2008年11月24日 (月)

トロッコ問題

教育白書についての記事を書いてから他の人の感想とかブログもちょいちょい覗くんですが、トロッコ問題について真正面から答えない人間が多いのに驚きました。

この問いは生命倫理を問うことを目的に作られてるわけです。誰かを救うために誰かを犠牲にする事はいいことか?という事を考えるためにこの問いは存在する。できる事なら両方死なせずに何とかしたいというのは誰もが思うところなのでしょうが、そんなことを言ってたらこの問いの主眼である倫理の問題に話が発展していかない。

両方助ける事は絶対にできないという前提が重要な意味を成してるという事が理解できないんでしょうか?それもよっぽど軽妙洒脱な答えを考え出して両方を救ったならまだいい。大声を出すだの切り替えスイッチを真ん中にしてトロッコを止めるだの…実につまらない。そんな答えに何の価値があるのか理解に苦しみます。

どっちかは死ぬって言ってるんだからその範囲内で答えを考えろよ!お前はそんなに人を救いたいのか?甘ったれてるよね。現実には億単位の人間を見殺しにして生きてるくせに、自分の意識の及ぶ範囲では仮定ですら人が殺せない。自分に人が救えると思い込んでるみたい。できもしないくせに。

私がそういう中途半端な答えに腹が立つのは、そういう答え方をする奴が総じて自らの加害性に鈍感だからです。先進国に生まれて生きてればそれだけで途上国の人達に何らかの犠牲を強いている事になるし、他にも他人に犠牲を強いているケースなんていくらでもある。

自分が誰も傷つけず、誰も犠牲にせずに生きてる。そういう思い上がりが「私は全員を助ける」なんて甘ちゃんな答えを生むんです。人間なんて普段から誰かを踏みつけて押しのけて生きてるんだから、こういう質問にだって淡々と答えなきゃなりません、本来は。

私は一人ひとりの命の重さを尊重するために5人を見殺しにします。トロッコが5人のいる方へ突っ込んでいくのは最初から決まっていたこと。私がそうしたわけじゃない。私は殺人はしないし、5人より1人の方がなんて下衆な考えもしません。スイッチは切り替えずに5人を救うためにちょっとだけ頑張って「やれることはやったんだ」と自分を納得させて5人が死んだ後ものうのうと生き延びます。これが私の答え。

みんな綺麗事が好きよね。全員を救うといえばそれは聞こえはいいけど、そんなんじゃ人間の本性に全然迫れない。そんな上辺を取り繕ったようなことばっかやってて楽しいのかな?自分の倫理観のために何を犠牲にするのかを冷徹に分析するという姿勢が欠けてる。

「そんなの選べな~い」とか言われるとぶん殴りたくなるんですよね。ぶってんじゃねえよ!と。人間ってもっと残酷な生き物だと思うんだけどね。みんな人が好すぎるのかなあ。いや何も考えてないだけか。

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2008年11月 4日 (火)

戯れ言

人間には誰にも理解されない部分ってのが必要だと思う。何でもかんでも「分かる~」と言われてしまったら私とその人が違う人間である意味なんてなくなってしまうわけで。ふと一人になった時に他の誰にも侵食されてない「私」というものがなければ私は破滅する。

それは素とかつくってるとかいうのとはまったく次元の違う、もっと根源的な話。人間には孤独ってもんが必要で、全部さらけ出して「私を分かって」なんてのは幼稚な依存心に過ぎない。人間と人間が理解し合うなんて事はありえないわけだから、その誰にも理解されない部分を抱えたまま、一人で生きていくのが「正しい生き方」ってやつです。

だから共感や同調なんてのはオナニーに過ぎない。今の自分の気持ちとあの人の気持ちはきっと同じであろうという決め付け、思い込み、断罪。そんなものは邪道だ。そんなことをしてなんになる?その安い心根によって同じでないものが同じにされ、崇高なものは他人の手垢に塗れた塵に成り下がる。だから私は「共感」なんて軽々しくしてはならないことを知っている。それは相手の深奥を穢し傷つけることになるからだ。

そのように考えれば理解者がいないという事はむしろ幸せなこと。誰にも陵辱されず純潔を保っているということだもの。理解されるってことは犯されるって事です。大切な何かを。逆に理解するってことは犯すことだし。

分かられるって幸せなことなんだろうか。私も時々理解者が欲しいなんて思ったりすることもあるけど、本当の心の奥底は誰にも触れられたくない、理解されたくない、と思う。私のことは私が一番分かってなきゃならない。知った顔をさせるのはいい、でも本当に全てが分かられてしまったら、私は孤独を失うことになる。生きていく上で欠かせないクスリを失うことになるのである。永遠に。

クスリを取り上げられたら、そこにあるのは安らぎか禁断症状か。それは私が凡人か狂人かに懸かってる。でも今ここで自ら判断を下すのは危険だろう。狂人でありたいと願うのもおかしな話だ。というかそう願ってる時点で凡人の可能性が高い。たぶん本当の狂人は凡人になりたいはず。普通に憧れるはず。だってそんな生き方苦しいに決まってるんだから。私は人並みに誰かに理解されて安らぎの中で死ぬのか?

