2009年2月25日 (水)

婚活ってふざけてんの?

最近あまり記事が書けないので、下書きに眠ってた記事を加筆修正して出してしまいます。テーマは結婚。

結婚に関しては不倫に焦点を当てて以前こんな記事を書いてます。で、その記事のタイトルにもありますが、まず最初に言っておくべきことは、私にとっては単なる紙切れ一枚の事でありそれ以上でもそれ以下でもないということ。

ある程度の年齢になったら家庭を持つという俗世間的レールがまず吐き気がするし、大体その「家庭を持つ」ってなに?紙切れを提出して苗字を変えて一緒に住んだら家庭を持ったってこと?くっだらない。実にくだらない。だから何?それが何なの?私に分かるように合理的に説明していただきたい。説明もできないような手続きを踏んで家庭を持ってそれが普通?むしろ異常だろ。誰も何も疑問に思わないで結婚という制度が受け入れられていること自体理解に苦しむ。連中はそれこそ頭がおかしい。

で、しかも最近は婚活だっけ?私はテレビとかでああいう特集を見ているともう駄目なのですよ。笑っちゃって。でもあまりの異世界っぷりに、つい目を奪われてしまうこともしばしばです。どういう人生を生きたらああいうことになってしまうのか気になって見るんだけど、やっぱり私には多数派の強迫観念のことはよく分かりませんね。

結婚して子供を産むのが当たり前という腐ったレールはまだイキだったようです。上野千鶴子の「お一人様の老後」がちょこっと売れたから安心してたら、結局みんな結婚結婚結婚とまだ馬鹿のように追いかけ続けている。私にはそれが全く理解できないんです。

結婚って何?なんて問うどころかその制度に乗り遅れないように必死。その情景は傍から見ているともうオカルトの域です。結婚は人生の墓場なんて言うけど私もまさにそうだと思う。世間的な「結婚」であるならね。一つの役割を無理矢理かぶらされて、一生その役を演じ切ることが要求される。普通に考えてやってられるかと思いませんか?

典型的なのは男は仕事、女は家事ってやつ。まあ最近は「主夫」とか言って以前ほど厳密な線引きはなくなったにしても、私から見れば結局同じことなんですよ。性別を逆にしたところで何も変わってない。家だの家族だのを維持するために誰かが何かを犠牲にし続けるという発想。反吐が出ますね。

いいですか、人間が生きてるんですよ。自分の頭を使って、自分の意思で生きてる。それなのにこうまで不自然な制度や理屈に支配されているとはどういうことですか?名字が変わるだの、浮気が不倫に格上げされちゃうだの、主婦(夫)だの…結婚することによって背負わされるつまらないことどもがあまりにも多過ぎる。それなのにな~んで結婚なんてしないといけないの?なんて他人と家族になるなんて吐気を催すようなことがことが強要されるの?信じられん世の中だ。

と、私がここまで言っても世の中の人間は結婚へ群がり、それを商機と見た人間が仲介業に乗り出したり「黙ってて結婚できる世の中じゃない」とか強迫観念を煽るような本を出してみたり…。なぜ結婚しなければならないのかという根本的な問いはもはや誰から発せられることもなく、いい年こいた女が縁結びの神社にお参りに行ったり恋のお守りをバッグにつけたりする映像が垂れ流される…。私はいつもこういうのを見ると「中学生か!」というタカアンドトシばりのツッコミを加えて馬鹿にして笑いこけるんですけどね。

男も女も、みんなの強迫観念は結構深刻で、もう泣いちゃったりしてる映像とかもよく見る。そういう風に真剣に悩んでる人達を指さして笑ったり馬鹿にするのが人としてどうかというのは私にもよく分かる。第一デリカシーがないし。でも結婚なんてものに全く拘りがない人間からするとその姿はあまりにも滑稽で、惨めで、痛々しくて…。だからつい笑ってしまう。

「結婚できない」と「結婚しない」の間にここまでの差があっていいものか?と。可哀想じゃん、あんなくだらない制度に参入できないぐらいであんな思いをしなきゃならないなんてさ。大体よく考えたらやっぱりおかしいよ、だれか相手がいて結婚したいっていうなら分かるけど、相手もいないのにとにかく結婚したいっていうのはねえ。深刻ですよぉ、結婚ノイローゼ。

私は関係なくてよかった。一人がいい。一人の時間がなくなったら死ぬ。まあそれをぶち壊す条件も世の中にはたくさんあるんですけどね。金の問題、経済力の問題、多数派との付き合いの問題、今の状態では親が死んだら全てが仕舞いであるという問題、等々。

誰にでもできる仕事でいいから私にもできる仕事をくれというのは心の声。仕事ができないって辛いよ~?人と挨拶一つ交わすにも精神力を要する性格ってのは辛い。まあ結婚ノイローゼよりは幸せだという自負はありますけどねえ(嘲笑)。

