2010年12月21日 (火)

日比谷公会堂で集会「死刑のない社会へ」に参加

先週の日曜日、日比谷公会堂で行われた「死刑のない社会へ 地球が決めて20年」という集会に参加してきました。死刑については常に関心を持ってきたつもりでしたが、やはり日々の生活の中でおざなりになってしまっていた部分もあって、今回色々な人の話を聞くことによって問題意識が呼び覚まされる思いでした。

いつも「私は死刑制度に反対です」と、こう言うのは簡単なんですが、「なぜなら…」と二の句を継ごうとするとはなんだかもやもやしてスッキリしない。もちろん考え始めれば理由はたくさんあるし、死刑制度の廃止を望むという意思が揺らぐことはありません。でも、弾丸のように理由を列挙し「ほらね、どう考えたって死刑廃止すべきなのよ」と爽快に言い切るだけの思い切りの良さは私にははどうもないのです。

色々な反対の理由を挙げてみると、やはり命は大切だなと思いますし、殺されたら殺し返すという報復の連鎖は断ち切るべきだとも思いますし(それも個人レベルならまだしも国家が被害者感情を汲んで処刑を断行するなど刑罰の範疇を激しく超えている気がする)、どんな凶悪犯罪者でも私たちと同じ人間ですから、殺して排除するのではなく社会の中でその人をどう扱っていくかということを考えるべきだとも思っています。

そして何より、私は処刑が嫌なんです。生きている人間の手足を縛り目隠しをし、首に縄をかけ床板を外し死に至らしめる。その光景を生々しく想像すればするほど「こんなことがあっていいのか」と叫びたくなる。あまりに恐ろしく、あまりに凄惨なその処罰が今の日本で受け入れられてしまっている、「仕方がない」と片付けられていることを思うとやり切れない。殺されて仕方がない命などない、正しい殺人などないのだと私は言いたくて、死刑は絶対に日本から、全世界からなくならなければならない、と愚直に思うのです。

しかしまあこれらの主張はとても情緒的です。私の気持ちの本当のところではありますが、これを言っても死刑はなくならないし、情緒に頼れば情緒で返される。つまり「じゃあ殺されてしまったこの人はどうすんだよ、帰ってこねーだろ」とか「被害者遺族の気持ちが」と言われれば私は黙るしかない。

私が情緒的に何かを語っても誰の共感も呼びません。むしろ嫌悪感を煽るだけです。私自身「誰かが処刑されるのは絶対嫌」という感情と「あの凶悪犯をぶっ殺せ」という感情とにどれだけの差があるのかはよく分からない。どちらも結局は生理的な反応なんです。理屈じゃない。その理屈ではない絶対に相容れないだろうと思われるそれぞれの反応が、死刑存置派、廃止派などに分かれて争っている。そんなことじゃないだろうという気もするのです。もっとお互いの生理的な反応を超えたところで、建設的な議論が行われていくべきだろうと。

ただそのように理性派ぶっても、私にもどうしても許せないことがあるのは事実です。「人を殺したんだから当然でしょ」というような発言を聞けば私も感情的な廃止派に早変わり。「その人がどういう経緯で犯行に及んだのかについてお前は思いを馳せたことがあるのか」とか「人を処刑するということがどういうことか、きちんと想像してみたこともないくせに」と言いたくなる。やはりこれは生理的な反応です。「だって嫌なんだもん」という。

結局のところ、私の死刑廃止論の出自は立派なものではありません。人の命は大切だからという天使のような考え方から出発したわけでもなく、ぶっ殺したくてたまらない凶悪な犯罪者をなんとか許して「やっぱり死刑はよくない」に至ったわけでもない。

私は最初から、加害者に共感していたのです。世の中に入っていけない感じ、人より劣っている自分を絶えず見続けなければならない感じ、誰からも顧みられない感じ、他の人が当たり前のようにしていることが自分にはできない感じ、等々。私だってずっとそれを感じてきた。惨めだった。私は色々な偶然的な要素によって、今は自己肯定できているし、この状態が維持できれば人を殺すことはないだろう。でもそうはいかなかった人たちがいる。救われなかった人たち。どうにも惨めで死にたくなるような状態から脱せなかった人たちがいるんです。そんな人たちを死刑台に立たせて殺すなんて私にはできない。

もちろんみんながみんな私が挙げたような人たちではないでしょう。色んな人がいる。でも私はどんな人にも「そうなった経緯」というものがあると思う。そしてそれは完全に個人に還元できる性質のものではなく、やはり社会が登場すべき問題であると思う。今のこの社会ではその人が人を殺そうとした時に歯止めになるものが何もなかった。何故だろう。その「何故」を考えるところから私は始めたい。わけのわからないキチガイが人を殺したんじゃない。私たちと同じ人間が、人間を殺した。なんとかならなかったのか。社会として止めることはできなかったのか。そういうことをとことんまで考えた末の刑罰であるべきだと思う。そしてそれに死刑はそぐわない。

死刑という問題は感情と理屈が複雑に絡み合っている。私は常々感情と理屈は分けて考えるべきだと言ってますが、死刑制度についてはそれが難しい。結局は人を殺すんです。人を吊るして死に至らしめる。命は大切だとか国家による暴力は許されるべきではないとか言ってみても、結局はそれに耐えられるか、それを望むかという感情的なレベルに落ち着いてしまう。

私は加害者の体に取り縋って「この人を死刑にしないで」と泣き叫びたい人です。気持ちが分かる気がするから。世の中で普通に生きている人よりも道を外れてしまった人の方に共通点が多くある人間だから。

人間には遍く感情がある。何が好きで何が嫌いか、何に嫌悪感を感じ何に共感するか。その感情の部分は自分ではどうしようもない部分もあると思う。私はつい加害者の存在に心が吸い寄せられる。でもそれは、その加害者が犯した罪を正当化したり、被害者の苦しみを軽視しているわけではないんです。そのことは分かって欲しいと思う。一人の人を想って涙を流すことに正しい場合と間違っている場合なんてあるんですか?私が秋葉原事件の加藤智大の孤独を思い心を痛めることと、多くの人があの事件で亡くなった人に心を痛めることと、そんなに違いますか。私は悪いんですか?