拒絶反応と、それはそれで受け入れてしまいそうな凡庸さと。どうなるかなあ、今後。

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2008年9月11日 (木)

人生は糞だ

私最近レジ袋がうまく断れるようになっちゃいました。ここ何日かでは失敗してない。それでできた余裕で小銭をピッタリ払うことまでできるようになって。凄い凄い。

というのもきっかけはレジで私の前の人が「袋要らないです」って断ってたからなの。私はいつも「袋いいです」と言って断る。これがまずかったのね。「いいです」という言葉は一息で言える分なんかボソボソしちゃって「ああ言えなかった~」とか時々聞き返されたり散々だった。その点「いらない」という言葉は「い」「ら」「な」と3回息を切らないと言えない分、滑舌よく視線も定まってスムーズにいくんです。

これは結構発見だ。これからは何でも「要らない」と断ろう。「いいです」はダメだ。よく考えたらマックでガムシロとミルクを強制的に付けられてしまうのも「いいです」って言うからだと思うし。要らない、要らない…いつでも言えるように練習せねば。

さて本題に、と思ったら特に書きたいことがなかった。こんな前置きレベルの着想しかないんだ、今日は。どうしようかな、軽めの文章というカテゴリーを新設したはいいものの、ここまで軽くても内容がないって事になりそうだ。

何かないか…あ、そうだ今日バイト先で、7月にやめてしまった人も誘って今度皆で食事を的な話が持ち上がってたんですが、なんと誘われました。 

もちろん講座があるからといって即行で断りましたが、私はものすごくショックでした。そんなコミュニティに参入しているつもりなんてなかったから。一瞬「はあ?」とも思ったし。私が行ってどうすんだよ!でも世の中には職場で疎外感を感じて苦しんでる人もいるってのにせっかく誘ってもらって不快だなんて言ってたらバチ当たるよなあ。でも私は本当に誘われたくなかったんです。万が一断りきれてなかったらと思うとゾッとする。

やっぱり私のような人間にとってこの世はリスキー。鬱と隣り合わせの茶番。バカバカしい人生です。あ、私の理想の死に方はね、「本当に何の意味も価値もない人生だった、少しもこの世の中に利潤を生み出さなかった、むしろ害悪だった、ああ何で途中でやめなかったんだろ」と言いながら死ぬことなんです。まあ寿命まで生きることが前提となってる矛盾はあるんですけどね、でも間違っても「いい人生だった」なんて言い捨てて死んだりはしないように今後の人生気を付けて生きたい思ってます。

だって人生なんて無意味をどれだけ楽しめるかの勝負でしょ?生きること自体が馬鹿のやることなんだから。人生に意味とか価値があるなんて考え方は一番向き合わなきゃならないことから逃げている。そうやって嘘を信じ込んだまま死んでゆく人間が国内外に腐るほどいるわけなの。信じられない。生きることに価値なんてない。死ぬことにあるかどうかは分からないけど。でも明らかに無価値と分かってる生と価値の有無が不確定な死とどちらが魅力的に映るかっていったら、あ、流れ的に死を選ぶ感じになっちゃってるけど、私は断然生きるほうを選ぶね。

だって死んで間違って価値でも生み出しちゃったらどうする?取り返しがつかないじゃないか。私は価値や意味がないことが大好き。自分の人生や自説を否定されればされるほど嬉しい。「お前の人生なんて誰の役にも立ってない、糞だ」と言われても嬉しい。その通りだと思うから。糞で何が悪い?逆に糞じゃない人生なんてあるの?世界が認めれば糞じゃない人生を生きたことになる?ならない。なるわけがない。誰が認めようと誰が否定しようと、人生が糞であることは変わらない。誰が生きたって一緒。人生は糞だ。

もうほんと私はこういう話をするのが好き。自分の人生が無価値だっていうこと以外にこんなに幸せなことがあるだろうか。一生誰の役にも立たずに、一生誰かのためなんて思わずに、自分のためだけに、自分を喜ばすためだけに生きて死ぬ。そしてそれは糞。こんな幸せなことってないと思うわ。

何の話をしてたんだっけ?こういう書き方をするとタイトルを付けづらいんだよなあ。後半部分が話の核心なわけですが、するつもりがなかった話なのでそれをタイトルにすると冒頭のつまらない話とタイトルとがミスマッチに。まあいいや、根気よく読み進んでくれれば分かってもらえることなんだし。というわけで、人生は糞だ。

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2008年7月30日 (水)

というわけで今回は特別企画

オールドニックさんは果たして素直なのか?無礼なのか?あなたはどう思う?

と書いておいて、事の経緯を説明すると、これを書くことにしたのは当ブログの相も変わらずマスコミはという記事のコメントで、オールドニックさん自身の提案を受けてのことです。因みにオールドニックさんは自閉世界というブログの主で、私とは最近知り合ったネット上のお知り合いという感じで。

で、冒頭の問いでお分かりいただけるように、この人の態度は問題になる事が多いようです。私はまだオールドニックさんと知り合って間もないというのに、既になんやかんやと注意されたり説教されたりしている場面を何度も目撃している。世の中の人に嫌われやすい、誤解されやすい人だということは間違いない。

というのもやっぱり世の中の人はオブラートに包んだ言葉のやり取りに慣れているから、突然ああいうむき出しの言葉を投げつけられるとびっくりするんだと思います。耐性がないから恐怖ですらあるのかもしれない。私は普段からオールドニックさんの言葉遣い程度には様々なものを口汚く罵ったりしているのでまったく気にならないのですが。この差は何かと考えてみると、今の世の中に怒りをもっている人間と、それなりに満足しちゃってる人間との温度差じゃないかと思います。

とはいえ私は幸か不幸か、そういった配慮がまったく出来ないわけではないので人と話す際にそれが障壁となったりは今のところしていないのですが、オールドニックさんは議論云々の前に色々指摘されてしまいそもそも本質的な話ができていないことが多々ある。それは端から見ていて結構悲惨です。基本的に世の中は自分達と同じ言い方、同じ礼儀、同じ配慮ができる人間にしか議論の場は開かれていないようです。

オールドニックさんが世間の人に話を聞いてもらおうと思うなら、言葉遣いを改めて、クッションをはさんで優しさを装えばいいのでしょうが、私はオールドニックさんのそんな腑抜けた文章は断固として見たくない。

それにここで私の勝手な礼儀論を展開させてもらうと、本当に礼儀をわきまえている人間は、無礼な人間に対して怒ったりはしないものです。礼儀とは見返りを求めぬもの。無礼な相手と出会った時、相手に同様の礼儀を求めるのではなく、何も言わずに自分は自分の礼儀を通すのが本物なのです。無礼だなんだと人の態度に腹を立てているうちは見返りありきのエゴイズムであり、礼儀など名ばかり。

