2008年10月11日 (土)

ノーベル賞…

ノーベル賞ノーベル賞喧しい、最近のテレビは。私は日本人が取ったからといって馬鹿騒ぎするのは時代錯誤的な気がして気分が悪くなります。化学とか物理学に一番貢献した人を決めるのが趣旨なんでしょ?別に国同士の争いじゃない。日本人が取ったからってそれがなんなのさ。「ああ日本人が取ったんだ」としか思わない。それは私にとって「ああアメリカ人が取ったんだ」というのと何も変わらない。ドイツ人でもフランス人でもイタリア人でも同じ。

なんで「日本人」が取ったからといって喜ぶのか?化学の発展なんかより、我々の同胞である「日本人」が「世界」の評価を受けたことが嬉しいわけね。くだらない。外国人受賞者の研究の成果だって同じ時間を割いて伝えるべきですよ。

特に街頭インタビューで「日本もやっと世界に肩を並べられる国に」とか「同じ日本人として誇らしい」とか言ってる人を見たとき、私は本当に心の底から恥ずかしく思った。世界はどんどん国境なんてなくなっていく方向に進んでいるというのに、こんなちっこい島国に必死でしがみついて日本日本って馬鹿じゃないの。誇らしいって何であんたが誇らしいんだよ。別にあの人達はあんたのみすぼらしい虚栄心を満たすために賞を取ったわけじゃないんだから。そういう人種による汚い連帯意識をまだ持ち込んでる奴がいるかと思うと嫌んなります。

オリンピックだってそうですよ。日本日本ってさあ。憲章に国家間の競争ではないって書いてあるのに、いちいち国ごとにメダルの数を数えたりして。短距離走だったら一番足の速いやつが金メダル。単純です。そこに日本人が勝ったらいいなんて気持ちを持ち込むのは歪んでます。もちろん個人を「この人が好きだから」という理由で応援するのはいい。監督が好きだからとかね。でも「日本人」という括りで何でもかんでもメダルメダルってのはおかしいよ。まったく知らない他人なら日本人でもドイツ人でも変わりない。金メダルは誰が取っても喜ばしい事です。

という感じで巷のノーベル賞馬鹿騒ぎもどうかと思っています。化学の「か」の字も知らないような奴までも日本人が取ったって喜んでるんでしょ?研究の成果とかが分かって言ってるならまだしも…。

こういう集団熱狂的な空気にはいつもついていけない。かくしてナショナリズムはなくならないのです。国家はまだまだご健在ですね。

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2008年9月 8日 (月)

芸能リポーターはクズだ

職に貴賎はないと言います。でもあの仕事はない。私もめったな事では人を見下したり差別したりはしない人間のつもりですが、芸能リポーターだけは本当にクズのやる仕事だと思う。人のプライバシーに土足で上がりこみ、憶測に過ぎないことをもっともらしく、さも真実のようにベラベラベラベラ…ああ目障り!

しかも時には図々しく真面目な話題の時まで口を挟んでくる。お前が言うな!というかお前のようなクズに他人を批判する資格などあろうはずもない。他人の私生活をのぞき見てへらへらしてるような人間に何が言えるというのか。人として恥ずかしいとは思わないのか?私が軽蔑という言葉を遠慮なく使える数少ない人種、それが芸能リポーター。

とはいえこんなクズが金をもらって飯を食ってるのも需要があるからだ。需要…芸能人のゴシップなんて何がそんなに面白い?芸能人がどんな生活をしていて誰とセックスしてるのかについてそんなにも関心があるのか。私には理解できない。芸能ニュースなんてやってた時点で即チャンネル変えるし。

というか私は全般他人に関心が無いのだ。他の人が何をして生きてようと大半の事はどうでもいい。興味が無い。よく「○○ちゃんが○○のこと好きらしいよ」的な話で盛り上がってる集団とかもありますが、私はずっと「はあ?だから?」としか思えなかった。恋愛なんて自分がしてたって馬鹿らしくて反吐が出そうなのに、他人のなんてもっとじゃん!見たくもない、聞きたくもない、触れたくもない。そういうのを至高の楽しみとしてる奴も結構軽蔑に値する。