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2008年12月19日 (金)

腐れ多数派

今日はバイト先でまた被害にあった。せっかく休憩時間を静かに過ごせる場所を見つけたと思ったら、少しだけ仲良くなったおばさんに引き戻されてしまった。中途半端な人間関係なんてやっぱ邪魔ね。

で、その日のコンディションとかそもそもの許容量とかに基づいて、多数派の会話に耐えられる時とそうでない時があるんだけど、今日は全然ダメ。私は機嫌が悪くなると隠すのが下手で苦労します。こういうところは年相応というか、ガキっぽいというか。

今日の多数派は「笑う門には福来たる」とか言ってゲハゲハ笑ってんの。しかもそれを言ってたのが私が一番嫌いな腐ったジジイだったもんだからほんとにムカつきました。バッカじゃねえのと思って。
       
大体さ、普段からヘラヘラ笑ってられる奴にそれ以上福なんて必要ねえだろ。笑いたくたって笑えないような状況にある者にこそ福は分配されるべきだ。

それなのに。福は能天気で愚鈍な奴の所に喜んで流れていくというのっ?

もういい。そんな根性の腐った福なんて追うもんか。こっちから願い下げだ。考えてみれば今の格差社会を象徴するような言葉よね。笑える奴はどんどん幸せ、笑えない奴はどんどん落ちてく。ああ不条理。神様も福も、何が起きても笑顔と前向きさを失わない白痴がお好みですか、ああそうですか。

上等だ。こっちにだってプライドがある。自分の良心に反してまで福なんか拾いにいくもんか。真実から逃げ回る腐れ多数派にまとわり付いてる福なんていらない。自力で幸せになってみせるわ。まったくヘラヘラ笑ってりゃあ幸せになれるなんて馬鹿な多数派に有利な諺だよ。そんなうまいこといくかっつうの。

「笑う門には福」こねえよ!そのうち巷に溢れてるプラス思考なんて全部反証してやる。今に見てろよ。

因みに私が好きな諺は「すまじきものは宮仕え」です。会社などに勤めて人に使われるということは気苦労が多く辛いものだから、できることならしない方がいいですよ、という親切且つ的確な教えです。まあそう言われたって現代では多くの人がそうしなきゃ食っていかれないわけですけどね。でも「辛いことはしない方がいいよ」という至極当然の主張は今の日本では新鮮に響きます。こういう精神を大事にしていきたいよね。

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2008年10月11日 (土)

ノーベル賞…

ノーベル賞ノーベル賞喧しい、最近のテレビは。私は日本人が取ったからといって馬鹿騒ぎするのは時代錯誤的な気がして気分が悪くなります。化学とか物理学に一番貢献した人を決めるのが趣旨なんでしょ?別に国同士の争いじゃない。日本人が取ったからってそれがなんなのさ。「ああ日本人が取ったんだ」としか思わない。それは私にとって「ああアメリカ人が取ったんだ」というのと何も変わらない。ドイツ人でもフランス人でもイタリア人でも同じ。

なんで「日本人」が取ったからといって喜ぶのか?化学の発展なんかより、我々の同胞である「日本人」が「世界」の評価を受けたことが嬉しいわけね。くだらない。外国人受賞者の研究の成果だって同じ時間を割いて伝えるべきですよ。

特に街頭インタビューで「日本もやっと世界に肩を並べられる国に」とか「同じ日本人として誇らしい」とか言ってる人を見たとき、私は本当に心の底から恥ずかしく思った。世界はどんどん国境なんてなくなっていく方向に進んでいるというのに、こんなちっこい島国に必死でしがみついて日本日本って馬鹿じゃないの。誇らしいって何であんたが誇らしいんだよ。別にあの人達はあんたのみすぼらしい虚栄心を満たすために賞を取ったわけじゃないんだから。そういう人種による汚い連帯意識をまだ持ち込んでる奴がいるかと思うと嫌んなります。

オリンピックだってそうですよ。日本日本ってさあ。憲章に国家間の競争ではないって書いてあるのに、いちいち国ごとにメダルの数を数えたりして。短距離走だったら一番足の速いやつが金メダル。単純です。そこに日本人が勝ったらいいなんて気持ちを持ち込むのは歪んでます。もちろん個人を「この人が好きだから」という理由で応援するのはいい。監督が好きだからとかね。でも「日本人」という括りで何でもかんでもメダルメダルってのはおかしいよ。まったく知らない他人なら日本人でもドイツ人でも変わりない。金メダルは誰が取っても喜ばしい事です。

という感じで巷のノーベル賞馬鹿騒ぎもどうかと思っています。化学の「か」の字も知らないような奴までも日本人が取ったって喜んでるんでしょ?研究の成果とかが分かって言ってるならまだしも…。

こういう集団熱狂的な空気にはいつもついていけない。かくしてナショナリズムはなくならないのです。国家はまだまだご健在ですね。

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2008年9月 8日 (月)

芸能リポーターはクズだ

職に貴賎はないと言います。でもあの仕事はない。私もめったな事では人を見下したり差別したりはしない人間のつもりですが、芸能リポーターだけは本当にクズのやる仕事だと思う。人のプライバシーに土足で上がりこみ、憶測に過ぎないことをもっともらしく、さも真実のようにベラベラベラベラ…ああ目障り!