遠慮なくものを言うだけで反発を招いてしまうような社会はまったく不健全で、だから私のようなヘタレとは違って、常識も礼儀も無視して「お前らおかしい」と正論を言い切ることができるオールドニックさんのような人が必要なのです。

礼儀とか優しさ、配慮などもっともらしい事を言われると人間というのはひるむ。そうかな、と思うし、そうした方がいいかな、と弱気になるのです。でもオールドニックさんにはそれがない。いくら礼儀だ配慮だと言われても「そんなもので封殺できると思ったら大間違いだ!」と言い切るんです。ここまで世間的な価値に気兼ねしない人はそうそういるもんじゃない。凄いと思うし、そんな人に配慮だなんだってそりゃあもう無粋というものです。

以上がオールドニックさんに対する私の解釈であり、配慮なんて必要ないという結論ですが、別にその方向に誘導したいわけではまったくなく、各自自閉世界などを参照し闊達な議論をしていただければ幸いです。

8月6日追記
この記事が過去のものとなっても意見は募集し続けます。礼儀や配慮についてはもっと議論が尽くされるべきです。

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2008年2月 7日 (木)

「将来」のことは考えない

うふふふー、ライブのチケット買っちゃいました。東京腸捻転~忘我混沌。なんとあの鳥居みゆきも出てるんですよ。生で見れると思うと今から楽しみで楽しみで笑いが止まらないわ。うふふふふ。その他にもラバーガールから我が家からニュースペーパーからEE男(コンバット見てるよー)私の好きな芸人目白押し、場所が六本木ってのがネックですが、まあ以前映画を観に一度は訪れた事がある場所なのでなんとかなるかあ、という勢いで。初お給料を投入しチケットを買ってしまいました。祝日の六本木、大丈夫だろうか。

話は変わりますが、夢とかやりたい事とかって何で見つけないといけないんですかね。というのも最近ね、よく言われるんですよ。なんかやりたい事はないのか、将来の夢は、目標は、といった感じに。夢に向かって邁進する若者らしさを求められているのはよく分かるのですが、私には残念ながらそういった夢や目標はないし、もっと言えば私にはそんなものは必要ない。そんなものがなくてもこの先どう生きるかという事が分かってればそれでいい。

そもそも私は夢とかやりたい事とかいう考え方が大っ嫌いなんですね。非常に中途半端な要求であり枠組みだと思うんですよ。夢だの何だの言ったって、そんな事を30、40にもなって追いかけていれば今度は定職にも就かないで、といった蔑視の対象になってしまう。若いうちはそれなりに夢を追いかけ、少し年を取ったら適当な所で諦めをつけて、定職に就く。そんな人工的なレールが敷かれてるんじゃあ夢だのやりたいことだのと言ってみたところでやり辛くって仕方がない。天然でこのレールの上を走れる人や好きな事が仕事に繋がる稀な人はいいですが、そんなことじゃあ結局「やりたい事」という枠組みに沿ったやりたい事が見つからなかったり、世間の程よいレベルを超えてやりたい事にのめり込んでしまったりする人も少なくないはず。

「将来のことを考える」って言葉は曲者です。直訳すれば「将来のことを考える」は「人と同じ人生を送れるようきちんと考える」で、親の「将来のことを考えなさい」は「俺の世間体も考えろ」です。私に言わせれば「もうこのまま一生働かないで親の金を食い潰そう」と決心する事だって将来を考える事だし、「しばらくの間は引きこもってだらだらしてよう」と思う事だって将来を考える事です。この先どう生きるかを自分の頭を使ってちゃんと考えてる。何の問題もないじゃないですかってなもんですが、「将来のことを考える」という言葉の意味は人並みに就職して人並みに結婚して人並みに子を持つ人生に価値を見出すことに収斂されてしまっているので、それ以外の思案は無為無策の扱いを受ける。

そんなしょうもない意味で「将来のことを考える」という言葉が使われてしまっている以上、私が将来を考える意味はないし考えたくもないしむしろ考えないべきだ。いわゆる「将来」を考えるでもなく、それを考えずに済む免罪符的な役割を果たす若者らしい夢もない。夢を追うわけでもなければ堅実な将来を目指すわけでもない私は傍から見れば何を考えているのか分からない無気力な若者とでも言ったところか。でも月並みですが、私は他人にどう思われようと関係ない。

やりたい事はいくらでもあるのです。死刑廃止、環境保護、人権の擁護。それらの目標に向けて少しずつでも行動を起こすのが私の将来。世間の基準に自分を寄せようとするからしょうもない悩みが生まれる。将来ってのは文字通り自分の行く末なんであって、世間の基準の通り思い描く行く末じゃない。自分がどうしたいかが分かってれば将来の悩みなんて生じようもないのです。金とか物理的な問題はまた別の話ですけどね。

とにかく。私は行きたいように生きるという話なんです。夢とかやりたい事とか、ある意味ではもう既に体現しているとも言えるしね。後は今の生活と経済力の獲得との折り合いをどうつけるか。これが問題です。もうしばらくは現状維持で色々と充電したいと思いますが。そのためのバイトでもあるんだし。

さて、この記事もちまちま書き足し書き足ししてたら書き上げるのに1週間以上掛かってしまいました。冒頭のチケット買った話なんて随分前な気がするし。随時書きたいこともあったんですがこの記事があったから書けませんでした。あまり一つの記事を抱え込むと余計何も書けなくなりますね。気をつけよう。