罪を憎んで人を憎まずという言葉もある。私は被害者の方にこの言葉を投げつけるつもりはもちろんない。でも私たちは、犯罪当事者ではない私たち社会の側は、やはりこの言葉を忠実に守っていくべきではないでしょうか。個人レベルでは「あいつが許せない、殺したい」という感情はあると思う。でも数と力を持った私たち社会の側が、一人の個人の死を願うなんて、そんなグロテスクなことがあっていいだろうか。私はいいとは思わない。

話が大幅にそれてきましたが、私はやはり自らの感情の傾向には自覚的であるべきだと思います。私は加害者に同調しすぎる。犯した罪の方もしっかり見て、被害者の気持ちを踏みにじる方向にいかないように自重すべきだと常々思っています。でも世の中の多くの人にはそういう自覚はないように思える。被害者は可哀相、加害者は化け物、私たちとは違う人間。そう思って死刑死刑叫んでれば事足りる。「もっと悩めよ!」とぶん殴りたくなる。

私だって「死刑をなくしたい、加害者だって人間だ」と言う時には被害者の存在を思ってます。それでいいのか、そう言うことによって被害者の人は、と考えますよ。でも世の中の多くの人は「死刑で当然」と言いながら更生の可能性について悩んだりはしない。死んで当然だと本気で思ってる。その揺らぎの無さが私は恐いんです。「なんなの?野蛮人なの?」と思ってしまう。もう断絶しているような気がしてくる。

最終的に私は死刑存置か廃止かということよりも、そこに至る経緯や、その人が自らの感情にどれだけ自覚的であるかの方が重要だという結論に達しました。いくら素晴らしい死刑廃止論を述べる人がいたとしても、それが当然だと思っていたり、自らの感情にあまりにも忠実であったりすれば、異なった立場の人に受け入れられない。それでは意味がないのです。

その意味で言わせてもらえば、パネリストとして参加していた中山千夏という人はなんたら思慮の浅い人だろうか、と思った。あまり書きたくもないのですが、あの人は殺人というのは常に間違いでなければならず、国家による正しい殺人なんてないんだという文脈の中で(これ自体は間違いではないと思いますが)、「間違って起こってしまった殺人はしょうがない」と言ったんです。聞き間違いかと思った。そのあとすぐに「被害者の方は大変ですけどね」と付け加えていましたが、そんなことは問題じゃない。

大切な人を殺されてそれが「しょうがない」と思えるか。「大変」の二文字で片付くか。答えは明らかです。死刑廃止運動の風当たりが強いのが何故かといえばまさにこの問題故であるはずです。「被害者遺族の感情を考えたことがあるのか」。とてもシンプルですが、とても強い言葉です。確かに、と一瞬思う。もちろん被害者遺族にも色んな人がいるのは知っているけど、死刑を望む人が多いのも事実だから。

だからこのことにはよくよく慎重にならなければならないし、デリケートな問題であることを自覚した上での発言が望まれるというのに、言うに事欠いて「しょうがない」ときたもんだ。このバランス感覚の無さは一体何なのだろう。運動に20年関わってきた人がこれではそりゃあ死刑廃止なんて無理だろう、と21才の私から言わせてもらいたい。他にも「森さん(森達也さんのこと)はよくあんなに存置派の人と話ができますね、私はもう気持ち悪くなっちゃって」とか「私は自虐的なのは嫌いだからこの運動がダメだったという話はしたくない」とか問題発言のオンパレードなわけですが、これではいかんと思う。

だから先程の、存置派か廃止派かというよりも、人間の資質の方が大事という話にもどるわけです。自らの感情に徹底して自覚的であり、自分を相手より道徳的に高い位置に置かないこと。死刑廃止を当たり前だと思わず、私が考えた結果の私が望む社会が死刑のない社会なのだという姿勢を貫くこと。大事です。私はそうありたい。そうあることで死刑をなくしたい。

死刑のない社会に向けて、自分にできることをやっていこうと思います。活動したい。

| | コメント (18) | トラックバック (0)

2009年6月27日 (土)

臓器移植法改正

今回のような拙速な議論の進め方には危機感を覚えます。特に先ごろ衆院で可決したA案は本人の同意がなくても家族の同意だけで、15歳以下の子供から成人に至るまでの臓器提供を可能とするものであり、もっと分かりやすく言えばA案は本人が生きられるところまで生きていたい、と思っていたかもしれなくても、家族の同意だけで生きている人間を死体にできる法案です。

A案では現行の臓器移植法で「脳死した者の身体とは、その身体から移植術に使用されるための臓器が摘出されることとなる者であって脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止するに至ったと判定されたものの身体をいう。」となっていたものの前半部分が削られ、「脳幹を含む全脳の機能が~」の部分だけになっています。脳死は人の死だというわけ。なぜそんなことを法案でハッキリさせる 必要があるのか。何をもって人の死とするかは言うまでもなく、宗教や思想の違いによって様々です。それを法律によって「脳死は人の死である」と言い切ってしまうことには違和感を感じる。

というとA案の提出者は「生前に拒否してもらえれば臓器が提供されることはない」だの、「脳死を人の死と認めない人は法的脳死判定を受けなければよい」だの「臓器移植以外の場では脳死が人の死となることはない」だの抜かすのですが、そんな問題ではない。

脳死は「原則」人の死であり、認めない人は拒否「することができる」というその姿勢こそが問題なのです。その「原則」をだれが何の根拠で決めたのか?「することができる」ってなに?そんなことは当たり前でしょう。臓器を提供しない権利、脳死を人の死と認めないという当然の権利を「原則とは違うもの」と法律が規定すること自体考えられません。

臓器移植以外の場面では脳死を人の死とはしないというのも矛盾だらけです。だったら現行の臓器移植法の「脳死した者の身体とは~」の部分を削る意味もないし、脳死が人の死ではないのなら、当然その患者はあらゆる意味で生きているわけで、生きている人間に対して本人の意思確認なしになぜ、無呼吸テストを含む患者の生存を損なうような法的脳死判定を受けさせることができるのか。