しかも時には図々しく真面目な話題の時まで口を挟んでくる。お前が言うな!というかお前のようなクズに他人を批判する資格などあろうはずもない。他人の私生活をのぞき見てへらへらしてるような人間に何が言えるというのか。人として恥ずかしいとは思わないのか?私が軽蔑という言葉を遠慮なく使える数少ない人種、それが芸能リポーター。

とはいえこんなクズが金をもらって飯を食ってるのも需要があるからだ。需要…芸能人のゴシップなんて何がそんなに面白い?芸能人がどんな生活をしていて誰とセックスしてるのかについてそんなにも関心があるのか。私には理解できない。芸能ニュースなんてやってた時点で即チャンネル変えるし。

というか私は全般他人に関心が無いのだ。他の人が何をして生きてようと大半の事はどうでもいい。興味が無い。よく「○○ちゃんが○○のこと好きらしいよ」的な話で盛り上がってる集団とかもありますが、私はずっと「はあ?だから?」としか思えなかった。恋愛なんて自分がしてたって馬鹿らしくて反吐が出そうなのに、他人のなんてもっとじゃん!見たくもない、聞きたくもない、触れたくもない。そういうのを至高の楽しみとしてる奴も結構軽蔑に値する。

本当にくだらない…この国の人間はいつも他人の行動を気にしてばかり。人生が浮ついてる奴ほど他人がどうしてるかを知りたがるんです。自分の人生が他者と独立して成り立っていれば他人がどうしてるかなんてそう気にならないはずです。なんとなく周りを見ながら生きてる人間は、自分が他人より劣ってないか、今世の中では何が流行ってるか、みんなの動きに送れないように常に必死。バッカみたい。

まあ日本社会の主体性を徹底的に収奪し尽くす教育をまともに受けてしまってるわけですから、同情には値するけどね。可哀想な人達。でもそれならそれで、もっと悩んで憔悴しきってくれてれば私だってもっと優しくできるのにね。自分がないくせに偉そう、これが一番腹が立つ。まあ積極的に差別的空間を作り出してる人間なんてほんの一握りで後の人達は何も考えてないだけなんだから、悪意のない傲慢さが生まれるのはある意味必然だけどね。

枯れ木も山の賑わいって言うけど枯れ木ばっかりじゃ枯れ山になって終わりです。他山の石以って玉を攻むべしにしたってさ、そんなに磨く用の石いらねーから!残念!!この国は枯れ木と石でできてます斬りっ!!(古っ)

今怒りにもう少し闘魂を注入するためテレビを点けてみた。よし芸能ニュースを見るぞ!って相撲の話ばっかかよ!だから私はそれはいいって言ってるじゃないか!うーんでも信用できないから検査受けないってのもね、どういう検査なら信用できて何ならダメなのかを科学的根拠をもって言ってくれないと…って真面目に喋っちゃったよ!

早く次の話題にいってくれないと間に合わないのに。私はこれから講座です。芸能ニュースの感想はまた今度。

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2008年7月 5日 (土)

偏狭で頑迷な皆様へ

加藤智大のこと、書き込みを読んだ直後ほどには胸が締め付けられるような思いはなくなりましたが、やはり今でもテレビなどで彼の話題が出ると緊張するのが分かる。彼の事を悪く言われるのは私の事を悪く言われるのと同義です。もちろん殺人は悪い。でも彼に対する批判の多くはその罪よりも彼の人間性そのものへの批判なのです。

私はそれを冷静に聞いていられない。「彼の話をしないで。私に聞こえる所で彼の話をしないで!」と叫びたくなる。前の記事では大きな声では言わなかったけれど、やはり私は彼の携帯書き込みを読んだ上で彼に共感できないような人間には興味がない、というか軽蔑すらしている。

人間の苦しみに対してどうしてそこまで鈍感になれるのか?私にはサッパリわからない。彼の書き込みを見て死刑だなんてなぜ言えるのか。そういう奴らが彼をあんな凶行へ追い込んだんじゃないのか?その自覚なくして彼を批判する資格のある人間などいるはずない。ましてやテレビのコメンテーターなんて腐りきってる。

