2009年4月23日 (木)

善悪はエゴに塗れている

2007年10月に「善悪は存在しない」という記事を書きました。普遍的な善悪が存在しないという点では前回と変わってないのですが、ただ善とか悪とかいう言葉に普遍的な意味を持たせることが多少面倒になってきたので、今日はそれについて。

以前の私は善とか悪とかいう言葉に無条件に「普遍的」という言葉をくっつけていたのです。というか世間でも基本的には善悪といえばそこには個人的な好き嫌い以上の何か、普遍的、絶対的なものがあると思われている。だからまあ私もその捉え方に則ってそのような善悪は存在しない、私の意見は(普遍的な)善でも(普遍的な)悪でもないということになっていたのですが、果たして善悪という言葉ににそこまでの意味を背負わせることが必要か?と考えたところ必要ないんじゃないか、と。

善悪には明確な規定も根拠もない。利害でもなく、自己満足でもなく「価値あるもの」に則った道徳律などありえない。概して自明のこととされている事柄はそれほど自明ではない。そもそも普遍的な意味など付与しようもないのですから善悪はもっとエゴイスティックな使い方をしてもいいのではないか?と思ったのです。

普遍、且つ絶対の善悪が存在しないからと言って、私の私的な善悪まで「存在しない」と言わなければならないのは文章としても煮え切らなくなるし、言ってる方も気持ちが悪い。好き嫌いより善悪の方がパンチが効いてるし、私の中に「道徳」がないわけでもないし。というわけなので、善悪という言葉はエゴと同程度、好き嫌いとはほぼ同義語として使い、普遍的な意味を持たせたい場合は「普遍的」を付けるか括弧で囲うことにします。

因みに善とは「よいこと、道理にかなったこと」、悪とは「わるいこと、否定すべき物事」です。世界の総人口である六十数億通りの解釈が可能って感じですね。まあその中の一つとして私の善悪があると。

その点、正義という言葉は「人が行うべき正しい道理」とあります。気持ちが悪い言葉ですね。この言葉にはどうやっても普遍的な意味が絡みついてくるようなので、正義は存在しない、故に不正義も当然成立しえないとします。

善を他人にまで適用しようとしたときそれは「正義」となり、その「正義」に基づいて嫌いなものを見たときそれは「不正義」となる。狭量なシステムです。価値を生み出したくない私には関わりたくないシステム、というか関われないシステム。自分の善悪に価値を見出そうとした瞬間、吹き出してしまうんだもん。「これがなんなの?」と。「なに、みんながこれに基づいて生活すべきだって言うの?冗談でしょ?」となる。無理。私は真面目に正義や不正義を語れる人間じゃない。

というわけで、前回の記事は「普遍的な善悪は存在しない」とするのがよく、私的な善悪については存在するが無価値と。私にとって善かろうが悪かろうがそこには何も生まれてない。

私個人の利害、執着、趣味、思想、性格、行動、愛…そのどれもがつまり屑そのもの。「そうであること」が何らの必然性も持たず、何らの価値も生まず、何らの影響を与えることもなく消える。いいことだ。それはとっても健全なことだ。

たぶん今まで書いたことと重複する部分が大量にあるんでしょうけど、思想というのは同じところをぐるぐる回りながら、反芻しながらやるものですから気にしない。

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2009年1月 4日 (日)

パソコン入手

003 なんとか手に入れました。上はブルーレイレコーダー。

NECのデスクトップにしたんですけど、接続でごちゃごちゃやってる間に「ノートにすればよかったか」と多少心が折れかけました。めんどくさい。でもいったんこうやって買っちゃえばハードディスクも液晶も替えがきくんだもんね。なんとなく気が楽。