本当にくだらない…この国の人間はいつも他人の行動を気にしてばかり。人生が浮ついてる奴ほど他人がどうしてるかを知りたがるんです。自分の人生が他者と独立して成り立っていれば他人がどうしてるかなんてそう気にならないはずです。なんとなく周りを見ながら生きてる人間は、自分が他人より劣ってないか、今世の中では何が流行ってるか、みんなの動きに送れないように常に必死。バッカみたい。

まあ日本社会の主体性を徹底的に収奪し尽くす教育をまともに受けてしまってるわけですから、同情には値するけどね。可哀想な人達。でもそれならそれで、もっと悩んで憔悴しきってくれてれば私だってもっと優しくできるのにね。自分がないくせに偉そう、これが一番腹が立つ。まあ積極的に差別的空間を作り出してる人間なんてほんの一握りで後の人達は何も考えてないだけなんだから、悪意のない傲慢さが生まれるのはある意味必然だけどね。

枯れ木も山の賑わいって言うけど枯れ木ばっかりじゃ枯れ山になって終わりです。他山の石以って玉を攻むべしにしたってさ、そんなに磨く用の石いらねーから!残念!!この国は枯れ木と石でできてます斬りっ!!(古っ)

今怒りにもう少し闘魂を注入するためテレビを点けてみた。よし芸能ニュースを見るぞ!って相撲の話ばっかかよ!だから私はそれはいいって言ってるじゃないか!うーんでも信用できないから検査受けないってのもね、どういう検査なら信用できて何ならダメなのかを科学的根拠をもって言ってくれないと…って真面目に喋っちゃったよ!

早く次の話題にいってくれないと間に合わないのに。私はこれから講座です。芸能ニュースの感想はまた今度。

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2008年7月 5日 (土)

偏狭で頑迷な皆様へ

加藤智大のこと、書き込みを読んだ直後ほどには胸が締め付けられるような思いはなくなりましたが、やはり今でもテレビなどで彼の話題が出ると緊張するのが分かる。彼の事を悪く言われるのは私の事を悪く言われるのと同義です。もちろん殺人は悪い。でも彼に対する批判の多くはその罪よりも彼の人間性そのものへの批判なのです。

私はそれを冷静に聞いていられない。「彼の話をしないで。私に聞こえる所で彼の話をしないで!」と叫びたくなる。前の記事では大きな声では言わなかったけれど、やはり私は彼の携帯書き込みを読んだ上で彼に共感できないような人間には興味がない、というか軽蔑すらしている。

人間の苦しみに対してどうしてそこまで鈍感になれるのか?私にはサッパリわからない。彼の書き込みを見て死刑だなんてなぜ言えるのか。そういう奴らが彼をあんな凶行へ追い込んだんじゃないのか?その自覚なくして彼を批判する資格のある人間などいるはずない。ましてやテレビのコメンテーターなんて腐りきってる。

彼の苦しみに共感することなくして犯罪なんて防げるだろうか?答えはNOです。共感とまでいかなくても、せめて頭の中だけでも彼もなんか辛かったんだな、と思うぐらいのことはできないものだろうか。彼を徹底的に指弾して、死刑死刑騒いで、実際に死刑が執行されて。それで殺人が減るのですか?それでもう第二の加藤智大は現れないのですか?これも答えはNOです。

人を殺そうがなにしようが、私達と「違う」人間などいない。当たり前の事です。彼を死刑にしてこの社会が得るものとは何か。何もない。不幸な事件を生み出す愚劣で醜悪で排他的なこの社会が温存されるだけ。私が今感じているこの不自由さ、これこそが犯罪の素地です。ひとり一人が生きたいように生きるという当たり前の事がなぜ保障されないのか。その結果息ができなくなって人を殺したってそれはかなりの割合で社会が悪いんじゃないの?ワーワー言う前に生きさせろってことでしょ。雨宮処凛じゃないけどさ。

この国で生きるのは辛い。息ができない。孤独だ。私にこんな思いをさせているうちはこの社会は不健全なんです。まずは私に息をさせてみろよ。私にこの国も捨てたもんじゃないと思わせてみろって。それからですよ加藤智大を批判するなんざ。

私程度も救えないで殺人のない社会なんて作れるわけがないでしょ。グダグダ言う前に犯罪抑止力を体現しろ!何もしないで自分達の社会が安泰だなんて甘いんだよ!