というのは衆院の厚生労働委員会でC案提出者の阿部知子氏がしていた質問です。それに対するA案提出者の答弁は「A案では本人の意思が確認できなくても家族が法的脳死判定を受けさせるかどうか決めることができる」の繰り返しで、阿部知子氏の再三再四の要求にもそれが「なぜ」であるのかは一度も説明しなかった。彼女の質問によって、私はA案の問題点をとてもよく理解することができました。

全てに通底するのは「どうせもう目覚めないんだから。あとはもう死ぬだけでしょ、移植を受ければ助かる人がいるんだからそういう人に命を譲れよ」という態度です。私にはこれが我慢ならない。二度と目覚めることがなかろうと、人工呼吸器なしに生命が維持できなかろうと、その時点ではすべての人間と等価な命です。誰がこれが死であるという原則を強いることができるのか?誰が本人の意思と無関係に臓器を取り出すことができるのか。

臓器移植を推進する人達はいとも簡単に「助けられる命」という言葉を使う。本当にそうでしょうか。正しくは「家族がまだ温かく、心臓も動いている身内から人工呼吸器を取り外し死体にするという重い重い決断を下して初めて」助けうる命です。そこの葛藤が、苦しみが明らかにすっ飛ばされて臓器移植が語られている。助かる命ばかりが強調され、脳死患者は他人を助けるためのパーツとしか見なされない。

死んでも尊厳がある。人権がある。自己決定権は自らの死後の死体の処理にまでも及ぶはずです。しかしA案では明確な拒否をしない限り、臓器移植の波へと強制的にのみ込まれてしまう。家族という他人の意志によって。こんな重要な問題が「グーグル方式」のような軽率なやり方で決まっていってしまっていいのか?拒否しない限りは勝手に家の写真を公開する。勝手に本の内容をデータベース化する。それですら揉めているのに、臓器提供のような命にかかわる問題はなおさらです。常に危機意識を持って拒否の意思表示ができる人はいい。しかしドナーカードだって普及率はせいぜい数%です。

今の議論は脳死患者やその家族に対して当然払われるべき敬意が払われているとは言えず、それどころか最低限の礼を失していると思う。少しでも長く生きていて欲しいという家族として当然の情が、生への過ぎた執着として非難され臓器提供を促されるような状況が生まれないとは言い切れない。そのような状況では私は他人に臓器を提供する決断を下せない、というか下したくない。

臓器を提供しないということを選択した結果、僅かでも非難がましい目を向けられる社会があるとすれば、またそのような社会を創る可能性が法案にあるとすれば、私はそれに断固反対し続けるし、それを態度で示す。だから私はドナーカードの「臓器を提供しません」に丸を付けて持っていることにした。

申し訳ないけれど、私のこの態度が風向計のようなものになると思う。私のこの意志表明に対する周りの反応を見れば、臓器提供をしない選択に対する風当たりがよく分かる。

臓器を提供しない権利、家族にぎりぎりまで生きていて欲しいと願う権利が100%なんの妨げもなく認めらている状況があって初めて、純粋な善意が発生しうるのです。良心の呵責や、周りからの圧力などの不純物が1%でも含まれていてはならない。助けられる命だなんだと言ったって、他人の生存権をないがしろにして助かっていい命など一つもないんです。

だから、私は臓器を提供しない。A案提出者の連中のような無神経な議論の進め方をする人間がいる限り。臓器提供を強要するような社会の目がほぼゼロにならない限り。これは当然の権利です。

| | コメント (11) | トラックバック (0)

2009年5月10日 (日)

人間たるもの

ついつい徹夜しちまった。5時起きで6時から9時のバイトをしながら土日は徹夜ってのも若いからできるんだろうねえ。

今日未明に不気味な笑みを湛えつつ書いた「人間たるもの」をどうぞ。

人間たるもの。常に自嘲を本分とすべきである。自分の身の程を弁えるべきである。自分が最低であるということに全力を懸けるべきである。

何事もケースバイケースで常にこうあるべきだ、と言い切れることは非常に少ない。しかしその中でも自嘲は別格である。これ無しには何も始まらない。これが無い人間などに一片の魅力も見出しようがない。しかし。その自嘲に酔うことは許されない。それは自嘲など縁のない、一度も鼻をへし折られたことのない人間よりも数段上の醜悪さを世に晒すことになる。

例えば。自分が謙虚であると思うのは一種の思い上がりである。自分は傲慢であるということを自覚することこそが「正しい」認識だ。しかし。これだと「私は謙虚であると表明することは傲慢である」から、「私は自分が傲慢だということを自覚しているのだ」と言うことよって一段上の謙虚さを得た気になっていることになる。醜悪。傲慢の極み。しかしこの醜悪さには終わりがない。そうやって一段上の謙虚さを得た気になっている傲慢さに気付いた自分は謙虚、みたいなのはまた傲慢で、以下ずっとこのような感じでエンドレスです。

そういうわけで、自嘲には終わりがなく安らぎもない。自らが醜悪である、というか人間自体醜悪であるな、ということに気が付いたからといって、自分自身の徳が高まったりとかは一切しないのである。最低な人間が自分が最低であることに気が付いたからといって最低じゃなくなるわけじゃない。ここ重要。気付いてない人間よりはマシとかも基本ない。そりゃあ「あの思い上がりのクソ野郎よりかは私ってば人間できてる」とか思う時もある。でもやっぱりそれは錯覚で、私の振り切れた最低さはそんな雀の涙、ハチドリが運んだ雫程のものじゃプラスに転化しようもありません。

正直他人なら、そういうことを痛いほど自覚してる人に対して「カッコいいな」とか「私もああなりたい」とか思うけど、自分となれば話は別。その人だって自分がカッコいいなんて思ってないわけだし。そう思ってたら私もカッコいいなんて思わないわけだし。奇妙なバランスが成り立ってるのよね、ここには。