パソコンって電気屋だとブロードバンド同時加入で安くなるってよくやってるじゃないですか。私はそういうのを変えるとなると精神的に疲労が大きいので普通の値段で手に入れるつもりでいたんですが、結局電気屋の人と隣の親父になんだかんだと吹き込まれブロバイダーを変える羽目に。光電話にもなっちゃうし。大体私のような人間が電気屋なんぞに赴いてまともな判断ができるはずがないのよ。はいはい言っちゃって断りきれなくて…。まあ光は速いらしいし、パソコンも3万円安く買えたからいいけどさ。

で、帰る段になって配送してもらおうと思ったら送料が3千円。ぐだぐだ思案した揚句一緒に買ったブルーレイレコーダーとこのパソコンを手で持って電車で帰ってきたわけです、親父と二人。肩は筋肉痛だし明日からはバイトが始まっちゃうしで気分が。いまどき車持ってないと家電も安心して買えませんね。まあ免許なんて取る気ないけど。

にしてもぉ、デジタル放送ってすごいですね。番組表見れるし、天気予報見れるし、説明書をあんまり読まないからその他の機能は知らないけど。レコーダー自体も2番組同時録画が可能な優れもの。ハードディスクに何百時間もとれるなんてもうビデオをガチャガチャ引っ張り出す必要もなし。基本的にテンションが上がらない、上げてはならないという縛りの中で生きている私ですが、新しい電化製品にばっちり舞い上がっております。

さて。先月はパソコンがなかったせいで、自分のブログなのにえらい遠い位置にこの場所を感じていましたが、今月からは晴れて復活ということで。更新頻度もそれなりのものにしていきたいと思います。って何回言ってるんだろうねえ。

あ、そうそう、あけましておめでとうございます。年明け気分も対してなかった上に、正月がめでたいという感覚もないものですから言い忘れるところでした。まあ世間の皆さんは今年もいい年になるといいなあ、とか思ってへらへらしてるんでしょうから、私もやっぱり「おめでとうございます」という調子は合わせておかなければと思うよ。

というか私日付について思ったことがあるんです。それは人間というのは節目がないと人生に耐えられない生き物なのか、ということ。例えば地球に生命が誕生してから人間が現れて今に至るまでの間、何の意味もない時間がただ流れていたという事実からみんなは目を背けたい。だから、今日は何日、今日で今年が終わり、今日から新年、と私から見れば全く、くだらないとしか言いようのないそれを唱えることによって、人生の無意味さを感じないようにしているのではないかと推測したわけです。

昔の話なら歴史的事実、最近の話なら去年、一昨年。そういう節目と結びつけてなんとか人生を意味あるものと捉えようとする。実際は去年も今年もへったくれもなく、ただ永遠に無駄な時間が流れているだけなんだけど、それだと普通の人間は萎えるんでしょうね。私なんかは人生が無意味であるというところに喜びを見出しているのでその厳然たる事実が嬉しくて仕方がないのですが。

一日一日が意味のある、価値のある人生なのだと思いたい人達が、日付を追いかけ、必死で新年を祝ってる、そういう風に見えるんです。昨日も今日も何も変わらない無為なものであるという現実から逃げて逃げて、あけましておめでとうございます。なんだか辛そう。

世間の要所要所の馬鹿騒ぎも、そんな風に捉えれば「可哀想な連中だな」と思えて楽しくなるかもしれません。やれクリスマスだ、やれ正月だ、やれ成人だ、ってくだらない。無価値ってそんなに怖いことかしら。正月もクリスマスも、ある段階で人間が作り出したフィクションでしょう?その由来に余程心を打たれれば別だけど、たぶん大半の行事は私の人生とは関係がないと思う。

ただ地球があって人間がいて、私が認めるのはその事実まで。それ以外は惰性か妄想のどちらかです。そういうものには興味がない。付き合うつもりもないし。私は自分にとって心地がいいものを見つけ出し、馬鹿とは距離を置きつつ、自分なりの記念日なり行事なりを作成したいと思います。まあ思いつきですけど。今初めて言いましたけど。

