2008年11月23日 (日)

たけしの日本教育白書

リアルタイムで見ながら感想を書いてみます。

トロッコ問題。難しいけど私だったら「何もしない」を選びますね。人間を頭数で考えるようになったら人権もへったくれもなくなる。多数を救うためなら少数の犠牲は仕方ない。スイッチを切り替えることはそういう考え方を助長させる選択です。5人が助かれば1人はどうなってもいい?

トロッコが向かってきてるのは変えようがない。どのみち誰かは死ぬ。でもスイッチを切り替えるという人為を加えればそれはその1人に対しての殺人になる。人の命は数では図れない。1人より5人の方が大切と勝手に判断し手を加える事自体が命の軽視に他ならない。だから私は何もしない。


通り魔事件とか。常識人がこの手の事件について語っても何もならない。特に加藤智大の事を生半可な認識で語ろうものなら私が許さない。常識に塗れた議論。常識に塗れた冗長な説教。そういうものをブチ破らなきゃ殺人者予備軍なんて救えないよ。

石原良純。こんな奴に何が分かるのか。キャスティングがおかしいよね。岡山県突き落し事件か。これは確か父親の事が好きだったのに「仕事をしろ」と言われて突き放されたような気がして事件に及んだ、という話だったと思う。痛々しいなあ。いじめの時に守ってくれたり、一見いい親に見えなくもないけど、俗世間的常識より自分の息子を優先させるというところまではいかなかったのね。

身の丈に合わない大学を目指したのだって、父親に認められたいという一心だったと思う。いつまでも等身大の自分を受け入れられないわけだから、永遠に背伸びし続けるしかない。でもその背伸びも否定されてヤケになった。

結局一人の人間として息子を認めてこなかったんだよね、あの父親は。いつまでも弱い存在として、守ってやらなくきゃ何もできない人間として扱った。それだと父親への依存心は高まっても、精神的自立がいつまで経っても訪れない。守る事は大切だけど、一人の対等な人間として認めた上じゃないと、自尊心までも根こそぎ奪っちゃう。こういう事件は辛い。切ない。


夕飯の時、父親にだけ刺身をつけたらどうなるかという実験。くだらない家族ストーリーを見せやがって。人と人とが対等な関係を築くという簡単な事がなぜできない?男が偉いとか親が偉いとかどうかしてる。ただ子を持ったというだけで、男に生まれたという事だけで他人より一段上にいるなんて理不尽な事実をなぜ受け入れられる?

思考停止的な上下関係を叩き込めば人は馬鹿になる。上には卑屈な笑みを浮かべ、下には醜い支配を行う。上だ下だ権威だという醜悪なものは断じて再生産させてはならない。汚らしい手垢に塗れた理屈の通らない上下関係など直ちに粉砕すべきだ。


次は夢。「夢を持て」という言葉はくだらないよね。そんなものなくたって生きていけるし、いつまでも夢を追いかけて真面目に働いてなかったりすると、それはそれで文句を言われるわけだしね。結局働いてそれなりの賃金を得て税金を納めるという規定路線の範囲内で夢を見ろって事でしょ。ふざけろと。夢ってのは身を持ち崩すぐらいの凄絶なものじゃないと綺麗じゃない。結局それを食い扶持にする事がゴールというのも面白くないしね。

夢を持てなんて本来は生半可な気持ちで言えることじゃないんですよ。それに生業として成功させる事だけが夢じゃないでしょ。一生働かないというのも夢だし。一生家から出ないというのも夢だし。

そうやって職業としての成功を夢として強制するから息が詰まる。若者は苦しむ。やりたい事を仕事にするって誰にでもできることじゃないよ。難易度の高いことをできて当然のように流布するのはよくない。仕事は仕事と割り切って考えるってことも教えていかないと。


学校の教育制度をどういじくりまわすかという話には興味がない。学校をどう潰すかという話なら聞くけど。教育委員会なんてどうだっていい。

採決禁止はおかしいね。校長の発言の機会がないからって採決の方を封じちゃうってのは無理があるだろ。そうでもしなきゃ発言もできないような奴を制度で支えてまで封建的なヒエラルキーを維持したいの?馬鹿なんじゃない。石原都政の汚点ここに極まれりって感じ?

学校を運営していくのに校長の権力が必要?校長が有無を言わさず決定を下すことが必要なの?みんなで話し合って創りあげていくに適した場所なんじゃないの、学校って。

なんちゃって、腐った学校には腐った制度がお似合いだからこれでいいのか。校則だ制服だとつまらない決め事で生徒をがんじがらめにしてる「教育」とやらの帰結が採決禁止ってユーモアとしては笑えるよ。生徒を管理するしか能がない教師が上から管理されて採決も取れないなんて皮肉だわ。教師に「採決禁止はおかしい」なんて言える資格のある奴がいるかが問題だよね。学校教育という腐った枠組みの中なら採決禁止も映えるよ。


石原登場。親玉だな。人と人との関係を権力を介してしか捉えられない可哀想な人種。こういう人にとっては「対等な関係」など存在しないのでしょうね。年齢、性別、肩書き、国籍、人種…。あらゆる選別が瞬時に行われ、汚らしい目で蔑んだり見上げたり。従わせるか従うかという殺伐とした世界観。

「個性、感性が大事。人間自由なんだ」。いいこと言ってるのに、やってることは権力による支配。国旗掲揚、国歌斉唱を強制しといて「個性が大事」って矛盾だらけじゃん。感性を潰すことばっかりやってるくせに何を言ってるの?


三知事対談。力で押さえつける教育はもう持たない。体罰容認の空気がガンガンに漂ってますが…。少しでも暴力を解禁すれば今旗色の悪い「子供には強制が必要」派が盛り返してくる。適度な体罰なんて学校の中まで入り込んでちゃんと監視できるの?責任持てるの?そんな力を用いなければ教育もできないようじゃ話にならない。

力に対する耐性は誰でも持ってるわけじゃないし、誰もが持たなきゃならないものでもない。自分がそういう暴力に晒されて育ったからといって他人にもそういう環境で育つ事を強制するなんてなんたる狭量な価値観だろう。力による教育でうまく育つ人もいるだろう。でもそうやって育った人には弱い人を思いやる能力などない。強くあるという事は弱さの否定に直結するからです。

終わった。280分。たらたら思ったことを書いてみましたが。見てなかった人には伝わりづらいでしょうが、まあ雰囲気だけでも楽しんでください。

総論としては普通。目新しいことは特にない。本当に今現場で苦しんでいる若者に対して共感能力のある人間が一人も居なかったことが教育を語るというのに問題だし、学校だの家庭だのに原因を求めるばかりで肝心の社会という視点が欠落していたのも問題。

教育は家や学校だけで行われるのではない。人を育てるのは社会です。私達一人ひとりが構成している社会。何かあると特定の家庭や学校に責任を押し付けて自分は大丈夫、自分は関係ないと安心する。そういう他人事のような考え方を改めて自分の問題として考える意識を持たないと、状況はよくならないと思います。

今回のテーマは「変わらなきゃ」。私のメッセージは「社会の復権」ですね。当事者意識を持て、日本人。

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2008年10月 3日 (金)

小物、橋下徹について

広島地裁が橋下知事に800万円の損害賠償の支払いを命じた。って当然だよね。正当な弁護をしている人達の主張を何の根拠もなく荒唐無稽と決め付けた上、懲戒請求を煽って辞めさせようとするなんて。悪質な妨害行為以外のなにものでもない。同じ弁護士をやってる人間のすることとは思えんね。信じられない。

それで、どんな逃げ口上をのたまうのか?自分のやったことが間違いだとは思っていないとか言って居直るのか?と刮目してたらば、あっさり「申し訳ありませんでした」と。自分のやったことが違法行為であったとすんなり認めたのです。なんだそんなもんか、あれだけ非常識極まりない事を偉そうに撒き散らしてたわりに法律にはあっさり従うわけね、と思ってたら控訴するとか抜かしやがる。

はあ?なんですか?申し訳ありませんでした、はい控訴ってわけ?そんな話、筋が通らない。その時点であの「申し訳ありませんでした」は心にもなかったと言ってるのと同じじゃない。誠意の欠片も感じられない。

今回のこのような態度はあの男の小物っぷりを如実に表しているのです。本当に自分のやってることが間違ってないと思うなら謝罪なんてせずに堂々と控訴すればいい。でもそれをやってこの先も高裁、最高裁とまた敗訴してしまったら自分が困るわけですよね。だからとりあえず謝っといて傷口を広げないようにしつつ「日本は三審制ですから」なんてたわ言を抜かして「もしかしたら自分の主張が認められるかもしれないし?」ぐらいの中途半端な根性で控訴しているのです。小物!ザ・小物!こんな奴が知事なんて大阪は腐ってる!…まあ東京も人のことは言えないからこの件に関しては黙りますが。

潔く自分の間違いを認めるのは嫌、かといって「俺は間違ってない!」と自分の主張を貫き通す度胸もない。なんとなく謝ってなんとなく「まあ他の方の意見も聞いて見ましょう」レベルの気持ちでの控訴。久々に本当に腹が立ちました。はっきり言ってこんな男が子供を5人も6人もつくっているのはこの社会にとって害悪です。本当にやめていただきたい。

私は光市の事件に関して以前こんな記事を書いています。あまりうまく書けているとは思いませんが、要するにこの間の広島高裁の差し戻し控訴審では弁護団が地道に積み上げた物的証拠は全て無視され、検察側のめちゃくちゃな事実認定がそのまま採用され不当に重い死刑という判決が下されてしまったというのが私の考えで、そのような事が書いてあります。

この事件に対するマスコミの報道の仕方も本当にひどかった。BPOが「巨大なる凡庸」と形容するのも頷けます。ぜひリンクをたどってBPOの委員会決定を全文読んでみてください。非常に優れたテレビ批判だと思います。

私は自分なりに色々な情報に触れて考えた結果として、元少年の供述やそれを信じ物的証拠によってそれを証明しようとしている弁護団の主張が荒唐無稽だとか、死刑廃止のための詭弁だとか謀略だとか、そんなこととても思えません。