少数派を迫害し、復讐されたらまたその原因を彼、彼女が少数派であったことに持っていく。そんなところで還流させてたって犯罪減らねえっつーの、ばっかじゃねーの!少し心を広く持つだけで済む。たったそれだけの事です。少数派の存在を認めいわれのない非難、迫害をやめること。ただこれだけ。…やれよ!

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2008年6月25日 (水)

過去記事発掘ぅ2

まだあった、下書きのまま眠ってる記事。って言ってもこれで最後だけど。これで貯金は食い潰した。次からはネタを探し出して書かなければ…。慢性的なネタ不足はブログ開始から1年8ヶ月、変わってないもんね。

確かこの記事は書いてた時にちょうど世界陸上が始まって、世間とかぶるのが嫌だったから公開延期にしてたところ、そのまま日が経っちゃったということだったと思います。それではどうぞ。

               2007年8月23日 「付き合いきれない~」

今さっきふと、多数派と少数派は陸上の短距離と長距離で表せるという事に気がつきました。私達少数派は長距離、そちら側多数派は短距離。

なんでかは分かりませんが、短距離の選手達は短距離のルールしか知らないんです。ここからそこまでの距離を全速力で走ることしか知らない。だから全員をその競技に巻き込もうとする。長距離の選手が「私達は長距離ですから」と言っても聞く耳を持たず、短距離のルールを説明するばかり。そしてわけも分からないうちにピストルが鳴り、一斉に走らされる。

しかし当然ながら走る距離もペース配分も何もかもが違う。短距離の人達のようには走らない、走れない。でも短距離の人達は長距離と短距離の違いも分からないから「遅い、トロい、なにやってるの」となじってくる。そんな中で長距離を卑下し短距離に転向したくて悩む人、短距離に適合し長距離を見下すようになる人など色々現れると思いますが、これは自分の競技じゃない、と競技場を飛び出す人ももちろん出てくる。そして外から短距離の独善を批判する人、長距離選手を迫害から守ろうとする人も出てくる。

そもそも同じ土俵にないものを同じように走らせ勝手に評価を下す。迷惑以外のなにものでもない。私には多数派の短距離に付き合う義理はない。個人個人の適性も無視してみんな一律短距離で競わせ遅いだの速いだのお話になりませんね。私は競技場を飛び出した人かな。

自分の競技じゃないものをやらされ勝手に評価を下される事ほど虚しい事はない。余計なお世話かもしれませんけど、皆さんだって短距離に付き合ってあげる必要なんてないんですよ。もちろん離脱できないような環境というのは腐るほどあるのでやめりゃあいいじゃんと簡単に言えない部分はあります。でも私達はあの人たちよりも長ーく走らないといけないんです。あの人たちと同じペースで走ってたら脱水症状と熱中症で死んじゃいますよ。

年に1回ぐらいたまーに付き合ってあげるのはいいかも知れませんが、あの人達と同じ土俵に上がる事自体が時間の無駄労力の無駄。私達は自分達の競技場で長距離を走っているのが一番いいのです。あの人達はそれを異端と切り捨てますが、世の中に短距離と長距離があるのは当たり前の事なんですから、それをわきまえない向こうが間違いなく悪いのです。目先の事しか見えてないって事ですね。

私は基本「私達」とか「われわれ」よりも「私は」という一人称が好きなのですが、なんかやたら私達私達言ってますねこの記事は。ま、世の中がこうも酷いと「私達」とか団結していかないとね、喰われちゃうんで。協調性の欠片もない人間としては悩ましい。2008年6月25日現在。