カレンダーとか鬱陶しいわ。ほんと前回の記事でも書いたけど、カレンダーをも超克した生。それが「今年の」目標です。

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2008年8月 6日 (水)

ふざけきったジレンマ

何で人は沈黙が流れると天気の話を始めるのだろう。黙ってりゃいいのに。その態度がものすごく軽薄な気がして気に入らない。そうまでして人と話していなければ落ち着きませんか。私はそんな奴とは絶対に友達にならない。あと加藤智大に共感できないような奴とも(略)

久しぶりにちゃんと前置きを書いてみた。最近は考えるのもやめていたのだけど。

それはそうと、私は最近悩んでいる。書くことについて…なんてもったいぶって書くとサムいのでさっさと言ってしまいますが、私はとっても気が小さい。自分の言いたいことを言って、後は知らなーいなんてことができるような人間ではない。それが悩みの入り口。

表現とは誰かを傷つける事、と爆笑問題の太田が言ってましたが、本当にその通りで、何かを書くって事は誰かを傷つける事だと思う。誰も傷つけない表現なんてない。あったとしてもそれは実質的に何も言っていないに等しいような表現に過ぎないでしょう。だから自分の思ってることを言おう思ったら傷つく人がいるのは覚悟しなきゃならない。

なのにあろうことか私は悪者になりきれていない。自分の書くことによって傷つく誰かの事が気になったりする。馬鹿じゃないかと思う。今までだって誰かが傷つくのは分かっていたんだけど、コメント欄を設置した事によってその傷つく誰かの存在がより生々しく感じられ、恥ずかしながら、少し、筆が鈍る、ことがある。

私の心は二律背反どころではない。三律背反、四律背反である。優しいとかいい人だとかは死んでも言われたくない、でも誰かが傷つくのは気になる。言いたいことが言いたい、でも感情的な人間とは思われたくない。憤ってる、でも同時にどうでもいいと思ってる。そりゃあもうここでは書き表せないぐらい複雑に相反するものたちがね…。

傷つく人がいるから書かない方がいいというのは違うと思う。そんなものいようがいまいが書かなきゃならないことはあるし、そんなことに気を取られてたら言いたいことが言えない、伝わらない。医者が患者一人ひとりの死に感情移入してたら務まらないように、物書きもそうだと思う。自分の吐いた言葉によって傷ついた人間一人ひとりに気を取られてたら務まらない。まあまったく無感覚になってもダメなんだけど、私の場合そのバランスがあんまりうまくない。

これを読んでる人ってのは私がきつい言葉を何の遠慮も躊躇もなく書いてると思ってる?まあそれならそれでキャラが通ってるって事でいいんだろうけど、残念ながら私はそんなカッコいい人間じゃないのね。本当に残念だけど。

気持ち悪い。私はそんなきつい人間じゃないんだ、分かってくれなんて言ってると思ったら大間違い、そんな言葉書いただけで反吐が出る。ただここは私の場所で、私が思ってることを遠慮せずに思う存分書いていい場所で、それなのにつまらない配慮なんてものに取り付かれそうになってる私を少し叱咤激励しようと思ってこれを書いてる。偽悪はダサい。でも単純ないい人もダサい。何を書いてもこの題材じゃダサくなってしまう。私という人間のどうしようもなさを象徴しているようだ。

「知ったことか」と言いたいけれど。そう言うべきなんだろうな。本物の「悪」になるしか抜け道はない。

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2008年7月18日 (金)

虚構を楽しむ

死刑について考える時、私はいつも何かしっくりこないというか、アンビバレントに陥る。それは私が普段は命が大切だなんて思ってないのに死刑の話になると人の命は大切だとか言い出すからです。

私は仮にもニヒリストという名前を名乗っていて一切の価値は虚構に過ぎないという立場を取っているわけです。そりゃあそこまで虚無主義を極めたわけではないですが、基本的には人が生きて息を吸ってる、それが群れをなしてるという事実がある以外は全て無効だと思ってます。そんな私があまり命が大切だとか連呼するのもどうかなと。