ドラえもん発言や死姦は生き返らせるための儀式だったなどの発言が世間的にどう思われるかという事は弁護団の方達も分かってたはずです。それでも元少年にとっての真実を重視し、その真実に見合った刑罰を受けさせようとした弁護団の方たちの行動は尊敬に値します。

世間の反発を招かない形で検察のストーリーを丸呑みしてその上でできる限り罪を軽くしようという戦略だって充分成立し得たはずです。でも安田さんを始めとする弁護団の方たちは少年の真実にこだわった。これは凄いことだと私は思います。弁護団の方たちはむしろ裁判に対する戦略や駆け引きなんて排しているのです。

そういう素晴らしい弁護士が悪魔のように言われる国ってなんなんでしょうね。こうして今日もまたこの国が嫌いになる。

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2008年7月26日 (土)

相も変わらずマスコミは

世の中は無差別殺傷ブーム。さっき見たニュースでは女性が後ろから刺されて全治8日だって。その女性の方が受けた心身のダメージはいかほどかと思いますが、一対一で全治8日じゃニュースとしては弱い。それぐらいの事件ならたぶん普段からそれなりに起こってるだろうし、いつもならニュースなんかにはたぶんならない。でも今はその事件に秋葉原の事件によって付加価値がプラスされて、「犯罪増えてますよ、っていうか無差別に人が刺されまくってます!」というキャンペーンに使われる。

しょーもないマスコミのいつもの手口です。三菱のリコールの時も不二家の時もそう。何か一つ大きな事件が起きると普段は扱わない小さなニュースも総動員されてイメージの固定化が行われる。それで世の中の人はものの見事に引っかかって怖い怖い言いまくって、でもしばらくしたらもう忘れてるんだよね、次の旬のネタに夢中で。

日本は治安がいい。これは純然たる事実。この間の八王子の啓文堂の事件も、それがニュースになるということ自体が日本は平和だっていう証左だと思うんですよね。一人死んでニュースになるって事はそれだけ人が殺されるのが珍しいって事でしょ?誰かが誰かに殺されるということが日常茶飯事になったらそれこそそんなものはニュースじゃなくなる。なんせそれが日常なんですから。人が殺されて「怖いわよね~」なんて言ってるうちは日本は平和なんです。

だから世の中の人が怖がってるのはもう完全に平和病。これだけ治安のいい国で何をそんなに怯える必要があるのか。犯罪がゼロになるなんて事はありえないんだから、それぐらいのリスクとは社会全体で付き合っていくしかないでしょう。マスコミに踊らされるのもほどほどになされた方がよろしいかと。

社会というのは色々な人間がいて成り立っているわけで、マスコミの言うようななんだかわけの分かんない化け物のことも包摂してなんとかやっていかなきゃならないんだと思う。最近思うのは殺人者を否定するってことは人間そのものを否定する事なんじゃないか?ということです。殺人というのはそもそも人間の一側面なんじゃないかと。それをなんとか抑えて、あるいはうまく付き合って社会の秩序を形成しようというのが最近になってからの人間の努力で、一部のおかしい奴が殺人を犯すんだというのは違うんじゃないかなと。

人間の本質は社会の秩序を守る事でも犯罪を犯さない事でも傷つけ合わない事でもないから、そこから逸脱する者が出てくるのはある意味では当然。殺人は人間の一側面と考えれば、そこはやはり自分の身に照らして考えてみるべきだし、社会の秩序に浴する者としては煩悶すべき課題であると。

犯罪にどう対処するかというのは社会の在り方に対する理念が色濃く反映されるものと思いますが、私はやっぱり共生を掲げたい。あまり綺麗事も言いたくないのですが、実際問題この国にはくだらない制約が多すぎる。そういうものを取っ払っちゃってどんな人間でもとりあえず生きられるようにした方が私も気持ちよく生きられるし、社会の成熟度という面でもいい事だと思う。

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2008年6月13日 (金)

秋葉原無差別殺傷事件 携帯書き込みを見て

見つけた、加藤智大の携帯書き込みがいっぱい出てるとこ(ここね)。読めば読むほど苦しい。分かる部分はとっても多い。だけど分かったような顔はしたくない。私のような人間には人を理解する能力も救う能力もないのだ。それが痛いほど分かってるから余計苦しい。私は彼の言う「幸せな奴」に入ってしまうのだろうか?人の苦しみってのはどうしてこうも…ああ嫌だ。

全体を通して不細工な自分というものに対する劣等感たるや半端なく、「不細工な俺」という言葉が出てくるたびに私はその自虐的な響きにやられてしまう。親しみが湧いてしょうがないのです。「そんなこと」で、今まで色々言われたりしたんだろうけど、でもやっぱり「そんなこと」で、うじうじ悩んだり、諦めようとしたり、でもやっぱり諦められなかったりしている様は滑稽だけど、だからこそ魅力的でもある。悩み苦しんでる人というのは素敵だ。その人の悩みや苦しみが深ければ深いほどに。

どうでもいいじゃん顔なんて。確かに今はイケメンだとか美人だとか、可愛いカッコいいばかりが持て囃される世の中かもしんないけど、そんなの大多数の人間の価値基準が狂ってるんであって馬鹿なんであって。その価値基準からどう外れるか、その分類では下層に位置せざるを得ない自分をどう自己肯定できるか、これが大事。でもそれを達成するには最低でも一人ぐらいは今の自分を無条件に受け入れてくれる人間と出会っとかなきゃ無理。周りの誰もが世間の腐った物差しで自分を測ってくるのだとしたらそこから外れるのは難しいよね。自分が腐るか物差しを叩き割るか二つに一つ、あの人はその物差しの叩き割り方がまずかった。

誰か一人でも世間のつまらない枠組みからあの人を引っ張り出すことが出来ていたらこんな事にならなかったのに。いいんだよ不細工だって。この社会に適応できなかったってだけでもそこら辺の奴よりずっと魅力的なのに。誰からも愛されず認められずにここまできたんでしょう。殺人という事実を度外視すればこの人は何も悪くない。おそらくああいう境地に至るまでには何度ももがいたはずだし行動もしたはず。でもうまくいかなかった。誰だって傷つくのは怖い、拒絶されるのは怖い。そんなにいつまでもは頑張れない。だから最終的には諦めて自分の殻に閉じこもらざるを得ない。でも人とのつながりを完全に諦めてしまう事もできない。加藤智大の「イライラする、まだ何かに期待している自分にイライラする、諦めれば幸せになれるのに」という言葉はその人間の苦しみを端的に表しています。

んなこと言ったって私の理解度なんてクソみたいなもんだろう。それに今更ああだったよねこうだったよね、と言ってみたって仕方ない。焼け石に水、覆水盆に返らず。私はあの人に何もできなかった。社会からの落伍者、離脱者、不適合者を自任する私なのになんの異なった価値も伝えられなかった。誰の何の役にも立たず駄文を書き連ねるだけの私なんて生きててなんになるんだ。それでもここでだらだら書くのは、クソワイドショーのクソコメンテーターよりは加藤智大の事が分かっていると思うから。

苦しいのはみんな同じとか言う奴の鈍感さが私は我慢ならない。みんな同じ?お前ともかよ。お前と加藤智大の苦しみが同じ?笑わせるな。あなたが普段当たり前にやっている事の一つも加藤智大は満足に出来なかっただろうし、あなたが普段当然のように享受している事の一つも加藤智大は享受してない。みんなにとっての当たり前が自分にだけ当たり前じゃないこの不全感がお前に分かるのかよ。みんな同じって言うけどだったらなんで加藤智大には理解者が一人も現れなかったの?みんな同じなら何でお前は加藤智大が犯罪に至るまでの経緯をちゃんと説明できないの?みんな同じならあんなに思い詰めなくたってよかったじゃん。悩みが共有できる人がいたならあんな事にはならなかったんですよ。それが見つからなくてああいうことになったという事実が加藤智大の苦しみが大多数の人間のそれとは違っていたという証左でしょう。「普通」って幸せですよ。楽ですよ。クソつまんなくもあるわけですがね。

派遣などの人間使い捨ての労働環境を今回の事と結びつけようという向きもあるようですが、そんなものは問題の矮小化と言うしかない。確かに生活が不安定だということは精神的にきついのでしょう、でも本当にきついのはこの社会に受け入れてもらえないという事じゃないのか。労働環境がしっかりしたってこの社会の排他的な態度が改まらなければどうしようもない。顔で弾かれ性格で弾かれどう精神を健全に保って生きていけというのかね。無理でしょ。

私は加藤智大という人間が好きです。何も知らないけど、17人殺傷という事実と携帯書き込みしか知らないけど、それでもそこら辺の人間よりはずっと親しみを感じる。感情として死刑になって欲しくないし、死刑制度廃止という思想からも死刑には反対していきたいと思います。私は刑務所で罪を償った彼を社会の一員としてもう一度この社会の中に受け入れたいと思う。なんにしてもバイト先の誰よりもテレビの中の犯罪者が身近な存在というこの状況は決して幸せではないですね。以下例の掲示板から心に留まったものを少し載せます。