こうだ、と言い切った傍から価値が、疑惑が、滑稽さが、醜悪さが、頭を擡げてくる。そうじゃないんだと抑えにかかればまた別のところから軽薄で傲慢な「奴」が。結局のところモグラ叩きのようにそれらをぶっ叩きながら、醜悪な様を晒して生き続けるよりほかないのである。と言い切るとまた「生き方を悟ったような顔しやがって気持ちが悪いんだよ!」という自分の声が…、今度は「それは私自嘲あるんだアピールですか?」という突っ込みが、何を言っても滑稽さからは逃れられないのね…、となれば「今度は悲劇のヒロインかよ!」と。

しまいにゃ何も書けなくなりそう。「だったらやめろ、お前の文章なんて誰もお呼びじゃねえよ!」

…私は謙虚な人間である、私は傲慢な人間である。このどちらにしても、こう言い切ってしまって差し支えない人は結局どこかで自分の傲慢さ醜悪さに目を瞑って、あるいは全く気が付かずに生きている人と言えると思います。とても健全で素晴らしいと思いますが、魅力的ではない人。

自らの醜さに身悶えながら、吐く言葉、記す言葉すべてが、世に触れるたび強烈な羞恥に襲われる。しかしそれでも何故か何事かを発信し続ける人。そういう人はたまらなくセクシーだ。魅力的だ。そそられるね。

人間たるもの。常に自嘲を胸に抱いて行動すべきである。自嘲を。自虐を。自滅を。自壊を。

| | コメント (9) | トラックバック (0)

2008年11月24日 (月)

トロッコ問題

教育白書についての記事を書いてから他の人の感想とかブログもちょいちょい覗くんですが、トロッコ問題について真正面から答えない人間が多いのに驚きました。

この問いは生命倫理を問うことを目的に作られてるわけです。誰かを救うために誰かを犠牲にする事はいいことか?という事を考えるためにこの問いは存在する。できる事なら両方死なせずに何とかしたいというのは誰もが思うところなのでしょうが、そんなことを言ってたらこの問いの主眼である倫理の問題に話が発展していかない。

両方助ける事は絶対にできないという前提が重要な意味を成してるという事が理解できないんでしょうか?それもよっぽど軽妙洒脱な答えを考え出して両方を救ったならまだいい。大声を出すだの切り替えスイッチを真ん中にしてトロッコを止めるだの…実につまらない。そんな答えに何の価値があるのか理解に苦しみます。

どっちかは死ぬって言ってるんだからその範囲内で答えを考えろよ!お前はそんなに人を救いたいのか?甘ったれてるよね。現実には億単位の人間を見殺しにして生きてるくせに、自分の意識の及ぶ範囲では仮定ですら人が殺せない。自分に人が救えると思い込んでるみたい。できもしないくせに。

私がそういう中途半端な答えに腹が立つのは、そういう答え方をする奴が総じて自らの加害性に鈍感だからです。先進国に生まれて生きてればそれだけで途上国の人達に何らかの犠牲を強いている事になるし、他にも他人に犠牲を強いているケースなんていくらでもある。

自分が誰も傷つけず、誰も犠牲にせずに生きてる。そういう思い上がりが「私は全員を助ける」なんて甘ちゃんな答えを生むんです。人間なんて普段から誰かを踏みつけて押しのけて生きてるんだから、こういう質問にだって淡々と答えなきゃなりません、本来は。

私は一人ひとりの命の重さを尊重するために5人を見殺しにします。トロッコが5人のいる方へ突っ込んでいくのは最初から決まっていたこと。私がそうしたわけじゃない。私は殺人はしないし、5人より1人の方がなんて下衆な考えもしません。スイッチは切り替えずに5人を救うためにちょっとだけ頑張って「やれることはやったんだ」と自分を納得させて5人が死んだ後ものうのうと生き延びます。これが私の答え。

みんな綺麗事が好きよね。全員を救うといえばそれは聞こえはいいけど、そんなんじゃ人間の本性に全然迫れない。そんな上辺を取り繕ったようなことばっかやってて楽しいのかな?自分の倫理観のために何を犠牲にするのかを冷徹に分析するという姿勢が欠けてる。

「そんなの選べな~い」とか言われるとぶん殴りたくなるんですよね。ぶってんじゃねえよ!と。人間ってもっと残酷な生き物だと思うんだけどね。みんな人が好すぎるのかなあ。いや何も考えてないだけか。

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2008年11月 4日 (火)

戯れ言

人間には誰にも理解されない部分ってのが必要だと思う。何でもかんでも「分かる~」と言われてしまったら私とその人が違う人間である意味なんてなくなってしまうわけで。ふと一人になった時に他の誰にも侵食されてない「私」というものがなければ私は破滅する。

それは素とかつくってるとかいうのとはまったく次元の違う、もっと根源的な話。人間には孤独ってもんが必要で、全部さらけ出して「私を分かって」なんてのは幼稚な依存心に過ぎない。人間と人間が理解し合うなんて事はありえないわけだから、その誰にも理解されない部分を抱えたまま、一人で生きていくのが「正しい生き方」ってやつです。

だから共感や同調なんてのはオナニーに過ぎない。今の自分の気持ちとあの人の気持ちはきっと同じであろうという決め付け、思い込み、断罪。そんなものは邪道だ。そんなことをしてなんになる?その安い心根によって同じでないものが同じにされ、崇高なものは他人の手垢に塗れた塵に成り下がる。だから私は「共感」なんて軽々しくしてはならないことを知っている。それは相手の深奥を穢し傷つけることになるからだ。

そのように考えれば理解者がいないという事はむしろ幸せなこと。誰にも陵辱されず純潔を保っているということだもの。理解されるってことは犯されるって事です。大切な何かを。逆に理解するってことは犯すことだし。

分かられるって幸せなことなんだろうか。私も時々理解者が欲しいなんて思ったりすることもあるけど、本当の心の奥底は誰にも触れられたくない、理解されたくない、と思う。私のことは私が一番分かってなきゃならない。知った顔をさせるのはいい、でも本当に全てが分かられてしまったら、私は孤独を失うことになる。生きていく上で欠かせないクスリを失うことになるのである。永遠に。

クスリを取り上げられたら、そこにあるのは安らぎか禁断症状か。それは私が凡人か狂人かに懸かってる。でも今ここで自ら判断を下すのは危険だろう。狂人でありたいと願うのもおかしな話だ。というかそう願ってる時点で凡人の可能性が高い。たぶん本当の狂人は凡人になりたいはず。普通に憧れるはず。だってそんな生き方苦しいに決まってるんだから。私は人並みに誰かに理解されて安らぎの中で死ぬのか?