そんな事が言いたいために死刑に反対してるんでもないんだし。むしろ人の命の大切さなんてどうでもいい。私は人間の命がどれだけ無価値でもゴミ同然でも扱いに最低限の配慮ってのは必要だと思うの。私が死刑に反対するのは気持ちが悪いからです。国家権力とタチの悪い世論とが共謀して人を処刑するあの醜悪さが見るに耐えない。

私は善悪の観点からこんな事を言っているのではない。死刑廃止を訴える私と死刑存置を訴える他者と。別に何も変わらない。私の言ってることが正しくて向こうの言ってることが間違ってるなんて私は思ったことない。ただ私とは好みが合わないってだけ。全てはくだらない嗜好に過ぎないのです。死刑は私の口に合わないの。

何の正当性も必然性もないのに、ただ口に合わない気に入らないというだけでどれだけ騒げるかの勝負。究極のエゴイストになれるかの勝負。こうすべきだという道徳的、理論的裏付けはなく、嫌だからやめろという我だけでやっている。私はニヒリストであると同時にエゴイストであらなければならない。何の価値もないところからエゴを取ったら何もすることがなくなってしまう。

でもそれと同時に自分のしたい社会にするためには他人の支持を取り付けなければならない。ただ私が嫌だって言ってもじゃあやめるねって言うこと聞いてくれるわけもない。他人を巻き込むにはもっともらしく理屈を述べなければならないし、それが何らかの価値に規定されているかのように語らなければならない。単なるむき出しのエゴイズムじゃなんともならん。

私は人を説得するとか自分の考えに染めるなんて事は考えたことがなかった。人それぞれ色々な考えがあるし、なにより自分にそんな力があるなどとは思いもしない。でもそれじゃあいつまで経っても生きやすくならない。苦しいまま。嘘と分かっていても虚構と分かっていても何らかの価値を語り人を巻き込んでいく事がきっと大事で。宗教者ってのはそうやって人を騙してきたんだと思うし。石原も中曾根もそうやってエゴイズムを加工してるんだし。

だったら私も思ってもないことをなんて悩んでる場合じゃないよね?私は人間の命が大切だなんて思わない。でも目的達成のためならなんとでも言いましょう。死刑推進派よりも派手に華麗に壮大に、嘘を並べる。私は今悪魔に魂を売った。何度でも言える。人間の命は大切だ。それは何物にも変えがたい。

罪悪感なんてない。エゴイストはそんなことでくよくよしない。自分のしたいようにすることこれが唯一の目的。そのためにどのような価値を拾ってきてくっつけるかあるいは自ら捻り出すかが重要なの。そう言い切ってしまうと迷いがふっ切れて楽しくなってくる。人道主義者のようなことを言っても人権派のようなことを言っても心の中で「まあそんなこと本気で信じちゃいないけど」と笑っていればアンビバレントに悩む必要もない。私は自分にとって心地いいものを身にまといエゴイズムとニヒリズムを隠匿していればいい。

私にとって論理は借り物、あらゆる価値はその場限りのお付き合い。自分のしたいようにするための方便、虚構に過ぎない。

こうして人生の目的ができた。「あなたの夢はなんですか?」「究極のエゴイストとしてこの世の中を牛耳ることです」。素晴らしい。実に素晴らしい。もっともっと嘘のバリエーションを増やさなきゃ。私はそれに一生をかける。

最後に言っておくと私がこんな事をおおっぴらに書くのはおそらく最初で最後であろうと思われます。こんなことをいつもいつもぶっちゃけていては私の言っている事の信憑性が失われてしまう。私は真面目に人権を主張しなければならないのでもうこんな事は書きません。

今ふっと全てを台無しにする考えが頭をよぎったのですが、もしかして全ては

単なるいい人に陥らないための屁理屈なんじゃ

違う違う!そんなわけないでしょ!