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2008年4月 8日 (火)

主語のない国、日本

世間では入学式らしいですね。バイトしてなきゃ絶対気が付かなかったよ。バイト先のおばさんが言ってたからああそうなんだと思って。それにしても学校なんていう子供版刑務所に入るのを入学式とかなんとか言祝いでいるのですね、世間は。ふん、失笑を禁じえない。入学式ならぬ入所式ってとこか。国旗も不快だしさ、私という人間は個人として完結しているのであり、日本なんてものが私のアイデンティティに入り込む隙なんてこれっぽっちもありはしないのです。大体たまたま日本に生まれただけなのに、何でそんなものを愛する事を強制されなきゃならないんだ。

卒業式の起立不起立の問題とかさ、私なんか不登校児ですから幼稚園の卒園式が最初で最後、立って君が代を歌わなきゃならないということ自体現実味がないんですが、実際事細かに式典の手順が決められてたり教職員が処分されたりしてんですよね。とんでもない話です。

さて、前回に引き続き映画靖国。煮え切らない。誰一人として自分がこうだから、というのを言わない。国会議員側は試写会要求すらしていないとか言い出すし、映画館側は供給側に言われたとかいうし。この騒動には主語がないんです。辛うじて右翼側には主語があるかな、と思ったりもするんですが、聞けば映画を観た事もないという話だし、週刊誌の言葉を鵜呑みにして街宣車で出かけていったとか何とか。あまりにお粗末です。自分の頭で考えるという事をほんの少しでも実践しようとした事があるなら、週刊誌の言葉一つで街宣車で出かけていったりするわけがない。

その程度の抗議に萎縮して公開自粛だなんて恥を知れと。議員の試写会要求にしたって同じこと、偏ってる最たるものである自民党議員に「偏っている」といわれて上映自粛なんて、街宣活動に屈してしまうよりも余計にたちが悪い。っていうかそれが一番偏ってんだろ。

表現に携わる人間だったら国会議員の難癖なんてむしろ勲章ぐらいに思ってなければやってけないと思うんですけどね。議員から試写会要求がくるってことはそれだけ日本の伝統と文化にとって不都合な真実だってことでしょ。表現の場を提供する者としてはそういうものこそ発表する機会を守らなければならないはずだし、それができなくてどうして映画なんてものに携わってるんでしょう。

表現の自由といった時の表現の中身ってのは国家や多数派とは違う考えのことです。国や多数派と同じ意見ならもう既に表現する自由は保障されてますから敢えて守る必要はない。それとは違う考えをどう守っていくかということが表現の自由、言論の自由ということです。そんな表現に携わるものとしての常識が上映中止を決めた人達にはなかったんでしょうか。国会議員に観せてくれと言われたらやめるのか。右翼に騒がれたらやめるのか。そうじゃない。そういうものこそ守らなければならない。潰されやすいものほど守らなければ。

映画館側も国会議員も右翼も、それぞれの程度は非常に低い。議員はしょうもないイデオロギーに固執し週刊誌を真に受けて映画見せろとか言っちゃったんだろうし、右翼も映画も観ずに週刊誌を信じて街宣車で行っちゃった。映画館は映画館で表現の自由を守るというポリシーも持たず漫然とやっていた所にこの2つが合わさって、映画を潰すほどのことになってしまった。本来はこの程度の事で上映中止なんてなるはずがないのに、一つひとつが最悪の形で組み合わさりこんな結果に。

主語がない、ポリシーがない。だから何か言われた時、自分の言葉で議論を交わしたり反論したりといった事ができない。言われるがまま萎縮し、摩擦を避け、「自分はこう思う」という主語がないまま他者に合わせていく。それが気持ちが悪い。多少捻じ曲がってても自分の考えを実現しようという主義主張があったほうがまだいい。だから今回の件で一番マシなのは街宣活動をやった右翼かもしれない。ニュース23で森達也も言ってたけど観てから言えよというのはあっても、街宣活動をやる自由はある。自分はこう思う、だからこうした、というのがハッキリしてるだけ責任の所在も明らかだし。それと戦うだけの自我を持たなかった映画館側がやっぱり一番たちが悪いんです。そりゃああの右翼も思慮が浅いけどさ。