06/03 10:45
表面だけの薄っぺらなつきあい

06/03 10:50
それすら希薄

06/03 17:00
髪切った
不細工のくせに、髪切った

06/03 17:09
リコピンにはストレスを抑える効果がどうのこうの
トマト、食べようかな
一人で

06/03 17:12
新入社員の群れが乗った
電車の中で大騒ぎ
高校生と変わらん

06/03 17:13
こういう「明るい」奴じゃないと彼女はもちろん女友達もできないんだろ

06/03 17:33
歩くの辛い 俺だけ一人

06/03 17:42
女子小学生に話しかけられた
華麗にスルーした

06/03 17:42
どうせ不細工なおっさんですよ

06/03 18:39
人口の男女比はおおよそ1:1なんだから、そんなにたくさんの男性が余るわけがない

06/03 18:40
余る理由はただ一つ、イケメソがたくさんの女性を確保してるから

06/03 18:40
俺が余る理由は不細工だからだけど

06/03 18:52
電気くらいつけよう

06/03 18:54
部屋は明るい
気持ちは暗い

06/04 00:55
勝ち組はみんな死んでしまえ

06/04 00:55
そしたら、日本には俺しか残らないか
あはは

06/04 00:58
俺がなにか事件を起こしたら、みんな「まさかあいつが」って言うんだろ

06/04 00:58
「いつかやると思ってた」
そんなコメントする奴がいたら、そいつは理解者だったかもしれない

06/04 08:33
「無事故で帰ろう。あなたを待ってる人がいる」
安全標語だそうでバカにされてる気分です

06/05 05:24
社交性を持てって
お前らが不細工と関わらないんだろうが
お前らが避けてるんだろうが

06/05 05:29
何が彼女のモーニングコールじゃ
死ねばいいのに

06/05 05:30
どうせ一人だよ
悪いかよ

06/05 05:45
何も考えてない奴らって幸せそうでうらやましい

06/05 06:17
作業場行ったらツナギが無かった
辞めろってか
わかったよ

06/05 06:19
鮮やかに帰宅
やってらんね

06/05 06:47
美しくなんかなくて
優しくもできなくて
それでも呼吸が続くことは許されるだろうか

06/05 06:56
その場しのぎで笑って
鏡の前で泣いて
当たり前だろ
隠してるから気づかれないんだよ

06/05 14:23
永遠の愛?
んなもん、あるわけねぇだろ

06/05 14:57
雨、やんでる
素晴らしいことだ

06/05 15:00
俺、病んでる
素晴らしいことだ

06/05 15:45
「ちょっとしたことでキレる」
幸せな人がよう言う

06/05 15:46
ギリギリいっぱいだから、ちょっとしたことが引き金になるんだろ

06/05 17:06
ティラミスのチョコレート吸い込んだ
苦しい

06/05 17:22
小魚の骨が刺さった
痛い

06/05 17:57
プレゼントね
大事な友達にお礼がしたくて、でもお金が無くて、マフラーを編んでみたことがある

06/05 18:05
結局、来るなって言われて渡せなかったけど
一人でバカみたい

06/05 18:05
ほどいて捨てた
二度と編み物なんかしないし

06/06 09:33
こんなメールが来た
>ネガティブな言葉は使わない方がいいと思うょ
面白くなくても☆笑顔を作ったり☆願いや希望を常に想い続けたり☆ポジティブに過ごすほうが☆ずっと楽に生活できるはずだょo(^-^)o
難しいかもしれないけど頑張ってね~(^_-)-☆

06/06 09:36
いちいちごもっともなんだけど、それに疲れたの
幸せ者にはわからないだろうけど

06/06 11:14
酔った
気持ち悪い

06/06 11:15
俺の顔の方が気持ち悪いですかそうですか

06/07 19:36
「死ぬ気になればなんでもできるだろ」
死ぬ気にならなくてもなんでもできちゃう人のセリフですね

なんか引用しだすときりがない。髪を切るという行為一つとっても不細工のくせにという言葉が入る卑屈根性は私の胸にどストライクでした。明るいに「」をつける感性もよく分かる。時に何も考えてない奴が羨ましく見えるのも。美しくなんかなくて、優しくもできなくて、それでも呼吸が続くことが許されるだろうか、というメッセージは私の胸に居座ってどかない。

この引用ではそれほど取り上げませんでしたが、随所に一人、不細工、彼女出来ない、友達欲しいとあって、これはもうややあって追い詰まった後といった様相です。なぜなら人間というのはやっぱり見栄を張るしプライドもある。寂しいとか友達欲しいとか本来ならおおっぴらには言い辛い事だし、寂しくたって寂しくないって言うんですよね、ある程度余裕のある人間なら。それをあそこまで自分を刃物で切りつけるみたいに何度も何度も言うというのはもう誰かに見付けてもらいたい、救い上げて欲しいという欲求が極限まで高まっている状態だったといえる。

そんな風に追い詰められたきっかけの一つでもありそうなこれも見つけた。友達になりたいとか言って寄ってくる奴はいたようだけど、そのままでいいって言ってくれた人は一人も居なかったんだね。私だったら絶対そう言ったのに。学歴だとかファッションだとか前向きにだとかそんなんどうでもいい。ただ一言そのままでいいって私なら絶対そう言った。助けられただなんておこがましくてとても言えない、でももしその掲示板を私が見てたら、とどうしても考えてしまいます。しょうもない自己啓発めいた事を言う奴なんかよりは私の方が少しはマシだったんじゃ…?時間が戻せるならあの人の掲示板に書き込んでみたい。何も変らないかもしれないけど、でもどっかで私なら助けられたんじゃないかという思い上がりに近い気持ちがある。

今日はこのことを考えていて一日潰れた。明日も明後日も潰れるかもしれない。ああなる前に何とかできなかったのかな。あの人の書き込みを見れば見るほど私が追い詰まる。辛い辛い辛い。なんだかだんだんシャレにならないレベルになってきそうだ。

それと前回の記事に志村建世さんのブログからトラックバックをいただきました。なんだかだらだら長くなってしまったのですが、お返しにこの記事をトラックバックします。ありがとうございました。

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2008年6月11日 (水)

秋葉原無差別殺傷事件

気が重い。弊害あるかもですが、私は殺人事件には興味がなくマスコミが騒ぐたびにケッとか思ってたんですが、今回の事件は少し違う。たくさんの人が死んだからとか関係のない人が通り魔的に殺されたからとかじゃなくて、加藤智大その人の存在によって私にとってこの事件は深く印象に残った。携帯サイトなんかの書き込みを見ているととても他人事じゃない、というかむしろ「分かる」という部分が多くやりきれない思いが募る。

私は社会不適合者です。以前社会に適応したくないという記事で社会に適応してっちゃってどうしようみたいな事をふざけて書きましたが、あんなものは本当に冗談というか生ぬるい話で、究極のことを言えば私が社会に適応できるはずはない。学校、結婚、家族、労働などに関して日本でスタンダードとされている考え方からはことごとく外れているし、今更あわせる気もない。しかもそういう思想面だけでなく私は性格面でも日本的価値観からすると落第点でなにせとにかく暗い。私なんか、私みたいな人間はどうせ死んだ方がいいんだ、といつも思ってる。私ほど無価値な人間もそういないと思うのね。だから、…だからなんだろう。何が言いたかったのか分からなくなってきた。

私が死んだ方がいい理由。暗いから。なんでも自分のせいだと思うから。人に話しかけるのにものすごい勇気がいるから。挨拶が苦手だから。時候の挨拶に魅力を感じないから。べんちゃらが言えないから。ちょっとした事ですぐ被害妄想に入るから。人とコミュニケーションがうまく取れないから。油断するとすみませんばっかり言っちゃうから。基本生きててすみませんと思ってるから。私みたいな人間は誰にも好かれないと強固に信じてるから。自分が生きてる事を自分自身嘲っているから。しょうもない人生だといつも思っているから。と言いながら自らの無価値性に酔ったりしてるのがまたウザいから。欠陥品だから。ゴミだから。とにかくこの世にいないほうがいいから。とまあざっとこれぐらいの(たぶんもっとあるけど)マイナス思考を抱え込みながら私は生きてる。

何で急にこんな話を始めたのかよく分かりません。秋葉原の事件の話だったのに。まあとにかくこういう人間からするとあの携帯サイトの書き込みが胸に迫るといいますか。もう少し何らかの価値の転換、世間に対して吹っ切れた気持ちになれていたならあんな事件を起こすこともなかったのに、と思います。ちょっとした事だと思うんです。エリートだとか成績がいいなんてのは数ある価値の中の一つに過ぎないし、顔だってそうです。そんなものに囚われないで自分の価値を自分で見出して自分の人生を生きれたなら、あんな事にはならなかった絶対。

私は上記のようなコンプレックスの塊です。でも私は自分の人生を生きてる。自分なりの価値基準を見付けられた。寒いだの暑いだの晴れただの曇っただの、そんな事しか話す事がないのかくだらねえと思えるし、根暗で対人恐怖症チックな自分に愛着も感じている。要するに世間の価値基準とは一線を画して生きる事ができてるって事で、これは私の周りの環境や人とのめぐり合わせによる偶然の産物で私が加藤智大よりも強いとか人間できてるとかでは間違ってもないのですが、紙一重だよな、とほんとに思って。私みたいな人間が人も殺さずに「まともに」生きてて、それって結構すごい事ですよね。

そんなわけで、とてもじゃないけど気持ち悪いとか不気味だとか信じられないだとかいう感想を抱く気にはなれない。でもそれが被害者感情を無視してるとか不謹慎だとかいうわけではないんだと私は思ってる。というか思いたい。何かこういう事件が起きた時、被害者に同調して犯人を断罪するばかりがものの見方ではないと私は思うんです。許されざる犯罪が起きた、これは事実です。でもだからといって排除して「はいお終い」では済まない。刑罰は淡々と下す、その中で被害者支援を考える、再発防止を考える、加害者の人権も考える、これでいいじゃないですか。なぜ被害者を神輿にして発狂しなければならないのか。被害者の方は厳罰のシンボルとしてマスコミの晒し者になるのではなく、社会の中で自然に守られるべき存在なのではないのか。被害者の心情なんていうのは詭弁で、結局は自らの処罰感情を満たす道具として被害者を利用しているだけなのだという事実にさっさと気付くべきです。

彼は今刑務所で何を思うのか。私は今猛烈に例の携帯サイトの犯行当日にとどまらない全内容が読みたくてたまらないのですが、やっぱり閲覧は出来なくなっている。こういうのこそ情報公開だと思うんですけどね。本人も見られるつもりで書いてるんだからプライバシー侵害にも当たらないし。犯行に至る経緯が分かる格好の材料なのにね、マスコミとかの都合のいい抜き出しは本当に当てにならないし。世論誘導以外のなにものでもない。

久しぶりの夜更かし。早朝バイトをやってる割には結構無茶してます。中島みゆきが胸に沁みる深夜4時50分。

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2008年4月23日 (水)