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2007年10月 1日 (月)

善悪は存在しない

また更新が滞ってしまいました。でも今回は少しはちゃんとした理由があって、5日ほど前になぜ人を殺してはいけないのかについて頑張って書いてたんですが、結局自分の中で矛盾を処理しきなくなって記事がダメになったのです。

その矛盾というのは善悪と関わりがあるのですが、ダメになった記事の代わりに今日はその善悪について少し展開してみようかと思います。

まず私は基本的に善悪という概念を信じない。それを誰が決めるのか、根拠は何か、全人類に適用されうる善や悪など存在しないのだから、やはり自分が善や悪を理解しそれに則っているなどと思うのは思い上がりではないのか、などの疑念があるからです。

自明な善悪などどこにあるのか。法律に書いてあるから?みんながそう言ってるから?今までずっとそうやってきたからか。これらの事は何の根拠にもならない。法律なんて社会を運営する上で便宜上定めてあるに過ぎないし「みんな」はいくらでも道を踏み外す。「みんな」がいつも正しいなら愚衆政治なんて言葉は生まれなかったはずです。これまでそうやってきたからなんてのもこれからもそうあるべきという事には繋がらない。

今巷に言われている善悪は単なる主観やエゴに過ぎない。そもそも人間の主観を超越した善悪なんてものが一介の人間に分かるはずがないのですから、あらゆる人間は自分が正しい、自分だけが正しいという考えを捨てるべきです。戦争を望むか望まないか。殺人を望むか望まないか。人権を望むか望まないか。国と個人どちらを優先するか。全てはエゴに過ぎない。

こう言うと善悪が分からなければ行動しようがないという考えが一瞬頭をよぎるけれども何のことはない、善悪に従う理由などどこにもないのですから自分の行動が正しいか間違ってるかなんて事を気にする必要がない。善悪はいつでもひっくり返り、悪を選択し悪を自らの思想にしてはいけない理由もない。私は自由です。法律も社会規範も道徳も私を縛れない。

ここまで書いて結局の所悪ってなんだよと思ったので調べたら、悪は「悪いこと。否定すべき物事。道徳・法律などに背く行動や考え」。いいじゃないですか。何の問題があるというのか。というかここまで不確定要素満載だと気を付けようもない。一体「誰にとっての」悪いこと否定すべき物事が悪なのか。マジョリティにとってでしょうか?地球にとってでしょうか。政府にとってでしょうか。結局は何に重きを置くかで悪が決まり、「○○にとって」の「○○」の部分を何にするかで善悪はいくらでもひっくり返る。善悪は個人個人の主観に過ぎないというのは当然です。もし何もかもを超越する善悪があったとしても、私がその根拠や証拠を見つける事ができなければ私にとってはその善悪はないも同じであり、結局は善悪はエゴだという説を繰り返すことになります。

私は戦争は嫌です。でも地球のためには人間同士が殺しあって人口が減った方がいい、という思想が善だとすれば私の考えは悪だという事になります。私にとっては首がない人、腸が飛び出てる人、脳がはみ出してる人などが倒れている地獄のような光景を、戦争によって作り出す事が地球のためだという事は承服しがたいので、地球のため説には反対するけれどそれが超越的な善悪に則っているかは分からない。

私は人権より大切なものなどないと思っています。それは犯罪者であれなんであれ誰にでも認められなければならないもの。だから死刑にも反対です。でも一定の人間に対しては人権など認めずに社会運営を優先させた方がいいという思想が善だとすれば私の思想はこれまた悪。この場合私は人権を踏みにじり国だ社会だと抜かす奴らが死ぬほど嫌いなので自分の主張を展開するし反対もし続けるけど、それが善かどうかなんて知らない。私は自分の言っている事が善だなんて思っていない。善である必要もない。むしろ悪であるほうが燃えるかもしれません。