彼の苦しみに共感することなくして犯罪なんて防げるだろうか?答えはNOです。共感とまでいかなくても、せめて頭の中だけでも彼もなんか辛かったんだな、と思うぐらいのことはできないものだろうか。彼を徹底的に指弾して、死刑死刑騒いで、実際に死刑が執行されて。それで殺人が減るのですか?それでもう第二の加藤智大は現れないのですか?これも答えはNOです。

人を殺そうがなにしようが、私達と「違う」人間などいない。当たり前の事です。彼を死刑にしてこの社会が得るものとは何か。何もない。不幸な事件を生み出す愚劣で醜悪で排他的なこの社会が温存されるだけ。私が今感じているこの不自由さ、これこそが犯罪の素地です。ひとり一人が生きたいように生きるという当たり前の事がなぜ保障されないのか。その結果息ができなくなって人を殺したってそれはかなりの割合で社会が悪いんじゃないの?ワーワー言う前に生きさせろってことでしょ。雨宮処凛じゃないけどさ。

この国で生きるのは辛い。息ができない。孤独だ。私にこんな思いをさせているうちはこの社会は不健全なんです。まずは私に息をさせてみろよ。私にこの国も捨てたもんじゃないと思わせてみろって。それからですよ加藤智大を批判するなんざ。

私程度も救えないで殺人のない社会なんて作れるわけがないでしょ。グダグダ言う前に犯罪抑止力を体現しろ!何もしないで自分達の社会が安泰だなんて甘いんだよ!

少数派を迫害し、復讐されたらまたその原因を彼、彼女が少数派であったことに持っていく。そんなところで還流させてたって犯罪減らねえっつーの、ばっかじゃねーの!少し心を広く持つだけで済む。たったそれだけの事です。少数派の存在を認めいわれのない非難、迫害をやめること。ただこれだけ。…やれよ!

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2008年6月25日 (水)

過去記事発掘ぅ2

まだあった、下書きのまま眠ってる記事。って言ってもこれで最後だけど。これで貯金は食い潰した。次からはネタを探し出して書かなければ…。慢性的なネタ不足はブログ開始から1年8ヶ月、変わってないもんね。

確かこの記事は書いてた時にちょうど世界陸上が始まって、世間とかぶるのが嫌だったから公開延期にしてたところ、そのまま日が経っちゃったということだったと思います。それではどうぞ。

               2007年8月23日 「付き合いきれない~」

今さっきふと、多数派と少数派は陸上の短距離と長距離で表せるという事に気がつきました。私達少数派は長距離、そちら側多数派は短距離。

なんでかは分かりませんが、短距離の選手達は短距離のルールしか知らないんです。ここからそこまでの距離を全速力で走ることしか知らない。だから全員をその競技に巻き込もうとする。長距離の選手が「私達は長距離ですから」と言っても聞く耳を持たず、短距離のルールを説明するばかり。そしてわけも分からないうちにピストルが鳴り、一斉に走らされる。

しかし当然ながら走る距離もペース配分も何もかもが違う。短距離の人達のようには走らない、走れない。でも短距離の人達は長距離と短距離の違いも分からないから「遅い、トロい、なにやってるの」となじってくる。そんな中で長距離を卑下し短距離に転向したくて悩む人、短距離に適合し長距離を見下すようになる人など色々現れると思いますが、これは自分の競技じゃない、と競技場を飛び出す人ももちろん出てくる。そして外から短距離の独善を批判する人、長距離選手を迫害から守ろうとする人も出てくる。

そもそも同じ土俵にないものを同じように走らせ勝手に評価を下す。迷惑以外のなにものでもない。私には多数派の短距離に付き合う義理はない。個人個人の適性も無視してみんな一律短距離で競わせ遅いだの速いだのお話になりませんね。私は競技場を飛び出した人かな。

自分の競技じゃないものをやらされ勝手に評価を下される事ほど虚しい事はない。余計なお世話かもしれませんけど、皆さんだって短距離に付き合ってあげる必要なんてないんですよ。もちろん離脱できないような環境というのは腐るほどあるのでやめりゃあいいじゃんと簡単に言えない部分はあります。でも私達はあの人たちよりも長ーく走らないといけないんです。あの人たちと同じペースで走ってたら脱水症状と熱中症で死んじゃいますよ。

年に1回ぐらいたまーに付き合ってあげるのはいいかも知れませんが、あの人達と同じ土俵に上がる事自体が時間の無駄労力の無駄。私達は自分達の競技場で長距離を走っているのが一番いいのです。あの人達はそれを異端と切り捨てますが、世の中に短距離と長距離があるのは当たり前の事なんですから、それをわきまえない向こうが間違いなく悪いのです。目先の事しか見えてないって事ですね。