拒絶反応と、それはそれで受け入れてしまいそうな凡庸さと。どうなるかなあ、今後。

| | コメント (10) | トラックバック (0)

2008年9月11日 (木)

人生は糞だ

私最近レジ袋がうまく断れるようになっちゃいました。ここ何日かでは失敗してない。それでできた余裕で小銭をピッタリ払うことまでできるようになって。凄い凄い。

というのもきっかけはレジで私の前の人が「袋要らないです」って断ってたからなの。私はいつも「袋いいです」と言って断る。これがまずかったのね。「いいです」という言葉は一息で言える分なんかボソボソしちゃって「ああ言えなかった~」とか時々聞き返されたり散々だった。その点「いらない」という言葉は「い」「ら」「な」と3回息を切らないと言えない分、滑舌よく視線も定まってスムーズにいくんです。

これは結構発見だ。これからは何でも「要らない」と断ろう。「いいです」はダメだ。よく考えたらマックでガムシロとミルクを強制的に付けられてしまうのも「いいです」って言うからだと思うし。要らない、要らない…いつでも言えるように練習せねば。

さて本題に、と思ったら特に書きたいことがなかった。こんな前置きレベルの着想しかないんだ、今日は。どうしようかな、軽めの文章というカテゴリーを新設したはいいものの、ここまで軽くても内容がないって事になりそうだ。

何かないか…あ、そうだ今日バイト先で、7月にやめてしまった人も誘って今度皆で食事を的な話が持ち上がってたんですが、なんと誘われました。 

もちろん講座があるからといって即行で断りましたが、私はものすごくショックでした。そんなコミュニティに参入しているつもりなんてなかったから。一瞬「はあ?」とも思ったし。私が行ってどうすんだよ!でも世の中には職場で疎外感を感じて苦しんでる人もいるってのにせっかく誘ってもらって不快だなんて言ってたらバチ当たるよなあ。でも私は本当に誘われたくなかったんです。万が一断りきれてなかったらと思うとゾッとする。

やっぱり私のような人間にとってこの世はリスキー。鬱と隣り合わせの茶番。バカバカしい人生です。あ、私の理想の死に方はね、「本当に何の意味も価値もない人生だった、少しもこの世の中に利潤を生み出さなかった、むしろ害悪だった、ああ何で途中でやめなかったんだろ」と言いながら死ぬことなんです。まあ寿命まで生きることが前提となってる矛盾はあるんですけどね、でも間違っても「いい人生だった」なんて言い捨てて死んだりはしないように今後の人生気を付けて生きたい思ってます。

だって人生なんて無意味をどれだけ楽しめるかの勝負でしょ?生きること自体が馬鹿のやることなんだから。人生に意味とか価値があるなんて考え方は一番向き合わなきゃならないことから逃げている。そうやって嘘を信じ込んだまま死んでゆく人間が国内外に腐るほどいるわけなの。信じられない。生きることに価値なんてない。死ぬことにあるかどうかは分からないけど。でも明らかに無価値と分かってる生と価値の有無が不確定な死とどちらが魅力的に映るかっていったら、あ、流れ的に死を選ぶ感じになっちゃってるけど、私は断然生きるほうを選ぶね。

だって死んで間違って価値でも生み出しちゃったらどうする?取り返しがつかないじゃないか。私は価値や意味がないことが大好き。自分の人生や自説を否定されればされるほど嬉しい。「お前の人生なんて誰の役にも立ってない、糞だ」と言われても嬉しい。その通りだと思うから。糞で何が悪い?逆に糞じゃない人生なんてあるの?世界が認めれば糞じゃない人生を生きたことになる?ならない。なるわけがない。誰が認めようと誰が否定しようと、人生が糞であることは変わらない。誰が生きたって一緒。人生は糞だ。

もうほんと私はこういう話をするのが好き。自分の人生が無価値だっていうこと以外にこんなに幸せなことがあるだろうか。一生誰の役にも立たずに、一生誰かのためなんて思わずに、自分のためだけに、自分を喜ばすためだけに生きて死ぬ。そしてそれは糞。こんな幸せなことってないと思うわ。

何の話をしてたんだっけ?こういう書き方をするとタイトルを付けづらいんだよなあ。後半部分が話の核心なわけですが、するつもりがなかった話なのでそれをタイトルにすると冒頭のつまらない話とタイトルとがミスマッチに。まあいいや、根気よく読み進んでくれれば分かってもらえることなんだし。というわけで、人生は糞だ。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2008年2月 7日 (木)

「将来」のことは考えない

うふふふー、ライブのチケット買っちゃいました。東京腸捻転~忘我混沌。なんとあの鳥居みゆきも出てるんですよ。生で見れると思うと今から楽しみで楽しみで笑いが止まらないわ。うふふふふ。その他にもラバーガールから我が家からニュースペーパーからEE男(コンバット見てるよー)私の好きな芸人目白押し、場所が六本木ってのがネックですが、まあ以前映画を観に一度は訪れた事がある場所なのでなんとかなるかあ、という勢いで。初お給料を投入しチケットを買ってしまいました。祝日の六本木、大丈夫だろうか。

話は変わりますが、夢とかやりたい事とかって何で見つけないといけないんですかね。というのも最近ね、よく言われるんですよ。なんかやりたい事はないのか、将来の夢は、目標は、といった感じに。夢に向かって邁進する若者らしさを求められているのはよく分かるのですが、私には残念ながらそういった夢や目標はないし、もっと言えば私にはそんなものは必要ない。そんなものがなくてもこの先どう生きるかという事が分かってればそれでいい。