光市母子殺害事件の嘘

私は少し前までこの事件についてあまりよく知りませんでした。基本的にこの手の事件に対してマスコミは腐っているので、加害者の精神的な背景などの本当の情報を受け取る事ができない。どうやって酌量の余地のない残虐な犯罪者に仕立て上げるか、というのがマスコミの仕事です。それに加えて私が様々な問題にきちんと関心を持ち始めてからはまだ日が浅い。ニュースで流れる一方的な情報もろくに取り合わずまたやってるな、ぐらいにしか思ってなかったのです、恥ずかしながら。

でも弁護団の主張など、僅かながらも加害少年に対する「本当の情報」と私には思える情報に接した時やはり驚愕しました。ここまで嘘がまかり通っているものかと。マスコミが言っていることというのはことごとく嘘です。差し戻し審になっていきなり言うことが変わったというのも、元少年の種々の行動について動機や背景を述べず結果だけを報道する姿勢も、少年に対する事実誤認を助長するものです。私は元少年には殺害の意思も強姦の意思もなかったと思っていますし、今回の死刑判決は遺憾です。

元少年の心は未発達であった、という事実がことごとく無視された結果が今回の検察のストーリー丸呑みの判決です。1審2審と供述が変わっているのが不自然だというのが殊更騒がれていますが私は不自然だとは思いません。自らの考えを述べ間違いを正すことができるのであれば、精神的に未発達であるとは言わないのです。検察にストーリーを作られてしまえばそれにきっぱりと抵抗するのは難しい。ですから今回のように自分の言い分を聞いてくれる弁護士に出会えたことは元少年にとって幸せだったと思いますし、1審2審では自分じゃない誰かが裁かれているようだった、という元少年の言葉は正直な気持ちだと思います。

元少年の供述は荒唐無稽などと言われますが私はそうは思いません。元少年は本当のことを言っていると思います。幼少時には父親の暴力があり、それによって母子一体、母親との相互依存が高まり、そんな中その唯一の庇護者であった母親の自殺に直面する。そこから父親の支配に直接的に晒されるようになり精神的発達が停止してしまった。とてもシンプルです。そんな状況に置かれれば誰だってそうなるだろう、と。そのような精神発達状況にあった少年に対して私たちの一般常識からしておかしい、というのをそのまま適用しようとするようなやり方はそもそも無意味です。

当時勤めていた会社の作業着を来て1軒1軒家を回っていた元少年は、予想に反して家の中に招かれる。工具を借りたりなんかして作業員の真似事をしている内に弥生さんに母親の面影を感じて後ろから抱きついた。すると予想に反して激しく抵抗され、想定外の事態に対応する能力が著しく低い状態にあった元少年はなんとか制止しようとしているうちに誤って首を絞め死に至らしめてしまった。その後死亡した弥生さんを見て自殺した母親を想起し、生き返って欲しいと思い姦淫行為に及んだ。

私はこれが真実だと思います。馬乗りになって首を絞めたという今回の事実認定は表皮剥脱などから法医学的に合理的な疑いが生じていますし、赤ん坊を床にたたきつけた、両手で首を絞めた、紐で首を強く絞めた、というのも同様です。法医学的にみて、このような事実は確認できていないのです。

真実とは一体なんでしょう。事件当日各戸を回っていたのは強姦目的の物色で、弥生さんに抵抗されたため馬乗りになって首を絞め、性行為に及び、赤ん坊も泣き声がうるさかったので床に叩きつけたり首を絞めたりして殺害した。この用意された「真実」を語らなければ、それ以外はすべて虚偽だと言われてしまったら、元少年の語ることには何の意味もなくなってしまう。

弥生さんに抱きついたのは母親の面影を感じたからで、死姦は生き返らせるための儀式だった。これが私たちの一般的常識から考えられようが考えられまいが、元少年が当時精神的に未発達で、実際そのような考えに基づいて犯行に及んでしまったという事実はどうしようもないのです。それを死刑を免れるための言い訳と断じるのは間違っているし、元少年が事件当時その程度の精神的成熟度であったという事実を、それを正直に言ったら嘘だとか反省していないとか言われてしまうならもう何も言えなくなってしまう。

精神的に未発達であるということはどういうことかが何も分かっていない。元少年の供述を嘘だと決め付ける根拠はなんなのか。弁護士の戦略であるといったことがまだ言われている。元少年は真実を語っている。弁護士達はその真実を話す機会を与え、元少年に妥当な刑罰を科すために尽力している。それがなぜ、批判されなければならないのか。私にはわからない。

今回のような事例が死刑になるのならこの社会はなんなのでしょう。父親の虐待、母親の自殺などによって精神的に未発達であったことは当然考慮されるべき背景であるのに、それどころか殺害、強姦の意思があったとこじつけるために弁護団による法医学の観点からの合理的疑いを無視してまで死刑を科そうとする検察、それをあっさり採用する裁判所、それに追従するメディア、世論…。

私は今日、朝のニュース昼のワイドショー夕方のニュース夜のニュースと一日中光市事件のニュースを見て、落胆しました。このような報道しか為されていない現状を心の底から残念に思います。今必要なのは元少年の供述を荒唐無稽な言い逃れだと断じることではなく、元少年の真実の声を受け止めそこから反省と再出発を見守るということではないでしょうか。元少年は本当のことを語った。後は私たち社会がそれをどう受け止めるかです。

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2008年4月 3日 (木)

右翼が騒ぐことは何もするなってか

映画「靖国 YASUKUNI」が上映中止に追いこまれた、なんて話が巷じゃ話題になっとりますけども。まあ普通に考えて問題ですよね。読売ですら「表現の自由を守れ」なんて言ってるんですから、今回の上映自粛が表現の自由に抵触するというのはある程度社会の共通認識なのでしょう。にもかかわらずなんでこんな腰砕けというかなんというか、当然守られるべきものがいとも簡単に軽視されるような状況になっているのか。

やっぱり日本人特有の「誰とも喧嘩したくないよう」気質が影響しているような気がします。角を立てずうやむやのうちに事を何とかしようという嫌な国民性が最悪の形で表に表れたのがこの体たらくではないかと。実際に嫌がらせがあった映画館もあるようだけど、そうでない映画館までもが「なんとなく危なそうだから」的な理由で自粛してしまうのは日本の映画人も相当重症ですね。映画というのは様々な価値観の提起、社会へのメッセージ性など、表現活動の最たるものと思われますが、それに関わる人間の気概やらなんやらはもうどこかに吹き飛んでしまったのでしょうか。

日教組の集会の時もそうでしたが、自由というものに対してどんどん感度が鈍くなってきてますよね。日本というのは画一化社会ですから、大多数の人間と同じことをやっていればとりあえずは表現の自由も集会結社の自由も保障される。そういうぬるま湯に浸かっていると現状で認められている自由やら権利やらの外に出る必要がなくなり、結果どんどんどんどん当たり障りのないもので世間は埋め尽くされていき、気がつけば人と違う意見がいえない、反論や抗議が来るものは何もできないという国になっていく。

表現の自由も集会結社の自由も、本来細心の注意を払って守っていかなければならないものなのに、「なんとなく」で自粛され押し潰され侵害され。周辺に迷惑がかかるから、というソフトな理由がまた癪に障るのよね。どうせだったらもっと政治的イデオロギーを前面に押し出したギラギラした理由で表現の自由を握りつぶしてくれればいいのに。上映を自粛した人間自体は右翼でもなんでもなくて、ただなんとなく方々からの圧力に屈してしまっただけ。

そんな話ってあります?言論の自由というものに対する危機感がなさ過ぎます。自分のすぐ傍まで言論統制が迫ってから気がついたって遅い。普段からの努力の積み重ねなんですよ、こういう権利関係はね。なんとなく、なんとなく流されてるうちに段々思想の魔女狩りが横行し始め、その内右翼が騒ぐ事は何も言えなくなる…。そんなことであっていいはずがない。表現の自由に対する妨害に断固として戦わなければ。周辺の迷惑なんて漠然とした理由でやっていい事じゃないんです、上映自粛なんて。

あったり前のことなんですけどね。こういう風に上映自粛となればみんながおかしいと言うし、表現の自由は大切だとなる。でもそれでも摩擦を避けたい事なかれ主義がなんとなくまかり通ってしまう。街宣車や嫌がらせぐらいで映画が一本止められてしまうのです。これは言うまでもなく相当な危機ですよね。これはやっぱりひとえに自由というものに対して日本社会全体が疎くなっているからではなかろうか…。

ああこんな当たり前の事を長々と書いてしまった。なんのひねりもない記事だ。日本では既に言論の自由などどこにも存在しないというシニシズム的見地に立てば私の言ってる事なんてちゃんちゃらおかしいんだろうな。実は更新頻度を上げようと普段はスルーしていたであろうこのネタで、頑張って書いているのです。靖国に対する知識もなければ右翼の主張の中身もよく知らない。そんな引き出し不足の状態ですが、最低でも5日に一度ぐらいは更新しようと決めたので書きました。言い訳終わり。記事も終わり。おやすみなさい。

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2008年3月 8日 (土)

太田総理ネタ

久々に太田総理からネタを得て書いてみたいと思います。

今日のマニフェストは「ネットを一日1時間までにします」。Byテリー伊藤。

…あんなにつまらない人だとは思ってなかった。私が何よりも嫌いなのは強制、管理。何かあると一方的に基準を決めてそれに従え、というやり方はとっても日本人的。大体あの人は自分だって人から色々言われてその通りにするなんてことはとてもしそうにないのに、人に対してはそういう規制をかけて従わせようとするのは矛盾している気がする。

私はここでネットの功罪について云々する気はない。それに関しては番組内で言っていたような、想像力の欠如、主体性の欠如などもその一端を表していると言えるし、もちろんそれ以外にも見ず知らずの人からの一言で救われたり、有益な情報を得たりという面があるのも事実です。というかいい面悪い面両方あるというのは何を対象にしても当然ある事でネットだけが飛びぬけて構造的な欠陥があるとか劇的な良薬であるなんて事はないと思うのです。だからネットのいい悪いはこの際置いといてあの番組でのテリー伊藤の態度ね、これを問題にしたいわけです。