私は基本「私達」とか「われわれ」よりも「私は」という一人称が好きなのですが、なんかやたら私達私達言ってますねこの記事は。ま、世の中がこうも酷いと「私達」とか団結していかないとね、喰われちゃうんで。協調性の欠片もない人間としては悩ましい。2008年6月25日現在。

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2008年4月 8日 (火)

主語のない国、日本

世間では入学式らしいですね。バイトしてなきゃ絶対気が付かなかったよ。バイト先のおばさんが言ってたからああそうなんだと思って。それにしても学校なんていう子供版刑務所に入るのを入学式とかなんとか言祝いでいるのですね、世間は。ふん、失笑を禁じえない。入学式ならぬ入所式ってとこか。国旗も不快だしさ、私という人間は個人として完結しているのであり、日本なんてものが私のアイデンティティに入り込む隙なんてこれっぽっちもありはしないのです。大体たまたま日本に生まれただけなのに、何でそんなものを愛する事を強制されなきゃならないんだ。

卒業式の起立不起立の問題とかさ、私なんか不登校児ですから幼稚園の卒園式が最初で最後、立って君が代を歌わなきゃならないということ自体現実味がないんですが、実際事細かに式典の手順が決められてたり教職員が処分されたりしてんですよね。とんでもない話です。

さて、前回に引き続き映画靖国。煮え切らない。誰一人として自分がこうだから、というのを言わない。国会議員側は試写会要求すらしていないとか言い出すし、映画館側は供給側に言われたとかいうし。この騒動には主語がないんです。辛うじて右翼側には主語があるかな、と思ったりもするんですが、聞けば映画を観た事もないという話だし、週刊誌の言葉を鵜呑みにして街宣車で出かけていったとか何とか。あまりにお粗末です。自分の頭で考えるという事をほんの少しでも実践しようとした事があるなら、週刊誌の言葉一つで街宣車で出かけていったりするわけがない。

その程度の抗議に萎縮して公開自粛だなんて恥を知れと。議員の試写会要求にしたって同じこと、偏ってる最たるものである自民党議員に「偏っている」といわれて上映自粛なんて、街宣活動に屈してしまうよりも余計にたちが悪い。っていうかそれが一番偏ってんだろ。

表現に携わる人間だったら国会議員の難癖なんてむしろ勲章ぐらいに思ってなければやってけないと思うんですけどね。議員から試写会要求がくるってことはそれだけ日本の伝統と文化にとって不都合な真実だってことでしょ。表現の場を提供する者としてはそういうものこそ発表する機会を守らなければならないはずだし、それができなくてどうして映画なんてものに携わってるんでしょう。

表現の自由といった時の表現の中身ってのは国家や多数派とは違う考えのことです。国や多数派と同じ意見ならもう既に表現する自由は保障されてますから敢えて守る必要はない。それとは違う考えをどう守っていくかということが表現の自由、言論の自由ということです。そんな表現に携わるものとしての常識が上映中止を決めた人達にはなかったんでしょうか。国会議員に観せてくれと言われたらやめるのか。右翼に騒がれたらやめるのか。そうじゃない。そういうものこそ守らなければならない。潰されやすいものほど守らなければ。

映画館側も国会議員も右翼も、それぞれの程度は非常に低い。議員はしょうもないイデオロギーに固執し週刊誌を真に受けて映画見せろとか言っちゃったんだろうし、右翼も映画も観ずに週刊誌を信じて街宣車で行っちゃった。映画館は映画館で表現の自由を守るというポリシーも持たず漫然とやっていた所にこの2つが合わさって、映画を潰すほどのことになってしまった。本来はこの程度の事で上映中止なんてなるはずがないのに、一つひとつが最悪の形で組み合わさりこんな結果に。

主語がない、ポリシーがない。だから何か言われた時、自分の言葉で議論を交わしたり反論したりといった事ができない。言われるがまま萎縮し、摩擦を避け、「自分はこう思う」という主語がないまま他者に合わせていく。それが気持ちが悪い。多少捻じ曲がってても自分の考えを実現しようという主義主張があったほうがまだいい。だから今回の件で一番マシなのは街宣活動をやった右翼かもしれない。ニュース23で森達也も言ってたけど観てから言えよというのはあっても、街宣活動をやる自由はある。自分はこう思う、だからこうした、というのがハッキリしてるだけ責任の所在も明らかだし。それと戦うだけの自我を持たなかった映画館側がやっぱり一番たちが悪いんです。そりゃああの右翼も思慮が浅いけどさ。

