしやすいタイプというのか、思っていても言えない、そもそも発話が苦痛という障害があり、人と喋る努力なんて今までしようとも思いませんでしたが、やってみると意外となんとかなってとりあえず第一段階はクリアしつつあります。

というのもよくよく観察してみれば多数派の人間というのは思いついたことをそのまま垂れ流しにしてるだけなんですよね。寒い、暖かい、雨が降りそうだ、今日はいい天気ね、のローテーションに始まり、家の話、子供の話、仕事上のちょっとしたあるあるから、最近あった「面白い」話まで、幅があるようでレベルはみな一緒。交じりっけゼロの「思ったまんま」なんです。まぁ羨ましい。だから私もそれに参入することにして、今や気候の話ぐらいならそれなりにあしらえるようになってきた、というのが第一段階。

その証拠に、このチャレンジ中一番頑張ったと思うのは、バイト先へ向かう途中で前方を行く同僚のおばさんに追いつき「おはようございます」と声をかけ、しかも暖かい日だったので「暖かいですね」も追加してやったこと。向こうの返答も「ほんとねぇ」という感じで、やればできる自分に感動しました。無論いつもいつもそういうわけにはいかず、この間は適度な距離を保ってやり過ごしてしまいましたが…。

ただ問題なのはそういうことに味をしめて馬鹿に興じ過ぎた結果、本当に馬鹿になってしまったらシャレにもならないということ。多数派と口を利くことが目的化してしまったり、毒舌が鈍ったり、考える頭がどっかいっちゃったりしたら元も子もありません。

ていうかじゃあなんでそんなチャレンジに取り組んでんの?という話になりそうですが、それはもちろん多数派の中で是とされている人間像に近づくためでも、みんなに好かれるためでもなく、今後の人生において楽をするためです。もしいま目の前に神様が現れて「もうこれから一生多数派とは口を利かなくてもいいです、そうしなくても生きていけるようにしてあげます」と言うなら私だってこんな努力はしません、っていうか速効目を合わすのもやめます。

私はもう自分が傷ついたり疲れたり、思い出したくもないような記憶をじわじわ増やしていったりしてるのをもう黙って見ていられないのです。私は魑魅魍魎が跋扈するこの国のこの社会で、明らかに馬鹿を見てきました。100%頭を使って、150%気を遣って、200%悩んでね。それも相手が私と同じぐらい誠実な人間なら悪くないかもしれませんが、実際はほとんどの人間が何も考えず、なんらの気疲れも伴わず、無内容な会話を繰り広げているだけの話なのです。馬鹿馬鹿しいったら。

私は自分の卑屈で物事を穿った見方でしか捉えられないところとかが結構気に入っているので、変える、直す等の行動を起こす気は一切ないんですが、馬鹿相手に思い悩むのはもうやめることにしました。

世の中にはつまらない関係というのがあるんですね。私は他人に対しては好きか嫌いかの両極端でそれ以外の関係は一切望まない人間だったわけですが、実際には0でも100でもない50の、平板で薄っぺらで何も生まない関係がいくらでも存在してる。そういうなにかべちゃっとしたものに四方を囲まれてみて思うのは、これはもう嫌われるとかそういうところにすら達してないんだな、ということです。

そもそもそこに「私」はいないのですよ。そこには当たり障りのない挨拶と天気の話を繰り返す、ごく一般的などこにでもいるような私の抜け殻があるだけ。そこでは恐ろしくつまらない時間が流れているというだけの話なんです。そういうからくりが分かった上で、いちいち話しかけられるたびにびくびくもしてられないでしょう、と。馬鹿相手には適当に天気の話でもしてりゃあいいんだろう、と。現にそれでうまくいってんじゃねえか、とそういう心境なわけです。

最終目標は自動的に思ってもない言葉が再生できるようになることです。今はやっぱりまだ一生懸命喋ってる感が出ちゃってますね。相手の真意を探さず、相手の好意を疑わず、会話はその場限りの薄っぺらなものにとどめること、後からごちゃごちゃ考えない。これが対多数派で疲れず、傷つかず、嫌な思いもせずにやり過ごす秘訣です。悪意のない人間ぐらいはうまくあしらえるようになっておかないと今後の人生がきついと思うので、もうひと踏ん張りしたいと思います。