そもそも日本人の主体性のなさ、想像力のなさは別にネットのせいじゃないでしょう。ネットを取り上げた所で馬鹿は馬鹿、突然半径5メートルの範囲からいきなり飛び出して主体的に動き出すなんて事が起こり得るはずがない。ウチの親父だってパソコンそんなに使いこなせないんですよ。日本人の気質的欠陥をネットに全て押し付けるのはおかしい。番組内でも言っていたように、同じくネットが普及しているアメリカではそのような主体性の欠如と言った問題は起きていないという。それならやっぱりこれは日本人の赤信号みんなで渡れば怖くない式の主体性のなさがネットによって噴出しているに過ぎないと解釈するのが自然で、それは当然ネットの使用時間の規制では解決できない。

それともう一つはああいう生き方の強制ね、私はああいうのが反吐が出そうなぐらい嫌い。私はテリー伊藤を不真面目で非日本人的な面白い人だと少しは思っていたのです。ここで言う不真面目とはもちろん褒め言葉です。でも太陽や星を見て想像力が云々とか引きこもりが悪いとか、お前らたるんでる式の話の持っていき方はただの日本人だ。ノスタルジジイと言ってもいいぐらい。色んな生き方がある。色んな考え方がある。それを認めようとせず自分の自論を振り回すだけの人は何を言っても魅力がないのです。

ネットのせいで想像力がなくなっている。全部ネットからのパクリで主体的に自分の頭でものを考えなくなっている。そう主張しながら自分の考えを上から押し付けるのは完全な矛盾じゃないだろうか。ネットは一日一時間にしましょう。はーい。お前ら主体性を持て。分かりました。…正直者の私は嘘つきです発言に比肩するパラドックス。

ネットは一日一時間と決められてその通りにする事が主体性のある人間のすることなのか。私のように個人の自発性、自律性に重きを置く人間としてはそんなものは愚の骨頂、主体性というのはあれしろこれしろっつって育てるものではないのです。自分で型を作りそれに人を当てはめていくというやり方は主体性の欠如を憂えているつもりでも結局は画一化を進行させる事にしかならない。

少なくとも私はネットは一日一時間だのなんだのと命令されたくない干渉されたくない。大体なにかっていうとルール、規制という考え方は学校的で気持ちが悪い。勝手に決めて人をそれに従わせてれば満足なのか。主体性主体性と言いながら自分からその芽を摘むような行動をとってるじゃないか。自分と違う生き方考え方を認めて始めて主体性を語る資格が生まれる。ネットをやると馬鹿になるというのはまあ確かに一側面ではあると思いますが逆に言えば一側面でしかない。本人も反発がくるのは分かってるんでしょうがああいう独裁者的なルールの設定の仕方は大嫌いです。

まあでも最近のブログは半径5メートルの事しか書いていないからつまらない、馬鹿になるというのは一理あるかもと思いました。時々検索かけて他の人のブログを覗いたりするんですが数行で今日これ食べました(写真付き)とか、他にも面白かったとかつまらなかったとか短文が目立つ。そんなんでいいなら私のブログの更新頻度だって…とか思う事もある。まあ私みたいにだらだら長ったらしく書いても誰も最後まで読んでくれないんでしょうけどね。どっちもどっちか。

最後に一つ言わせてもらえば私はやっぱり引きこもりに対するいわれのない批判は我慢ならない。外に出て人と触れ合う事が家で引きこもる事より大事だなんてのは一体誰が決めたんでしょう。内向的という言葉も悪い意味でばかり使われますが、外に出てくだらない人間と関わるより自分の内面と向き合う方が大切な事もある。外に出て人と話すのがいい事だという基準で全てを塗りつぶしてしまうのは人間の個性を潰すことで、それは結果として人を追い詰める事にもなる。

大体言ってしまえば一人でいられないのも孤独を必要以上に恐れるのも立派な病気なんで、なぜ人と関わるのが苦手な側だけが叩かれ矯正の対象となってしまうのか、これは絶対おかしい。じゃあお前携帯の電源切って1週間、1ヶ月と誰とも関わらずにいてみろよ、と。それもできないような奴が平気で「外に出たほうがいいよ」とか「人とのふれあいの大切さが」とかなんとか抜かしてる。それが現状です。私は一人でいる時間より人と関わってる時間の方が多くなったら間違いなく精神を病んで破滅する。そういう病気なのです。でも私は誰かに対して人と関わるな、一人でいろなんて命令した事はない。一度もです。なぜならそんなものはただの性格的な違いに過ぎずどちらが「正しいか」なんて事は究極的には誰にも判断できるはずがないからです。

そこら辺をわきまえず人とのふれあいが大事だなんてぬけぬけと抜かすような奴には私は用はない、よってテリー伊藤にも用はない。まったく幻滅しました。私の一人でいる自由を侵害するものは何人たりとも許さない。ネットを制限すれば引きこもりも治ってハッピー、なんてしょうもないストーリをゴールデンタイムで垂れ流されるのも不快だ。引きこもっててなにが悪い。大体ネットにしか救いを求められないような状況に追い込んだのは誰だよというそもそも論もあるし。踏み躙るだけ踏み躙っといてネットだけ規制して外に出てきなさいというのもほんと無茶苦茶よね。だったらその社会の受け皿のほうはどうなってんだ、と。異質なものを認める器の大きさは身に付いたのか。もうこうあるべき論を押し付ける事も迫害もやめる?そんなわけはない。社会の方は何も変わらないのです。変える必要があるとも思ってない。ただ全てをこちらの性格的問題に帰し傲然と座っているしか能がない。そんな奴らに批判される筋合いは本当にまったくこれっぽっちもない。

最後に一つとか言って長くなっちゃった。もうやめます。長く書きゃいいってもんじゃないよね。でも一応半径5メートルブログとは差別化を図りたいかな、という感じで。たまにはいいけどいつもいつも自分の衣食住で占められてるブログもどうかと思いますからね、やっぱり。お前はアイドルかという。誰も興味ねえだろうと思いますもん。ま、読まない自由があるわけですからあまりぐだぐだ言う気もないんですが。それでは長くなりました、この辺で。おやすみなさい。

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2007年11月26日 (月)

殺人はニュースか

いやいや、やっぱりブログをやってる以上更新頻度が低いのを開き直ってちゃだめだよな、とまた思い直しております。意味が分からない人は前回の記事を参照のこと。

とはいえ、何か目新しいネタがあるかといえばそういうわけでもないのが困った所。生活上のことで言うなら、結局12月からヤマハに通うことにしました。バリバリ練習して弾きこなすぜ、エレクトーン。あとそろそろ仕分けとか単純作業系のバイトを探してみようかと思っとります。よく考えてみたらこんな性格のくせになぜ接客業にこだわっていたのか、謎です。本が好きだからって別に本屋で働かなくてもねえ。

ま、こんなくそ面白くもない私の報告はさておいて、最近のニュースってどう思われますか。どうって言われても困るかもしれませんが、私から見ると最近のニュースはただその日起こった事の垂れ流しというか、で?という事が非常に多いのです。家が燃えました、人が殺されました、とか言われてもへーとしか思えません。

私が思うニュースってのは諸々の社会現象に対して独自の目線で解釈なり論評なりを加えたりするものなんですが、最近のニュースはどうもそうでない。ただ家が燃えた燃えた騒ぐだけなら誰にだってできる。いちいち燃えるたびにそれを言われてもね。そんなんだったらアホみたいに報告するのではなく、定期的に火災原因の統計を出しつつ火災防止について特集を組んでやってくれればそれでいいわけで、1件1件の燃えましたというニュースは意味があるのでしょうか。

殺人だって同じ事。私に言わせればあんなものはニュースではありません。あれを1件1件事細かにだらだら報じる時間を使ってどれだけの有益な情報を発信できるか。どうせその事件を扱ったからといって事件の背景を抉り出せるわけでもない、ただみんなが満足できるよう、近隣住民の証言から都合のいい部分を切り取り、犯人を救いようのない残虐非道な鬼畜のように見せかけるぐらいしか能がないのですから、もうやめたらいいよ。

結局あれです。この国の人達は人を憎んで罪を憎まずなんですね。あまりテレビでは報道されないような事件には興味が無いし、海の向こうの人権侵害や戦争犯罪にも興味は無い。罪を憎むのではなく、マスコミが大々的に取り上げるような事件の犯人を、一個人を死んで欲しいというレベルで徹底的に憎むのです。被害者の痛みに敏感なのではなく、自らの攻撃性に忠実なだけ。だから被害者への同情は申し訳程度、目に付いた事件に怒り狂っているだけでいつまでたっても問題の本質に行き着かない。それで死刑死刑喚く。喧しいなあもう。

で、ニュースはその一翼を担ったりするだけで役に立っていない。社会現象をどう解釈し位置付け伝えていくかという役割を負うべきなのに、事実の垂れ流しか事実の部分的拡大しかできないんですから。その事実が何を示唆し何を意味しているのかという論説を加えない報道など何の意味もなく、そんなものはそこら辺のおばさんにその日起こった事を聞いたって同じです。

語弊を恐れずに言うなら私はどこの家が燃えようと誰が殺されようとそんな事には関心が無い。そんな事実を一方的に垂れ流しにされても私はどうすればいいのか。現実問題として今日火事が起きて何人かが死んだという報告が私に一体何をもたらすのか。何ももたらさない。だからなんなんだという思いが膨らむばかりで。自分がその立場だったらと考えてみても、今私の家が燃えて焼け死んだとしてそれがニュースだとはとても思えない。誰かに知って欲しいとも思わないし、それを伝えた所で何も生まれないだろう。私が殺されたとしたら、でも同様です。

まともな特集を組まないですよね、最近の報道は本当に。誰かが死んだ話ばかり、警察発表の垂れ流しだというのを雑誌の見出しかなんかで見ましたが、本当にそればかりを。私はそんな事実には興味がないのに。世の中の人はそんなに人の死に関心があるのでしょうか。誰かが殺される事がそんなに珍しいのでしょうか。この国を一歩外に出れば自爆テロでたくさんの人が死んでいますけどね。国内だって年間3万人の自殺者がいますし。なぜ殺人事件であれほど色めき立つのか、私にはやっぱり理解できない。あんなのはローカルニュースで扱えば十分だと思うけどなあ。