もうこの際「聖火自粛」とかもやったらどうか。中国はチベット問題でなんか揉めてる。オリンピック開催を阻止したい人達がいるらしい。双方の言い分はよく分からん。自分の考えはない。「じゃあなんか危なそうなんでパスで」と言えば日本がどういう国か、世界の人々によ~く分かってもらえると思う。日本の人々がいかに日々何も考えずに生きてるかってのを世界に見せつけてやろうぜ。そのためには、聖火自粛、いいと思うけどなあ。一生ど根性大根だの芸能ニュースだのに沸いて朽ち果てればいいんですから、日本国民なんて。馬鹿は馬鹿らしく政治問題化したものには首つっこまないってのが一番いいんじゃないですか。ああこんな国に生まれなきゃよかった。

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2008年4月 3日 (木)

右翼が騒ぐことは何もするなってか

映画「靖国 YASUKUNI」が上映中止に追いこまれた、なんて話が巷じゃ話題になっとりますけども。まあ普通に考えて問題ですよね。読売ですら「表現の自由を守れ」なんて言ってるんですから、今回の上映自粛が表現の自由に抵触するというのはある程度社会の共通認識なのでしょう。にもかかわらずなんでこんな腰砕けというかなんというか、当然守られるべきものがいとも簡単に軽視されるような状況になっているのか。

やっぱり日本人特有の「誰とも喧嘩したくないよう」気質が影響しているような気がします。角を立てずうやむやのうちに事を何とかしようという嫌な国民性が最悪の形で表に表れたのがこの体たらくではないかと。実際に嫌がらせがあった映画館もあるようだけど、そうでない映画館までもが「なんとなく危なそうだから」的な理由で自粛してしまうのは日本の映画人も相当重症ですね。映画というのは様々な価値観の提起、社会へのメッセージ性など、表現活動の最たるものと思われますが、それに関わる人間の気概やらなんやらはもうどこかに吹き飛んでしまったのでしょうか。

日教組の集会の時もそうでしたが、自由というものに対してどんどん感度が鈍くなってきてますよね。日本というのは画一化社会ですから、大多数の人間と同じことをやっていればとりあえずは表現の自由も集会結社の自由も保障される。そういうぬるま湯に浸かっていると現状で認められている自由やら権利やらの外に出る必要がなくなり、結果どんどんどんどん当たり障りのないもので世間は埋め尽くされていき、気がつけば人と違う意見がいえない、反論や抗議が来るものは何もできないという国になっていく。

表現の自由も集会結社の自由も、本来細心の注意を払って守っていかなければならないものなのに、「なんとなく」で自粛され押し潰され侵害され。周辺に迷惑がかかるから、というソフトな理由がまた癪に障るのよね。どうせだったらもっと政治的イデオロギーを前面に押し出したギラギラした理由で表現の自由を握りつぶしてくれればいいのに。上映を自粛した人間自体は右翼でもなんでもなくて、ただなんとなく方々からの圧力に屈してしまっただけ。

そんな話ってあります?言論の自由というものに対する危機感がなさ過ぎます。自分のすぐ傍まで言論統制が迫ってから気がついたって遅い。普段からの努力の積み重ねなんですよ、こういう権利関係はね。なんとなく、なんとなく流されてるうちに段々思想の魔女狩りが横行し始め、その内右翼が騒ぐ事は何も言えなくなる…。そんなことであっていいはずがない。表現の自由に対する妨害に断固として戦わなければ。周辺の迷惑なんて漠然とした理由でやっていい事じゃないんです、上映自粛なんて。

あったり前のことなんですけどね。こういう風に上映自粛となればみんながおかしいと言うし、表現の自由は大切だとなる。でもそれでも摩擦を避けたい事なかれ主義がなんとなくまかり通ってしまう。街宣車や嫌がらせぐらいで映画が一本止められてしまうのです。これは言うまでもなく相当な危機ですよね。これはやっぱりひとえに自由というものに対して日本社会全体が疎くなっているからではなかろうか…。

ああこんな当たり前の事を長々と書いてしまった。なんのひねりもない記事だ。日本では既に言論の自由などどこにも存在しないというシニシズム的見地に立てば私の言ってる事なんてちゃんちゃらおかしいんだろうな。実は更新頻度を上げようと普段はスルーしていたであろうこのネタで、頑張って書いているのです。靖国に対する知識もなければ右翼の主張の中身もよく知らない。そんな引き出し不足の状態ですが、最低でも5日に一度ぐらいは更新しようと決めたので書きました。言い訳終わり。記事も終わり。おやすみなさい。

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2007年9月10日 (月)

暴力賛美の風潮に嫌悪感

最近あまりいい文章が書けていない事は何となく分かっている。ありがちな文章ですよね、死に酔ってみたり多数派批判を繰り広げてみたり、なんだか最近同じような事ばかり書いている気がする。ダメですねえ。