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2009年12月20日 (日)

「ご心配おかけしました」と言ってみた

この言葉は嫌いだった。というか今も現在進行形で大嫌いです。だって相手が本当に私の心配をしているかどうかなんて分かりもしないのに、さも「心配したでしょ?」みたいな顔してこのセリフをさらっと吐くのは私には無理だと、ずっと思っていたから。だから指切って休んでも風邪で休んでも、私はこのセリフは避けていた。

でも世間というものは基本的に深い意味はないものです。言葉にも仕草にも態度にも、意味なんてありはしない。すべてはその場その場を丸く収めるためのものでしかなく、「本当は」とか「なぜ」とか「どうして」とかは禁句なのです。故に実際心配したかどうかなどは関係ない。休んだら「ご心配おかけしました」といい相手は「いえいえ、もう大丈夫なの?」と返す。これこそがコミュニケーションにおけるベストなのであり、それ以外の雑念は必要ない。

それに、周りの人と特別関係が悪いってわけじゃないし、少しは私の状態を心配しているのかもしれない、とも思えるようになってきたことも手伝って、この間言ってみたのです、「ご心配おかけしました」というワードを。まあそれほど気持ちのいいものではなかったけれど、特段不愉快極まりないということもなかった。なんてことねぇな、という感じです。

ま、こういう無意味な言葉の集積で世間が成り立っていて、私も少しずつ考えることをやめてその無意味な集積に参入していくのか、と考えるとそりゃあ吐き気はしますよ。まず私はそういうことをくだらないと思うから。でも私はそうやって世間に取り込まれていくようなタマでもないことも事実なんだな。今回は一つ適応することができたかもしれないけど、私は基本的に「そうではない」空間を見つけるか破滅するかしかない人間、のはず。でも最近自分を見ていると案外普通に生きていけちゃいそうな気もしてやーね。

「しない」と「できない」は大きな違いです。私もそろそろ多数派のコミュニケーションスキルを身につける時かしら?別に社交的になるつもりは毛頭ないけど、相手に不審に思われない技術、言いたくないことを聞かせない技術、相手に喋らせる技術などあって損はないはず。結局口を利けなければ相手に侵略される一方なのだから…。

私も自分の身を守る術は身につければならないな、と思った次第です。今日はこんなところで。

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2009年11月 1日 (日)

指が…

このたびちょっとした面倒に巻き込まれたため、少しの間コメントを承認制にすることにしました。その間すべてのコメントは私が公開するまで表示されないので、リアルタイムでのやり取りはしづらくなってしまうかと思いますが、ご了承ください。

書くことはこれで終わりなんですけど、こんな事務的な話だけで終わらせるのも何なのでもう少し。

なんて言いながらも特に何も書く気が起きず、↑まで書いて下書きに保存して飯を食ったりなんだりしてたんですが、なんとさっき指を思いっきり切ってしまった。台所のシンクの上のちょっとした物を置くスペースに野菜スライサーが置いてあって、私はちょっとした動作の際にそれに手を引っ掛けてしまい、「あ、やばい」と落ちそうになった野菜スライサーに脊髄反射で手を出した瞬間スライサーの刃が親指にぐさっと。血がぼたぼた垂れて怖かった。痛かった。あの場所に置くのは金輪際やめよう。

幸い血はすぐ止まったので軽傷だとは思いますが、明日の予定は全部キャンセルかしら。指切ったぐらいで休むなという気もするけど、意外とざっくりいっていて、これで力仕事はないという気もする。こないだ風邪で3日休んでしまったせいもあって、バイトを休むハードルが下がっているのだ。

こういうとき、客観的に見た状況と、主観的に見た状況は著しく乖離するよね。客観的に見れば野菜スライサーで手を切ったことぐらい大したことない糞みたいな話ですが、当人としては血も出したし痛いし重要な問題です。こういうとき、くっだらないことに囚われてるな、と思ってしまう。命に別条のない傷だし、おそらく1週間もたてばだいぶ良くなるのに、不安で憂鬱です。もしかしたら外科に行かなければならないかな?とか。