それはそうと、私は今、今朝のバイトでしょうもないミスを連発し憔悴しきっています。なんせ食欲が減退しましたからね。働いてる働いてないとか仕事ができるできないとか、そんな普段はなんでもないと思ってる事が、いざ自分の事となるとプチコンプレックスとなってのしかかってくるんですよね。いつになったら慣れたと言えるようになるんでしょうか。もうすぐ2ヶ月経つっていうのに。明日行きたくないなあ。でも明日のためにもう寝なきゃ。というわけでそろそろ切り上げます。おやすみなさい。

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2007年10月15日 (月)

私は文明中毒者

働かなければ生きていけないなんてひどいと私は思っていた。でも考えてみればそれも私の甘ったれた気持ちであったのです。私が今なぜこの生活を送れているかといえば、それは全て他人の労働のおかげである。電気ガス水道に始まり野菜から食器から服から電化製品から、何から何まで他人の労働を買い上げた生活。やはり他人の労働をタダで享受するなどという事は許されず、結果自分も労働をしその金でまた他人の労働を買う社会、というのはバランスが取れていると言えば取れているのです。

ここで一瞬諦めとも言える納得をしそうになるのですが、よく考えてみれば私には社会選択の自由は与えられてこなかった。要するに物心ついた時から電気ガス水道を利用し他人の作ったものを買う生活を送ってきており、私はこの国のこの社会を是とし受け入れたのではなく、ただこの社会に適応してしまっただけなのです。電気もガスも水道も頼んでない。望んでない。

でもだからといって、今更世に言う自給自足のような生活が送れるだろうか。電気もガスも水道もない場所で、自分の食料を自分で確保し生活に必要なものは自分で作る。それはやはり文明に慣れ親しんでしまった私には相当難しい事であり、よほどの事がない限り私は文明から足を洗えない。そして今の文明的生活を送るのには金が要る。ここで働かなければ生きていけないという原理がまた私を苦しめるのです。

頼んでもいないものをどんどん与えられ、文明無しには生きていけない体にした上で「さあ今の生活を維持するのに何が必要か分かるな?」と言って働く事を強制されるのです。汚いやり口。クスリと同じですね、これは。ヤク中ならぬブン中(文明中毒)であり、クスリ欲しさに体を売る人も、今の生活を維持するために働く人も大差なく、あったとしてもそれは法律に触れているかいないか、社会的に認められているかいないか程度の差でしかない。

ここで私は一つの選択を強いられる。文明から足を洗いまっとうな生活を送るか(ホームレスとか山奥での自給自足とか)、やはり文明や他人の労働を享受しブン中生活を送るのか。後者には金がいる。前者には根性がいる。とりあえず今は後者を選択しても自らの労働得た金によらずとも生活を維持できる。そうなれば当面はなし崩し的に後者のブン中生活を送る事は目に見えているけれど、やはり将来的には金が要るのである。金が。世間の風当たりや何となくの道徳など私には何の影響も与えない。堂々とニート生活を満喫するまでのこと。でも文明を享受するために金が要るというのは動かしがたい事実であり、私はそのために金を得る手段を考えなければならない。

手垢に塗れた言葉ですが生き甲斐、私はこれを有り余るほど感じている。生きる目的や意義を既に得ているのです。それは社会や道徳を批判する事であり、自らの知を高めること。だからたかが労働に心の拠り所を求める必要がないし、働くという事が占める私の人生における割合は最小限であって欲しいと願う。最低限必要な文明を享受するための資金、これを稼ぐために私は働くというだけの事であり、私はそこに腐った道徳は持ち込まない。

そうと決まれば私は受け入れよう。この社会の在りようを。私を文明漬けにした奴等を恨んでも仕方がない、時既に遅し、もう私は文明無しには生きていけない体になってしまっているのだから。これからも電気ガス水道を駆使し生命を維持しようではないか。自分では何一つ生み出せない滑稽な人間の一人として、あらゆるものを金で買いながら。それをあろうことか社会人としての美徳として恥じない社会に唾を吐きながら。気持ちが悪い。本当に。

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2007年10月11日 (木)

結婚は紙切れ、家族は幻想

すいませんまた長い間ほったらかして。で、一応報告なんですがそのほったらかしてる間にこのブログもついに2年目に突入しました。この1年で私がこのブログでやりたい事も随分変わりました。当初は私の鬱積した気持ちをただ出したいという風だったのが、今は自分の主義主張を表明したい、という風になってきました。私なりに、更新頻度はいまいちでも頑張ってゆこうと思います。

それで今日のテーマは家族とか愛とか。どっちもムカつく言葉です。これらの言葉を綺麗な意味で使おうとすると心根から腐り果てそう。それはこれらの言葉をそういう意味で使って恥じない人を見ても同じです。だから今日は私が家族や愛をどれだけ忌み嫌っているかという事を滔々と述べさせていただきたい。

最近世の中は愛だの恋だの喧しい。恋愛至上主義とでもいうのか、モテ○○とかそのために有利な顔が持て囃されたりとか。おしゃれやファッションに気を払わない女と見るや落伍者のレッテルを貼り恋をして綺麗になるのが女の幸せ的なたわ言を抜かしたり。だからうるせーよ。ほっとけよ。余計なお世話だっつーの。

愛だの恋だのは本当にそんな風に人に気軽に助言できるような代物か?一つ気持ちの表現を間違えればストーカーだの重いだの言われる上、別の相手との紙切れ1枚の事で不倫だなんだと言われ叩かれる。いやお前が恋しろって言ったんじゃん、と思うのは私だけでしょうか?それなりの相手を好きになりそれなりの感情表現を、というような手頃な恋愛を倫理上他人に望むなら人に愛など奨める資格がそもそもないと思うのですが。

ここで不倫という言葉を使ってしまったので私の不倫に対する認識を書きますと、私には何が悪いのかさっぱりです。結婚なんてものは紙切れ一枚で始まり紙切れ一枚で終わるただそれだけのものに過ぎません。その紙切れで浮気が不倫に格上げされ袋叩きにあうのは私には理解できない。いや理解できないと言っても薄々は分かっているのです。なぜ不倫がそこまで社会に忌み嫌われるのか。それはひとえに家族主義によるものです。世間は家族が壊れるという事に異常なまでの反応を示す。交際段階であればよくある揉め事と片付けられる事が、ひとたび紙切れを提出し家族という枠組みに収まるとそれを乱す行為が邪悪のように語られるのです。