もうこの際「聖火自粛」とかもやったらどうか。中国はチベット問題でなんか揉めてる。オリンピック開催を阻止したい人達がいるらしい。双方の言い分はよく分からん。自分の考えはない。「じゃあなんか危なそうなんでパスで」と言えば日本がどういう国か、世界の人々によ~く分かってもらえると思う。日本の人々がいかに日々何も考えずに生きてるかってのを世界に見せつけてやろうぜ。そのためには、聖火自粛、いいと思うけどなあ。一生ど根性大根だの芸能ニュースだのに沸いて朽ち果てればいいんですから、日本国民なんて。馬鹿は馬鹿らしく政治問題化したものには首つっこまないってのが一番いいんじゃないですか。ああこんな国に生まれなきゃよかった。

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2007年9月10日 (月)

暴力賛美の風潮に嫌悪感

最近あまりいい文章が書けていない事は何となく分かっている。ありがちな文章ですよね、死に酔ってみたり多数派批判を繰り広げてみたり、なんだか最近同じような事ばかり書いている気がする。ダメですねえ。

まあでもとりあえず、少し気になった事件があったのでそれについて書いてみます。

その事件とは横浜市の相鉄線二俣川駅のホームで、当初は拳銃型のライターでふざけて遊んでいた高校生に注意した警察官が言う事を聞かなかったので高校生を殴ったという話だったけど、本当は高校生は既に駅員に注意されライターはしまっており、反省していないと勝手に思い込んだ酔っ払い警察官が高校生を一方的に殴っただけだったというあれです。それ自体はここで書くほどの事もないのですが、警官の行為がただの因縁だったと分かる前とはいえ、あの警察官に対して日本各地で共感の声が上がったというその日本の風土が気に入らなかったので書く事にしました。

この国に暮らしていると日毎日本人への嫌悪感が募ります。自分自身の偏見や共感の有無と暴力の是非を分けて考えるぐらいの分別はいい加減持てないものでしょうか。何から何まで気に入りません。まず最近の若者に対する軽蔑の目自体も気に入らないし、そのくせ自らを顧みる事は一切しないその傲慢さ鈍感さは見るに耐えない。その上自分はそんな若者に注意もできないものだから、ただ酔っ払って因縁をつけただけの警察官にすら共感してしまう。全く愚かです。

基本的にこの国の人達って思考停止でしょ?「何故」を考える事を絶対しないじゃないですか。人を殺す事は何故悪いのか、働かない事は何故悪いのか、最近の若者の心を知ろうともせずマナー違反だけを批判するし、他にもいくらでもあります。死ぬことは何故悪いのか、あの人は何故犯罪に及んだのか、買い物依存症、過食症、拒食症、鬱病なども何故なのかろくに知ろうともせずただ表面の事象のみを見て「いい悪い」を判断するだけです。根拠もなしに。

何故を考えない事は想像以上に怖い事です。ある人がその状態になるまで、その行動を起こすまでには様々な経緯があり、それはその人の人生全て、今まで受けてきた仕打ち掛けられた言葉など本当に全てが絡み合っての今なのです。それを一切見ずに、頑張らないのは悪い、痩せる努力をしないのは悪い、自殺する事は悪いと断じる事はその人の人生を全否定するも同じです。でもこの国はそれができてしまう人の集まりだから私はいつもイライラしている。

なんか話がずれてきたので警察官の事件の話にぐいっと戻しますが、要するに私が気に入らないのは物事をいい悪いで感情的に判断しようとする所です。マナーの悪い若者に対する警察官の暴力は「いい暴力」で若者が教師や大人に暴力を振るったら事情はなんであれ「悪い暴力」というこの理不尽さ。