私にとってのこうあるべきというのは単なるエゴであり、善であるなんて思い上がりは捨てるべきだと思っています。でもそれは私の主張を緩めたり遠慮する事には繋がらなくて、私はただ自分の主張が単なる主観、エゴである事を自覚しただけの事であり、じゃあ何も変わってないじゃないかと言われればその通りで、私自身善悪が存在しない事を殊更書き立てて何になるのかはよく分からない。ただやはり今の社会での規範や道徳に過ぎない事を善だと思い込んでいたり、自分の主観に過ぎない事を善だと思い込んでいたりする人々が結構いるので、お前の言ってる事は悪かも知んないじゃん(私にとっては悪でもいいんだけどやっぱり一般の人は善悪に従ってないと不安みたいだから)という事が言いたかったのだと思います。

私は思考停止には陥りたくない。規範も道徳も疑って、自分自身の考えている事や信じている事さえも疑っていかないと知識も何も高めていけない。思考停止の人達の滑稽さも見てきてるし。

私もこれぐらい書けばニヒリストを名乗る資格ありでしょうか。もっともっと虚無に磨きをかけなければ。そういう事のためならいくらでも頑張りますよ私は。

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2007年6月28日 (木)

ウマいこと

今非公開の日記を書いていて、ウマいことを思いついたので書き留めておきたいと思う。   
       

     
私の人生は恥のアップデートである。更新頻度はマカフィーの比じゃねえ。

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2007年2月14日 (水)

後半わりとがっつり書いたつもり

はー、気がつけば結構な期間ここをほったらかしてしまいました。なんかものを書く気がしなくて、このまま書かなくなって自然消滅するんじゃないかってぐらいの勢いでした。

でもちゃんと思いとどまりましたよー。ここはちゃんと長続きさせるつもりです。一応固定読者っぽい人も何人かいてくれてるみたいだし、更新頻度は下がっても書き続けます。見捨てないでいてくださいませ。

でね、最近ヤマナデにはまりました。正しくは「ヤマトナデシコ七変化」というテレ東でやってるアニメなんですが、なんというかどこをとってもどストライクなんですよね。やっぱ主人公が暗いってのがいい。半引きこもりで化粧だのファッションだのといったものと一切無縁な私としてはもう主人公スナコに惹かれっぱなし。

私も暗幕はって生活したい。いいよね、暗い女の子って。あーやばいDVD買っちゃうかも。単行本も買っちゃうかもー。

あとね、もう一個はまってるのがバックギャモン。携帯で何気なくダウンロードしてやり始めたら段々面白くなってきてしまい、パソコンでフリーソフト見っけてきて毎日やってます。でももとからこういう系の才能ないんですよね、私。

オセロはクソ弱いし将棋はルールすら覚えることができず…。でも負けまくりながらもついついやってしまう。気がつけば何時間も経ってたりしてね。もとからない生産性がさらに下がりましたよ。私の辞書には建設的なんて言葉は存在しませんね。日々破壊。日々死滅。

まあはまってるものを列挙するという今時のブログにありがちな構成になってるわけですが、最後にもう一つ言うなら、あれです。前に町田康が好きだってここで書いたんですが、あの人小説とか以外にもCD出してるんですよね。パンクロックで。こっちの方はあまり売れなかったみたいだけど。

で、その内のひとつの「腹ふり」っていうアルバムの中の「わるいやつ」っていう曲。これが今の私のテンションにこれでもかってぐらい合致してるんですよ。昨日からこの曲ばっかり狂ったみたいに聴いてます。

何がいいっていうのを表現するのがちょっと難しいんですが、具体的に言うと最後の繰り返しの部分がいい。「愛に溶けてしまう でも 恋に滅んでしまう」と繰り返したあと「ここに誰を見捨てるの」と繰り返して終わる。

なんかここで書くだけだと伝わりにくいんですが、思いっきり没頭して一緒に歌ってるといい感じに虚無が溶け出してきて、嘲笑が漏れ始め、奇声を発しながら家中のものを壊して回りたくなるぐらいのものはある。