私にはそんな話はふざけているとしか思えないし、結婚していないから慰謝料取れません、法的にセーフとか、結婚してるから慰謝料が取れる、不貞行為だというのはおかしくないですか、と。私は何も「浮気は絶対悪!既婚か未婚かで線を引くのはおかしいわ!」というような事を言っているのではなく、むしろ家族だからってそんな事を問題にできる事が問題だと言っているのです。念のため。紙切れ一枚で人の心が縛れるはずがないという事は誰でも分かっていると思いますが、それでも個人の心の自由より家族というフィクションを演じきる事のほうが重要視される。何の意味があるのか、私はそんな劇には付き合いたくないというのが正直な所です。

人の心が変わるなんてのは当たり前の事で、人と関係を持つならそれは当然負うべきリスクのはずです。それを紙切れ一枚で永遠の愛が約束されるなんて私には理屈も理念も根拠も一つも理解できない。それでも根拠のない永遠を誓う事が結婚というシステムだ、と言われるなら私は結婚なんてしなくてもいい。私が結婚する時はくだらないフィクションではなくノンフィクションです。

とはいえ人を傷つける事はあまりいい事ではないという例外ありありのゆるーい規範も私の中にないではない。浮気も不倫も悪ではないとはいえ、事実それらの行為によって相手が傷ついているのなら、その事に対して申し訳ないという思いはあった方がいい。私の人の人間性を測る基準は浮気、不倫をするかしないかではなく、その事を相手に申し訳ないと思うか思わないかなのです。ただまあこれも私の主観であって申し訳なく思わない奴がいたところでそりゃあそういう奴もいるよな、という感想を述べるしか無いわけで、どうしようもないです、人の心の話は。

まあそんなこんなで紙切れは人の心には入り込めないし、家族なんていつバラバラになろうと知った事じゃないという話です。そういうつまらない家族至上主義のせいで片親家族や血縁関係のない家族がどれだけ嫌な思いをしてるか。家族といえど数ある人間関係の一つに過ぎず、その他の関係より優位にあるなんて事はない。紙切れや血縁関係に拘泥しその他の関係を排斥するなどもってのほか、考えられません。

日本人はつまらない事にとにかくこだわる。その社会ごとの正しさなんて間違っている可能性は十分過ぎるぐらいあるし、様々な知識を入れて学んでも今の社会の価値観に1%も毒されてないとは言い切れないかも知れない、プラス個人個人の主観がものを言う。そんなことで自分が正しいとなぜ言いきれる?社会やみんななんて論外です。日本人の主体性のなさは本当に問題ですね。私も日々気を付けなければならない事ですが。

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2007年10月 1日 (月)

善悪は存在しない

また更新が滞ってしまいました。でも今回は少しはちゃんとした理由があって、5日ほど前になぜ人を殺してはいけないのかについて頑張って書いてたんですが、結局自分の中で矛盾を処理しきなくなって記事がダメになったのです。

その矛盾というのは善悪と関わりがあるのですが、ダメになった記事の代わりに今日はその善悪について少し展開してみようかと思います。

まず私は基本的に善悪という概念を信じない。それを誰が決めるのか、根拠は何か、全人類に適用されうる善や悪など存在しないのだから、やはり自分が善や悪を理解しそれに則っているなどと思うのは思い上がりではないのか、などの疑念があるからです。

自明な善悪などどこにあるのか。法律に書いてあるから?みんながそう言ってるから?今までずっとそうやってきたからか。これらの事は何の根拠にもならない。法律なんて社会を運営する上で便宜上定めてあるに過ぎないし「みんな」はいくらでも道を踏み外す。「みんな」がいつも正しいなら愚衆政治なんて言葉は生まれなかったはずです。これまでそうやってきたからなんてのもこれからもそうあるべきという事には繋がらない。

今巷に言われている善悪は単なる主観やエゴに過ぎない。そもそも人間の主観を超越した善悪なんてものが一介の人間に分かるはずがないのですから、あらゆる人間は自分が正しい、自分だけが正しいという考えを捨てるべきです。戦争を望むか望まないか。殺人を望むか望まないか。人権を望むか望まないか。国と個人どちらを優先するか。全てはエゴに過ぎない。

こう言うと善悪が分からなければ行動しようがないという考えが一瞬頭をよぎるけれども何のことはない、善悪に従う理由などどこにもないのですから自分の行動が正しいか間違ってるかなんて事を気にする必要がない。善悪はいつでもひっくり返り、悪を選択し悪を自らの思想にしてはいけない理由もない。私は自由です。法律も社会規範も道徳も私を縛れない。

ここまで書いて結局の所悪ってなんだよと思ったので調べたら、悪は「悪いこと。否定すべき物事。道徳・法律などに背く行動や考え」。いいじゃないですか。何の問題があるというのか。というかここまで不確定要素満載だと気を付けようもない。一体「誰にとっての」悪いこと否定すべき物事が悪なのか。マジョリティにとってでしょうか?地球にとってでしょうか。政府にとってでしょうか。結局は何に重きを置くかで悪が決まり、「○○にとって」の「○○」の部分を何にするかで善悪はいくらでもひっくり返る。善悪は個人個人の主観に過ぎないというのは当然です。もし何もかもを超越する善悪があったとしても、私がその根拠や証拠を見つける事ができなければ私にとってはその善悪はないも同じであり、結局は善悪はエゴだという説を繰り返すことになります。