そもそも私は夢とかやりたい事とかいう考え方が大っ嫌いなんですね。非常に中途半端な要求であり枠組みだと思うんですよ。夢だの何だの言ったって、そんな事を30、40にもなって追いかけていれば今度は定職にも就かないで、といった蔑視の対象になってしまう。若いうちはそれなりに夢を追いかけ、少し年を取ったら適当な所で諦めをつけて、定職に就く。そんな人工的なレールが敷かれてるんじゃあ夢だのやりたいことだのと言ってみたところでやり辛くって仕方がない。天然でこのレールの上を走れる人や好きな事が仕事に繋がる稀な人はいいですが、そんなことじゃあ結局「やりたい事」という枠組みに沿ったやりたい事が見つからなかったり、世間の程よいレベルを超えてやりたい事にのめり込んでしまったりする人も少なくないはず。

「将来のことを考える」って言葉は曲者です。直訳すれば「将来のことを考える」は「人と同じ人生を送れるようきちんと考える」で、親の「将来のことを考えなさい」は「俺の世間体も考えろ」です。私に言わせれば「もうこのまま一生働かないで親の金を食い潰そう」と決心する事だって将来を考える事だし、「しばらくの間は引きこもってだらだらしてよう」と思う事だって将来を考える事です。この先どう生きるかを自分の頭を使ってちゃんと考えてる。何の問題もないじゃないですかってなもんですが、「将来のことを考える」という言葉の意味は人並みに就職して人並みに結婚して人並みに子を持つ人生に価値を見出すことに収斂されてしまっているので、それ以外の思案は無為無策の扱いを受ける。

そんなしょうもない意味で「将来のことを考える」という言葉が使われてしまっている以上、私が将来を考える意味はないし考えたくもないしむしろ考えないべきだ。いわゆる「将来」を考えるでもなく、それを考えずに済む免罪符的な役割を果たす若者らしい夢もない。夢を追うわけでもなければ堅実な将来を目指すわけでもない私は傍から見れば何を考えているのか分からない無気力な若者とでも言ったところか。でも月並みですが、私は他人にどう思われようと関係ない。

やりたい事はいくらでもあるのです。死刑廃止、環境保護、人権の擁護。それらの目標に向けて少しずつでも行動を起こすのが私の将来。世間の基準に自分を寄せようとするからしょうもない悩みが生まれる。将来ってのは文字通り自分の行く末なんであって、世間の基準の通り思い描く行く末じゃない。自分がどうしたいかが分かってれば将来の悩みなんて生じようもないのです。金とか物理的な問題はまた別の話ですけどね。

とにかく。私は行きたいように生きるという話なんです。夢とかやりたい事とか、ある意味ではもう既に体現しているとも言えるしね。後は今の生活と経済力の獲得との折り合いをどうつけるか。これが問題です。もうしばらくは現状維持で色々と充電したいと思いますが。そのためのバイトでもあるんだし。

さて、この記事もちまちま書き足し書き足ししてたら書き上げるのに1週間以上掛かってしまいました。冒頭のチケット買った話なんて随分前な気がするし。随時書きたいこともあったんですがこの記事があったから書けませんでした。あまり一つの記事を抱え込むと余計何も書けなくなりますね。気をつけよう。

それはそうと、私は今、今朝のバイトでしょうもないミスを連発し憔悴しきっています。なんせ食欲が減退しましたからね。働いてる働いてないとか仕事ができるできないとか、そんな普段はなんでもないと思ってる事が、いざ自分の事となるとプチコンプレックスとなってのしかかってくるんですよね。いつになったら慣れたと言えるようになるんでしょうか。もうすぐ2ヶ月経つっていうのに。明日行きたくないなあ。でも明日のためにもう寝なきゃ。というわけでそろそろ切り上げます。おやすみなさい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月15日 (月)

私は文明中毒者

働かなければ生きていけないなんてひどいと私は思っていた。でも考えてみればそれも私の甘ったれた気持ちであったのです。私が今なぜこの生活を送れているかといえば、それは全て他人の労働のおかげである。電気ガス水道に始まり野菜から食器から服から電化製品から、何から何まで他人の労働を買い上げた生活。やはり他人の労働をタダで享受するなどという事は許されず、結果自分も労働をしその金でまた他人の労働を買う社会、というのはバランスが取れていると言えば取れているのです。

ここで一瞬諦めとも言える納得をしそうになるのですが、よく考えてみれば私には社会選択の自由は与えられてこなかった。要するに物心ついた時から電気ガス水道を利用し他人の作ったものを買う生活を送ってきており、私はこの国のこの社会を是とし受け入れたのではなく、ただこの社会に適応してしまっただけなのです。電気もガスも水道も頼んでない。望んでない。

でもだからといって、今更世に言う自給自足のような生活が送れるだろうか。電気もガスも水道もない場所で、自分の食料を自分で確保し生活に必要なものは自分で作る。それはやはり文明に慣れ親しんでしまった私には相当難しい事であり、よほどの事がない限り私は文明から足を洗えない。そして今の文明的生活を送るのには金が要る。ここで働かなければ生きていけないという原理がまた私を苦しめるのです。

頼んでもいないものをどんどん与えられ、文明無しには生きていけない体にした上で「さあ今の生活を維持するのに何が必要か分かるな?」と言って働く事を強制されるのです。汚いやり口。クスリと同じですね、これは。ヤク中ならぬブン中(文明中毒)であり、クスリ欲しさに体を売る人も、今の生活を維持するために働く人も大差なく、あったとしてもそれは法律に触れているかいないか、社会的に認められているかいないか程度の差でしかない。

ここで私は一つの選択を強いられる。文明から足を洗いまっとうな生活を送るか(ホームレスとか山奥での自給自足とか)、やはり文明や他人の労働を享受しブン中生活を送るのか。後者には金がいる。前者には根性がいる。とりあえず今は後者を選択しても自らの労働得た金によらずとも生活を維持できる。そうなれば当面はなし崩し的に後者のブン中生活を送る事は目に見えているけれど、やはり将来的には金が要るのである。金が。世間の風当たりや何となくの道徳など私には何の影響も与えない。堂々とニート生活を満喫するまでのこと。でも文明を享受するために金が要るというのは動かしがたい事実であり、私はそのために金を得る手段を考えなければならない。