前半の部分もかっこいいんですけど、やっぱり後半の繰り返しはすごい。なんか麻薬的なんですよね。中毒性あるし、テンションおかしくなるし。

なんか世では今日はバレンタインデーらしいっすね。へっへっへー、私には関係ねえや。本命どころか義理すらも渡す相手いないんですけど。何で7年半も同じ所に通って友達のひとつもできなかったのか不思議でならねえ。

ふっへっへ、東国原知事もビックリのしがらみのなさだね。そういえば私こないだテレビでやってた人間関係力テストってのやったんだ。私信じないくせにそういうの好きなんだよね。占いとかも見たって言う事聞かないくせに見るのだけは好き。ラッキーカラーはピンクとか言われて「身につけられるかそんなもん」と一笑に付すのが趣味みたいな。

まあそんな事はどうでもいいんですが、結果は人間関係指数は87でやや不足。ちぇー、人間関係力なんてネーミングが心をえぐる感じだし、どんだけひどいもんかやってみようと思ってやったのに、やや不足じゃつまんないよね。がっかり。

まあこんなテスト当てになんないしね。私がやや不足なわけないもん。もっとあれもこれも足りてないでしょう、明らかに。

そんな感じで、最近はいつにもまして虚脱してます。あ、でも溜めてた新聞は4ヶ月から3ヶ月になりました。私明後日の16日で18になるんですよ。18になる頃には新聞なんてとっくに片付いててバイトを探し始めてるはずだったんですが、まだかかりそうです。

でねー、気づいた人もいるかもしれませんが、2月16日って北の将軍様、金正日と同じ誕生日なんですよ。よかった、ブログのネタになるような誕生日で。なので、明日明後日と北朝鮮のニュースを見たら私の誕生日に思いを馳せてください。

それでは、もう寝たいけど今から風呂入ります。また寝るのが遅くなるー。強制終了ならず。

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2007年2月 5日 (月)

絶望を希望する

寝起きです。こんな時間にね。もういやんなっちゃう。

なんか段々暗くなっていく部屋で、布団の中に臥していると、ちょっと現実離れした気分になってくる。

このままこうしていれば誰かが闇の中に引き込んでくれそうで、このままこうしていればもう一生起きなくてもいいような気がして。

でも私は普通に起きた。起きて早々電気をつけ、現実に向き合う。今の私じゃ闇の中にいったところで眩しがられ、疎まれる。でもこっちの世界で認められるほどには明るくない。

絶望には年季がいって、希望には体力がいる。今の私にはどちらも手に入りそうもない。そして私の勘だと希望に耐えうる体力をつけるよりも、絶望を積むことの方が私に向いてる気がするんだよね。私はこれから前向きに一生懸命生きるけど、でも私は幸せよりも辛い思いをいっぱいすりゃあいいなあと思う。

人間幸せなだけじゃバカになるし、これからいっぱい辛い思いをすれば絶望しても文句言われない。なんか後ろ向きにも聞こえるかもしれませんが、私は十分前向きです。別に今ある希望を否定するわけではないし。ただそれらをちゃんと検証して、絶望に磨きをかけたいと、そういうことなのです。

私にとって辛い思いをするということはコンプレックス解消の手段でもあるのかもしれません。もっといっぱい辛い思いをして悲哀を知れば、私だって少しはマシな人間になれるかも。ここ1年ぐらいかな、そんな事考えるようになったの。

なんかさすがにこの時間に起きると感覚くるいますね。昨日の夜中の続きみたい。今がどっちの6時なのかちょっとあやふやだもん。

そういえば、今日布団から出るとき私が無意識に発した言葉があった。なんとなく書いておきたい。「私には光なんて必要ない」。なんなんでしょうね、こういう言葉を無意識に発する心境って。自分でもよく分かりません。

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2007年1月 4日 (木)