まあでもとりあえず、少し気になった事件があったのでそれについて書いてみます。

その事件とは横浜市の相鉄線二俣川駅のホームで、当初は拳銃型のライターでふざけて遊んでいた高校生に注意した警察官が言う事を聞かなかったので高校生を殴ったという話だったけど、本当は高校生は既に駅員に注意されライターはしまっており、反省していないと勝手に思い込んだ酔っ払い警察官が高校生を一方的に殴っただけだったというあれです。それ自体はここで書くほどの事もないのですが、警官の行為がただの因縁だったと分かる前とはいえ、あの警察官に対して日本各地で共感の声が上がったというその日本の風土が気に入らなかったので書く事にしました。

この国に暮らしていると日毎日本人への嫌悪感が募ります。自分自身の偏見や共感の有無と暴力の是非を分けて考えるぐらいの分別はいい加減持てないものでしょうか。何から何まで気に入りません。まず最近の若者に対する軽蔑の目自体も気に入らないし、そのくせ自らを顧みる事は一切しないその傲慢さ鈍感さは見るに耐えない。その上自分はそんな若者に注意もできないものだから、ただ酔っ払って因縁をつけただけの警察官にすら共感してしまう。全く愚かです。

基本的にこの国の人達って思考停止でしょ?「何故」を考える事を絶対しないじゃないですか。人を殺す事は何故悪いのか、働かない事は何故悪いのか、最近の若者の心を知ろうともせずマナー違反だけを批判するし、他にもいくらでもあります。死ぬことは何故悪いのか、あの人は何故犯罪に及んだのか、買い物依存症、過食症、拒食症、鬱病なども何故なのかろくに知ろうともせずただ表面の事象のみを見て「いい悪い」を判断するだけです。根拠もなしに。

何故を考えない事は想像以上に怖い事です。ある人がその状態になるまで、その行動を起こすまでには様々な経緯があり、それはその人の人生全て、今まで受けてきた仕打ち掛けられた言葉など本当に全てが絡み合っての今なのです。それを一切見ずに、頑張らないのは悪い、痩せる努力をしないのは悪い、自殺する事は悪いと断じる事はその人の人生を全否定するも同じです。でもこの国はそれができてしまう人の集まりだから私はいつもイライラしている。

なんか話がずれてきたので警察官の事件の話にぐいっと戻しますが、要するに私が気に入らないのは物事をいい悪いで感情的に判断しようとする所です。マナーの悪い若者に対する警察官の暴力は「いい暴力」で若者が教師や大人に暴力を振るったら事情はなんであれ「悪い暴力」というこの理不尽さ。

これに関しては一つ一つ説明する必要があるのですが、まず私はいい暴力なんてものは存在しないと思ってます。暴力はどんな形であれ絶対悪であると言い続けなければなりません。というと綺麗事を並べているように取られるかもしれないので補足すると、私にも共感できる暴力はある。どれだけ言葉を尽くしても伝わらない事はあるし、そもそも聞く耳を持たない頑迷な人もたくさんいる中で気持ちは分かるというのは結構ある。でもそれと場合によっては暴力も仕方ないと言ってしまう事は全く直結しません。

何故ならその「場合によっては」の「場合」を誰が判断するのかという問題があるからです。この世の中には色んな人がいます。子供は不完全なものだから大人が管理して正しい方向に導かなければ、と思っている人もいれば子供の自主性を尊重する事こそが大切だという人もいる。日本は核武装をするべきだという人もいれば、唯一に被爆国として平和を世界に発信するべき人もいる。その上所詮人間なんて知っている事よりも知らない事の方が圧倒的に多いわけですから、正しい判断なんて下せるはずがない。事の是非を公平に判断できない人間がそれぞれの正義を力の限り訴える中で、この場合は暴力は仕方がないなんていう共通の定義が成立するかといえばするはずがない。

何が間違っていて何が問題かという事を共有できないのですから、この場合は暴力は許されると一方が言ってももう一方はそれに反対するでしょうしその逆もまたしかりです。という事はどういう事かというと、暴力を容認するという事は自分の望まない暴力も生んでしまうという事です。一個人がここまでの暴力は許されるなんていじましく定義したとしても、他人とそれを仲良く共有なんてできるわけはなくて、そんなものは他人の取り方ひとつでいくらでも拡大してゆくのです。線引きがしっかりとできず歯止めがかけられなくなるのは目に見えている、と私は思うのでやはり暴力は容認すべきでない、と考えます。

それにあの警察官の減刑を求めた人達は自分もそうした暴力で律せられる事を了解しての事なのでしょうか?中にはそこまでの覚悟をして暴力でしか人は改善できないという信念を持っている人もいるでしょうが、大半の人は自分は関係ないと思っているのではないでしょうか。マナーに違反するのは最近のなってない若者だけで自分はちゃんとしてるから大丈夫、という。でもやっぱり人間ですから何らかの形で人に迷惑をかけてしまう事って絶対あると思うんですよ。案外気が付かないうちにそういったミスを犯しているものです。そういう時に口頭での注意でなくいきなり殴られたらどうです?普通に考えて嫌じゃないですか?