これに関しては一つ一つ説明する必要があるのですが、まず私はいい暴力なんてものは存在しないと思ってます。暴力はどんな形であれ絶対悪であると言い続けなければなりません。というと綺麗事を並べているように取られるかもしれないので補足すると、私にも共感できる暴力はある。どれだけ言葉を尽くしても伝わらない事はあるし、そもそも聞く耳を持たない頑迷な人もたくさんいる中で気持ちは分かるというのは結構ある。でもそれと場合によっては暴力も仕方ないと言ってしまう事は全く直結しません。

何故ならその「場合によっては」の「場合」を誰が判断するのかという問題があるからです。この世の中には色んな人がいます。子供は不完全なものだから大人が管理して正しい方向に導かなければ、と思っている人もいれば子供の自主性を尊重する事こそが大切だという人もいる。日本は核武装をするべきだという人もいれば、唯一に被爆国として平和を世界に発信するべき人もいる。その上所詮人間なんて知っている事よりも知らない事の方が圧倒的に多いわけですから、正しい判断なんて下せるはずがない。事の是非を公平に判断できない人間がそれぞれの正義を力の限り訴える中で、この場合は暴力は仕方がないなんていう共通の定義が成立するかといえばするはずがない。

何が間違っていて何が問題かという事を共有できないのですから、この場合は暴力は許されると一方が言ってももう一方はそれに反対するでしょうしその逆もまたしかりです。という事はどういう事かというと、暴力を容認するという事は自分の望まない暴力も生んでしまうという事です。一個人がここまでの暴力は許されるなんていじましく定義したとしても、他人とそれを仲良く共有なんてできるわけはなくて、そんなものは他人の取り方ひとつでいくらでも拡大してゆくのです。線引きがしっかりとできず歯止めがかけられなくなるのは目に見えている、と私は思うのでやはり暴力は容認すべきでない、と考えます。

それにあの警察官の減刑を求めた人達は自分もそうした暴力で律せられる事を了解しての事なのでしょうか?中にはそこまでの覚悟をして暴力でしか人は改善できないという信念を持っている人もいるでしょうが、大半の人は自分は関係ないと思っているのではないでしょうか。マナーに違反するのは最近のなってない若者だけで自分はちゃんとしてるから大丈夫、という。でもやっぱり人間ですから何らかの形で人に迷惑をかけてしまう事って絶対あると思うんですよ。案外気が付かないうちにそういったミスを犯しているものです。そういう時に口頭での注意でなくいきなり殴られたらどうです?普通に考えて嫌じゃないですか?

まあ今回の事はね、子供に対しては暴力で支配してもいい、暴力で教え込んでもいいという蔑視も絡んでいるのだと思います。警察官が殴った相手が大人や年寄りだったら単純な暴力として批難されていたのではないでしょうか。という事は要するにあの警官を擁護した人達は自分達は安全圏にいた上でマナーを守らないガキには暴力でもって対応すべきという事を言ってるんですよね。品性下劣とはまさにこの事?あらぁ言い過ぎましたかごめんなさい。

まあなんにしても私にとって警官の暴力が注意であったか因縁であったかはどうでもいい事です。どちらにしても私にとっては許されない暴力という事になりますからね。暴力による矯正の蔓延る社会になんとか歯止めをかけたいなあ、と思いつつ今は特に何もできず。ここで書くだけでも少しは影響与えてるかな…まあもっとアクセス数を上げなきゃ話にならないか。

それではそろそろ寝ます。やっぱりブログ書き出すと寝るのが遅くなります。この締めは何回か使った気がするけど気にしない。おやすみなさい。

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2006年10月19日 (木)

世間一般への憎悪

私の使っているテンプレートだと、続きを読む、にして文をふせる機能が使えないようです。正直今回の日記は全文公開にできるような代物ではないですが、できないものは仕方がないので、今回はヘビーでも大丈夫な人だけお読みください。