端的にいってたかが切り傷ごときで気を乱されている私の「お嬢様っぷり」が気に入らないのです。先進国に住んでますって感じがするよね。病気もしない、怪我もしない、何かあったとしても病院はすぐそこ、お金もある。それなのに指を切って血が出たぐらいで焦る。人間の見苦しい面を見た気がするわ、指切っただけなのに。

まあそういう意地の悪い自分いじめはこれぐらいにしてあげてと。私って~、普段いらないことで「どうしようどうしよう」言ってる分、実際に何か起こった時は結構冷静なんですよ。これはもう仕方がないな、という諦めが早くて対応が迅速。

今回もまずは流水であらかた流しそばにあったティッシュで止血。絆創膏を貼って済むようなレベルではないようなのでパソコンで「切り傷 手当」を検索!そこで消毒液で消毒という当たり前すぎる情報を得て薬箱を開ける。マキロン。使用期限が2006年だ!…使う。そして新品のガーゼを開け、ガーゼの外側だからいいだろうとちょっと旧品の包帯を巻き、今に至るというわけ。まだ少し痛みは残ってますね。

…終始「こんなことで慌てるのはみっともない」と思ってそれなりにやったんですが、やはり駄目でした。私は単なる先進国のお嬢様なのであった。しかし、次に指を切るときにはそれはもう医療知識から肝の据わり方から別人のようなアプローチができるようになっているはずだわ。気合を入れねば。

実は件の野菜スライサーで指を切るのは今回で二度目。前回は玉ねぎをスライスしてて親指をちょいっと。その時は絆創膏で済む程度の傷だったんですが、この短期間で2度も同じ親指を切るなんて最悪だわ、何の呪いだわっ。

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2009年10月13日 (火)

近況報告

なんだか最近ここのコメント欄を見る時によその掲示板を覗いているような乖離を感じる。面白そうなのでなんとなくお気に入りに入れてたまに覗いている場所、みたいな。まあ記事もろくに更新しないでほっといてるからそんなことになってしまうんでしょうが…。以下最近の出来事の羅列(もう一カ月近く更新が滞ったことをいちいち前置きするのはやめますのであしからず)。

①BSアンテナつけた。

事の始まりはBSデジタルが見られるようになるだろうと信じて疑わずブルーレイレコーダーを購入した一月。しかし、見れない。分波機を買ってきても見れない。アナログのBSは映ってるのにおかしいなぁと思いながら自分の団地の管理組合的なところに聞きにいくまで半年を要し、やっとのことで聞きにいってみたら実はそもそもBSのアンテナが存在していなかったのです。

そういうことはすべてケーブルテレビに一任しているらしく、アナログのBSが映りこんでいたのはケーブルテレビがそこは金を取らずに送信していたせいだった。それでケーブルテレビの契約を勧められて帰ってきたのですが、ただで見られるはずのチャンネルに金を払うのは癪だし、せっかくのブルーレイレコーダーで直接受信も録画もできないなんて煩わしいことこの上ないしでアンテナつけた方が早くない?という話になって(って考えたのは全部私ですが)、電気屋の下見をしているうちにスカパーは1チャンネル単位から契約できることが分かりそれもいいな、なんて言ってるうちに余計にハードルが上がってしまって、アンテナを取り付けてスカパーe2を契約したのはこ間というわけ。あぁ長い。

余談ですが、私の行動力の欠如、人と口をきくことに対してのへたれっぷりは尋常でなく、上記の工程のほぼすべてに母を連れまわしたことは明記しておきます。

で、私が契約したチャンネルは朝日ニュースターとヒストリーチャンネルとサムライ2です。サムライ2というのはプロレスチャンネル。これで地上波のクソ番組とはおさらば、というわけで来る日も来る日もドキュメンタリーとプロレスばかり見ています。仕方なくつけていたつまらない番組を見ずに済むようになって生活の質が向上しました。よかった。