やっぱり共同体の外部を強調し内部の団結を強化するために、とんでもない奴がいる、凶悪事件が増えている、という共通認識を必要としているのでしょうか。そうやってキャーキャー言いながら盛り上がってるのが楽しいのか。正義感とかでは絶対ないんだろうと推測します。

人が殺されるということは、そりゃ痛ましいですよ。私だって何とも思わないわけじゃありません。だけど個々の事件の詳細はどうでもよくないですか、と。被害者の写真や実名まで出して何回も何回も同じような事を報じるのは、殺人事件を考える事ではなくただのエンターテイメントです。ある一定の時期が来ればそんな事件があった事も忘れ、次の事件に色めき立つわけでしょ。だから被害者への同情なんて申し訳程度、と言うんです。大体殺人の背景を考える時に被害者の子供の残した作文なんて関係がないでしょ。罪もない子供が殺された、というセンチメンタルに浸るのは結構ですが、そんな次の日には忘れているような薄っぺらい感情に浸っていても殺人事件は減りませんから。

だから私は個々の事件の詳細には関心がありませんが、客観的な数値に基づいた凶悪犯罪は本当に増えているかの検証や、単純な勧善懲悪的な世界から脱した上での原因解明には大いに関心があります。ニュースのやるべき事はその日あった事を報告する事ではなく、今起きている事をきっちり解釈をつけて報道する事です。事実を伝えるというのも大切な事ですが、そんなのはもっとコンパクトにまとめて、その上でじゃあその事実がなんなのか、というのを伝えていかないとバカみたいなんでね。誰々が自宅で死んでたとか、そんなのをフラッシュニュースで伝えても意味がない。

ついでに言うと日曜夕方5時半からの報道特集は好きです。私が求めているのはまさにああいう事です。サンデープロジェクトもそうですが地に足着いてる番組です。こういう番組の比率が上がればいいのに。

なんだかニュースとか報道という用語の使い方がいまひとつしっくりきてない感じもしますが、眠くなってきたのでもう寝ます。一応総括すると、事実を棒読みするだけがニュースじゃないぞ、という事が言いたかったのだと思います。その比率があまりにも高く感じたので。これでフォローできたかしら。ああもうダメだ、おやすみなさい。

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2007年7月 1日 (日)

多数派の暴力

なんか何回書いても釈然としないのよね。相変わらず平岡さんに対するバッシングは続いているみたいだし、私の記事を2ちゃんねるに貼り付ける奴まで出てきてるし。すっごい分かりやすく嫌われてるよね。

まあそれだけ世の関心事だったという事でしょうか。前回の記事前々回の記事を更新した昨日のアクセス数は前日比664倍。考えられない数字ですね。これは平岡さんに対する関心が集まってるからなのか、私の考え方が異質だからなのか。まあ前者ですよね。あまり自分を買いかぶっちゃいけないわ。

それと私の記事を題材に記事を書いてくださった方がいました。加害者の人権を認める気はないなど相容れない部分はありますが、それなりに私の文章を評価してくださっているようです。(http://blog.so-net.ne.jp/c-cat/2007-06-30)私の記事に対してその方が言う、10代ですからはいらねえだろ、というのはごもっとも。私も最後の最後で弱気がでまして、やっぱ言いすぎかなあ、語弊ありまくりだろうなあ、と思っているうちに10代ですからがぽろっと出てしまったというわけです。次からはもう言いません。

それでは改めて前回言い足りなかった部分をまた書かせていただきます。しつこいですか、すいません。

まず私は、もう何回も言ってるんですけどね、被害者の事を顧みなくていいなんて事は一言も言ってないんです。太田総理で少年院で結局1、2年で出てこれてしまうケースが紹介されてましたが、それがおかしいというのは私も異論のないところです。犯した罪に対してきちんと責任を負う必要があるという事も分かっています。ただ私は刑罰としての死刑や少年への過剰な刑罰には反対、というだけであって。

少しでも加害者の肩を持とうとすると、すぐさま被害者がその犠牲になるかのような事を喧伝する人がいますが、そんな事はありません。私なりに何故そういう人間がいて何故それが支持されるか考えてみた結果、やはり根底にあるのは蔑視感情だと思われます。

加害者の権利や更生を訴える事は被害者をないがしろにする事には繋がらないのに、さもそれが直結するかのように言う人ってのは、口では被害者の心情とか人権が大切なんて言ってますが、結局自分の差別感情を被害者を通して訴えたいだけなのではないでしょうか。現に被害にあっても加害者の更生を願うような被害者がいる事はあまりピックアップしないでしょう。

自分の差別感情を都合よく代弁してくれそうな被害者だけを賛美するのは、それこそ被害者感情を利用する汚い行為というか、やはりあまりにも公平性を欠いています。もういっそのこと被害者の心情なんてものをかくれみのにするのはやめて、正直に言ったらいいんじゃないですか。

俺は人を殺すような人間は人間とは思えないし、そいつがこの世の中で息を吸っている事自体が許せない。そいつが育つ過程でどれだけ劣悪な環境があろうとも、殺人なんて行為に及ぶのはそいつ個人の欠陥によるもので、そんな奴に生存権及びその他の人権なんてものを認める気は一切ない。こういう考えなんですよね。

それを被害者の心情がなんて言うから気持ちが悪いんです。じゃあ加害者に更生してほしいと思っている被害者の気持ちはどうするんです?尊重しなくていいんですか。もし今大多数の被害者が加害者の更生を望むようになったら、今度は亡くなった人の事を考えてないとか言って遺族の方にまで攻撃の手を広げるんじゃないんですか、あなた達は。自分がそんな奴は死ぬべきだと思ってる事を被害者のためなんて美化するのはやめてください。被害者の盾に隠れているのは卑怯ですよ。被害者がなんと言おうと自分は加害者には死んで欲しいと思ってるとはっきり言ってください。

私は被害者が加害者に対して感情的になるのは当然だと思います。それに対して死刑にしたって亡くなった人は帰ってこないんだから、加害者の更生を望むのが一番いい方法でしょう?なんて言い方をするのにはやはり抵抗を覚えますし、被害者本人に言っていい事だとも思っていません。私だって身近な人が犯罪の被害にあったら、ここまで冷静でいられるかどうかは分からないしね。もちろん死刑には反対しますが無期懲役ぐらいは望むかもしれません。ですがやはり第三者はそのような感情的な立場であってはならないでしょう。

先日の太田総理の放送の中でケビンが「目には目をじゃないか、ハンムラビ法典か」と言ったのを、目には目をでいいじゃないかとおっしゃっている方を多数見かけましたが、率直に言っていいわけがありません。やられたらやり返すでいいなら、何のための裁判ですか。裁判は復讐の執行には手を貸しません。国会に陳情して仇討ち法でも人を殺したら無条件で死刑法案でも作ってもらってくださいよ、それが本当に正しいと思ってるなら。

被害にあった時、憎しみの感情に任せて相手に同じ苦しみを味あわせる事は認められていないんです。事件が起きた時被害者と加害者の間に入り、ただの報復にはよらない、被害者の心情も、加害者の更生も、両方を考慮したうえで、双方にとってもっとも妥当だろうと思われる落とし所を見つけるのが裁判の役目です。それは被害者感情を無視したものであっても、加害者の人権を著しく無視したものあってもダメなのです。

裁判がそうした葛藤を踏まえて運営されているわけですから(もっとも最近の裁判は世論に配慮しすぎでそのような葛藤の上に成り立っているかは疑問なんですが)、第三者である私たちだって公平な目線で物事を見ねばなりません。しかも2009年からは私たち国民も裁判に呼ばれる事が決まっているわけですから、今の被害者に偏りきったこんな世論では、裁判が加害者に対する集団リンチに堕しかねません。

もうね、私自身よく分からないんですよ、自分ももしかしたら人を殺すかもしれないと思う人間と思わない人間の違い。単純にそんな事を思う奴の人間性に問題があると片付ける事もできそうな反面、社会の多数派に守られ、社会の「規律」と言われるものを問題なく遵守してきた人間の欠陥であると言う事もできる。やっぱりそうやって今まで生きてくるとそこから外れた者の気持ちが分からないじゃないですか。

人を殺す事は悪い事でお年寄りに席を譲るのはいい事だという分かりきっているはずの善悪からふっと外れてしまう瞬間がある事を私は身近に感じられる。社会の多数派から弾き飛ばされ軽蔑のまなざしを送られながら生きる事がどれだけ辛いか、少しは想像する事ができるから。とはいっても差別者側に被差別者側の気持ちが分かるかといえば分かるはずないんです。分かるなら差別なんてしませんから。

そもそもなぜ世論の大半が加害者に感情移入できないのかといえば、やはり自分達が常日頃から行っている差別や排他的な態度にあまり気付いていないからだと思います。というか差別を行っているという自覚すらない人間の方が多いのでしょう。例えば不登校にしてもたかだか学校に行かないからというだけでダメ人間のレッテルを貼られたりする事が往々にしてあるわけで、ニートや引きこもりも同様です。

そちらにしてみれば、学校に行くのも働くのも生きてれば当たり前でしょう、という感覚かもしれませんが、その動作を行うのがどうしようもなく辛い、と思う人間だっているのです。そのような状況にある人間に対して、集団の中で何不自由なく暮らしている自分の基準をそのまま適用し、弱いとかたるんでるとか言うのはやっぱり想像力が欠如していると言わざるを得ない。

そうやって一人ひとりが無意識的に行っている選別作業によって、異質なものを認めない均質的な社会が創られ、その結果そこに適合できない人は異常者とか、病気だとか、非人間的な扱いを受け、結果犯罪に走ってしまう、という構図もあるんですよ。

自分達が普段何気なくやっている事が人を追い詰めているかもしれないんです。人殺しを生み出しているのかもしれないんですよ。全部が全部そうとは言いませんが、そういう一面もあるという事を理解していただいて、犯罪は社会全体の責任であり、ひいては自分自身の責任でもあるという危機意識を持ってもらいたい。