手垢に塗れた言葉ですが生き甲斐、私はこれを有り余るほど感じている。生きる目的や意義を既に得ているのです。それは社会や道徳を批判する事であり、自らの知を高めること。だからたかが労働に心の拠り所を求める必要がないし、働くという事が占める私の人生における割合は最小限であって欲しいと願う。最低限必要な文明を享受するための資金、これを稼ぐために私は働くというだけの事であり、私はそこに腐った道徳は持ち込まない。

そうと決まれば私は受け入れよう。この社会の在りようを。私を文明漬けにした奴等を恨んでも仕方がない、時既に遅し、もう私は文明無しには生きていけない体になってしまっているのだから。これからも電気ガス水道を駆使し生命を維持しようではないか。自分では何一つ生み出せない滑稽な人間の一人として、あらゆるものを金で買いながら。それをあろうことか社会人としての美徳として恥じない社会に唾を吐きながら。気持ちが悪い。本当に。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月11日 (木)

結婚は紙切れ、家族は幻想

すいませんまた長い間ほったらかして。で、一応報告なんですがそのほったらかしてる間にこのブログもついに2年目に突入しました。この1年で私がこのブログでやりたい事も随分変わりました。当初は私の鬱積した気持ちをただ出したいという風だったのが、今は自分の主義主張を表明したい、という風になってきました。私なりに、更新頻度はいまいちでも頑張ってゆこうと思います。

それで今日のテーマは家族とか愛とか。どっちもムカつく言葉です。これらの言葉を綺麗な意味で使おうとすると心根から腐り果てそう。それはこれらの言葉をそういう意味で使って恥じない人を見ても同じです。だから今日は私が家族や愛をどれだけ忌み嫌っているかという事を滔々と述べさせていただきたい。

最近世の中は愛だの恋だの喧しい。恋愛至上主義とでもいうのか、モテ○○とかそのために有利な顔が持て囃されたりとか。おしゃれやファッションに気を払わない女と見るや落伍者のレッテルを貼り恋をして綺麗になるのが女の幸せ的なたわ言を抜かしたり。だからうるせーよ。ほっとけよ。余計なお世話だっつーの。

愛だの恋だのは本当にそんな風に人に気軽に助言できるような代物か?一つ気持ちの表現を間違えればストーカーだの重いだの言われる上、別の相手との紙切れ1枚の事で不倫だなんだと言われ叩かれる。いやお前が恋しろって言ったんじゃん、と思うのは私だけでしょうか?それなりの相手を好きになりそれなりの感情表現を、というような手頃な恋愛を倫理上他人に望むなら人に愛など奨める資格がそもそもないと思うのですが。

ここで不倫という言葉を使ってしまったので私の不倫に対する認識を書きますと、私には何が悪いのかさっぱりです。結婚なんてものは紙切れ一枚で始まり紙切れ一枚で終わるただそれだけのものに過ぎません。その紙切れで浮気が不倫に格上げされ袋叩きにあうのは私には理解できない。いや理解できないと言っても薄々は分かっているのです。なぜ不倫がそこまで社会に忌み嫌われるのか。それはひとえに家族主義によるものです。世間は家族が壊れるという事に異常なまでの反応を示す。交際段階であればよくある揉め事と片付けられる事が、ひとたび紙切れを提出し家族という枠組みに収まるとそれを乱す行為が邪悪のように語られるのです。

私にはそんな話はふざけているとしか思えないし、結婚していないから慰謝料取れません、法的にセーフとか、結婚してるから慰謝料が取れる、不貞行為だというのはおかしくないですか、と。私は何も「浮気は絶対悪!既婚か未婚かで線を引くのはおかしいわ!」というような事を言っているのではなく、むしろ家族だからってそんな事を問題にできる事が問題だと言っているのです。念のため。紙切れ一枚で人の心が縛れるはずがないという事は誰でも分かっていると思いますが、それでも個人の心の自由より家族というフィクションを演じきる事のほうが重要視される。何の意味があるのか、私はそんな劇には付き合いたくないというのが正直な所です。

人の心が変わるなんてのは当たり前の事で、人と関係を持つならそれは当然負うべきリスクのはずです。それを紙切れ一枚で永遠の愛が約束されるなんて私には理屈も理念も根拠も一つも理解できない。それでも根拠のない永遠を誓う事が結婚というシステムだ、と言われるなら私は結婚なんてしなくてもいい。私が結婚する時はくだらないフィクションではなくノンフィクションです。

とはいえ人を傷つける事はあまりいい事ではないという例外ありありのゆるーい規範も私の中にないではない。浮気も不倫も悪ではないとはいえ、事実それらの行為によって相手が傷ついているのなら、その事に対して申し訳ないという思いはあった方がいい。私の人の人間性を測る基準は浮気、不倫をするかしないかではなく、その事を相手に申し訳ないと思うか思わないかなのです。ただまあこれも私の主観であって申し訳なく思わない奴がいたところでそりゃあそういう奴もいるよな、という感想を述べるしか無いわけで、どうしようもないです、人の心の話は。

まあそんなこんなで紙切れは人の心には入り込めないし、家族なんていつバラバラになろうと知った事じゃないという話です。そういうつまらない家族至上主義のせいで片親家族や血縁関係のない家族がどれだけ嫌な思いをしてるか。家族といえど数ある人間関係の一つに過ぎず、その他の関係より優位にあるなんて事はない。紙切れや血縁関係に拘泥しその他の関係を排斥するなどもってのほか、考えられません。

日本人はつまらない事にとにかくこだわる。その社会ごとの正しさなんて間違っている可能性は十分過ぎるぐらいあるし、様々な知識を入れて学んでも今の社会の価値観に1%も毒されてないとは言い切れないかも知れない、プラス個人個人の主観がものを言う。そんなことで自分が正しいとなぜ言いきれる?社会やみんななんて論外です。日本人の主体性のなさは本当に問題ですね。私も日々気を付けなければならない事ですが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年9月 3日 (月)