2、らでぃっしゅぼーやを取り始めた。

らでぃっしゅぼーやというのは野菜を中心とした宅配サービスで、まあ分かりやすく言えば生協のようなものです。私は今の時代は消費者もモラルを問われる時代だと思っていて、例えば安いからとか、いつも買っているからという理由で消費しているものが別の国で紛争の引き金になっていたり、劣悪な労働条件で働く人々を生んでいたりする。消費というのは自分が望む世界を目指すのに一番手っ取り早い方法だと思う。そんなことを考えてコーヒーやチョコレートはフェアトレードを選んでいたりしたんですが、それが高じてこういうものを取り始めました。

野菜が毎週セットで届くので最近は割と頻繁に自炊をするようになりました。それもあって最近はとても生活の調子がいい。私自身「今日はロールキャベツに挑戦しました♪」とかいって写真をアップしたりするタイプの人間ではない、どころか気分がよくてもどこか文体が暗いので伝わりづらいかもしれませんが、調子はいいです。それに気分が悪いと筆が進みますが、気分がいいと「別に書くことは何も…」という状態になるので余計ですね。

3、早朝バイトを週4日から5日に変更

8月の半ばぐらいから日数を増やしています。増やしてみたら別になんてことはなく、まあ若いのだなぁと思いました。つくづく恵まれてると思うのですが、最近は仕事なんてむしろちょっと楽しいぐらいです。最初こそ右も左も分からず死にたい思いでしたが、今じゃだいぶ慣れてきてミスをしても何とも思わなくなりました。…まあ根が真面目なので何とも思わなくなったと言ったら言い過ぎかもしれませんが、以前ほどつまらないことを気に病まなくなったというか、かなり図々しく精神衛生上も問題なく働けてます。

ただそれが職場にいる人がみんながいい人だからなのかと言えば断じてそんなことはないと思います。結局入ったタイミングとかいる人たちの力関係とかでいじめられたり嫌な思いをしたりということがあるんだろうと思うので、私はたまたま被害のないタイミングで入り、被害のないポジションについただけ。現に私が以前このブログで触れた「おもしろそうな人」は状況があまり思わしくないんだもの。あれから私の方から話しかけるでもなく遠巻きに眺めていただけなんですが、その人が一切真面目に出勤してこないということもあり、最近では陰でいろいろと言われ始めている様子。

普通のフルタイムの仕事ならいざ知らず、早朝の3時間だけの仕事です。人数が少ないなら少ないなりに回せるんだし、「何か事情があるのかな」ぐらいの想像力をもてないものかと私は思うのですが、一般の人にそんな寛容さを求めるのも土台無理な話なのであった。年も覇気のなさも私とそう変わらない彼が良くない状況にあるのをみると「やっぱり私はたまたまだ!」と実感するのです。とりあえず真面目に通っていることが奏功しているとしてもね。

世間の人間はその人が何をしているかを重視し、私はなぜそうしているかを重視する。今回のことで言えば、多くの人は「ちゃんと来ない」という事実でその人間を判断し、私はなぜ来ないのかによって判断する。理由を考えるって当たり前のことのようでこの国では流行らないみたいね。世間のジョーシキがあれば想像力なんて必要あ~りませ~んというわけか。ま、そういう人間を変えようとするより軽蔑しながら勝手に生きた方が楽ですよ。私は世の中の人に理由を考えてもらいたい段階なんてとっくに超えちゃってるし。ほっといてくれればそれでいい。…4日から5日に増やした話が関係あるのは最初の数行だけ。箇条書きにした意味がなーい。

4、次回予告

裁判員制度の記事を待ってる方もいるようなのでさっさとあげてしまいます。それを出す前にこの記事を書きたかったので遅くなりました。別に前後関係があるわけでもなんでもなく、やりだしたことを終えてしまいたかっただけなのですが。裁判員制度の次は新型インフルエンザの馬鹿騒ぎについて書いてみたのですが、時間がない中無理やりまとめた感も否めず、率直に言って気に入ってないのでそれはここでは公開しません。どうだ~い、恣意的だろ~?(くまだまさし風)

次の更新はコラムの添削が手元にあるのでさっさとやれると思います。数日中にあげます。

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