社会に普通に生きてると気が付かないかもしれませんが、そこから少し普通じゃない生き方をしようとすると実はものすごい圧力がかかるんですよ、今の日本では。しかも社会全体のこうあらねばならないという考えはたいした根拠のない迷信である事が非常に多い。学校に行かないと育たないとか、家にずっといたらダメになるとか、社会が当たり前だと思ってる事は実は少しも当たり前じゃない。それが何故当たり前じゃないかはまた稿を改めたいっていうか、不登校の記事なら過去に書いたやつがあるのでどうぞ。http://kyomutotomoni.cocolog-wbs.com/blog/2007/05/post_788f.html

無意識的にそういう枠にはめ込もうとしていたり、そこから外れた人間に対してものすごい差別を行ったりしているんです、社会は。その結果、社会から外れた事により周りからすさまじい差別を受け、人格が壊れ犯罪を犯したらお前が悪い、という事ではあまりにも酷すぎませんか、と私は言っているんです。事情があるから責任を取らなくてもいいなんて言っていなくて、社会全体が加害者を追い詰めてしまったのかもしれない、という視点も持てませんか、という提案をしているのです。

そもそも社会に不安を与えたなんて事が加害者に対する刑罰の際に加算される事が私はどうしても納得いかない。謝らなけらばならないのはどっちか。罪を犯す前に止められなかった社会の方なんじゃないの。虐待を受けていたケースなんかで言うと、その人は虐待を受けている間は被害者です。ずっとずっと被害者で、ある日ついに耐え切れずに心が壊れ加害者になってしまった。被害者である間に助けられなかった事を私達は詫びなくていいのだろうか。個人の責任に押し付けてしまっていいのだろうか。私はいいとは思わない。

虐待なんて分かりやすいケースでなくてもこの考えは適用できると思います。皆さん善悪の判断がつかなかったから人を殺したんだと本気でお考えですか?それならばどうして両親が教師であるというような環境の人間が人を殺すのでしょう。何がよくて何が悪いかなんて事はもうウンザリするぐらい教え込まれているはずですよ、そういった境遇なら。

ですから犯罪の背景にあるのは、孤独感であったり、自尊心の崩壊であったり、あるいはまったく逆で世間の差別感情に染まりきってしまったから、という事も考えられるでしょう。例えばホームレスを襲った中学生などは、親や社会のホームレスに対する偏見をそのまま受け継ぎ、ホームレスの事を暴力を働いても許される存在なんだと勘違いしたのかもしれません。皆さんも差別してるでしょう?ホームレスの事を。ある意味その中学生達はあなた方が定めた善悪を忠実に守ったとも言えます。自分達と違う人間は差別して排除するのが当然だというね。

太田総理に出てきた被害者の方の息子さんも、障害者で動けないのをいい事にかなり陰湿なやり方で殺害されたそうですが、普段から障害者やその他マイノリティに思いやりがないのはどちらかといえばむしろそちら側だと私は思うわけで、あなた方が加害者に死を!とものすごい勢いで叫ぶ姿勢は逆に加害者予備軍を作りあげる可能性があるという事なんです。分かりにくいですかね。

要するにあなた達は自分達と違うものが嫌いなんです。俺達に同化しないと人間として認めないぞ、という横暴を日々知らない内に働いています。それが自分と違う人間は差別してもいいんだという考えを生み、行き過ぎると殺してもいいんだとなる。人の上に人をつくり人の下に人をつくる教育をしているのはあなた方多数派です。マイノリティはそういう態度にことのほか傷ついていますよ。私だってそう。

そうやって少数派排除を推し進めていけば、いずれこの社会は立ち行かなくなるだろうし、その内あなた方は復讐されます。変な脅しをかけているわけではなく、あなた方が知らない内にこちら側の人間は結構な怒りを溜め込んでいますし、下手をすれば身内からも差別感情が行き過ぎた加害者が出てくるわけでしょう。大変ですね。その都度気違い扱いしてれば事足りると思ってたら痛い目見ますよほんとに。で、人を殺してしまえば自分と同じ出身でも鬼畜呼ばわりしたり平気でするわけでしょ。冷たーい。それでも人間なのかしら。こちら側が加害者に同調するのとはえらい違いだよ。

ですから加害者の犯罪がどれだけ残虐であろうとも、同じ痛みを味あわせてやれ、というような短絡的な発想で解決できるような状況ではもうないと私は思うんです。本当の意味で加害者の立場にたって、何故そうなったのかという事を社会全体で真剣に考えていかないと、犯罪の数も減らせませんし理不尽な理由で苦しむ人も救えません。

そのように考えるとやはりどうしたって死刑には人道上の問題がある。現実的な対案としては仮釈放のない無期懲役というのが必要ではないかと思います。模範囚をやっていればすぐ出れるなんて事では被害者も納得しないでしょうし、犯罪に対して一定のペナルティを科していかなければ社会秩序も守れない。悪質だと判断されれば一生を刑務所で終えるという事も仕方がないでしょう。ただ何をもって悪質とするかに関してはまだまだ偏りがあり過ぎる。私は何が何でも情状酌量なんて事を言っているわけではありません。とにかく公平な目で世の中を見ていきましょうという事です。分かっていただけたでしょうか。

もう全部読んでくれる人なんて今度こそいない気がするよ。この話はそろそろこの辺で区切りをつけたいな。この数日多数派と戦う事で頭がいっぱいでかなり生活が狂ってきてるんで。そろそろまた細々としたブログに戻りたい。アクセス数前日比664倍ですよ。おちおち愚痴も書いておれんじゃないか、まったく。

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2007年6月30日 (土)

昨日の太田総理について

アクセス数があ、アクセス数があ!今までこのブログがどれだけの低空飛行だったか知ってます?昨日の夜から今日の昼まででもう私が完全にびびっちゃうようなアクセス数を記録してます。昨晩の太田総理は思いのほか波紋を呼んでいたようですね。私のまったく希望しない方向に、ですが。

平岡バッシングが物凄いことになっているのをあの記事を更新してから知りました。平岡秀夫で検索しても出る記事出る記事バッシングの嵐。これでは私まで被害者感情を無視した鬼畜のように言われてしまいますねー。私はあの人いい事言ってると思っちゃいましたし、それを昨日の記事でも書いてしまいましたからね。

あのバッシングの中で平岡秀夫いいこと言ってるなんて書いた私の記事はきっと浮きまくりなんでしょう。このアクセス数もその好奇の目プラス軽蔑しきりみたいな事で記録されたんでしょうか。

でもねえ、私は考え方を変えるつもりはありませんよ。だってこれ以上多数派の横暴を許せませんもの。平岡さんは確かに配慮に欠けていたかもしれないけれど、だからといって自らの偏った考えを棚に上げ、こちら側に対して被害者のことを考えてないじゃないか、なんていけしゃあしゃあと述べるような人間がのさばってるこの世では、私は書かねばなりません。

まずね、偏ってるって何なの。私今日は頭に来てるんで全般的に口が悪くなるかと思いますがご容赦いただいて言わせていただくと、てめえが言えた口かよ、と。偏ってる?あんたらにだけは言われたくねえわ。人に対して偏ってるというのなら、自分は公平な目でもって世の中を見れていることが大前提でしょう?

自分は加害者の側にも配慮した意見なんてのとは一切無縁なくせして、こちらが加害者を守れば被害者を無視してると喚く。じゃああんたらはどうなんだ。加害者を無視してるじゃないか。こんな横暴な理論がありますか。そもそも加害者にだって人権があるというごく当たり前のことすら理解できないような人間に、こちらの考えを偏ってるだの被害者を無視してるだの言う資格なんてないんです。それが言いたいのならそちら側も加害者の人権を配慮したような発言を心がけるべきでしょう。

平岡さんの問題となってるシーンは私も見てましたが、平岡さんの言っていることは間違ってはいなかったと思います。ただ被害者の方に直接言うには配慮がなかったと言わざるを得ないし「死んだってその人は帰ってこないんだよ」とか「じゃあ死ねば満足なんですか」的なことは本人に言うにはきつすぎる言葉であることは私も分かります。だから言ってる事は間違ってないけどそれを本人に言っちゃあ、と私は思いました。結局それが自分の事は棚上げ軍団からのバッシングの糸口を作ってもしまったわけですから。

でもそれはあの番組構成にも問題があると思いませんか。被害者の方を連れてきちゃったら、加害者側の人権を守ろうなんて言ってる人は何を言っても悪者じゃないですか。そうやって何を言っても被害者の事を考えていない、被害者感情を無視してる、なんて言われるようなフィールドに人を上げる事自体がフェアじゃない。とても姑息な方法だと思います。被害にあっても加害者に更生してほしいと思ってる被害者の方だっているわけですから、そういう方をもう一人呼ぶとか、そういう風にしないとこっちが一方的に悪者になるだけですよ。

で、その番組構成にそのまま流されてバッシングに走ってしまうような人がいるんでしょ。話になんねえよ。大体他の人と同じような事を言ってどうしようというのでしょう。別に私は気をてらう意味でこのような考えを表明しているわけではありませんが、他の人が散々言ってる事なら、ああみんな言ってるからもういいやって思いません?だってあなたが言わなくたって他の人がもう言ってますから、同じような事をね。

どうしても書きたいならもう散々言われてますが、みたいな前置きをするとか、さも自分が初めてこう考えたんだ、みたいに言ってるのを見るとちょっと笑ってしまいます。他の人がもう言ってる意見を声高に言うのって意味あるんですか。多数派の示威行為?これはこの件以外にも言えることですがね。平岡さんの配慮のない発言よりも、自分が常日頃からどれだけ傍若無人な発言をしているのか考えてみたらいいよ。

私は常日頃から犯罪は個人の責任だけに還元できるものではないと明言しています。それが子供ならなおの事、家庭環境や、社会環境に押し潰されてしまう事はままある。ですが今回の事で、他の人のブログを検索して読んでみてもそうだし、太田総理での竹山の発言を聞いてもそうだし、要するにそれがなんなんだ、とそっち側の奴は言うわけです。

だからなんなんだ。家庭環境が悪くたってちゃんと育つ奴はいるじゃないか。そんな事は罪を軽くする理由にはならないよ、と。

頭が痛くなります。このセリフに潜んでいるおぞましさに皆様はお気づきでしょうか。こんな人間が多数派を占めている世の中に私はゾッとします。ほんとに背筋が寒くなる思い。

あなた方が言っている事はこうです。虐待をされたってちゃんと育つ奴はいるんだから、犯罪に走るのはお前が弱いからだ。いじめを受けたって死なない奴は死なないんだから自殺するなんてちょっと精神がたるんでるね。受験のプレッシャーぐらいで何なの。そんな事で親を殺すなんてどうかしてる、弱過ぎる。そんな弱い人間は死刑で当然。社会にはお前みたいな弱い人間はいらねえんだよ。

そういうことでしょう?あなた方が普段言っているのは。強い人が、環境によらなかった人が一人いたら、私たち弱い人間はみんなそれに合わせねばならないのですか?居場所がなく拠り所もなく、押し潰され踏みにじられされた挙句人を殺せば我関せずなのですか。あなたのせいではないのですか。普段から人を差別してませんか。人をふるいにかけていませんか。そのせいで人殺しに走った人はほんとに一人もいませんか?