私は戦争は嫌です。でも地球のためには人間同士が殺しあって人口が減った方がいい、という思想が善だとすれば私の考えは悪だという事になります。私にとっては首がない人、腸が飛び出てる人、脳がはみ出してる人などが倒れている地獄のような光景を、戦争によって作り出す事が地球のためだという事は承服しがたいので、地球のため説には反対するけれどそれが超越的な善悪に則っているかは分からない。

私は人権より大切なものなどないと思っています。それは犯罪者であれなんであれ誰にでも認められなければならないもの。だから死刑にも反対です。でも一定の人間に対しては人権など認めずに社会運営を優先させた方がいいという思想が善だとすれば私の思想はこれまた悪。この場合私は人権を踏みにじり国だ社会だと抜かす奴らが死ぬほど嫌いなので自分の主張を展開するし反対もし続けるけど、それが善かどうかなんて知らない。私は自分の言っている事が善だなんて思っていない。善である必要もない。むしろ悪であるほうが燃えるかもしれません。

私にとってのこうあるべきというのは単なるエゴであり、善であるなんて思い上がりは捨てるべきだと思っています。でもそれは私の主張を緩めたり遠慮する事には繋がらなくて、私はただ自分の主張が単なる主観、エゴである事を自覚しただけの事であり、じゃあ何も変わってないじゃないかと言われればその通りで、私自身善悪が存在しない事を殊更書き立てて何になるのかはよく分からない。ただやはり今の社会での規範や道徳に過ぎない事を善だと思い込んでいたり、自分の主観に過ぎない事を善だと思い込んでいたりする人々が結構いるので、お前の言ってる事は悪かも知んないじゃん(私にとっては悪でもいいんだけどやっぱり一般の人は善悪に従ってないと不安みたいだから)という事が言いたかったのだと思います。

私は思考停止には陥りたくない。規範も道徳も疑って、自分自身の考えている事や信じている事さえも疑っていかないと知識も何も高めていけない。思考停止の人達の滑稽さも見てきてるし。

私もこれぐらい書けばニヒリストを名乗る資格ありでしょうか。もっともっと虚無に磨きをかけなければ。そういう事のためならいくらでも頑張りますよ私は。

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2007年9月 3日 (月)

電子辞書とシニシズムと死

やー、もう9月ですね。早いったらないよ。ついこないだ更新したと思ったらもう一週間経ってたりとかねえ。嫌になります。

ま、そんな話は置いといて、電子辞書を買いました。つってももう2、3日前なんですけど、シャープの黒のやつでめちゃくちゃかっこいいんですよ。しかも100コンテンツも入ってて。ここで少し解説が必要かと思いますが、私は基本的には必要最低限のものを淡々と求めるタイプ。100コンテンツもあれば必ずいらないものも出てくるだろうし、やっぱり贅沢かなあ、もっと少ないやつにしようかと何度も迷いました。それでも私がこれに決めたのはそれ相応の理由があっての事なのです。以下解説。

まず第一に挙げられるのは私の大辞林へのこだわり。広辞苑でもなく大辞泉でもなく大辞林なんだという。大辞林のすごい所はなんといってもアクセント表示。つまり日本語の発音が何段階か分類され数字で表されているのです。知らない言葉、聞いた事もないような言葉はどう発音するのかすら分からないのでものすごく便利なんです。「だいがく」のように上がりっぱなしなのは「0」で、「そうじき」のように「う」から下がるのは「1」など、とても分かりやすく書かれています。

それともう一つは電子辞書やウェブ版などに押されて紙の辞書の衰退が叫ばれる中、新刊を発行したこの心意気って言うんですか、いいですよね大辞林は。現に広辞苑は周期的には出る頃ですが出してない。書籍版はうちにあるんだから電子辞書は別の辞書でも、というのも頭をよぎりましたがやはり以上の事を加味した結果、大辞林が入ってるやつにしよう、という結論に辿り着いたのです。

で、その基準で電子辞書を見るとまずメーカーはおのずとシャープに絞られてくるのですが、その中でも最近版の大辞林が入っているとなるとワンセグが付いてるか100コンテンツかという選択を迫られその結果100コンテンツにしたという事なのです。ま、この先何が必要になるか分からないしいいよね。

ここまでは電子辞書の話ですがここで話題を変えて、最近一部の人が更に露骨に私の進路を気にしてくるようになった。これから先年を取れば取るほど言われる事が増えてゆくのだろう。ウンザリします。まず思うのですが、何も考えずだらだら大学に通ってる人が「何かしている」と見なされ、図書館に足繁く通い様々な事を幅広く学びたいと思っている私が「何もしていない」と見なされるというこの理不尽さ。前もちょこっと書きましたけど、日本ってのは無駄に「所属」というのを気にしますよね。本人の人間性や行為の内容よりもどこに所属しているかが重要らしい。馬鹿でも大学に行っていれば学んでいると見なされ、怜悧でもどこにも所属していなければ、ブラブラしている、怠けていると見なされる。これは大学に行ってるやつが馬鹿だとか私が怜悧だと言う話ではなく世間一般はこのような穿った見方をする傾向があるという事なので誤解のないよう。

まあ今更そのような基準に振り回される私じゃありませんが、そのような基準が不快じゃないかと聞かれればやはり不快です。無根拠に無遠慮に思い込めてしまう、言い切れてしまう世間の安直さに腹が立つとでも言いましょうか。自分の頭でものを考えていないという事に一生気付かずもっともらしい正論を並べながら死んでゆく人々、その一人一人が悪いわけではないと知りつつも、軽蔑に似た感情を抱いてしまう事はどうしようもない。

要するに私はこの日本という国に対して不満だらけだという事です。どこを見渡してもおかしいと思う事ばかり。陸上にしてもサッカーにしても競技より「日本」に興味がある人達の熱狂振りは見ていてウンザリするし、家族だの絆だの命の大切さだのと口に出してスローガンとして浸透させていくにはおよそ相応しくないと思われるものを「みんな」に向かって何の疑問も持たず言えてしまう人が多いのも気持ちが悪い。