初詣の報告

いやっほー、最近もう人生というものが楽しくてしゃあない。無駄に残ってる希望を一つずつ見つけ出しては粉砕する作業を体験できるのも若いうちならでは。絶望を確かなものにするため、今日も頑張って生きてますよー。

とりあえず今日はこの間父親と初詣に行ってきたのでその様子を報告。

初詣。最初に誤解のないよう断っておきますが、私はそういった行事が大嫌いです。大体年に1回思い出したようにお参りしたって神様は願いなんて聞いてくれねえだろうと思うし、わざわざ混んでると分かってる場所に出向くということ自体も非常に屈辱的です。

そこまで言うならなぜ行ってきたのかと言うと、私は基本的に父親の誘いは断らないようにしているからで、それがなぜかという事はまた稿を改めさせていただくという事で。今は気にしないでください。

ということで父親に誘われるままに行ってきたわけですが、冒頭に書いたように私はとにかくそういう俗世間がやるようなものが嫌いなので、所々イラっとする場面も。

そもそもあの中に普段から信心深く暮らしてる人がどれだけ居るのか、とか分かりきった不満がまた噴出してくる。年に1度何も深く考えず集団で大挙して、しかも今回は並んだ挙句に立ち止まってのお参りもできないときた。混んでるからだって。

っていうかさー、40分近く並んだ挙句に金をほうるだけって、そんなもんもうただの神社への寄付じゃないですか。ろくに神様の事なんて考えもしてないような奴らが年に1度押し合いへし合いして、ただ金を投げて帰っていく。そんなのむしろ神への冒涜ではないのだろうか。どうせ行くなら真剣に神に祈りたいと考える私の方がクソ真面目みたいになってきてるじゃん。

そんな感じで、年に1度都合よくお願いするのも何か申し訳ないような気がしたので、去年は結局何も願わなかった。神様もこんなに大量の人間の願いを聞いてうんざりしてるだろうと思って、ねぎらいの言葉だけかけて帰ってきました。年に1度膨大な量の願い事を聞かされる神様が不憫に思えて。

でもねえ、そんな私も今年はどうしてもお願いしたい事があった。ちょっと奮発して100円投げて、お願いしてきました。あんだけ人がいたら私の願いなんて聞いてくれなかったかもしれないけど。

何を願ったかはここでは内緒です。何となく言いたくない、というか言ったら結構イタいことになるやもしれませんので、ここはあまり追求しないでください。結局俗世間っぽい事をやってしまっている私。問題ありますね。まあ父親との付き合いでもなかったら絶対やらない事なんで見逃してください。

はー、もう過去何度言ったか知れませんが、やっぱり締めってどうしたらいいのか困る。いつも書き終わってからここで時間を取られるんですよね。とりあえず今日は面倒なのでこの辺で終わりにさせていただきます。

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2006年11月30日 (木)

布団の中でのぼやき

今携帯から更新ってのに挑戦してます。布団の中から。なんというかもうだるくて布団から出られんのです。

ちなみに今日の起床予定時間は11時。どんだけのびのびなんだよ。

やりたい事はいっぱいあるけど、布団の中にいるとそれらの雑事と向き合うのがやんなってきて、ついうだうだしてしまうんです。もうダメ人間の極致っていうか。

早く起きるためには早く寝るってだけの事がなぜもっとすっと出来んのか。ほんとに自分が嫌になる。

こんな風に時間を無駄にしつる場合じゃないってのは分かってるつもりなんですが、どうも体がゆうこときかない。

もうこの年からこんなババアみたいな事言ってたら駄目ですよね。若い内はもっと生きてるのが楽しくて仕方がない、みたいな感じでガバっと起き上がらないとさー。

ああもう、そろそろ起きます。でもこの時間に起きるとちょっとボーっとしてたらすぐ外真っ暗なんですよね…。またやる気が失せてきた。いかんいかん。よし、起きるぞー。

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