このように、普段あなた方が発している暴言に比べれば、平岡さんの配慮のなさは100倍ぐらいマシです。自分の考えが全てだと思ってるというような批判も見られましたが、私に言わせればどっちがだよという事になります。自分の偏りきった考えを棚上げし、人の考えを偏っているとなじる。人間として最低です。

想像力がない、人としての柔軟さがない、自分の正義が全てに適用されると信じて疑わない、相手の意見を聞かない。それがあなた方です。私はあなた方が怖い。太田総理の投票によれば、9割がたの人間が人殺しは死刑で当然と思い込み、9割がたの人間が自分が正義の鉄槌と信じて疑わないものを加害者に向けて全力で振り下ろしてくる。そんな状況じゃ私は被害者に寄り添えません。

だってそうでしょ。あなた方は偏った見方で加害者を断じるのが許されているわけですから、もうその時点で世論自体が偏ってるんです。そんな時に私が「被害者の心情も考えなきゃね、そういう法律を作ろう」と一歩でもそちらに歩み寄れば、その時点で加害者はリンチにされて殺される。そういう恐怖感、危機感が私にはあるのです。

私は被害者の心情を無視していいなんて言っていない。事情があるから殺しても仕方がないなんて言ってないし、責任を負う必要がないとも言ってない。こちらの言葉の意味を曲解し加害者を殺してもいい人間に仕立て上げようとするのは即刻やめていただきたい。あなた方が想像できようとできまいと、加害者に人権がある事も、犯罪に至る経緯を知る必要がある事も、死刑が人道上問題がある事も事実です。加害者が何をしようと、死刑を認める理由にはなりません。

私は今回の事は多数派の卑劣な言論統制であると考えます。まず相手の意見を冷静に聞く。その上で世論はどう動くのか想像してみる。そしてそれが多数派によるリンチになっているとしたら、じゃあ自分はやめておこうぐらいの自制心は持っていただけませんか。そうでなければ少数派はものが言えなくなる。あなた方は数に守られているいわば温室にいるのだという事をもう少し自覚した方がよろしいかと。

私は加害者をあなた方には殺させません。あなた方の想像力の欠如を加害者に負わせるわけにはいかないからです。世論の力は大変強い。だから私はこんな中で裁判員制度を入れるのには反対なのですが、決まったものは仕方がない。どうせあなた方は死刑を乱発するのでしょうね。被害者も法廷に乗り込んで報復裁判を作り出すでしょう。でも私は加害者を守ります。9割がたの人間が被害者に偏っている状況で、果たして私の態度が不公平だと批判できる資格を持った人間が存在するでしょうか。無理ですよね、自分の事を棚上げしなきゃ。

いずれにせよ、今回の事で私の考えは大声で表明したら投石ものなのだという事がよく分かりました。私がマイノリティたる所以もね。コメント欄を設けてたら完全に炎上してたでしょう。でも最後に言っておきたいのは、私だって被害者の事を考えなくてもいいなんて言っているわけではないという事です。私がここで被害者の立場についてあまり述べなかったのは、そちらが9割の圧力で加害者に死を迫ってくるからであって、それから加害者を守るにはこちらも被害者と加害者を同じ比率で論じていては手緩くなってしまうという事情があるのです。

ですから私は、被害者の人権も加害者の人権もどちらも同じように守っていかなければならないものだと思っています。同じようになんて表現を使うとまた棚上げ軍団に怒られそうですが。

とにかく殺されていい人間も人権を軽視されていい人間も存在しないということです。加害者だけの人権を見ているわけでも何でもないんですけどね。私の今回のこの文、かなり感情的で攻撃的な文章になっている事を認めます。ですが普段からあなた方が加害者に投げつけている暴言などに比べたらかわいいものかと。偏った見方に対して偏った見方で応酬するというのは子供じみているかもしれませんが、今の私はまだそこまで大人になる事ができません。まだ10代ですから。

そちら側の方を侮辱するような文言も含まれていたかもしれません。一応謝っておきます。申し訳ございませんでした。

7月2日追記:この記事に直接飛んできた方は、できればこの後の多数派の暴力も読んでいただけるといいかもしれません。この記事の方が比較的被害者の方の事も書いてあるので、私がただ単に加害者徹底擁護を主張しているわけではない、という事が多少なりとも分かっていただけるかと思います。長文なので無理強いはしませんが。リンクはこの記事の下にあります。

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2007年5月19日 (土)

今日の太田総理

見ました。太田総理。結論から言ってしまえば今日はちょっとがっかりです。今までずっと、太田総理が始まってからというもの、太田の考えに共感し、この人はこっち側の人だな、と嬉しく眺めてきました。でも今回のマニフェストは最悪。太田の事は教育問題や憲法9条についての話などを聞いて以来すばらしい人だと思っているので、これだけで嫌いになるって事はありませんが、やっぱりちょっと残念でした。

メタボリックシンドロームの議員は辞職、タレントは出演禁止とかいう内容でしたが、私はメタボリックシンドローム自体がうさんくさくてしかたがない。どういう根拠があるのか知りませんが、急に出てきたものにみんなが飛びついて、必死にメタボリックかそうでないかを気にしてる様っつうのは滑稽というかなんというか。

何でそうなのか、誰が言っているのか、そしてその根拠はなんなのか。そういうことを一切無視してメタボリックメタボリック騒いでいるようにしか見えんのですよ。

確かに健康は大切です。健康でいるに越した事はない。しかしその健康ばかりに気を取られて、他の事がおざなりになってしまうのもこれどうかという話なのです。

例えば心の健康、太っている権利、タバコを吸う権利、病気になる権利。体の健康もさることながら、個々人が自分らしく在ることだって十分尊重されるべき事のはずです。最近の喫煙者は犯罪者だとでも言いたげな禁煙運動や、今回のような太っていると病気になりやすくなり医療費がかかって迷惑だ、とはばかりなく言ってしまうデブ=悪の風潮も、行き過ぎだと言わなければなりません。

大体集団の迷惑になるからといって個人に自制を促す姿勢というのは最低です。確かに最低限自分の健康に気を配るということは必要でしょう。でもそれは自発的に行われるべきものであって、病気になったら医療費がかさんで迷惑をかけてしまう、なんて個々人が遠慮したり迷惑をかけないようにビクビクしあうような社会はろくなもんじゃありません。

健康は大切ですが、それは絶対的な価値として個々人に奨励するような性質のものなのでしょうか。自分の好きなようにできる権利もあるのでは。禁煙ではなく分煙を。介護予防を押し付けるのではなく安心して介護を受けられる環境を。病気になるなという圧力ではなく、個々人が自分らしく在る事のできる社会を。メタボリックになったらどうしようなんてビクビクしながら暮すより、好きなものを食べて心が健康であることの方が大切です。

そういう社会環境の下で個々人が高齢化や国家の財政危機などのことを考えて、自発的に自分の健康を気遣うのならそれはすばらしい事だと思います。集団は個人に何かを強いるべきではない。いくら国の財政が苦しかろうとも、安心して病気になれる社会の在り方は大切です。ですから集団や政府はあくまで個人にお願いをするというスタンスでなければなりません。「デブは金が掛かって迷惑だから痩せろ」という強硬な姿勢ではなく「実は今国の財政は大変厳しく、もしよろしければ医療費抑制にお力をお貸しいただけないでしょうか」というのが本来の話ですし、それだってもちろんこっちには断る権利があります。

それにメタボリックは本当に信用できませんからね。ほんとに痩せたら医療費抑制に繋がるのかも怪しいもんです。ああいうぽっと出のものをあっさり信用してさもずっと昔から知っていたかのように振舞う人たちってのはほんとに滑稽。もっと色々と勉強してメタボリックの嘘や矛盾を暴きたいと思います。

とはいえ、こういった独善主義に陥りがちなのはメタボリック云々に限りません。環境問題にしろ政治問題にしろ、なんかそういう活動って自分達がやっていることだけが正しいんだという独善主義に陥りがちですよね。

環境問題についていうなら、例えば食品などで、中国から運ばれてきた物と国内から運ばれてきた物ではそこに運ぶまでの燃料の消費量が違いますから、国内から運ばれてきた物の方がCO2の発生量が少ないという事が言われます。でも、値段では中国産のほうが安かったりするので、そうするとお金がない人は中国産を買う事になる。この時環境にいい事をするのが何にも勝る正義なのだという発想があると、個々人の金銭状況を案じることもなく、国内産を買うことばかりを声高に訴えかけるような事になってしまう。

このように、確かに環境にいい事をするのは正しいのですが、それが個々人の状況を無視したものになってしまうと押し付けになったり、強制になってしまったりする。だから何をするにもその事だけが絶対的な正義なのだ、という独善主義はできる限り押さえるべきであると考えます。

そういう理由で、前述のメタボリック論争も腹が立つことしきりだったわけです。健康は大事ですが、