まあ今回の事はね、子供に対しては暴力で支配してもいい、暴力で教え込んでもいいという蔑視も絡んでいるのだと思います。警察官が殴った相手が大人や年寄りだったら単純な暴力として批難されていたのではないでしょうか。という事は要するにあの警官を擁護した人達は自分達は安全圏にいた上でマナーを守らないガキには暴力でもって対応すべきという事を言ってるんですよね。品性下劣とはまさにこの事?あらぁ言い過ぎましたかごめんなさい。

まあなんにしても私にとって警官の暴力が注意であったか因縁であったかはどうでもいい事です。どちらにしても私にとっては許されない暴力という事になりますからね。暴力による矯正の蔓延る社会になんとか歯止めをかけたいなあ、と思いつつ今は特に何もできず。ここで書くだけでも少しは影響与えてるかな…まあもっとアクセス数を上げなきゃ話にならないか。

それではそろそろ寝ます。やっぱりブログ書き出すと寝るのが遅くなります。この締めは何回か使った気がするけど気にしない。おやすみなさい。

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2006年12月 4日 (月)

犯罪被害者のプライバシー

30代の男性教諭が交通事故死した6人の児童の写真を無断でホームページに転載していたというこの事件。(詳しくはこちら

もちろんこの教師がした事は許しがたい事で、遺族の方々の心情は察するに余りあるものです。それに追い討ちをかけるようなことは私だって言いたくない。でも、これって少しプライバシー意識に欠けているとは言えないだろうか。

インターネットというのは不特定多数の人がいて、心無い言葉なんてそこらじゅうに飛び交ってる。そんな中に写真を掲載してたらそりゃあそんな奴も出てくるだろう。だからしょうがないなんて言い方はしたくないですが、それでなくとも亡くなってしまった人はいい悪いの意思表示ができないわけですから、そういう場所に写真を掲載するのはもう少し慎重であって欲しかった。

こういった話をすると犯罪被害者の実名報道などの話にも及ぶのですが、私はそもそも犯罪被害者の実名や生前の映像などが毎回でかでかと出される事に疑問をもっている。もし私が何かの犯罪に巻き込まれた場合、今の報道のように連日顔と名前を出されるような事はほんとに勘弁して欲しいと思うし、もう死んだんだからそっとしておいてくれと心から望む。

それでこういう事を言うと知る権利だのなんだの抜かす奴が出てきますが、ほんとにそんな権利は必要でしょうか。「今日未明、東京都で30代女性の刺殺死体が発見されました」。これでは何か不都合がありますか。どこの誰でこんな顔です、ということを出す必要性が私には分からないし、即刻やめていただきたい。

遺族の怒りや悲しみを共有するためだとか、被害者の軌跡をたどり犯罪被害者となるまでのいきさつを知る事によって犯罪撲滅の気運がどうだとか。私は別にそんな個人個人のストーリーはどうでもいいと思ってます。被害者がどんな人か、なぜ殺されたのかなんて事が分からなければ痛ましい事件だと思えないのなら、むしろそんな想像力の欠落した人間ばかりになってきた社会の方が問題でしょう。

そうやってワイドショー的な味付けがなされなければ犯罪被害者に思いを馳せる事ができないのであれば、それは人間としての欠陥です。そうやって個人のプライバシーが社会全体の想像力の欠如の犠牲になっていることは悲しいことです。知る権利と守られるべきプライバシー、どう考えても知る権利がいき過ぎている。

そのように個人のプライバシーを考えた場合、当然のことながら遺族だって本人ではない。だから遺族らが写真や実名を公表するということを決断するのなら(現在では遺族が選べるようにはなってませんが)「あの人(故人)だったらどう思うだろう、公表することの社会的意義はなんだろう」という事と真摯に向き合った結果であって欲しいと思うし、その考えからいくと、今回のホームページに写真掲載という行動は軽率だったのではないかと思う。亡くなった子供にもプライバシーはあると思うし。死んだから何してもいいってわけじゃないと思うのよね。

でも自分の身内が死んでしまった時にそんな事まで考えろってのも酷なのかもしれません。今日ニュースで遺族の方が泣いているのを見た時、ちょっとこれ書くのをやめようとも思いましたし。でもやっぱり写真以外にも事件を伝えていく方法というのはあると思うし、何度も言うように子供にはもう許可は取れません。選べないのです。やっぱりネット上に公開するということは当然今回の事件のようなリスクも伴う事だと思うので、もう少し慎重に、そういったリスク込みで写真を掲載する意義があるのかないのか、考えてもらいたい。

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