電子辞書とシニシズムと死

やー、もう9月ですね。早いったらないよ。ついこないだ更新したと思ったらもう一週間経ってたりとかねえ。嫌になります。

ま、そんな話は置いといて、電子辞書を買いました。つってももう2、3日前なんですけど、シャープの黒のやつでめちゃくちゃかっこいいんですよ。しかも100コンテンツも入ってて。ここで少し解説が必要かと思いますが、私は基本的には必要最低限のものを淡々と求めるタイプ。100コンテンツもあれば必ずいらないものも出てくるだろうし、やっぱり贅沢かなあ、もっと少ないやつにしようかと何度も迷いました。それでも私がこれに決めたのはそれ相応の理由があっての事なのです。以下解説。

まず第一に挙げられるのは私の大辞林へのこだわり。広辞苑でもなく大辞泉でもなく大辞林なんだという。大辞林のすごい所はなんといってもアクセント表示。つまり日本語の発音が何段階か分類され数字で表されているのです。知らない言葉、聞いた事もないような言葉はどう発音するのかすら分からないのでものすごく便利なんです。「だいがく」のように上がりっぱなしなのは「0」で、「そうじき」のように「う」から下がるのは「1」など、とても分かりやすく書かれています。

それともう一つは電子辞書やウェブ版などに押されて紙の辞書の衰退が叫ばれる中、新刊を発行したこの心意気って言うんですか、いいですよね大辞林は。現に広辞苑は周期的には出る頃ですが出してない。書籍版はうちにあるんだから電子辞書は別の辞書でも、というのも頭をよぎりましたがやはり以上の事を加味した結果、大辞林が入ってるやつにしよう、という結論に辿り着いたのです。

で、その基準で電子辞書を見るとまずメーカーはおのずとシャープに絞られてくるのですが、その中でも最近版の大辞林が入っているとなるとワンセグが付いてるか100コンテンツかという選択を迫られその結果100コンテンツにしたという事なのです。ま、この先何が必要になるか分からないしいいよね。

ここまでは電子辞書の話ですがここで話題を変えて、最近一部の人が更に露骨に私の進路を気にしてくるようになった。これから先年を取れば取るほど言われる事が増えてゆくのだろう。ウンザリします。まず思うのですが、何も考えずだらだら大学に通ってる人が「何かしている」と見なされ、図書館に足繁く通い様々な事を幅広く学びたいと思っている私が「何もしていない」と見なされるというこの理不尽さ。前もちょこっと書きましたけど、日本ってのは無駄に「所属」というのを気にしますよね。本人の人間性や行為の内容よりもどこに所属しているかが重要らしい。馬鹿でも大学に行っていれば学んでいると見なされ、怜悧でもどこにも所属していなければ、ブラブラしている、怠けていると見なされる。これは大学に行ってるやつが馬鹿だとか私が怜悧だと言う話ではなく世間一般はこのような穿った見方をする傾向があるという事なので誤解のないよう。

まあ今更そのような基準に振り回される私じゃありませんが、そのような基準が不快じゃないかと聞かれればやはり不快です。無根拠に無遠慮に思い込めてしまう、言い切れてしまう世間の安直さに腹が立つとでも言いましょうか。自分の頭でものを考えていないという事に一生気付かずもっともらしい正論を並べながら死んでゆく人々、その一人一人が悪いわけではないと知りつつも、軽蔑に似た感情を抱いてしまう事はどうしようもない。

要するに私はこの日本という国に対して不満だらけだという事です。どこを見渡してもおかしいと思う事ばかり。陸上にしてもサッカーにしても競技より「日本」に興味がある人達の熱狂振りは見ていてウンザリするし、家族だの絆だの命の大切さだのと口に出してスローガンとして浸透させていくにはおよそ相応しくないと思われるものを「みんな」に向かって何の疑問も持たず言えてしまう人が多いのも気持ちが悪い。

「命って大切なんだよ」と言って「ああそうだよね」と思える人は端から何の問題も抱えていないおめでたい人なわけですからそんな人に伝わっても意味がない。そういうものが本当に伝わって欲しい人というのはシニシズムな人、命が大切だと誰が決めたのか、家族が大切だと誰が決めたのか、自分が生きているという事は二酸化炭素を排出して、鳥豚牛を虐殺して、その他様々なものに迷惑をかけてまで維持すべき事なのか、という疑問を持ってる人なはずです。でもそういう人は愛だの希望だのといった安っぽいキャンペーンには絶対参加しない。だから早い話が24時間テレビ的なパフォーマンスはある程度余裕がある人達の馬鹿騒ぎに過ぎないと言う事です。本当に愛だの希望だのを浸透させていきたいのなら安易に言葉に出してしまわないでもっと地道にやらないとね。そういった直球をいくら投げ続けても私を含めシニシズムな人達には一生伝わる事がないのですから。

なんか脱線しまくりましたね。今日は何を書こうと思ってパソコンに向かったのかなんだか分からないまま書き連ねてしまいました。今日はまあまあ書けたかな、なんて思ってるんですがどうでしょう。なーんか色々書いてたら鬱々としてきちゃいました。この世の中やな事ばっかりですがなんとか生き延びる価値があるのかないのか。生きる事がいい事だなんて幻想だと思う。もし生に価値なんてなくて死んだ方が賢明だなんて事になったら色んな事が成り立たなくなる。だからみんなこぞって見ないようにしているだけ。それでも私が今は死のうとは思わないのは、この世界に生きる価値なしと判断するほどにはまだこの世界をよく知らないから。私が今色々と勉強している事は案外自殺への秒読みだったり?生=善で死=悪という価値基準には結構反吐が出る。実際死後の世界を見た後戻ってきて報告してくれた人はいないのだから、生きる事がいい事だなんて保障はどこにもないのにみんな自殺を責めるし、その愚直なまでの思い込みはどこから来るのか。まあもちろんこの理論だと死んだ方がいいという根拠もないわけですからなんとも言えませんが。

終わらせようとしたのにまた長く余計なこと書いちゃったよ。まあ私は別に自殺を推奨しているわけではないので。みんなが楽しく生きて寿命を全うしてくれればそれが一番だよ(偽善)。

それでは今度こそ本当に終わりです。長々と駄文をぶちまけてしまい申し訳ありません。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