気分が悪い。とっても。私はいつもそう。慢性的に鬱積物を抱え、一定の周期で虚ろになるたびに吐き気がするような不快感とともに生きてかなきゃならない。なーんで?って言いたくもなる。私は普段から楽しく生きていたらいけないの?別段不幸があったわけではない。いつもと変わらない日常のそこかしこに私を不快にさせるものは潜んでいて、それに触れるたび私は生きている事が途方もない苦行に感じられ、さまざまな破壊衝動に駆られる。つって家具を破壊したりとかはしないけどね。

考えられる原因は、この社会全体が私のような人種を認めていないこと、私が人とうまく関係を築いていけない事、などでしょうか。とりわけ前者の原因が大きい気がしますが、私は社会に排除されるような事をした覚えは無い。

この日本という国はとかく「当たり前」を振りかざしたり、なになにらしく、というのを追求して型にはめようとしたりするのが大好きなようで、親を愛し敬うのは当たり前、学校に行くのは当たり前、不平を言わず働くのも当たり前。男らしく、女らしく、子供らしく、大人らしく、妻らしく、夫らしく。そんな規範に従ってたら人格が破滅する。全く以って付き合いきれません。

私はそんな「常識」と呼ばれるもののうさんくささや危険性をここで指摘しておきたい。皆が母の日のコマーシャルみたいに家族でカレーを食し、何の疑問も抱かず学校に通い、自分の体力、精神力、自分が本当にやりたいことなどを一切無視して盲目的に働き、男らしく、女らしく(以下省略)してりゃあ満足なのかと。ふざけんな。そうやってその型からこぼれ落ちていった人間が、型に収まりきらない人間がどんな思いをするか、ちょっと考えれば分かりそうなものなのに。

そんな世間の残酷性に触れるたび精神の具合が悪くなる。そうやって自分達が追い込んだくせに、自分達が排除したくせに、自分達は関係ないみたいな顔をして、犯罪者、不適合者に軽蔑の眼差しを送る。自分は絶対そんな事はしない、という訳の分からない自信がおありのようで。

そりゃあそっち側の人間には想像もできないだろう。そうやって排除された人間がどうやって人殺しに変換されていくのか。そうやって自分が侮蔑し、排除してきた人間が巡り巡ってあんたを殺す。ふん、自業自得だ、なんてどす黒い感情すら芽生えるほど、今日の私は病んでいる。そんな事を言っている私自身も、今背後から誰かに刺されて死んだら、ああやっぱりって思うだろう。私みたいな人間が犯罪に巻き込まれないはずが無いとずっと思ってる最近。

私は自分の親類を殺されテレビで奴は死んで当然の人間だと、死刑を訴える人にはどうしても感情移入できない。もちろん私だって親を殺されたらそうなるかもしれないし、被害者である以上ある程度は仕方がないこととも言える。でも、もとから人殺しに偏見があるかどうかは態度や言動で分かってしまう。人殺しは一部の異常者がやるもんだと思っているから、何の葛藤もなく死刑が当然なんて言えるのだと今の私には思える。被害者の心情は察するに余りあり、ここでこんな事を言うのも語弊があることは分かってはいますが…。

死んで当然の人間なんていない。排除したまま殺してしまうなんてひどすぎる。私だって人を殺さない保証。そんなものはどこにもない。排除され踏みにじられ、健全に生きていけるか自信が無い。本当は皆そうなはず。人を殺さないなんて言いきれる人間は、今まで世間の型にはまりきり、何も考えずに生きてきたという事を露呈しているようなものだ。誰だって環境しだいでは人を殺しうる。そんな認識が浸透すればいいなあ、と願ってやみません。

はー書いた。書き散らしてしまいました。誰かの気持ちを不快にさせるかもしれない文章、まあそんな事言い出したら表現そのものがそうなんですが、こんな私の黒い部分をぶちまけたような文章を公開すること、反省しております。もしうっかり最後まで読んでしまって不快感を感じてしまった人がいるならば、私は謝ります。でもこれは私の真実。きれい事を書くつもりならこんなもの始めなかった。今日はもう寝ます。この文の反省はまた後々…。

それとカテゴリーを新設。まだ適当に決めただけなんで、気に入らなかったら変わるかも。それではおやすみなさい。

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