「命って大切なんだよ」と言って「ああそうだよね」と思える人は端から何の問題も抱えていないおめでたい人なわけですからそんな人に伝わっても意味がない。そういうものが本当に伝わって欲しい人というのはシニシズムな人、命が大切だと誰が決めたのか、家族が大切だと誰が決めたのか、自分が生きているという事は二酸化炭素を排出して、鳥豚牛を虐殺して、その他様々なものに迷惑をかけてまで維持すべき事なのか、という疑問を持ってる人なはずです。でもそういう人は愛だの希望だのといった安っぽいキャンペーンには絶対参加しない。だから早い話が24時間テレビ的なパフォーマンスはある程度余裕がある人達の馬鹿騒ぎに過ぎないと言う事です。本当に愛だの希望だのを浸透させていきたいのなら安易に言葉に出してしまわないでもっと地道にやらないとね。そういった直球をいくら投げ続けても私を含めシニシズムな人達には一生伝わる事がないのですから。

なんか脱線しまくりましたね。今日は何を書こうと思ってパソコンに向かったのかなんだか分からないまま書き連ねてしまいました。今日はまあまあ書けたかな、なんて思ってるんですがどうでしょう。なーんか色々書いてたら鬱々としてきちゃいました。この世の中やな事ばっかりですがなんとか生き延びる価値があるのかないのか。生きる事がいい事だなんて幻想だと思う。もし生に価値なんてなくて死んだ方が賢明だなんて事になったら色んな事が成り立たなくなる。だからみんなこぞって見ないようにしているだけ。それでも私が今は死のうとは思わないのは、この世界に生きる価値なしと判断するほどにはまだこの世界をよく知らないから。私が今色々と勉強している事は案外自殺への秒読みだったり?生=善で死=悪という価値基準には結構反吐が出る。実際死後の世界を見た後戻ってきて報告してくれた人はいないのだから、生きる事がいい事だなんて保障はどこにもないのにみんな自殺を責めるし、その愚直なまでの思い込みはどこから来るのか。まあもちろんこの理論だと死んだ方がいいという根拠もないわけですからなんとも言えませんが。

終わらせようとしたのにまた長く余計なこと書いちゃったよ。まあ私は別に自殺を推奨しているわけではないので。みんなが楽しく生きて寿命を全うしてくれればそれが一番だよ(偽善)。

それでは今度こそ本当に終わりです。長々と駄文をぶちまけてしまい申し訳ありません。

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2007年7月10日 (火)

つまんない生き方

人生って常に矛盾。人生はこうだけどこう、という事の繰り返しです。こうだからこうなんて単純な事は実はめったにないのだと私は思う。

かっこつけた書き出しから始めてしまいましたが、なんか今って短絡的な見方をして楽してる人がいっぱいいますね。安易なこうあるべき論にそのまま乗っかってる人とか、特撮ヒーローものとか水戸黄門みたいにはっきりくっきりした善悪を振りかざしてる人とか。そういう生き方って楽だろうなあ、と思いますよ。でもつまらない。

こうあるべき論も善悪くっきりも話は繋がってるんですが、要するにどちらもここまでは善でここからは悪、という誰が決めたのかも分からないような基準を採用し、それにしたがっていれば安心するというふざけた生き方を説明したものです。

確かにね、楽ですよ。世の中全部水戸黄門みたいに懲罰を加えるべき相手がハッキリしてればこんなに楽な事はない。でも実際の世の中ってほんとに複雑ですから。

悪者のような善人、善人のような悪者など、そういう人間が入り乱れているのが社会であり、何が正しくて何が間違ってるかなんてことは本来不確かで、それは自分自身の経験や憶測に基づいてひとつひとつ判断していく以外にない。なのにそれをめんどくさいと思った奴がいるのかなんなのか知りませんが、勝手に一つの物差しを作っちゃった。

誰がそんなものを作っていいって言ったんだ。諸悪の根源はどこなんだ。戦前教育の残留毒素か戦後教育の失敗か。今の私にはよく分かりませんが、とにかくそういう安易な枠付けが今の惨状を作り出したんです。

不登校はバツで東大卒はマル。引きこもりはバツで毎日人と会うのはマル。友達がいないのはバツで知りあい程度の奴を友達と呼び人数を水増しして100人!とか言える奴はマル。人と話すのが不得意な奴はバツで、親は!?兄弟は!?ご主人は!?お子さんはー!?とデリカシーもへったくれもなく質問を浴びせられる奴がマル。

とまあ上げれば切りがありませんが、一人ひとりの在り方や生き方をすっ飛ばして手元にある物差しで全部測れるっていうんだから、便利なもんです。羨ましいなあ。私も物差し買おっかな。

でもその安易な振り分けによってバツのレッテルを貼られた人間の悲劇を考えれば、やっぱり物差し購入は遠慮しておこう、と思えます。だって根拠がないんですもの。みんながそう言ってるから安直な理由で人を弾き飛ばしていいはずがないじゃん。

人はねえ、もっと苦しむべきだと思いますよ。何が正しくて何が間違っているのかという事をもっとひとつひとつの事例と真剣に向き合って、自分の頭で考えるべき。悪の側面と善の側面、両方を自分の目でしっかりと見て、悩むべき。その上でバツとされるのならされた人も本望でしょう。手近な物差しで測られるよりもずっと。

今の日本の人たちは自分の主体性を放棄して、社会が決めた枠組みを自分の考えだと思い込み、それで人を断じてそれが正義だなんてたわ言を抜かす。それでいいのか。短絡的な善悪に逃げてるだけでしょ。それが本当にいい事なのか、悪い事なのか、自分の頭で考える事から逃げ続けてる。つまんない人生だなあ、と思いますけどね。頭使わないで生きてんですから。楽だろうな、とも思うけど。

確かにめんどくさいですから。相手の立場にたって考えるのも、相手の意見を聞くのも、自分の考えは間違っているのかもしれないと思うのも。自分の考えはできれば手放したくないですからね。これが正しいの、こうあるべきなの、と相手の意見を封殺して物差しを握り締め激昂できれば楽ですねえ。でもそれをやっていては一生溝が埋まりません。多数派と少数派が一生いがみ合って暮らしていくのは私は嫌です。

よくそちら側の方は不登校に関しても引きこもりに関しても、わがままだとか怠けだとか言いますが、私から見れば不登校引きこもりの何が問題なのか、自分の頭で考えないことの方がよっぽどわがままだし怠けてる。転職も離婚も認められていて、なぜ子供だけが選ぶ権利がないのか。選んだ結果が家だったということもあるでしょう。そういうことと真摯に向き合わずして不登校を怠けだなんだとなじることは到底許されることではありません。

とにかくまずはその握り締めている物差しを一度机の上に置いて、これってほんとにメモリあってんのかな?と考え直すことが必要です。とにもかくにも物差しをぐいぐい押し付けられたんじゃたまりません。議論にもなりませんし。

枠組みだらけのこの社会にはもうウンザリ。もっと複雑にめんどくさく効率悪く考えていきたいんですよ、どうしても。何でも手元の物差しで測れば事足りるようじゃつまんないでしょ。だってそれなら人間の頭は必要ないんだから。その頭は飾りか!ってことです。

なんか最近多数派批判に堕しがちなんだよなあ。やっぱりあの平岡バッシング以来敵意が抑えられなくなってるのかも。個人個人に文句を言うつもりはないんですよ。この社会の中でそうなるのは当たり前っていうかね。でもやっぱりあの集団はタチ悪い。嫌いなんです、どうしても。

まあそんな弁明はさておき、遅くなったからそろそろ寝ようかな。早く寝た方がよかろうとなんだろうとブログって時間取られるんだよね。明日きついなあ。おやすみなさい。

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2007年4月27日 (金)

美ってそんなに重要ですか

ごめんなさいこんなに長い間放置するつもりはなかったんです。ちょっと気を抜くとすぐこれだ。更新してない間何をしていたのかといえば何もしていない。そう、何もしていないのです。しばらく書かなかったからといってその間ネタが温存されていたわけでもなんでもない。書く事なんてなんもないのです。こんなつまらない人間がのうのうとブログなんてやっててごめんなさい。

つうわけで、最近太った。どうだこの18の女子らしい話題のチョイスは。まあずっと家にいるし菓子は食うし、そりゃ太るわって感じなんですけども。甘いものってなーんであんなにおいしいんでしょう。で、その後のブラックコーヒーがまたたまらない。ああ幸せ。ってな具合なのでもう太る太る。顔も腹もお尻も太股も。最近2週間に1回ぐらい父親に連れられて卓球やりに行くんですが、やっぱりそれぐらいじゃ痩せませんよねー。

なんて言いながらそこまで真剣に痩せようと思ってるわけではないんですが。なんかさ、そういうのってめんどくさくないですか。痩せてるとか太ってるとか、美人とかブスとか、モテるとかモテないとか。そりゃあ私も女の端くれ、美ってものにまったく執着がないっつったら嘘になるよ。だけど最近の綺麗な者が汚い者を見下す風潮っての?気に入らないんです。

顔のいい悪いは確かにあります。パッと見でね。でも顔なんてさあ、人を評価する上で無数にある価値観のたった一つに過ぎないと思うわけさ。空気が読めるとか、周りに流されないとか、弱者を踏みつけないとか。そんな無数にある内の一つが顔が綺麗って事だと思うの。別にそれがダメだったからってだから?って話なんです。

でも最近はテレビジョンの影響だかなんだか知りませんが、美ってもんがその人間の価値そのものにまですり替わろうとしている。たった一つの価値基準に過ぎないはずの美があらゆる場面を侵食している。顔なんていうつまらない価値基準を採用する人々に踏みつけられ、コンプレックスで苦しんだり、整形したりする人がいる。

私は整形自体は悪い事だとは思いません。それでコンプレックスが解消され、本人が楽に生きていけるのなら。だけどそんな事しなくてもいいような社会だったらいいと思いませんか?美人とかブスとかいう価値基準を数あるうちの一つにしてしまえばもっと生きやすい世の中になると思うのですが。

私は綺麗事ではなく人間顔じゃねえと本気で思ってる口です。こんな事言うのもあれですが、私がここで散々書いた彼も俗に言うブサイクです。好きな顔とか嫌いな顔があるのは分かる。でもそれはテレビや世間が決めた美人イケメンではなく、100人いたら100通りの好みがあるぐらいが自然な事だと思うのです。だっておかしいじゃないですか、みんながみんな1つの型にはまった美を好むなんて。まあ多数派がひしめき合って蠢いてるようなこの社会じゃ仕方ないのかもしれませんがね。多様性の対極を行く国日本。こんな国滅んじまえ。

多少口汚くなりましたが、こんな私でも美ってものから完全に脱却できているわけではないのです。鏡も見るし贅肉も目に付く。けど美人とかブスとかいう価値基準の中に身を投じるほどには、私の中の美に対する執着ってのは強くない。私はジーパンにパーカー+肩紐だるだるのリュックがお気に入りなんです。

変に化粧とかして化粧無しで外出できなくなったりしても困りますし。一回今よりマシな自分を見たらそうあり続けたいと思うのが女心ってのは残念ながら確かにありますからね。でも私はそんな疲れる人生は嫌です。始終不特定多数の人間の目を気にするのも。私が化粧してかわいい服着てどの程度のレベルに達する事ができるのかは知りませんが、私はそういう価値基準に振り回されない人間でありたい(めんどくさいし)。

すいませんまた長くて。短文でもマメに更新した方がいいんですよね、きっと。今回の文章はあまり気に入ってません。手直ししてもしても全然よくならないのでもう妥協して公開します。書くって難しいですね。

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